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男のシンボルに浮気女の名前を刻んだ最低な婚約者!私が自殺を偽装して泥沼から脱出したら、あいつが絶望で発狂した!

作者: 熾星
掲載日:2026/06/30

 

 1.三杯の酒


 婚約披露会の前夜、航平の友人たちは六本木にある個室を予約していた。結婚前に、最後にみんなで集まろうという名目だった。


 私は彼の隣に座り、グラスの中で揺れる光を見つめていた。胸の奥は、ずっと重かった。航平は仲間たちに囲まれ、シャツの袖を肘までまくり、資金調達が順調に進んでいる起業家らしい高揚を顔に浮かべていた。


 みんなが言った。大学時代から彼を支えてきた私が、ようやくいちばんいい形にたどり着いたのだと。


 空気が変わったのは、三枝梨奈がゲームに負けたときだった。


 誰かが、梨奈に自分へ三杯の酒を捧げろと囃し立てた。彼女はすぐには断らず、意味ありげに私を一瞥し、うつむいて小さく笑った。


「一杯目は、私の青春に。二十歳の成人式の年、私はいちばん肌に近いものを、航平への成人祝いとして贈りました」


 個室が一瞬静まり、すぐに妙な歓声が上がった。


 梨奈はグラスを揺らしながら、無邪気で、それでいて勝ち誇ったように笑っていた。


「二杯目は、私の勇気に。人生で初めて撮ったヌードのプライベート写真は、航平に撮ってもらいました」


 私はグラスを握る手に力を込めた。指の関節が白くなる。隣の航平は眉をひそめたが、ただ低い声で「もうやめろ」と言っただけだった。


 梨奈は聞こえなかったふりをして、三杯目のグラスを掲げた。


「三杯目は、私たちの友情に。航平と一生切れない関係でいる記念に、私は彼のいちばん人に見せない場所へ、自分の名前の頭文字を彫りました」


 場が完全に凍りついた。


 息を呑む者もいた。こっそり私の顔色をうかがう者もいた。面白い見世物が始まったとでもいうように、目を輝かせる者もいた。私はその場に座ったまま、耳に入る音が水の向こう側から聞こえてくるように感じていた。


 梨奈は、ようやく失言に気づいたような顔を作り、口元を押さえて私を見た。


「詩織さん、誤解しないでくださいね。私と航平は、大学の頃からずっと一緒にいた友達なんです。みんな知ってます。あのときも、航平が賭けに負けたから、私に少し悪ふざけさせただけで」


 彼女は「友達」という言葉を、わざと軽く響かせた。


 その軽さが、耳の内側をこすった。


「本当に何かあったなら、あなたの前で言うわけないじゃないですか」


 全員が、私が取り乱すのを待っていた。


 けれど私は、グラスを持ち上げ、ゆっくり一口飲んだ。


「そう。大丈夫」


 私は彼女を見て、それから航平を見た。


「分かってるから」


 彼らは一瞬、呆気に取られた。


 次の瞬間、個室には笑い声が広がった。誰かが、私は怒りすぎておかしくなったのだと言った。別の誰かは、婚約者の器が大きいと私を褒めた。また別の誰かは、航平の肩を叩いて、結婚後は楽だなとからかった。


 誰も知らなかった。


 私は本当に、すべてを手放していた。


 なぜなら、その前の夜、私の部屋のドアの隙間に、一枚の紙が差し込まれていたからだ。


 そこには、私自身の筆跡でこう書かれていた。


【結婚してはいけない。彼は六百万円のために、あなたを長野の山にある親戚の家へ送り、判断能力の不安定な男の妻にする】


 その瞬間、私は自分が本当におかしくなったのだと思った。


 それでも私は、航平の叔母が結婚準備金の名目で渡してきた六百万円を、航平の前へ叩きつけた。そして、この結婚はしないと告げた。


 航平は、私がそんな反応をするとは思っていなかった。


 彼は玄関に立ち、恐ろしいほど険しい顔で私を見た。


「詩織、お前、何を言ってるんだ」


 私は彼を見つめ、泣くよりもひどい顔で笑った。


「結婚したくない」


 彼は怒りに任せて、私を狂っていると罵り、ドアを叩きつけて出ていった。翌日、梨奈は彼の前で腹を抱えて笑っていた。


 それは、後から水野が教えてくれたことだった。


 梨奈は言った。あの紙は自分の冗談で、少し脅かしてみたかっただけなのに、まさか本気にするとは思わなかった、と。航平はビールを一口あおり、冷たい顔で、私のことは放っておけと言ったらしい。


「彼女は俺から離れられないよ。見てろ。二、三日もすれば、自分から戻ってきて、やり直したいと言い出す」


 面子のために、彼は本来の婚約披露会を独身最後のパーティーに変えた。


 だから、私が個室の扉を開けたとき、目に入ったのは、細い肩紐のワンピースを着た梨奈が、ほとんど航平に寄りかかっている姿だった。


 彼女の声は、砂糖を溶かしすぎたように甘かった。


「航平くん、落ち込まないで。終わったことは忘れて、次を見ようよ」


 周りの友人たちも、すぐに騒ぎ出した。


「そうそう。綾瀬みたいな危ない女、早く別れて正解だって」


「梨奈、霧島と腕を組んで飲めよ。厄落としだ、厄落とし」


 航平は拒まなかった。


 彼の手は梨奈の太ももの上に置かれていた。あまりにも自然な動きで、吐き気がした。



 2.私が叩いたのは女ではなく、泥棒だった


 航平は、私が入口に立っていることに突然気づいた。


 彼はほとんど反射的に梨奈を押しのけ、目の前のグラスまで倒した。褐色の酒がテーブルの縁から滴り落ちていく。彼の顔には、明らかな動揺と、あるはずのない期待がよぎっていた。


