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次善の策――私が私を嫌いになった日

掲載日:2026/11/06

次善の策――私が私を嫌いになった日


 鏡の中の自分が、どうしても好きになれなかった。


 淡い青色のドレスは、母が私のために選んでくれたものだ。襟元には小さな真珠が縫い込まれ、腰には銀糸の刺繍が施されている。侍女のマリーが丁寧に結い上げてくれた栗色の髪も、少しも乱れていない。それなのに、鏡に映る私は、ひどくみじめな顔をしていた。


「お嬢様、もうお支度はよろしいでしょうか」


「ええ。ありがとう、マリー」


 微笑んだつもりだったが、侍女は悲しそうに目を伏せた。


 婚約者のエドワードから婚約解消を告げられたのは、昨日のことだった。


 理由は、彼が子爵令嬢のリリアを愛してしまったから。彼女は私より美しく、明るく、誰からも好かれる女性だった。


「君に落ち度はない。ただ、リリアといるほうが幸せなんだ」


 そう言われたとき、私は何も言い返せなかった。落ち度がないのに選ばれないのなら、私にはどうしようもないではないか。


 階下の食堂には、焼きたてのパンと香草入りのオムレツが並んでいた。銀のポットから注がれた紅茶は甘い花の香りを漂わせている。いつもなら食欲をそそる朝食なのに、今日はパンをちぎる指先さえ重かった。


