灯りの色
十二月も中旬にさしかかり、街のあちこちに電飾の線が張り巡らされた頃。睦月は生まれて初めてLyftの隣りにある百貨店に大学の講義が終わってすぐに駆け込んだ。
睦月は年内いっぱいでLyftのバイトを辞める。
フロア案内を見てまずは地下の食品売り場に向かった。
睦月がエスカレーターで地下に降りると、バターや砂糖、香ばしい醤油、たくさんの美味しそうな香りに包まれた。睦月は肺いっぱいに空気を吸い込んでから食品売り場のガラスケースをじっくりと見て歩く。
「これならバイト先に渡すのにちょうどいいかも」
睦月が立ち止まったのは老舗の菓子店のガラスケースに陳列された個包装で色とりどりなゼリーが入った箱の前だった。
苺の赤やマスカットの緑、あんずのオレンジ、ブルーベリーの濃い青など様々な色と味のゼリーに粒の大きな砂糖がついている。明るくて白い照明でガラスケースのなかのゼリーがキラキラと輝いて見えて名前の通り宝石みたいだと睦月は思った。
「これの二番目に大きい箱をください」
何人がLyftに勤めているか睦月は知らなかったので数が多めに入っている箱を選んだ。
「三十六個入りですね。包装はどうしますか?」
「お願いします」
会計を済ませて受け取った薄くて大きな箱が紙袋のなかでがさがさと音を立てた。薄い箱の見た目の割に紙袋の細い持ち手が睦月の皮膚の硬い手のひらに食い込んだ。
再び、平日の昼間なのに人が多い食品売り場をそぞろ歩く睦月の脳裏にあるひとりの顔が思い浮かんだ。バイト先によく来る静かな夜の雨みたいなひと。左雨さんに渡すならお菓子よりもきれいで役に立つものの方がいいかもしれない。睦月は上りのエスカレーターに向かった。
エスカレーターに乗った睦月が次に降り立ったのは、まばゆい光に包まれたコスメ売り場だ。綺麗に装った女性店員たちが接客する落ち着いたざわめきが聞こえる。薔薇やバニラ、粉っぽさが混じった、長居すると頭が痛くなりそうなくらい甘くて濃厚な香りが息を吸うたびに鼻を占拠する。甘い粉っぽさはLyftのコスメフロアでも感じるので、これが化粧品の匂いなのかと睦月は小さな発見をした。バイト先であるLyftのコスメフロアより六割増しくらい高級そうできらびやかに見える。化粧品のきらきら加減にはバイトで慣れたと思っていたがそうではなかったらしい。睦月の心臓が少しずつ速くなっているのを耳の奥で感じた。
睦月の足が自分は場違いじゃないかと尻込みしようとするのを叱咤して歩き始めると、一際白くてシャンデリアやディスプレイの銀色や真珠のようなきらめきが印象的な店に目が吸い寄せられた。なんとなくお姫様の部屋っぽいと睦月は思った。他の店よりも客層が若く見える。
「いらっしゃいませー」
睦月とそんなに年が離れていないように見えるにこやかな店員とばっちりと目が合ってしまった。睦月はきゅっと紙袋を持った手に力を込めて入店した。もしかしたら力を入れすぎて関節が白くなっているかもしれない。
「……あの、ハンドクリームってありますか?」
いつもより細くなってしまった声で店員に尋ねる。
「ハンドクリームはあちらと、あとはクリスマス限定のものがありましてー」
店員がにこやかに棚からキャップが透明でクリスタルのようなチューブを次々とかちゃりと音を立てながら並べていく。ハンドクリームのキャップや銀色の棚、シャンデリアから反射した光が店員の白い手に虹色の光が跳ねた。
「贈り物ですかぁ?」
高くて人懐っこそうな甘い声で店員が尋ねる。
「は、はい……お世話になったひとがネイリストをしていて」
「それなら、ネイルオイルを兼ねられるものがいいかもしれませんね」
店員が静かにいくつかのチューブを棚に戻す。どうやら睦月が選びやすいように候補を減らしてくれたらしい。
「その方の香りの好みとかわかりますか?」
店員がとことん付き合ってくれるらしいことに気づいて睦月の手から少し力が抜けた。このキラキラ空間でひとりきりで左雨に似合うものを選ぶ自信は睦月にはなかった。
「わからないんですけど、薔薇とかバニラっぽくなかったような……」
接客をした時やカフェで話した時に鼻先をくすぐった左雨の香りを思い出しながら言う。
要領を得ない睦月の睦月の証言を丁寧に拾い上げて店員はプレゼント候補を減らしていく。
「ありがとうございましたー!」
店員の多大なる協力で睦月は一本のハンドクリームを買うことができた。どうやら石鹸や白い花の香りを感じるクリスマス限定のものらしい。
秋頃からバイトが終わると三回に一回くらいの頻度で睦月と左雨はカフェで少し話をするようになっていた。
今日もカウンター席に一つ間を空けて隣同士に座り、睦月はカフェオレで左雨はエスプレッソを頼む。