「詩織?どうしてここに?」


 彼は立ち上がり、少し声を抑えた。


「考え直したのか? 昨日のは、やっぱり勢いで言っただけだったんだろ」


 梨奈の反応は、彼より早かった。


 彼女は何事もなかったように私の前へ来て、腕を絡めようとしてきた。


「詩織さん、来てくれたんですね。昨日のことは私が悪かったです。三杯飲んで謝りますから。ほら、座ってください。航平くんの隣、ずっと空けておいたんです」


 私はその笑顔を見て、胃の奥がひっくり返るような気分になった。


 次の瞬間、私は手を振り上げ、彼女の頬を思いきり叩いた。


 乾いた音が個室に弾けた。


 梨奈は顔を横へ向けたまま固まり、頬を押さえて、信じられないという目で私を見た。


「詩織さん……どうして叩くんですか? 私はただ、場を和ませようとしただけなのに」


 航平の顔色が一気に沈んだ。


 彼は梨奈を背後にかばうように引き寄せ、私へ怒鳴った。


「詩織、お前は本当におかしくなったのか? 梨奈は善意で歩み寄ってくれたんだ。腹が立つなら俺に言え。どうして彼女を叩く!」


 私は、梨奈の前に立ちはだかる彼を見て、ふっと笑った。


「善意?」


「航平、あなたには少しも距離感がないの?」


 彼の目つきが変わった。


 私は彼の背後にいる梨奈を指さした。


「泥棒を叩いただけ」


 梨奈の目に、すぐ涙が浮かんだ。


「私の男を盗んで、私の婚約を盗んで、私の人生まで盗もうとしている。叩かれて当然でしょう?」


 航平は怒りで肩を震わせた。


「何を言ってるんだ。俺と梨奈は何もない!」


「何もない?」


 私は持ってきた紙袋をテーブルの上に置き、口を開いた。中には、札束がぎっしり詰まっていた。


 叔母から渡された六百万円だった。


 昨日一度叩きつけたものを、今日もう一度叩きつけるために持ってきた。


「この六百万円は、あなたの叔母さんが、私の人生を買い取るために用意したお金でしょう?」


 航平の瞳孔が、かすかに揺れた。


 私は彼の目をまっすぐ見つめた。声は大きくなかったが、この部屋にいる誰の耳にも届いた。


「あなたと、あなたの立派な叔母さんは、とっくに計画していた。婚姻届を出したあと、私の体調を整えるという名目で、長野の山にある親戚の家へ連れていくつもりだった」


「あそこには、四十代の判断能力が不安定な男性がいる。家族はずっと住み込みの介助者を探していた。あなたたちは私の身分証を預かり、そこで介助の仕事をさせ、最後にはその男と内縁関係のような形に追い込むつもりだった」


「そうすれば私は消える。精密部品工場の社長令嬢である梨奈は、堂々とあなたの隣に立てる。違う?」


 個室にざわめきが広がった。


 息を呑む者もいた。話が大げさすぎると低く言う者もいた。スマホを取り出そうとする者もいた。


 航平の顔は、みるみる赤くなっていった。


「綾瀬詩織、お前は被害妄想でもあるのか? そんな作り話をよく口にできるな」


 私は説明しなかった。


 バッグから偽造した精神科の診断資料を取り出し、全員の前で、少しずつ破った。


 紙片が床に散った。


「おめでとう、航平」


 私は彼を見た。


「これであなたは、精神的に不安定な婚約者から解放される」


 梨奈は彼の背後で、ようやく本心のにじむ目をした。


 私は振り返り、個室の扉を押し開けた。


「この結婚はしない」


「この男も、いらない」



 3.本当の診断書


 北区で借りている古い木造アパートの1Kに戻ると、私は鍵をかけ、ドアにもたれたまま床へずるずると座り込んだ。


 さっきの芝居で、ほとんどすべての力を使い果たしていた。


 引き出しの奥から本物の診断書を取り出す。指先はまだ震えていた。


 医師の言葉が、耳の奥に残っていた。


「遺伝性の神経変性疾患です。常染色体優性遺伝に分類されます」


「現時点では、根治的な治療法はありません。進行すれば、徐々に身体の制御が難しくなり、嚥下障害、言語障害、認知機能の低下が起こる可能性があります」


「綾瀬さん、できるだけ早く、今後の治療方針と長期的な介護計画を立てる必要があります」


 私はまだ二十六歳だった。


 東京外国語大学の言語文化学部を卒業し、三年ほどフリーランス翻訳者として働いていた。最近になって、出版社から継続契約の話も来たばかりだった。航平も、介護データを扱うスタートアップをようやく軌道に乗せ、シリーズBの資金調達を終えようとしていた。


 私たちの人生は、本来ならこれから前へ進むはずだった。


 診断書を受け取った日、最初に思ったのは、航平に会いに行くことだった。


 怖いと伝えたかった。


 たった一度でいいから、抱きしめてほしかった。


 けれど彼の会社の下で、私は梨奈が背後から彼を抱きしめているのを見てしまった。彼女の手は彼の背をやさしく撫で、その距離は普通の友人のものではなかった。


「航平くん、詩織さんは少し敏感すぎるんだよ。あまり甘やかさないほうがいいって。女は甘やかすと、すぐつけ上がるから」


 航平はため息をついた。


 彼は彼女を押しのけなかった。


「仕方ないだろ。大学のとき、彼女の父親に一生面倒を見ると約束したんだ」


「責任って、そういうものだからな」


 その瞬間、私は自動ドアの外に立ったまま、全身が冷えていくのを感じた。


 彼の愛は、いつの間にか責任に変わっていたのだ。


 もし私が病気のことを打ち明けたら、彼はどうするだろう。


 航平は悪人ではない。


 たとえもう愛していなくても、父への約束のために、やがて自分で何もできなくなる私のそばに、人生の後半を縛りつけられるだろう。


 そんな世話はいらない。


 同情で、彼を私のそばに縛りたくなかった。


 尊厳を失っていく姿を、彼に見られたくもなかった。


 だから私は、この茶番を仕組んだ。


 未来から届いたというあの紙は、梨奈の口調を真似て私が書いたものだった。梨奈は私に傷をつけられるなら喜んで乗るだろう。彼女は自分が私を弄んでいるつもりだったが、私もまた、彼女にこの茶番を最悪の形まで押し上げてほしかった。