「食べないのか、セシリア」


 父が新聞を畳んだ。濃紺の上着を着た父は、いつものように穏やかな顔をしていた。


「食欲がないの」


「そうか。では、紅茶だけでも飲みなさい」


 私はカップを持ち上げた。温かさが冷えた指に染みた途端、涙がこぼれそうになった。


「お父様。私、何がいけなかったのかしら」


「何の話だ」


「エドワード様のことよ。もっと綺麗だったら、もっと愛嬌があったら、婚約を解消されずに済んだのかしら」


 父はすぐには答えなかった。


「私、私が嫌い」


 口に出した瞬間、胸の奥に押し込めていたものがあふれた。


「気の利いた冗談も言えないし、舞踏会ではいつも壁際にいるし、リリア様みたいに誰とでも仲良くなれない。だから選ばれなかったのよ。私が私でなければ、きっと……」


「でも、お前まで自分を嫌いになってどうする?」


 父の声は静かだった。


 私は顔を上げた。


「エドワードはお前を選ばなかった。それは事実だ。だが、だからといって、お前までお前を見捨てる必要があるのか」


「だって、誰にも愛されないなら……」


「私は誰だ?」


 思わず父を見つめた。


「お父様は、家族でしょう」


「家族の愛では足りないか」


「そういう意味ではないの」


「分かっている。父親の愛情と婚約者の愛情は違う。だが、一人の男に選ばれなかっただけで、お前のすべてが否定されたように考えるのは、少々乱暴ではないか」


 父は私の皿に、まだ温かいパンを一つ載せた。


「それに、お前はエドワードを愛していたのか?」


「もちろんよ」


「では、彼と一緒にいて幸せだったか?」


 私は答えられなかった。


 エドワードは舞踏会で私を一人にすることが多かった。私が好きな本の話をしても、退屈そうに聞き流した。約束を忘れられたことも、一度や二度ではない。


 それでも私は、婚約者なのだから彼を愛さなければならないと思っていた。


「……幸せだったはずよ」


「はず、か」


 父はそれ以上追及しなかった。


 その午後、私は庭園の東屋でエドワードと会った。彼から話があると手紙が届いたのだ。


 秋の風は冷たく、薔薇の葉が石畳を転がっていた。エドワードは灰色の礼服を着て、以前と変わらない美しい顔で立っていた。


「セシリア。昨日はすまなかった」


「いいえ」


「君には申し訳ないと思っている。だが、リリアを愛しているんだ」


「存じているわ」


「それで、君に頼みがある」


 嫌な予感がした。


「婚約解消は、君から申し出たことにしてもらえないだろうか」


「……どうして?」


「リリアが悪く言われるのはかわいそうだろう。君は伯爵令嬢だし、多少の噂には耐えられるはずだ」


 私は彼の顔を見つめた。


 昨日まで、私はこの人に選ばれなかった自分を責めていた。


「私が心変わりしたことにすれば、リリア様は傷つかずに済むのね」


「そうだ。君なら理解してくれると思った」


「では、私の評判は?」


「君には実家の後ろ盾がある。多少の不利益は仕方ないだろう」


 彼は安心したように微笑んだ。


 その笑顔を見たとき、不思議なほど心が静かになった。


「エドワード様。私、一つだけお尋ねしてもよろしい?」


「ああ」


「あなたは私が傷つくことを、少しでも考えてくださった?」


「だから謝っているじゃないか」


「そうね」


 私は膝の上で手袋の皺を伸ばした。


「お断りするわ」


「何?」


「婚約解消には同意する。でも、理由を偽るつもりはないの」


 エドワードの眉が険しくなった。


「君はそんなに冷たい女性だったのか」


「そうかもしれないわ」


「リリアが泣いても構わないと言うのか?」


「彼女が泣くのは悲しいことね。でも、だからといって、私が代わりに悪者になる必要はないでしょう?」


「君らしくないな」


 その言葉に、私は小さく笑った。


「私も、今までの自分がよく分からなくなっていたの。でも、少しだけ思い出せそうよ」


 彼が何か言いかけたが、私は立ち上がった。


「お幸せに、エドワード様」


 帰りの馬車では、窓から差し込む夕日が膝を温めていた。胸はまだ痛かった。十年近く続いた婚約が終わったのだから、簡単に笑えるはずもない。


 けれど、自分を嫌いになる理由が、一つ減った気がした。


 屋敷へ戻ると、父が書斎で待っていた。机には仕事の書類が積まれ、その脇に二人分の紅茶と焼き菓子が置かれていた。


「どうだった?」


「婚約解消には同意したわ。でも、私の心変わりだったことにしてほしいというお願いは断ったの」


「そうか」


「お父様、怒らないの?」


「なぜ怒る?」


「もっと穏便に済ませる方法があったかもしれないもの」


 父は焼き菓子を一つ取った。


「次善の策という言葉を知っているか」


「最善ではなくても、その次によい方法を選ぶこと?」


「そうだ。人生では、望んだ結果が得られないこともある。だが、そのあとに何を選ぶかは、まだ自分で決められる」


「私の婚約も?」


「ああ。エドワードと幸せな結婚をするという道は失われた。だが、お前の人生まで失われたわけではない」


 私は紅茶を飲んだ。蜂蜜の甘さが舌に広がった。


「ねえ、お父様。私、しばらく結婚のことを考えたくないわ」


「いいとも」


「旅行に行きたい。本も読みたいし、以前から興味のあった植物画も習ってみたいの」


「それは忙しくなりそうだ」


「それから……いつか、私を大切にしてくれる人と出会えたら嬉しい。でも、出会えなくても、自分のことを嫌いにはなりたくない」


