7_母親
人間というのは不思議なもので、あんなに憂鬱で真っ暗な世界の中にいても、ちょっとした出来事とほんの数日の時間があれば、気分は憂鬱な世界から抜け出せたりする。
4日前、母との会話をきっかけに崩壊したはずの私の心は、大して仲良くなかったはずの友人の救いによって、嘘のように正常化していた。
気持ちが軽い。もちろん、今すぐにでも羽ばたけるほど軽くはないが、それでも死を考えなくてよいくらいには軽くなっていた。私は救われていた。
しかし、軽くなった心も憂鬱の原因を前にすると再び重くなる。
家に帰りつく。待ち構えていた母が雪崩のように言葉を吐きかけてくる。そんな母の言葉を右から左に流し、でも流しきれず、先ほどまでの清々しさに似た気分も少しずつイライラに浸食されるのを感じた。
「この話は、学校で話し合うように先生に頼んだから、そのときに話そ」
母の息継ぎのタイミングに私は言葉を差し込む。
「学校?どういうこと?これは家族の問題よ」
眉間に皺を寄せて母は答える。
「進路の問題でもあるよ」
私は答える。母を睨むような顔になってしまっている気がする。あぁ、本当はこんな顔したくないのにな。
「一体何が不満なの?ここまであなたは頑張ってきたじゃない。結果も十分についてきたじゃない。それなのにそんな低俗な髪にして」
この人は本当に私の気持ちが理解できていないのだろうか。怒りと呆れの感情が混ざり合う。
「したくもない勉強漬けの人生なんて送らない。そう決めたの」
「夢のために、幸せな将来のために、必要なことよ。一時の気の迷いで踏み外すなんてこと、親として私がさせないわ」
「親としてって、、、っふ」
思わず鼻で笑ってしまった。母の顔が引き攣るのが見えた。
「あなたが何万という時間をかけて積み上げたものを捨てるつもり?アキラちゃんはそんなに馬鹿ではないと思うのだけど」
「その何万の時間をもっと違うことに使えばよかったって話をしてるの。これからは自分で使い方を決めようって話を」
「まだ道半ばだからそう思うのよ。1人前の弁護士になって、やっと私の言うことを聞いてよかったって必ず思える」
「弁護士にだってならなくていい」
「今は冷静じゃないから、そう言っているだけでしょ。感情に流されて夢まで否定するなんて愚か者よ」
私は絶句する。話が通じない。ヒステリックに喚くことなく話し出したと思えば、何を言っても受け入れる気はない。
「はぁ、どこで間違えたのかしらね。やっぱり中学で低俗な人たちと絡んでいたから?そうだわ。思い返せばあのころからアキラちゃんはおかしくなった。有名な私立だからそんな低俗はいないと思って入学させたのに、アキラちゃん、ごめんねぇ。私があんな学校に入れたのがいけなかったのね」
とうとう母は泣き始めた。私の中で絶望が止まることなく広がっていく。この人は勝手に決めつけ、見当違いな部分で謝り、終いには泣き始めた。狂っている。思考回路があまりに自分の都合のいいものとなっている。
「それにね、アキラちゃん。勉強は楽しいところもあるのよ。真剣に向き合って、必死に考えて、答えを出して、それが正解であればその喜びはやりがいとなるわ」
急に話の論点がズレる。私は別に勉強自体が嫌いなのではない。難問を解いた時の充実感も理解できる。でも、そうじゃないのだ。そんなことは知ったうえで、新しい生き方を求めているのだ。
「大体ね、大学で1人暮らしして何するつもり?まさか遊び惚けるつもり?一瞬の楽しみに身を委ねて、これまで積み上げたものと、これからの未来を台無しにするなんて、益々あなたには私が必要だわ」
また話の方向性が変わる。最初はヒステリックに、次に論理的な皮を被って、そして泣きながら、今度はまたヒステリックになるための助走をしているように話すテンポがどんどん早くなって。
「とにかく、この話は学校でする。家でこれ以上話すことは何もないから」
このまま話しても母がヒステリックモードになるだけだ。私はここでの会話を諦めた。
「突き詰めて話せば、そうやってすぐに逃げる。それがあなたの考えが浅い証拠よ。ちゃんと将来のことまで深く考えている私の言うことがどうして聞けないの」
母の言葉を無視して部屋へ戻る。
夕食のときも母のズレた理論を言い聞かせられ、この話は学校で話すと一点張りの回答を返す。
お風呂の時間もリラックスなどはできずに、モヤモヤが心を満たしていく。
キクチ君が晴らしてくれた憂鬱が、また私の中に生まれ始めていた。