 航平に、私を憎ませる。


 私を、徹底的な狂人で、嘘つきで、妄想に取りつかれた女だと思わせる。


 そうすれば彼は、何の負い目もなく私から離れ、自分の人生を生きていける。


 そのとき、スマホが震えた。


 航平の叔母からのメッセージだった。


【綾瀬さん、六百万円はもう渡しました。身の程をわきまえなさい】


【これ以上、甥に付きまとうなら、こちらにも考えがあります】


【長野の山道は危ないですよ。若い女性が一人で出歩けば、帰ってこられないこともありますから】


 私は画面を見つめ、指先が少しずつ冷えていくのを感じた。


 私が自分で作ったつもりだった筋書きは、叔母の本当の計画を偶然踏み抜いていたのだ。


 彼女は最初から、私を気に入っていなかった。


 両親がいないこと。フリーランス翻訳者であること。航平の会社に何の後ろ盾も与えられないこと。梨奈の家には工場があり、地方銀行とのつながりがあり、航平の会社にサプライチェーン上の信用も与えられる。


 叔母にとって、私は人ではなかった。


 ただの邪魔なものだった。


 それなら。


 すべて、人前に晒してやる。



 4. 資金調達会議の狂った女


 狂った女を演じるなら、最後まで演じきる。


 航平が私を避けるようにするだけでなく、彼の叔母と梨奈を人前へ引きずり出すために。


 翌朝、私は航平の会社が入っているシェアオフィスへ向かった。


 受付は私を知っていて、止めようとした。私はその手を振り払った。


「触らないで! 私は霧島社長の婚約者です!」


 航平は会議室で資金調達の説明をしていた。


 中には数名のベンチャーキャピタリストと、大手企業の投資部門から来た担当者が座っていた。彼にとって創業以来、もっとも重要なデューデリジェンスの場だった。これを通過すれば、会社は次の資金を得て、介護データシステムを提携病院で試験導入できるはずだった。


 私が扉を押し開けると、全員の視線がこちらへ向いた。


 航平はちょうど重要な説明をしているところだった。


 私を見た瞬間、彼の顔から血の気が引いた。


「詩織?何をしに来た。出ていけ!」


 私は彼の叱責を聞かないふりで駆け寄り、両手で彼の脚にしがみついた。


「航平、私が悪かった。本当にごめんなさい!」


 みっともなく泣き叫んだ。自分でも、自分の声とは思えないほど甲高かった。


「梨奈とのことを疑った私が悪かった。騒いだ私が悪かった。お願い、私を捨てないで。私と子どもをどこかへやらないで!」


「梨奈はただの妹みたいな存在なんでしょう? 信じるから。今日、婚姻届を出しに行こう。お願い」


 会議室が一気にざわついた。


 投資家たちは顔を見合わせ、表情を険しくしていった。霧島社長の私生活リスクが高すぎると低く話す者もいた。事前調査で、なぜこの問題が出てこなかったのかと、隣の担当者に尋ねる者もいた。


 航平は完全に崩れた。


 脚を引き抜こうとしたが、私は強くしがみついて離れなかった。


「詩織!何を言ってるんだ。子どもなんてどこにいる!」


 彼の顔は暗い赤に染まり、額には青筋が浮いていた。


「警備を呼べ!今すぐ!」


 二人のビル警備員が飛び込んできて、私を左右から引きはがそうとした。私はドア枠にしがみつき、泣き声をフロア全体に響かせた。


「航平!そんなひどいことしないで!」


「梨奈なんかのために、自分の子どもまで捨てるの?」


 航平は怒りに任せて駆け寄り、警備員と一緒になって私を会議室から押し出した。


 廊下で、彼は私を乱暴に振り払った。


 私は床に倒れ、膝を強く打った。


 彼は私の前に立ち、目を血走らせていた。


「詩織、お前は俺を完全に壊した」


「これで満足か? 投資は終わりだ。会社も終わった!」


「消えろ」


 彼の声は震えていた。


「二度と俺の前に現れるな」


 去っていく彼の背中を見ても、私は泣かなかった。


 ゆっくり立ち上がり、膝についた埃を払う。


「それでいい」


「これであなたは、もう罪悪感を持たなくて済む」


 部屋に戻ってから、私は航平の叔母から届いた脅迫メッセージのスクリーンショットと、梨奈がここ数年私に送りつけてきた挑発的なメッセージを、圧縮ファイルにまとめた。


 梨奈の言葉は、想像していたよりずっと気持ち悪かった。


【どれだけ見張っても無駄。昨夜、彼のシャツは私の家に残ってたよ】


【詩織さん、航平くんはあなたを冷めた白湯みたいだって言ってた。私といるほうが刺激的なんだって】


【あなたは責任。彼が本当に気を抜ける相手は私】


 その多くが、梨奈の作り話だと分かっていた。


 それでも、もう関係なかった。


 航平に見せたかった。


 彼のそばにいる距離感のおかしい女友達と、欲にまみれた叔母が、いったいどういう人間なのかを。



 5.七十二時間


 航平は警察に通報した。


 理由は、脅迫、名誉毀損、業務妨害だった。


 警察が訪ねてきたとき、私はとても協力的に、偽造した精神科の診断資料を差し出した。資金調達会議での監視カメラ映像もあり、私は精神状態がきわめて不安定で、精神科救急の評価が必要だと判断された。