 父は目を細めた。


「それでいい」


 窓の外では、庭師が落ち葉を集めていた。乾いた葉の擦れる音が、夕暮れの庭に響いている。


 私は焼き菓子を口に運んだ。バターの香りと林檎の酸味が広がり、思いがけずおいしかった。


「お父様、明日もこのお菓子を用意してもらえる?」


「もちろんだ」


「それから、植物画の先生を探してもいい?」


「好きにしなさい」


 私は久しぶりに、心から笑った。


 婚約は破棄された。愛してほしかった人には、愛してもらえなかった。


 それでも、明日の予定を考えるだけで、少し胸が弾んでいた。


 最善だと思っていた未来は、もう戻らない。


 けれど、次に選ぶ未来まで、不幸にする必要はない。


「お父様」


「何だ?」


「私、いつか自分を好きになれるかしら」


「いつかと言わず、今日から少しずつでいい」


 父はそう言って、私のカップに温かな紅茶を注いだ。


 私は両手でカップを包み、ゆっくりとうなずいた。


◇


**次善の策――私が私を嫌いになった日**


**第二話 選んだ責任**


「なんて卑怯な男なんだ!」


 兄の怒声に、私は思わず肩をすくめた。


 夕食の席で、エドワードとの婚約解消について話したところだった。兄のアレクシスは銀のフォークを皿に置き、怒りを抑えきれない様子で立ち上がった。


 深緑の上着の裾が揺れ、椅子が絨毯を擦る。食堂には牛肉の赤葡萄酒煮込みと焼きたてのパンの香りが漂っていたが、兄は料理に手をつけるどころではなかった。


「自分で選んだ責任も取れないなんて! リリア嬢を愛したのはエドワード自身だろう。それなのに、なぜセシリアが悪者にならなければならない?」


「お兄様、そんなに怒らないで」


「怒るに決まっている!」


 兄は私を見て、少しだけ声を落とした。


「すまない。お前を怖がらせたいわけじゃないんだ」


「分かっているわ」


「いや、分かっていない。ああいう男が一番厄介なんだ。自分の都合で人を傷つけておきながら、傷ついた相手に後始末までさせようとする」


 父は静かに葡萄酒の杯を置いた。


「アレクシス、座りなさい。セシリアの料理が冷めてしまう」


「父上は腹が立たないのですか?」


「立っているとも。だが、怒鳴ったところで料理は温かくならない」


 兄は不満そうに眉を寄せたが、ようやく椅子に腰を下ろした。


 私は思わず笑ってしまった。昨日まで、笑うことなど二度とできない気がしていたのに。


「お兄様は昔から、私のことになると怒りっぽいのね」


「当たり前だ。大切な妹だからな」


 その言葉が胸に染みた。


 私は膝の上でナプキンを握り締めた。


「でも、エドワード様にも事情があったのかもしれないわ。私との婚約は家同士で決められたものだし、リリア様を好きになったこと自体は、責められないと思うの」


「それはそうだ」


 兄は意外にも素直にうなずいた。


「人の心が変わることはある。愛情がなくなったから婚約を解消したいと言うのなら、私は腹を立てても、話し合いには応じただろう」


「では、何がそんなに許せないの?」


「その先だ」


 兄は私をまっすぐに見た。


「彼は自分の幸せを選んだ。そこまではいい。だが、その選択によって自分やリリア嬢が非難されるのは嫌だから、お前に責任を押しつけようとした。そこが卑怯なんだ」


 私は黙って兄の言葉を聞いた。


「こういう男は、また同じことをする。商売で失敗すれば部下のせい。家庭で問題が起きれば妻のせい。自分の判断が間違っていたときほど、誰かを悪者にして逃げる」


「……そこまで分かるものなの?」


「将来必ずそうなると決まっているわけじゃない。だが、今回の振る舞いは、その危険を十分に示している」


 兄は深く息を吐いた。


「セシリア。お前があの男と結婚しなくて済んだことだけは、心からよかったと思っている」


 私は胸の奥がちくりと痛むのを感じた。


「でも、お兄様。私、昨日までエドワード様を愛していたのよ」


「ああ」


「そんなふうに言われると、私が好きだった人も、好きだった私自身も、全部間違っていたような気がするの」


 兄の表情が変わった。


 父も私に視線を向けた。


 言わなければよかったと思った。せっかく家族が私を守ろうとしてくれているのに、私はまた面倒なことを言っている。


「ごめんなさい。せっかく心配してくれているのに」


「謝るな」


 兄はすぐに答えた。


「お前があいつを好きだったことまで、私は否定していない」


「本当に?」


「本当だ。お前は誠実に婚約者を愛そうとした。それは間違いじゃない。間違っていたのは、その誠実さに甘えていたあいつのほうだ」


 父が小さくうなずいた。


「人を信じたことと、その人を見誤ったことは、同じではないからな」


 私は目を伏せた。


 白い皿の上で、柔らかく煮込まれた牛肉から湯気が立っていた。付け合わせの人参は蜂蜜で艶よく焼かれ、じゃが芋には溶かしバターと刻んだパセリがかかっている。


 こんなに丁寧に用意された食事を前にして、私はずっと自分のことばかり考えていた。


「……いただいてもいいかしら」


 兄が目を丸くした。


「もちろんだ。お前の夕食だぞ」


「だって、お話の途中だったから」


「話は食べながらでもできる」


 私はナイフで牛肉を切り、小さな一切れを口に運んだ。赤葡萄酒の深い香りと玉ねぎの甘みが広がり、思わず目を細めた。


「おいしい」


「そうだろう。料理長が朝から仕込んでいた」


 父が嬉しそうに言った。