ベットに横になる。今日も勉強はしていない。これで3日間、全く勉強しなかったことになる。もう3日目、母が大学についてくると言い出した後から勉強をしていないので、その日の夜を含めると4日もサボるという選択肢を取っている。自分で選択したことなのに、心臓は嫌な鼓動を上げて、なかなか寝付くことができない。完全に習慣化していた行為をしていないからだろうか。それとも私の心に負い目でもあるのだろうか。
帰宅してからの母の顔を思い出す。胸が気持ち悪く煮えたぎるような、どこか後悔しているような感覚に襲われる。
あぁ、もうたくさんだ。
私は、もう、目を閉じてしまいたかった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
イワダ先生と相談室で話して2日後。金曜日の今日に話し合いは行われることとなった。
時間帯は午後4時から。進学校である我が校は午後5時までの時間割が組まれているのだが、受験生に関しては塾に通う者も多いため、7限目は自由参加となっている。
授業を終え、明日から2日間の休日だと喜びたいところではあるが、これから気の重たくなる親子面談だ。親子でもない俺が参加するのはおかしな話だが、成り行きだったとはいえ、言い出したのは俺なのだから仕方がない。それに今日でケリをつけられなければ、せっかくの土日がクルスにとっては息苦しい時間となるだろう。それはちょっと可哀想だ。
「マサムネ君」
思わず癒されてしまうような鈴の声が耳に届く。この学校で俺を"マサムネ君"呼びするのは1人だけだ。
「シラヌイさん。お疲れ」
そう言って俺は声の主のほうを見る。シラヌイ コトリ。この学校の生徒会長。セイヤの親友の1人。現実か疑うほどのお人形のような整った容姿に、小学生と言われても違和感ない小さな体。そんな小さな体からは考えられないほど行動力を持ち、我が校の誰もに知られる女の子だ。
「お疲れさま。アキちゃんはもう進路相談室に行った?」
「うん、教室にはいなかったからたぶん」
「わかった。じゃあ、アキちゃんのこと、お願いね」
「お願いと言われても、正直俺にできることは特にないんだよな」
本音を漏らす。この面談で俺が口を開くのは話し合いが破綻して、一方的な感情のぶつけ合いになったときだ。良い意味で俺が役に立つことはないだろう。
「そんなことないって言いたいところだけど、家族の問題だからね。どうしても私たちにできることは限られちゃうね」
寂しそうな瞳で彼女はそう言った。クルスとシラヌイさんは仲がいい。きっとクルスを助けたい気持ちは彼女のほうが何倍も強いであろう。
「今更だけど、俺じゃなくてシラヌイさんが話し合いに参加するべきじゃないかな」
彼女なら少なくとも俺よりは良い結果をもたらしてくれるのではないだろうか。
「確かに私のほうが適任かもしれない。だけど今回はマサムネ君にお願いしたいの。今、アキちゃんが一番頼りにしてるのは君だと思うから」
それはあまりに過大評価だ。と思いつつも、話し合いのメンバーは既に決まっていることなので、これ以上食い下がろうとはしない。
「まあ、できる範囲で頑張るよ」
俺が答えると、彼女はやたらと嬉しそうな顔でこちらを見てくる。
「え?なに、その反応…どういう感情?」
困惑して彼女に問う。
「だって、セイヤ君が言ってたから。マサムネができる範囲で頑張るって言ったときは、想像の5倍は良い成果を出してくれるって」
「はぁ、またセイヤの過大評価か。あいつ身内には過大評価し過ぎるから、あんまり当てにしないほうがいいよ」
「ふふ。わかった。想像の3倍くらいの成果を期待しとく」
からかうような口調で彼女は答える。まったく、1年半前に初めて話したときは、緊張で震え、それでも精一杯勇気を振り絞って話す女の子だったのに。高校生活で急成長した彼女は落ち着き払って、冗談まで言ってくる始末だ。
「なんだかセイヤにちょっとだけ似てきたね」
「へ?そ、そうかな…」
僅かな皮肉を込めて言ったのだが、心なしか彼女は嬉しそうだ。直接聞いたことはないけど、やっぱりセイヤのこと好きなんだろうなー。
「じゃ、もうすぐ時間だから俺行くよ」
「あ、うん。私もアキちゃんのお母様を進路相談室までご案内するから、もう行かなくちゃ」
そう言って彼女は歩いていく。別に案内なんてシラヌイさんがやることではないのだが、少しでも友人のために関わりたいのだろう。
俺もさっさと進路相談室に行って、クルス母を待ち構えるとするか。
まあ最悪、滅茶苦茶にしてでもクルス アキラが笑える未来であればそれでいい。
できる範囲で頑張るとしよう。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「お待ちしておりました。クルス アキラさんのお母様でいらっしゃいますね」