 その七十二時間の短期保護観察のあいだ、私はよく眠れた。


 航平も、梨奈も、叔母も、あの汚れた出来事もなかった。


 退院の日、東京には冷たい雨が降っていた。


 航平は病院の入口で待っていた。


 彼は手にしていた煙草を消し、私へ温かいミルクティーを差し出した。


「詩織」


 彼の声はひどくかすれていた。


「少し冷静になろう。これ以上、お互いを傷つけ合うのはやめよう」


 私はそのミルクティーを見つめ、胸の中にいろいろな感情が沈んでいくのを感じた。


 昔は、どれだけ遅い時間でも、私が飲みたいと言えば、彼は東京の半分を横切ってでも買いに行ってくれた。あのころのミルクティーは甘かった。彼がいれば、この先の人生で何も怖くないと思えるくらいに。


 今は、ただの皮肉にしか思えなかった。


 私はミルクティーを受け取った。


「冷静に?」


 小さく笑った。


「どうやって? あなたの叔母さんが私を長野へ送ろうとするのを見逃すの? それとも、あなたの妹みたいな友達が、あんな気持ち悪い写真を送りつけてくるのを我慢するの?」


 航平は眉を寄せた。


「叔母のあれは、売り言葉に買い言葉だ。梨奈は……子どものころから甘やかされて、距離感が分からないだけで」


「距離感が分からない?」


 私は彼を見た。


「二十四歳でしょ。幼稚園児じゃない」


 そのとき、道路脇にレクサスが止まった。


 窓が下がり、梨奈の整っているのに意地の悪い顔が見えた。


「航平くん、叔母さんが帰って食事にしなさいって。冷めちゃうよ。そんな女に時間を使わないで」


 航平は私を一度見た。複雑な目をしていた。


 それでも彼は後部座席のドアを開け、私を中へ押し込んだ。


「乗れ」


「送っていく」


 車内で、私は何も言わなかった。


 けれど航平は、だんだん苛立っていった。運転しながら何度もルームミラー越しに私を見た。まるで、私がまだ自分の掌の中にいるかを確かめているようだった。


 ついに彼は口を開いた。


「詩織、よく聞け」


 彼の声は低く、そこには狂気に近い独占欲があった。


「お前は、この先ずっと俺から離れられない」


「たとえ死ぬとしても、俺の見える場所で死ね。俺がいらないと言うまでは、俺のそばから逃げられると思うな」


 私はルームミラーに映る彼を見て、ようやく分かった。


 これは愛ではない。


 彼は、いつも従順で、いつも彼が振り向くのを待っていた綾瀬詩織が、突然自分の支配から抜け出したことに耐えられないだけだった。


 私は笑った。


「いいよ」


 次の瞬間、私は後部座席から身を乗り出し、ハンドルをつかんだ。


 車体が大きく揺れ、助手席の梨奈が悲鳴を上げた。


 私は航平の耳元に顔を寄せた。


「それなら、一緒に地獄へ行こう」


 航平は急ブレーキを踏んだ。


 耳を裂くようなブレーキ音が、雨の夜を切り裂いた。


 彼が振り返ったとき、顔は真っ白だった。その目には、初めて本物の恐怖が浮かんでいた。


 その瞬間、私は分かった。


 芝居はもう十分だ。



 6.私は自分の命を探しに行く


 その夜、航平は私を部屋まで送り届けたあと、梨奈からの一本の電話でまた呼び出された。


 私はもう待たなかった。


 窓の外の薄暗い月明かりを頼りに、必要なものをすべてまとめた。服、身分証、現金、診断書、そして梨奈と叔母を泥の中へ引きずり込めるだけの証拠。


 テーブルの上には、未来から届いたというあの紙を置いた。


 その横には、長野の山へ向かう片道切符も置いた。


 そして、短い手紙を書いた。


【航平、私は自分の命を探しに行きます。今回は、受け入れます】


 すべてを終えると、私はバッグを背負い、東京の雨の夜へ歩き出した。


 航平が部屋へ戻ったのは、深夜のことだった。


 これも、後から水野が教えてくれた。


 空っぽの部屋とあの手紙を見て、航平は完全に動揺したという。雨の中へ飛び出し、何度も私に電話をかけた。そして、ようやく電話がつながった。


 けれど電話口から聞こえたのは、私の声ではなかった。


 見知らぬ男性の声だった。


「もしもし。こちらの携帯の持ち主のご家族でしょうか」


「荒川の河川敷で、この携帯電話と置き去りにされたバッグを発見しました」


「現場の状況から、誰かが川に落ちた可能性があります。至急お越しください」


 航平は、その場で雨の中へ膝をついた。


 スマホの画面には、送信されていない下書きが残っていた。


【もし来世があるなら、私たちは最初から出会わなければよかった】


 一か月後、警察は大規模捜索をいったん打ち切った。


 大雨のあとの川は流れが速く、現場には私の携帯、バッグ、手紙、そして精神科での観察記録が残されていた。事件は自殺の疑いを含む失踪として扱われ、周囲の人たちは私が死んだものと思った。


 その瞬間、航平の世界は崩れた。


 それから彼は酒に溺れ始めた。


 会社へも行かず、資金調達は完全に止まり、社員たちは次々と去っていった。彼は私たちが暮らしていた部屋に閉じこもり、私のコートを抱いてぼんやりしていたという。時々、誰もいない空間に向かって、私の名前を呼んだ。