 兄もようやく食事を始めたが、まだ納得していないらしく、ときどき眉間に皺を寄せていた。


「それで、父上。婚約解消の理由はどう公表するおつもりですか」


「双方の合意による解消とする。ただし、先方から事実と異なる説明が出れば、こちらも黙ってはいない」


「エドワードが妹の心変わりだと言いふらしたら?」


「書簡がある」


 父は淡々と答えた。


「先方から届いた婚約解消の申し入れには、リリア嬢への愛情が理由だと明記されている。あれを保管しておいてよかった」


 私は驚いて顔を上げた。


「お父様、そんなものが?」


「当然だ。婚約は家同士の約束でもある。大切な取り決めを口約束だけで終わらせるわけにはいかない」


 兄が口元をゆがめた。


「自分で書いた手紙が残っているのに、妹に責任を押しつけようとしたのか。救いようがないな」


「アレクシス」


「分かっています。料理が冷めるのでしょう?」


 父は苦笑した。


 私もまた笑った。


 そのとき、食堂の扉が控えめに叩かれた。


 執事のロバートが銀の盆を手に入ってきた。盆の上には、一通の封書が載っていた。


「旦那様。エドワード様のお父上、グレイ伯爵閣下からお手紙が届いております」


 父は封書を受け取り、封蝋を確かめてから開いた。


 読み進めるうちに、その顔から笑みが消えた。


「父上?」


 兄が尋ねた。


 父は最後まで読み、静かに手紙を畳んだ。


「先方は、婚約解消を公表する前に、もう一度話し合いたいそうだ」


「今さら何を?」


「エドワードの行動については謝罪する。ただし、リリア嬢との関係は誤解であり、婚約解消の申し入れも若者同士の感情的な行き違いだったことにしてほしい、と」


 兄のフォークが止まった。


「……また責任を曖昧にするつもりですか」


「そのようだな」


 私は父の手元にある封書を見つめた。


 昨日、エドワードは確かに言った。リリアを愛している、と。


 あの言葉を聞いて、私は自分の価値を疑った。眠れない夜を過ごし、鏡の中の自分を嫌いになった。


 それなのに今度は、すべてが誤解だったことにしてほしいという。


「お父様」


「何だい、セシリア」


「私、もう一度エドワード様とお話ししたほうがいいのかしら」


 兄が何か言いかけたが、父は片手を上げて制した。


「お前はどうしたい?」


 私は考えた。


 以前なら、相手が望むなら会わなければならないと思っただろう。婚約者として、伯爵令嬢として、礼儀正しく振る舞うことが大切だったから。


 でも、今は違う。


「会いたくないわ」


 自分でも驚くほど、はっきりと言えた。


「会えば、また私が我慢すればいいと思ってしまいそうなの。それに、もうあの方の言葉を信じられない」


「ならば、会わなくていい」


 父は即座に答えた。


「でも、先方のお父様が困っていらっしゃるのでしょう?」


「困っているのは、息子の行動が招いた結果をどう収めるかということだ。それはグレイ伯爵家が考えるべき問題だよ」


 兄が力強くうなずいた。


「そうだ。お前はもう十分に考えた。これ以上、あいつの代わりに悩んでやる必要はない」


 私は胸に手を当てた。


 まだ少し痛む。エドワードを愛していた時間が、簡単に消えるわけではない。


 けれど、痛みがあるからといって、元の場所へ戻らなければならないわけでもない。


「ありがとう、お父様。お兄様」


 兄は照れくさそうに咳払いした。


「礼を言うほどのことじゃない。兄として当然だ」


「それでも、嬉しいの」


 父が給仕に合図すると、食後の林檎のタルトが運ばれてきた。薄く切った林檎が花びらのように重なり、焼けた砂糖とシナモンの甘い香りが食堂に広がった。


「まあ、綺麗」


 私が声を上げると、兄がようやく笑った。


「セシリア、お前は昔から林檎の菓子が好きだったな」


「ええ。お母様がよく焼いてくださったもの」


「覚えている。お前は冷めるまで待てなくて、いつも舌を火傷していた」


「そんな昔のことを言わないで!」


 父が声を立てて笑った。


 私も笑いながら、温かなタルトを小さく切り分けた。


 婚約を失った悲しみは、まだ胸の中にある。明日になれば、また泣くかもしれない。


 それでも今夜、私は家族と同じ食卓を囲み、温かな料理を味わい、笑うことができた。


「ねえ、お兄様」


「何だ?」


「私、明日は植物画の先生を探そうと思っているの」


「それはいい。王立美術院に知り合いがいるから、紹介してやろうか」


「本当?」


「ああ。ただし、最初に描いた絵は私に見せてくれ」


「笑わないと約束してくださる?」


「努力はする」


「もう!」


 兄の笑い声が食堂に響いた。


 私は林檎のタルトをもう一口食べた。甘酸っぱい果汁が舌に広がり、バターの香りが鼻を抜けた。


 失ったものは戻らない。


 けれど、まだ失っていないものが、こんなにもたくさんあった。


 父が言った次善の策とは、きっと、何かを諦めて不幸を受け入れることではない。


 望んだ道が閉ざされても、自分の足で別の道を選ぶことなのだ。


 私は兄と父の顔を見比べ、もう一度笑った。


 少なくとも今夜は、私まで私を嫌いになる必要など、どこにもなかった。


◇


第三話 雨の降らない夏


 セシリアは、枯れた麦の穂を指先でそっと撫でた。


 かさかさと乾いた音がして、穂先が折れた。まだ収穫には早いはずなのに、実はほとんど入っていない。畑の土には深い亀裂が走り、踏みしめるたびに細かな砂埃が靴の裾へ舞い上がった。