頼んだコーヒーがテーブルに置かれてから睦月は緊張した面持ちで小さな白い紙袋を左雨に向かって差し出した。
「どうしたの」
「就活が始まるから、今月でバイトを辞めるんです。……その、左雨さんにはお世話になったので、気に入ってもらえるかはわかりませんが、どうぞ」
「ありがとう。開けていい?」
左雨は袋でブランドが分かった。袋と同じように白い箱からチューブを取り出してクリスタルのようなキャップを外してとろりとした質感のクリームを手に出して塗り込んでいくと、ゴールドのラメが左雨の指先で柔らかく光った。光る手を顔に近づけて香りを嗅いだあと。
「あ。これ、好きかも」
睦月はほっとしたように大きく息を吐いた。
「就活ってどっち系?」
「小学校の先生になるんです」
言われてみれば、睦月の手はピアノを弾くひとの手だと左雨は納得した。
睦月が照れたように少しはにかんで続ける。
「誰かの好きを育てる仕事」
「好きを育てる、か。たしかに最近のランドセルってすごくカラフル」
濃いコーヒーを一口飲んで左雨は続ける。
「僕のは紺だった。あの頃は黒や赤ばっかりだったな」
左雨の目が何かを思い出すように遠くを見た。
左雨のスマホが黒くてとろりとしたズボンのポケットの中で震えた。
「ごめん。電話出てくるからまた今度」
エスプレッソを飲み干して左雨は申し訳なさそうに肩をすくめて急ぎ足でカフェから出ていった。
カフェから洋書コーナーを横切って左雨は人気が無いエレベーターホールまで移動した。コーヒーの香りはもう届かない。もう少しゆっくり温かいエスプレッソとあのおとなしいうさぎのような彼との会話を楽しみたかったが、仕方がない。電話は待ってはくれない。スマホのマイクを顔に近づけると手に塗ったばかりのハンドクリームの少しパウダリーな気配がするホワイトフローラルの香りを左雨の鼻が捉えた。
「もしもし。母さん、急にどうしたの?」
「お店の場所を探してたでしょ? 私が昔から通ってる美容院があるじゃない。ほら、あなたによくマニキュアを塗ってくれたお姉さんの」
「ああ……」
名前も知らないし顔も声も思い出せない左雨の原点であるひと。
「それで?」
「彼女が地元に帰るんで店を閉めるんですって。それなら麗くんが使ってくれるとうれしいって言ってたから余計なお世話かもしれないけど、どう?」
左雨には母が普段より慎重に話しているように聞こえた。
「ありがとう。今度、あのひとに会いに行ってみる。」
「その時にうちにも寄りなさいよ。近くなのにちっとも帰ってこないんだから」
いつも通り落ち着いているがどこか軽やかなトーンに母の声が戻った。まじめな話は終わりらしい。
「はいはい」
左雨は小さく笑って通話を終わらせた。
「また今度」は来なかった。左雨がLyftに来なかったのだ。シフトのたびにそわそわしては少し落ち込む睦月をチーフや他の店員たちがからかった。
睦月は左雨とつながれる手段を持っていないことに左雨と会えなくなってから気づいた。会おうとしなくても会えて話せたからだ。もしかしなくても、バイトを辞めたらあのひとと会えなくなるかもしれない。言いようのない焦りが睦月のなかで日に日にむくむくと膨らんでいった。
睦月が最後のバイトを終えて店長に挨拶をしてお菓子を渡してからビルを出ると入り口のすぐ横に左雨が立っていた。イルミネーションに照らされて絵になっている。道行く女性が振り返るのも仕方ないと睦月は思った。
「こんなところでどうしたんですか。左雨さん」
「咲賀を待ってたんだ」
「えっ」
睦月の声が驚きと少しの嬉しさで跳ねた。
「これ」
左雨は薄い銀色のカード入れから一枚抜き取る。
「名刺?」
微笑む左雨に首を傾げながら睦月は差し出された名刺大のカードを受け取った。
「就活終わったら来て。色を塗らなくても綺麗にしてあげる」
雪のように白いカードに印刷されたグレーの文字がイルミネーションの光に照らされた。
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「はい、また」
別れ際にひらりと振られた左雨の手で金色の粒がきらめいた。あのハンドクリームを使ってくれているんだ、と睦月は今更気がついた。また、会える。さらに遅れて気づいた頬が寒さのせいだけでなく熱くなり始めた。
睦月は革の定期入れに貰ったばかりのショップカードを丁寧にしまった。このカードはきっと素敵な場所に連れて行ってくれる。そんな予感とも期待ともとれる小さな灯りが定期入れのなかに灯って定期入れとともに揺れる。睦月はいつもより優しく見えるイルミネーションを横目にLyft最寄りのターミナル駅に向かって歩き出した。