「詩織、ご飯ができた」


「詩織、雨が降ってる。迎えに行くよ」


「詩織、怖がらなくていい。俺が帰ってきた」


 その日は、強い雨が降っていた。


 水野が部屋へ駆け上がり、彼の鼻先を指して怒鳴った。


「霧島航平、あんたは人殺しよ!」


「あんたが彼女を追い詰めたの。あんたと三枝梨奈が、詩織を殺したの!」


 彼女は航平の頬を何度も叩いた。口の端が切れても、彼は避けなかった。


 梨奈は傘を差して横に立ち、不機嫌そうな顔をしていた。


 彼女は近づき、航平を立たせようとした。


「航平くん、こんな女の言うことを聞かないで。詩織は自分で勝手に死んだだけでしょう? あなたのせいじゃない」


「彼女が死んで、よかったじゃない。彼女も楽になったし、あなたも自由になった。これから私たちで、ちゃんと幸せになればいいでしょう?」


 航平が、ゆっくり顔を上げた。


 彼は梨奈を突き飛ばした。


 梨奈は泥水の中へ倒れ込み、整っていた化粧が無残に崩れた。


 航平の声は、彼のものとは思えないほど冷たかった。


「消えろ」


 梨奈は雨水の中に座り込んだまま、信じられないという目で彼を見た。


「航平くん……死んだ女のために、私を突き飛ばすの?」


 航平はもう彼女を見なかった。


 彼は、遺体のない私の供養碑の前に跪き、何度も額を地面へ打ちつけた。血が雨水に混じって流れても、痛みを感じていないようだった。


 その後、彼は調べ始めた。


 なぜ私は「自分の命を探しに行く」と書き残したのか。


 なぜ長野の山に触れたのか。


 なぜ結婚前に突然おかしくなったのか。



 7.真実は山奥から浮かび上がった


 航平は叔母の通話記録を洗い、頻繁に連絡を取っていた見知らぬ番号を見つけた。


 番号の所在地は、長野県の山間部にある集落だった。


 彼はその夜のうちに、長野県北部の山村へ車を走らせた。


 そこは、叔母が「療養に向いている」と言っていた場所だった。山道は細く、民家はまばらで、夜になると街灯すらほとんどなかった。


 航平は通話記録に残っていた住所を頼りに、その家を訪ねた。


 相手は最初、何も認めようとしなかった。ただ頼まれただけで、体の弱い若い女性に住まいと介護の仕事を紹介するつもりだったと言い張った。けれど航平は帰らなかった。叔母からの振込記録、メッセージのスクリーンショット、自分の名刺を一枚ずつテーブルに並べた。


 重い沈黙が長く続き、やがて相手は動揺し始めた。


 その会話は、後に警察が証拠として押収した。水野もまた、その内容を私に伝えてくれた。


 録音の中の声は低く抑えられていた。


「私たちは、あなたの叔母さんの指示に従っただけです。あの方は、その女性には両親も頼れる親族もいないし、体も弱いから、こちらへ連れてきても誰も深く追及しないと言っていました」


「まずは療養と住み込み介護の名目で、ここに住んでもらう。身分証は一時的にこちらで預かり、携帯も療養に専念してもらうためという理由で、こちらが管理する予定でした」


「時間が経てば、彼女はこの土地の生活と切り離せなくなる。そうなれば、出ていきたいと思っても簡単には出ていけない。その後、うちの親族と婚姻届を出してしまえば、外から見れば本人の意思で残ったように見える」


「あなたの叔母さんは、すでに紹介料を受け取っています。うまくいけば、さらに支払われることになっていました」


 航平はそれを聞いたあと、長いあいだ声を出さなかった。


 録音には、極限まで抑え込まれた彼の呼吸音だけが残っていた。


 婚約前に私が取り乱して訴えたことは、すべて本当だった。


 私は狂っていたのではない。


 助けを求めていたのだ。


 それなのに彼は、自分の手で私を突き放した。


 航平はその録音を持って東京へ戻り、まず警察へ証拠を提出した。叔母は婚姻および営利目的の誘拐未遂、脅迫、監禁計画に関わる共犯として起訴され、後に実刑判決を受けた。


 次に、彼は梨奈を訪ねた。


 彼は返済証明と弁護士からの通知書を、彼女の前に置いた。


「昔、会社に貸した金だ。元本も利息も返す」


「二度と俺の前に現れるな」


 梨奈は慌てた。


 彼女は泣きながら航平の脚にすがりついた。


「航平くん、そんなことしないで。私はこんなにあなたを愛しているのに!」


「死んだ女のために、私たち全員を壊すつもりなの?」


 航平は彼女を振りほどいた。目には一片の温度もなかった。


「壊す?」


 彼は目を伏せた。


「違う。これは償いの始まりだ」


 その後、梨奈の父親の工場は匿名で告発された。


 粉飾決算、補助金の不正受給、債務の隠蔽、ひき逃げの身代わり。古い不正が一つずつ掘り起こされた。地方銀行は融資を引き上げ、税務調査も続いた。かつて栄えていた三枝家は、ほどなく破産手続きへ追い込まれた。


 そのころ私は、すでに名前を変え、東京を離れていた。


 大学附属病院の近くに部屋を借り、治療を受けながら、オンライン翻訳で生活をつないでいた。


 病状は、想像していたよりも早く悪化した。


 最初は、指が少し震えるだけだった。


 やがて歩くと足元がふらつくようになり、食事のとき、スプーンを口元へ運ぶ前にスープが半分こぼれるようになった。言葉を話そうとしても、舌が思うように動かず、簡単な単語さえ口の中で何度も止まった。