「こんなにひどいなんて……」


 白い木綿のワンピースに薄緑色の上着を羽織ったセシリアは、額に浮かんだ汗を手巾で押さえた。麦畑の向こうでは、農夫たちが黙々と枯れた茎を刈り取っている。


 六月から一度も、まとまった雨が降っていなかった。


 七月には牧草が枯れ、八月に入る頃には井戸の水位まで下がり始めた。果樹園では青いまま萎んだ林檎が落ち、畑の豆は鞘の中で干からびていた。


「お嬢様、もうお戻りになりましょう」


 侍女のマリーが日傘を差し出した。


「でも、みんなはまだ働いているわ」


「お嬢様まで倒れられては、皆が心配いたします」


 セシリアはもう一度畑を見渡した。農夫の一人が小さな息子を連れていた。少年は父親のそばで水筒を抱え、乾いた唇を何度も舐めている。


「マリー、馬車に積んである水を分けてあげて」


「かしこまりました」


 屋敷へ戻ると、父と兄が書斎で地図を広げていた。


「南方の港から、乾燥豆と小麦が届きました」


 兄のアレクシスが報告している。


「西の共和国からは干し魚と塩漬け肉、それに乾燥野菜です。北方の商人とは燕麦の追加契約を結びました」


「価格は?」


「まだ平年の一割増し程度です。向こうでは今年も豊作でしたから」


 父は安堵したようにうなずいた。


「よし。運べるだけ運ばせよう。倉庫の増設は間に合うか?」


「港の第三倉庫を借り上げました。穀物は湿気を避け、豆類は虫害を防ぐよう管理させています」


 セシリアは扉の前で足を止めた。


「お父様、そんなにたくさん買っているの?」


 父が振り返った。


「おかえり、セシリア。畑を見てきたのか」


「ええ。ひどい有様だったわ」


「そうだろう。今年の収穫には期待できない」


「では、買い集めた食料は領民に配るため?」


「まずは冬を越すための備えだ。領民だけでなく、近隣の村にも不足が出るだろう」


 兄が椅子を引いてくれた。


「今ならまだ安く買える。だが、この干ばつが続けば、いずれ食料の値段は跳ね上がる。値上がりしてから慌てて買っても、必要な量が手に入るとは限らない」


「だから、今のうちに?」


「そういうことだ」


 セシリアは地図に記された港の名前を眺めた。


「でも、他国から買うだけで足りるのかしら。港が混雑したり、馬車が不足したりするかもしれないでしょう?」


 兄は少し驚いた顔をした。


「よく気づいたな。だから輸送も先に手配している。食料が港に積まれたままでは、腹を空かせた人の役には立たないからな」


 父は穏やかに微笑んだ。


「お前にも手伝ってもらおうか。領内の村ごとの人口と備蓄量を調べてほしい」


「私にできるかしら」


「植物画の勉強で、畑や農家を訪ねているだろう。数字だけでは分からないことも、お前なら聞いてこられる」


 セシリアは少し考え、うなずいた。


「やってみたいわ」


 その日の夕食には、冷たい鶏肉のサラダと焼いたじゃが芋、乾燥茸を使った濃厚なスープが並んだ。食卓の窓は開け放たれていたが、夜になっても風は生温かかった。


「今年は、王都の人々もまだ干ばつを深刻に考えていないようだ」


 父が言った。


「市場には食べ物が並んでいますからね」


 兄はパンをちぎりながら答えた。


「だが、秋になれば事情は変わるでしょう」


 セシリアはスープを口に運んだ。茸の香りが豊かに広がる。


 食べ物がおいしいと感じられることが、こんなにもありがたいものだったとは。


 彼女は昼間の麦畑を思い出し、静かにスプーンを置いた。


 八月の終わり、王都では夏の宵を楽しむ夜会が開かれた。


 セシリアは出席をためらったが、父に勧められ、兄のエスコートで会場へ向かった。淡い藤色の絹のドレスには、銀糸で小さな野花が刺繍されている。首元には母の形見の真珠を飾った。