やけに丁寧な言葉を第一声で発したのは、制服に身を包んだ女子生徒だった。学生とは思えない落ち着きよう、立ち振る舞い、話し方に若干の気味悪さを覚えつつも、毅然とした態度で言葉を返す。
「ええ。私がアキラの母です。本日はよろしくお願いいたします。あなたが案内してくださるのかしら」
私のハキハキとした口調に気圧されることはなく、女子生徒は答えた。
「はい。私はアキラさんの友人、シラヌイ コトリと申します。応接室までご案内させていただきます」
そう言って彼女はゆっくりと歩き出した。私もそれに続く。
校舎内をうろつく生徒の姿は見えない。遠くに見える教室を覗くと、授業中と思われる光景があった。思い出すまでもなく、2年生まではこの時間帯も授業中であることは知っている。おかげで廊下で騒いでいる生徒もおらず、心を静に保つことができる。
「こちらになります」
3分も掛からずして目的地に到着する。
「案内ありがとうございました」
短く礼を言って応接室に入ろうとする私に女子生徒は声を掛けた。
「アキラさんは頭が良くて、優しい人です」
透き通る声で発せられたその言葉は、静かな声量に反してやけに耳に響いた。
「知っているわ」
短くそう返す。そんなことはアキラちゃんの友人というこの女子生徒よりもよく知っている。私が誰よりも理解している。
「ちゃんと目を開けて、アキちゃんのことを見てあげてください。お願いします」
小さな女子生徒は深く頭を下げる。どうやら彼女は私が私利私欲で一方的にアキラちゃんに接していると勘違いしているらしい。子供だから仕方ないとはいえ、勝手な思い込みで発言されても困りものだ。
女子生徒の言葉に返事をすることなく、私はあの子が待っている扉を叩いた。
一拍置いて「どうぞ」と声が返ってきたので、ドアノブに手を掛ける。早急に反抗期を終わらせて、あの子の夢を再開しなければ。私は短く息を吸って、扉を開けた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
応接室に入ると娘の他に2人の姿があった。
1人は学校の教師で背は低く腹が出ていた。眉が太く、鼻は四角く、顎髭を生やしている。そんな清潔感に欠ける見た目とは裏腹に、目つきだけが真剣で不思議と信頼感が湧いてくる。
1人は男子生徒だった。髪をセンターパートで整え、体系はシュッと細いが筋肉質にも見える。爽やかな好青年という見た目の中に、ほんの少しだけ幼さが残った顔をしている。
「それでは全員揃いましたので、話し合いを始めさせていただきたいと思いますが、その前に彼のことを説明させていただきます」
私が席に着いたことを確認すると、教師の男がそう話を始めた。
「今回、この場を用意するきっかけになったのが彼、キクチ マサムネ君です。キクチ君はアキラさんのクラスメイトで、アキラさんの希望もあり同席してもらいました」
名前の分かった彼はこちらに軽く頭を下げる。
「そういうことでしたのね。教師であるあなたにならまだしも、関わりの薄い彼にまで家庭の問題を聞かせるのは心苦しいわ。あなたも迷惑でしょう?」
私は彼に向けてそう問いかける。娘にとってどういう存在なのかは知らないが、家庭の問題に踏み込まれるのは不快であった。
「いえ、最終的には僕自身の判断で同席させていただいているので」
彼は短く答える。心なしかアキラちゃんは安心した様子に見え、私は考える。まさか大事な時期にまた恋人でも作ったのだろうか。どちらにせよ、きっとキクチというこの男子生徒は娘に好意を抱いており、格好をつけるためにここへ来たのだろう。子供の恋愛に付き合っている暇もないのだが、そう考えているとよりこの男子生徒に対して不快感が強まる。
「ごめんなさいね。善意で来ていただいたあなたにこんなことは言いたくないのだけれど、今日のところは帰っていただけないかしら。あなたには関係がないでしょう?」
遠回しに邪魔だと言っても伝わらなかったので、丁重にはっきりと部外者は退出するように伝える。
「申し訳ございませんが、私はもう既にアキラさんから事情を十分聞いておりまして。アキラさんに色々と助言めいたことを言ってしまった手前、関わるなら最後まで関わろうと決めております」
どうやら彼の意志は固いらしい。鬱陶しくはあるが、彼が居たところで何かあるわけでもない。さっさと本題へ移るとしよう。
「家庭のお見苦しい部分を知られていては恥ずかしいわ。ですがそのような状況なら彼の同席については承知しました。それでは先生、本題のほうをお願いいたします」