 それでも、私は生きていた。


 航平を見ず、梨奈を見ず、誰かの責任になる必要もない。


 それだけで、心は静かだった。


 三年後。


 運命はまた、航平を私の前へ連れてきた。



 8.病院での再会


 その日、私は東京の大学附属病院にある神経内科の専門病棟で、リハビリを受けていた。


 介助者に支えられ、一歩ずつ廊下を歩いていた。病衣は体に合わないほど大きく、手足はまだわずかに震えていたが、それでも私は立っていられた。


 廊下の曲がり角から、看護師に支えられた男性がゆっくり歩いてきた。


 彼は、ひどく痩せていた。


 目の下は落ちくぼみ、顔色は青白い。看護師の話では、重度の胃出血で運ばれてきた患者らしかった。長年の飲酒と精神的な負担で、体はほとんど限界だったという。


 私たちは、すれ違った。


 その瞬間、彼が足を止めた。


 私は振り返らなかった。


 けれど、彼の声は背後から届いた。ひどく震えていた。


「……詩織?」


 その名前は、私が三年間必死で閉ざしてきた扉を開く鍵のようだった。


 私は目を閉じた。


 来るものは、いつか必ず来る。


 振り返り、できるだけ体の震えを抑え、無表情で彼を見た。


「人違いです」


 航平は駆け寄ってきた。私を抱きしめようとして、けれど半メートルほど手前で止まった。狂喜と驚愕が彼の目をよぎり、最後には何も残らなかった。


「生きていたんだ」


「本当に、生きていたんだ」


 私は背を向けて歩き出そうとした。


 けれど彼は、私の腕をつかんだ。


 次の瞬間、彼は私の手首についた入院用のリストバンドを見た。そして、病気のせいで制御できず震えている私の手も見た。


 航平は頭のいい人だった。


 その瞬間、すべての線が一本につながった。


 なぜ私は突然おかしくなったのか。なぜ自分の命を探しに行くと言ったのか。なぜ彼に憎まれてでも、東京を去ろうとしたのか。


 私が彼を愛していなかったからではない。


 彼の重荷になりたくなかったからだ。


 彼は私の手を見つめ、それから痩せた顔を見つめた。全身がその場に縫いとめられたように動かなかった。


「うっ……」


 激しい衝撃に、彼は腰を折ってえずいた。


 床に膝をつき、涙と冷や汗でぐしゃぐしゃになった彼は、私の知っている霧島航平ではなかった。


「どうして……」


「どうして言わなかったんだ」


 彼は床を叩いた。声はかすれきっていた。


「詩織、どうしてそんな残酷なことができる。どうして俺に、お前を憎ませたんだ」


 周囲の患者や看護師がこちらを見ていた。


 私はゆっくりしゃがみ、彼と視線を合わせた。


「航平」


 自分でも驚くほど、声は静かだった。


「これで分かったでしょう」


「あなたはもう、安心して離れられる」


「自分の人生を生きて。ここで深情ぶらないで」


 私は彼の手を外した。


 今度は、彼は私を止めなかった。


 ただ、私が遠ざかるとき、背後から押し殺したような泣き声が聞こえた。



 9. 私は三年前の私ではない


 退院後、私は病院の近くに小さなアパートを借りた。


 部屋は狭く、日当たりもあまりよくなかった。それでも静かだった。窓の外には銀杏並木が見え、秋になると歩道一面に葉が落ちた。


 航平はもう、私の前に現れなかった。


 ただ、自費治療用の口座には、数日おきにまとまった金額が振り込まれるようになった。振込名義の備考には、二文字だけがあった。


【返済】


 私は返さなかった。


 これは彼が私に負っているものだった。


 そして、私の命をつなぐお金でもあった。


 けれど梨奈が訪ねてくるとは、思っていなかった。


 彼女はどこから私が生きていると知ったのか、憎しみをまとって私の部屋へ押しかけてきた。三年ぶりに見る彼女は、大きく変わっていた。かつての華やかで自信に満ちた令嬢は、今では顔色が悪く、目も濁っていた。


 三枝家の工場はすでに破産し、父親も脳梗塞で入院したと聞いていた。


 彼女はそのすべてを、私のせいにしていた。


 その日、彼女は私が薬を受け取ろうとドアを開けた隙に、強引に部屋へ入ってきた。


 車椅子に座り、指が制御できず震えている私を見て、彼女は一瞬固まった。次の瞬間、悪意に満ちた笑い声を上げた。


「あはははは、綾瀬詩織!」


「死んだふりなんかして、何の意味があったの? 結局、半分死んでる怪物じゃない」


 彼女は一歩ずつ近づいてきた。目の奥には、恨みしかなかった。


「今の自分を見てみなよ。水の入ったコップすらまともに持てないんでしょう?」


「航平くんは、あなたを哀れんでるだけ。まだ愛されてるとでも思ってるの?」


 私は彼女を静かに見ていた。


 恐怖もなかった。


 怒りもなかった。


 ただ、疲れていた。


「言いたいことは、それで終わり?」


 私の声は少し不明瞭だったが、聞き取れないほどではなかった。


 梨奈の顔色が変わった。


 私は震える手を上げ、パソコンのスペースキーを押した。


 部屋に録音が流れた。


 それは、三枝家の資金繰りが詰まる前、梨奈の父親があちこちに頭を下げて借金を頼んでいた電話音声だった。続いて流れたのは、梨奈が酔った勢いで、粉飾や投資家への虚偽説明を自慢していた録音だった。