 大広間には何百本もの蝋燭が灯され、磨き上げられた床に光が揺れていた。楽団の奏でる優雅なワルツに合わせ、貴族たちが涼しげな顔で踊っている。


 給仕の盆には冷やした果実酒が並び、長い卓には仔牛のロースト、白身魚のパイ、桃の砂糖煮が美しく盛りつけられていた。


「外では畑が枯れているのに、ここでは夏が豊かに見えるのね」


 セシリアが呟くと、兄は静かに答えた。


「宮廷の食卓に不足が現れるのは、いつも最後のほうだ」


 そのとき、聞き覚えのある声が耳に入った。


「いや、私としては、最後まで婚約を続けるつもりだったんだがね」


 エドワードだった。


 彼は金糸の刺繍を施した礼服を着て、数人の若い貴族に囲まれていた。隣には薄桃色のドレスをまとったリリアが寄り添っている。


「セシリア嬢が婚約の解消を強く望まれてね。女性の気持ちというものは、なかなか難しい」


 彼は困ったように笑った。


「もちろん、私は彼女の意思を尊重したよ。無理に引き留めるのも気の毒だからね」


 セシリアの指先が冷たくなった。


 自分が聞き間違えたのかと思った。


 エドワードは確かに、リリアを愛しているから婚約を解消したいと言った。それなのに今、まるでセシリアが一方的に婚約を破棄したかのように話している。


「……お兄様」


 兄は答えなかった。


 ただ、持っていた果実酒のグラスを近くの給仕に渡した。


「ここにいてくれ」


「お兄様、待って」


 セシリアが止めるより早く、アレクシスはエドワードの前へ進み出た。


「それは興味深い話だな、エドワード卿」


 その声に、周囲の貴族たちが振り返った。


「アレクシス……」


 エドワードの笑顔がわずかに引きつった。


「君の話では、妹が婚約解消を望んだことになるのか?」


「いや、誤解しないでくれ。私はただ、双方の気持ちを尊重したと……」


「では、妹の心変わりが原因だと受け取られるような話をしたのは、なぜだ?」


 エドワードは肩をすくめた。


「そんなつもりはないよ。君も少し神経質になっているんじゃないか?」


 兄の表情から笑みが消えた。


「君はいつもそうだな。自分が選んだことなのに、都合が悪くなると相手の受け取り方の問題にする」


「何だと?」


「リリア嬢を愛したのは君だ。婚約解消を申し入れたのも君だろう」


 周囲が静まり返った。


 リリアがエドワードの袖を引いた。


「エドワード様、もうおやめになって……」


「私は事実を話しているだけだ!」


 エドワードの声が大きくなった。


 セシリアは胸の奥が締めつけられるのを感じた。人々の視線が集まっている。かつての婚約者が責められている姿を見るのは、決して愉快ではなかった。


 けれど、また自分が謝って場を収めるのは違う。


 彼女はゆっくりと兄の隣へ歩み寄った。


「エドワード様」


 エドワードが振り向いた。


「セシリア。君からも説明してくれないか。私は君の意思を尊重しただけだろう?」


 セシリアは彼を見つめた。


 以前なら、この人に嫌われたくなくて、何でも言うとおりにしただろう。


 だが、今はもう婚約者ではない。


「ええ。私が婚約解消に同意したのは事実よ」


 エドワードがほっとした顔をした。


「そうだろう?」


「でも、最初に婚約解消を申し入れたのは、あなたよ」


 彼の表情が固まった。


「リリア様を愛しているから、私とは結婚できない。そうおっしゃったでしょう?」


「それは……」


「私、そのお気持ちまで否定するつもりはないの。けれど、あなたが選んだことを、私が選んだことにしないでほしいわ」


 静かな声だった。


 それでも、周囲の人々には十分に届いた。


 エドワードは顔を赤くした。


「君は私を恥をかかせたいのか?」


「いいえ。私はただ、事実と違うことを言われたくないだけ」


 兄が一歩前に出た。


「なお、婚約解消の申し入れは書面で残っている。必要なら、両家の正式な協議で確認できる」


 エドワードは口を開いたが、何も言わなかった。


 リリアは青ざめた顔で彼を見上げている。


 セシリアはその様子を見て、胸が少し痛んだ。


 けれど、彼女を慰めるために自分が嘘をつく必要はない。


「失礼するわ」


 セシリアは兄の腕を取り、その場を離れた。


 庭園へ続く扉を抜けると、熱を含んだ夜風が頬を撫でた。噴水は節水のため止められ、水盤の底には月明かりだけが溜まっている。


「怖かったか?」


 兄が尋ねた。


「ええ。とても」


「すまない。私が先に口を出したせいで、お前まで話さなければならなくなった」


「いいえ。お兄様が言ってくださらなければ、私はまた黙っていたと思う」


 セシリアは乾いた庭を見渡した。


「でもね、お兄様。エドワード様があんなふうに話しているのを聞いて、悲しいより先に、腹が立ったの」


「それでいいんじゃないか」


「怒るなんて、私らしくないと思っていたわ」


「怒ってはいけないわけじゃない。大切なのは、その怒りをどう扱うかだ」


 セシリアは小さくうなずいた。


 遠くの空には星が瞬いていた。雲は一つも見えない。


「雨が降るといいわね」


「ああ。だが、降らなくても冬は来る」


 兄の声が少し厳しくなった。


「だから、備えなければならない」


 セシリアは兄を見上げた。


「倉庫の食料、十分に集まったの?」


「まだだ。追加の船が来週入る。父上は王都の商人たちにも備蓄を勧めているが、今のところ真剣に聞く者は少ない」


「どうして?」


「秋には雨が降るだろうと、みんな思っているんだ」


 兄は夜空を見上げた。


「希望を持つのは悪いことじゃない。だが、希望だけでは腹は膨れない」


 セシリアは、昼間に見た枯れた麦畑を思い出した。


 夜会の大広間からは、再び華やかな音楽が流れてきた。人々は笑い、踊り、甘い酒を飲んでいる。


 その一方で、畑では実らなかった麦が風に崩れていた。


「お兄様。明日、領内の村をもう一度回りたいわ」


「暑いぞ」


「分かっている。でも、子どもたちがどれくらいいるのか、井戸の水がどれだけ残っているのか、ちゃんと知りたいの」


 兄はしばらく私を見つめ、それから微笑んだ。


「分かった。馬車と護衛を用意しよう」


 セシリアは深く息を吸った。


 夜の空気には、乾いた土と萎れた草の匂いが混じっていた。


 婚約を失った夏。


 彼女は、自分が不幸になったことばかり考えていた。


 けれど今、目の前には自分よりも切実な不安を抱える人々がいる。


 誰かに愛されなかったことは悲しい。


 それでも、自分が誰かを大切にすることまで、諦める必要はない。


「帰りましょう、お兄様」


「ああ。父上にも報告しなければな」


 兄に手を引かれ、セシリアは明るい大広間へ戻った。


 翌朝も、雨は降らなかった。


 それでも彼女には、やるべきことがあった。


◇


第四話 実りなき収穫祭


 収穫祭の鐘が鳴るたびに、セシリアは胸が痛んだ。


 例年なら、広場には焼きたてのパンや林檎の菓子が並び、子どもたちは麦の穂で編んだ冠をかぶって走り回っていた。農夫たちは収穫した作物を荷車いっぱいに積み、教会の前では豊作を祝う歌が響いたものだ。


 けれど、今年の広場には、飾りつける麦さえなかった。


 十月の冷たい風が石畳を吹き抜け、痩せた木々の枝を揺らしている。祭りのために張られた赤と黄色の布だけが、むなしくはためいていた。


「お嬢様、本当に今年もお祭りをなさるのですか?」


 村長が心配そうに尋ねた。


 セシリアは厚手の葡萄色のドレスに毛織りの肩掛けを羽織り、広場を見渡した。


「ええ。ただし、いつものようなお祭りではないわ。みんなで温かい食事をいただく日にしましょう」


「しかし、食料が……」


「お父様とお兄様が、夏のうちに用意してくださったものがあるの」


 広場の端には、伯爵家の倉庫から運ばれた大きな鍋が並んでいた。乾燥豆を一晩水に浸し、干し肉と乾燥野菜を加えて煮込んだスープが、白い湯気を上げている。


 料理人たちは大麦の薄焼きパンを次々と焼き、給仕たちは子どもや老人から順に食事を配っていた。


「お母さん、あったかい!」


 小さな男の子が木の椀を両手で抱え、嬉しそうに声を上げた。


 母親は目元を拭いながら、何度も頭を下げた。


「ありがとうございます、お嬢様。うちの子、昨日からお腹が空いたと言っておりまして……」


 セシリアは胸が締めつけられた。


「おかわりもあるわ。慌てずに食べてね」


 少年は大きくうなずき、スープを口へ運んだ。


 セシリアも同じスープを一杯受け取った。豆のほくほくした甘みと干し肉の塩気が、冷えた体に染み渡る。豪華な料理ではない。それでも、空腹の人々にとっては何よりのご馳走だった。