 梨奈の笑い声が止まった。


 彼女の顔は、一瞬で青ざめた。


「あなた……どうして、こんなものを持ってるの?」


 私はキーボードの端に手を置いた。


「投資家に送ったメールには、一部しか入れていなかった」


「残りは、ずっと取っておいたの」


 私はもう一つの動画を開いた。


 映像には、深夜の道路でレクサスが清掃員をはね、そのまま止まらずに走り去る様子が映っていた。ナンバーも、運転席の人物もはっきり見えた。


 梨奈だった。


「三年前のあのひき逃げ事件、身代わりになったのはあなたの従弟だったよね」


 私は彼女を見た。


「これを警察に提出したら、今の婚約者はまだあなたと結婚してくれると思う?」


 梨奈は完全に慌てた。


 彼女は叫びながら飛びかかってきて、私のパソコンを奪おうとした。


「渡して! そのパソコンを渡しなさい!」


 私は体こそ弱っていたが、準備はしていた。


 手元に置いていたリハビリ用の杖をつかみ、残っている力を振り絞って振り下ろした。


 杖は彼女の膝裏に当たった。


 梨奈は悲鳴を上げ、床に倒れ込んだ。


 私は車椅子の上から、彼女を見下ろした。


「出ていって」


「それとも、今すぐこれをあなたの婚約者と警察に送ろうか」


 梨奈は恐怖で全身をこわばらせた。


 彼女は這うようにして逃げ出した。


 ドアの外には、いつからいたのか航平が立っていた。


 彼はすべてを見ていた。


 かつて、喧嘩をしても声を荒げなかった私が、こんなにも硬く、冷たく、決然とした人間に変わっているところを。彼は何も言わず、ただ黙って脇へ退き、梨奈を通した。


 彼は私を見つめていた。目には畏れと、それよりも深い痛みがあった。


 その瞬間、彼はようやく理解したのだろう。


 彼が守るべきだった綾瀬詩織は、三年前のあの雨の夜に死んだ。


 今ここにいる私は、死地から這い戻ってきた私自身だった。



 10.遠い見守り


 梨奈を追い払ってから、私の生活は静けさを取り戻した。


 ただ、その静けさの中に、無視できない影が一つ増えた。


 航平は、沈黙のまま、私の生活の端に立つようになった。


 彼はもう私の前には現れなかった。


 それなのに、完全に離れたわけでもなかった。


 冷蔵庫は二日に一度、満たされるようになった。中には、洗って切られた有機野菜、飲み込みやすい軟らかい食事、病院の栄養士が勧める低糖質の菓子、日付ごとに小分けされた果物が入っていた。


 雨の日には、玄関先に新しい傘が置かれていた。


 病状が出て、自宅で倒れたとき、手首の緊急通報機が先に鳴った。数分後、訪問介護サービスの人と航平が一緒に駆けつけ、私を救急外来へ連れていった。


 彼は最初から最後まで、ほとんど何も言わなかった。


 受付を済ませ、支払いをし、医師に連絡を取り、私の点滴が始まるのを待つ。


 すべてが整うと、彼はまた黙って去った。


 後になって、彼が自分を緊急連絡先として登録し、近くへ引っ越してきたことを知った。


 彼はもう、私の生活に踏み込もうとはしなかった。


 ただ、必要なときだけ現れた。


 私は本当に疲れていたのかもしれない。


 あるいは、自分に残された時間が多くないと知って、もう憎む力さえ失っていたのかもしれない。


 誕生日の日、玄関先に小さなケーキが置かれていた。


 手のひらほどの大きさの、無糖のケーキだった。病人でも食べられるものだった。その横には、差出人のないカードが一枚置かれていた。


【誕生日おめでとう】


 その筆跡を、私はよく知っていた。


 ただ、昔よりも線が震えていた。


 私はケーキを手に取り、一口食べた。


 甘くなかった。


 けれど、懐かしい苦味が、舌の上にゆっくり広がった。


 その夜、彼から電話がかかってきた。


 三年ぶりに聞く、彼の声だった。


 電話の向こうからは、重い呼吸音だけが聞こえた。


 長い沈黙のあと、ようやくかすれた声が届いた。


「詩織、ごめん」


 彼はそこで一度言葉を切った。


「この三文字が、安っぽいことは分かってる」


「でも俺は、本当に、どう償えばいいのか分からない」


 私は窓の外を見た。


 向かいの建物のカーテンが、かすかに揺れた。薄暗い灯りの下に立つ人影は、影絵のように静かだった。


 私は小さく息をついた。


「航平」


 スマホを握ったまま、しばらくしてから口を開いた。


「ちゃんと生きて」


 電話の向こうで、呼吸がぴたりと止まった。


 次に聞こえてきたのは、抑え込まれた泣き声だった。


 その声は小さいのに、胸を締めつけた。


 私は電話を切り、窓の外の無数の灯りを見た。目の奥が熱かった。


 私たちの間には、生と死があった。


 病があった。


 あまりにも多くの誤解と傷があった。


 もう戻れない。


 残っているのは、遠く離れた、明日のない寄り添いだけだった。



 11.雷雨の夜


 異変が起きたのは、雷雨の夜だった。


 梨奈は完全に壊れていた。


 婚約者には破談を告げられ、三枝家の破産手続きはまだ終わらず、彼女自身も過去のひき逃げ事件で再捜査を受けていた。彼女はすべての不幸を、私のせいにした。


 その夜、雷が鳴り響いていた。


 私の部屋のブレーカーが突然落ち、周囲は真っ暗になった。


 手探りでスマホを探そうとしたとき、玄関のほうから鍵をこじ開ける音が聞こえた。


「カチリ」


 ドアが開いた。


 稲妻が夜空を裂き、玄関に立つ乱れた髪の女を照らした。


 梨奈だった。


 彼女は果物ナイフを握り、歪んだ笑みを浮かべていた。


「綾瀬詩織」


 彼女は一歩ずつ中へ入ってきた。


「死んでよ」


「あなたが死ねば、航平くんは私のところへ戻ってくる」


「あなたが死ねば、全部うまくいくの!」


 彼女は叫びながら私へ飛びかかってきた。


 私の病状はもう進んでいて、動きは鈍かった。避けることなどできなかった。稲妻の光を受けて、ナイフの先が冷たく光り、まっすぐ私の胸へ向かってきた。


「ドン!」


 再び、ドアが激しく開いた。


 大きな影が飛び込んできた。


 航平だった。


 彼は狂ったように梨奈へ突進した。けれど、ナイフを奪うにはもう遅かった。


 考える時間などなかったのだろう。


 彼は、いちばん愚かで、いちばんまっすぐな方法を選んだ。


 両腕を広げ、梨奈を強く抱きしめるようにして止め、自分の背中で私へ向かう刃を受けた。


 刃が肉へ沈む音が、暗闇の中で恐ろしいほどはっきり聞こえた。


 一度。


 二度。


 三度。


 血に染まった梨奈は、手の中のナイフを何度も航平の背中へ突き立てた。血が跳ね、私の顔にかかった。熱かった。恐ろしいほど熱かった。


「航平!」


 私の声は、雷鳴に呑まれそうだった。


 航平は低く呻いたが、それでも手を離さなかった。


 最後の力を振り絞り、梨奈を床へ押さえつけた。そして私を振り返った。


「逃げろ……」


 彼の顔は汗と血にまみれ、声はほとんど聞き取れないほどかすれていた。


「詩織、早く……逃げろ……」


 警察がようやく駆けつけた。


 梨奈は取り押さえられ、床に押しつけられてもなお、狂ったように罵声を浴びせていた。航平は血だまりの中に倒れ、床は目を刺すような赤に染まっていた。


 私は這って彼のそばへ行き、傷口を押さえようとした。


 けれど血が多すぎた。


 どうしても止まらなかった。


「航平、やめて。怖がらせないで」


 息が詰まった。


「救急車を呼んで! 早く、救急車を!」


 航平の顔は紙のように白く、口元からは血の泡があふれていた。


 それでも彼は笑った。


 その笑みは、何かをようやく手放したように淡かった。


 彼は胸元から、血に染まった書類を取り出し、私へ差し出した。


「詩織……」


「海外の最新遺伝子治療の、臨床試験の候補枠だ」


「会社を売った」


「それで、手に入れた」


 私の手は、空中で固まった。


 彼は苦しそうに私を見ていた。瞳の焦点は、少しずつぼやけていった。


「今度は……」


「お前を傷つけさせなかった」


「約束してくれ」


「ちゃんと生きるって」


 声が、だんだん小さくなっていく。


 最後に、彼の指が私の頬をそっと撫でた。


「来世では……」


「俺が先に、お前を見つける」


 手が、力なく落ちた。


 その瞬間、私の世界は完全に静まり返った。


 私は冷たくなっていく彼の体を抱きしめた。胸の中が空っぽになって、痛かった。


 三年ぶりに、私は本当の意味で泣いた。


 彼の耳元に顔を寄せた。


「航平、ありがとう」


「私はちゃんと生きる」


「あなたの命と一緒に、生きていく」



 12.もう怖くない


 一年後、私は海外で第一段階の遺伝子治療を終えた。


 治療は苦しかった。費用も、目を疑うほど高かった。


 それでも病気を完全に治せるわけではない。けれど、進行は明らかに抑えられていた。手が頻繁に震えることはなくなり、歩き方もかなり安定した。医師は、今後の治療が順調に進めば、普通の人と変わらない生活を長く続けられる可能性があると言った。


 日本へ戻った日、私は航平に会いに行った。


 彼の墓は山の上にあった。見晴らしがよく、遠くに東京のビル群が見えた。


 写真の中の彼は、まぶしいほど笑っていた。


 私の記憶に残る、深夜に半分の東京を走り回ってでも、私に温かいミルクティーを買ってきてくれた青年の顔だった。


 梨奈は殺人、殺人未遂、住居侵入などの罪で無期懲役となった。


 叔母も、誘拐未遂、脅迫、関連する罪で刑務所に入った。


 私を傷つけた人たちは、それぞれ相応の罰を受けた。


 けれど私は、少しも嬉しくなかった。


 私は墓前に白い菊を供えた。


 それから、氷少なめ、甘さ半分のミルクティーも置いた。


「航平、帰ってきたよ」


 墓石のそばに座ると、風が白菊をかすかに揺らした。


「治療は痛かった」


「でも、耐えたよ」


「あなたが、ちゃんと生きろって言ったから」


 山の風が梢を揺らし、さやさやと音を立てた。


 それは、とても小さな返事のようだった。


 私は、かつてドアの隙間に差し込んだあの紙を取り出した。


 それは、私が自分で書いた嘘だった。


 けれど、私たちの運命を最も残酷な形で言い当ててしまった。


 ライターを取り出し、その紙に火をつけた。


 炎は少しずつ紙を呑み込み、灰は風に巻かれて遠くへ流れていった。


「今度は、嘘をつかない」


 私は冷たい墓石の写真に触れた。目元が、ようやく濡れた。


「もし来世があるなら」


「今度は、もっと早く私を見つけて」


「もう二度と、私を見失わないで」


 私は立ち上がり、スカートについた埃を払った。


 雲の切れ間から陽が差した。


 山道はまだ長かった。


 私は手すりを支えに、一歩ずつ下っていく。


 もう、怖くなかった。


 かつて誰かが、自分の命を使って、私を死の淵から押し戻してくれた。


 だから私は生きていく。


 真剣に、生きていく。


 彼が歩ききれなかった分まで、一緒に歩いていく。




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