「セシリア、こちらにいたのか」


 兄のアレクシスが歩いてきた。濃茶の外套には、倉庫から舞い上がった小麦粉が少し付いている。


「お兄様。港からの荷は届いた?」


「ああ。だが、今回は予定の半分しか届かなかった」


「どうして?」


「他国でも買い付けが増えている。商人たちは、こちらが夏に契約した価格の二倍、三倍を要求し始めた」


 セシリアは驚いた。


「そんなに?」


「それでも売ってくれるなら、まだましだ。金貨を積んでも品物がないと言われることが増えている」


 兄は広場の人々を見渡した。


「父上が早く決断してくださってよかった。今から同じ量を集めようとしても、到底間に合わない」


「冬を越せるかしら」


「配給を守り、無駄を出さなければな。だが、楽観はできない」


 兄の声には疲労が滲んでいた。


 セシリアは兄の袖についた粉を払った。


「お兄様も少し休んで。朝から働き通しでしょう」


「そうだな。せっかくだから、妹の作った配給表が役に立っているところを見ながら食べよう」


「私一人で作ったわけじゃないわ。村長さんたちにも手伝っていただいたもの」


「それでも、子どもや病人の人数まで調べたのはお前だ」


 兄は笑って、温かなスープを受け取った。


 その頃、王都のグレイ伯爵邸では、怒号が響いていた。


「なぜ食料が届かない!」


 エドワードは執務机を拳で叩いた。


 窓の外では、秋風に枯葉が舞っている。豪華な絨毯と金箔を施した家具に囲まれた部屋で、彼は不機嫌そうに側近たちを睨みつけていた。


「申し訳ございません。しかし、取引先からは、すでに在庫がないと……」


「在庫がない? 金を払うと言っているんだぞ!」


「他の領地でも買い付けが殺到しております。価格は平年の三倍に達し、それでも必要な量を確保できません」


「それを何とかするのがお前たちの仕事だろう!」


 側近の一人が、ためらいがちに口を開いた。


「恐れながら、夏の初めに備蓄の増強をご提案いたしました」


 エドワードの眉が跳ね上がった。


「何が言いたい?」


「その際、閣下は秋になれば雨が降るから不要だと……」


「私のせいだと言うのか!」


 男は青ざめた。


「いいえ、そのようなつもりでは……」


「お前たちの説明が不十分だったからだ! もっと危険だとはっきり言えば、私だって考えた!」


 執務机の端には、夏の商人たちから届いた見積書が積まれていた。安価な乾燥豆や穀物の購入を勧める書類には、エドワード自身の筆跡で『見送り』と記されている。


 あの夏、彼はリリアとの逢瀬に夢中だった。


 湖畔の別荘へ出かけ、宝石を贈り、夜会では彼女の手を取って踊った。領地の収穫報告など、退屈な数字の羅列にしか思えなかった。


「今年は雨が少ないだけだろう。大げさに騒ぐな」


 そう言って書類を突き返したことさえ、今では忘れたふりをしていた。


「とにかく買え! 三倍でも四倍でも構わん!」


「しかし、領地の財政が……」


「領民を飢えさせるつもりか!」


 側近たちは顔を見合わせた。


 その言葉を、夏のうちに聞きたかった。


 だが、誰も口には出さなかった。


 数日後、エドワードは王都の商人を屋敷へ呼びつけた。


「小麦を五百袋だ。金なら払う」


 商人は困った顔で帽子を握った。


「申し訳ございません、エドワード様。五百袋どころか、五十袋もございません」


「では、三十袋でもいい」


「それも難しゅうございます」


「何だと?」


「すでに他家との契約がありまして。今ある品は、すべて引き渡し先が決まっております」


 エドワードは唇を噛んだ。


「倍払う」


「お金の問題ではございません」


「三倍だ!」


 商人は深々と頭を下げた。


「ないものは、お売りできません」


 その言葉に、エドワードは初めて言い返せなくなった。


 どれほど高い値をつけても、畑に麦が実るわけではない。どれほど部下を叱責しても、枯れた作物が戻るわけではなかった。


 冬が近づくにつれ、グレイ伯爵領では食料の不足が深刻になった。


 村々からは嘆願書が届いた。家畜に与える飼料がなくなり、種籾まで食べようとする農家が現れた。市場ではパンの値段が跳ね上がり、買えずに帰る母親たちの姿が増えた。


 エドワードは領民の代表を前に、声を荒らげた。


「私だって努力している! これほどの干ばつを予想できた者がどこにいる!」


 老人が一歩前に出た。


「お隣の伯爵領では、夏のうちに食料を備えておいででした」


「それは、たまたま運がよかっただけだ!」


「ですが、我々も夏から何度もお願いしておりました。井戸が枯れ、麦が育たぬと……」


「黙れ! 責任を問うなら、報告を怠った代官に言え!」


 老人は深く頭を下げた。


 しかし、その目には、もう期待がなかった。


 十一月の初め、セシリアは父と兄とともに倉庫を視察していた。


 石造りの建物には乾燥した豆や穀物が整然と積まれ、木箱には干し魚と乾燥野菜が収められている。香辛料と穀物の匂いが混ざり、冷たい空気の中に漂っていた。


「隣のグレイ伯爵領から、食料の融通を求める書簡が届いた」


 父が言った。


 セシリアは足を止めた。


「エドワード様のところから?」


「ああ。相場の三倍を払うそうだ」


 兄は苦々しい顔をした。


「今さら金で解決しようというのか」


「お兄様……」


「分かっている。飢えている領民に罪はない」


 兄はため息をついた。


「ただ、あいつの失敗を帳消しにするために、こちらの領民の食料を減らすわけにもいかない」


 父は静かにうなずいた。


「だから、まず我が領の冬越しに必要な量を確保する。そのうえで余裕のある分を、隣領の村へ直接届けるつもりだ」


「エドワード様に売るのではなく?」


「そうだ。村長や教会を通して、必要な家庭に配る。輸送と配給の記録も残す」


 セシリアは胸を撫で下ろした。


「よかった。子どもたちまで飢えるのは、つらいもの」


 父は娘を見つめた。


「セシリア。お前はエドワードを許したのか?」


 彼女は少し考えた。


「まだ、分からないわ」


「そうか」


「でも、あの方を許せるかどうかと、お腹を空かせた人に食べ物を届けるかどうかは、別のことだと思うの」


 兄が微笑んだ。


「そのとおりだ」


 セシリアは倉庫の奥に積まれた豆袋を見上げた。


「私、昔は自分が嫌いだった。エドワード様に選ばれなかった自分には、何の価値もないと思っていたの」


 父と兄は黙って聞いていた。


「でも、この夏、村を回って、いろいろな人に会ったわ。農家のお母さんに子どもの人数を教えてもらったり、井戸の水を一緒に調べたり、配給の相談をしたり……。私にも、誰かの役に立てることがあるのね」


「もちろんだ」


 父は優しく答えた。


「お前には、最初から価値があったんだよ」


 セシリアは微笑んだ。


「ええ。でも、それを私自身が信じられるようになるまで、少し時間が必要だったの」


 倉庫の扉が開き、冷たい風が吹き込んだ。


 外では、冬支度を始めた人々が忙しく行き交っていた。馬車には乾燥豆と穀物が積まれ、配給所へ向かう準備が進んでいる。


「お父様、私も行っていい?」


「どこへ?」


「隣領の村よ。どの家に小さな子がいるか、病人がいるか、直接確かめたいの」


 兄は少し困った顔をした。


「寒いぞ。それに、道も悪い」


「厚い外套を着ていくわ。温かいスープも持っていけるでしょう?」


 父はしばらく考え、それからうなずいた。


「分かった。ただし、護衛と医師を同行させなさい」


「ありがとう!」


 セシリアは嬉しそうに笑った。


 その笑顔を見て、兄が小さく呟いた。


「エドワードは、本当に愚かな男だな」


「お兄様?」


「いや、何でもない」


 兄は首を振り、妹の肩に外套を掛け直した。


 セシリアはもう、エドワードに愛されなかった理由を探していなかった。


 誰かに選ばれるために生きるのではなく、自分で選び、自分の行動に責任を持つ。


 その喜びを、ようやく知ったのだ。


 遠くの空には、冬の雲が低く垂れ込めていた。


 雨は、まだ降らない。


 けれど、セシリアはもう空を恨まなかった。


 自分には変えられないことがある。


 それでも、自分にできることはある。


 かつて父が教えてくれた次善の策とは、失ったものを嘆き続けることではなく、残された可能性の中から、できる限りよい道を選ぶことだった。


 彼女は馬車に積まれる食料を見つめ、静かに微笑んだ。


 今年の収穫祭には、豊かな実りがなかった。


 それでも、誰かが明日を迎えられるようにと差し出された一杯のスープには、確かな温かさがあった。


 そしてセシリアは、その温かさを、自分の手で届けたいと思った。


エドワードのマリーへの執着を明示するセシリアの現在の悩みに結末をつなげる





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― 新着の感想 ―
第一章、拝読させて頂きました。 いい話だなと思ったら、続きがあったんですね 短編とあったので油断してました。 続きを読ませて下さいm(_ _)m
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