「えー、まず見ての通りアキラさんが文化祭明けから急に髪を染めてしまいまして。校則的には問題ないのですが、受験を控えているということもありますし、普段から生徒の模範となるような学校生活を送っている彼女がそういった行動に出て我々教師も驚きました。そこで事情を聞いてみたところ、進路先に関する家庭トラブルと説明を受けましたのでお母様にご足労いただいた次第です」
内容としては予想通りのものであった。娘は自分の意見を通すために第三者のいる場で話し合いをしたいのだろう。
「まずは家庭の問題で先生方にまでご迷惑をお掛けして申し訳ございません。娘からも今回の件については学校で話すの一点張りでしたので、こちらも話す準備はできております」
話す準備はできている。まだ世の中の大変さを知らない娘を説得するのは骨が折れるが、それが親の役目というものだ。
「それでは私が聞いた話を要約しますと、お母様は大学生になったアキラさんとの同居を望んでいると。しかし、アキラさんはそれを拒んでいる。そうだよね?」
教師は娘に向かって確認を取る。
「はい、私は春から親元を離れて生活したいと考えてます」
娘ははっきりと答える。
「それは何故?」
教師が理由を問う。
「母はこれまで過剰に私を保護対象として接してきました。今までは高校生までの辛抱と騙し騙しに生きてきましたが、これ以上は耐えられません。春から私も大学生です。今のままではいつまで経っても自立できません」
それが娘の言い分であった。
「ということです。お母様はこれにたい」
「あなたは弁護士を目指しているのよ。大学生から一人暮らしをしたいっていうことよね。今のあなたには厳しいわ。家事も碌にしたことないでしょうに。確かに1人で住み始めてみればいずれできるようにはなるのでしょうけど、それまでに何の時間を犠牲にするかわかっているの?司法試験というものはあなたも知っている通り簡単なものじゃないわ。普通の進学校で一番になるのとは訳が違う。それに家事ができるようになったって毎日それなりの時間を割かなければいけない。それを全部私がしてあげるわ。それに私はあなたの夢を叶えるために教材も不足なく用意するし、試験の傾向もちゃんと調べてサポートできるのよ。冷静に考えればわかるじゃない。今のあなたはあなたらしくないわ」
教師の言葉を遮り、私は娘に想いを伝える。賢い娘ならきっとわかってくれる。
「でも、それじゃあやっぱり自立できな」
「あなたが何をもって自立と言っているのかはわからないけれど、別に1人暮らしができるから自立できてるわけでもないでしょ。学生のうちは経済的な自立はできないわけだし、別に大人になっても暮らしていくための家事スキルは必要ないわ。家事なんてのは夢を叶えて経済的に余裕ができれば家政婦でも雇えばいいだけよ。それまでは私がいるわ。それに自立ってそもそも絶対にしないといけないことでもないでしょう。あなたにはお父さんもお母さんも付いているのよ。確かに人の寿命を考えれば先立つのは私たちでしょうけど、その頃にはあなたも経済的に安定しているだろうし、どうにでもなるわ」
よかった。今日は冷静に話ができている。娘と話すといつも怒鳴ってしまうから今日も不安だったけど、どうやら大丈夫みたい。
「私は自立したいって考えてる。それに今の生活は正直息苦しいよ。門限は18時で、毎日何時間も机に向かって、友達の家にお泊りもダメ、彼氏を家に上げるのもダメ、必要ない物を買うのもダメ。なんでそんな決まりがあるのか何度も説明されたけど納得できたことなんてないよ。大体、必要ないってなんでお母さんが決めるの。なんで私に何も決めさせてくれないの!」
娘らしくない。感情的に話をしている。いつもは私の考えを一つ一つ論理的に否定するような話し方なのに、今はやけに子供っぽい。
「あなたが今、夢を現実にできるだけのスペックになれたのは私のやり方のおかげでしょう。そもそも時間は有限なのよ。効率のいい使い方をしなければあっという間に取り返しがつかなくなるわ。今は夢を追いかけている最中なのだから辛いのは当然よ。でも最後にはこのやり方があなたを幸せにするのよ。あなたの幸せのためなのよ」
あれだけ説明をしたのに納得できていない娘に私は正論で返す。
「…っ。私の幸せのためって、、、全部お母さん自身のためでしょ?」
一瞬、言葉を詰まらせた娘は、怒りを嚙み潰すように呟いた。声量は小さかったが、部屋はシンと静まり返ってたので、全員の耳に言葉は届く。そして私は、そんな娘の言葉に心底呆れながら言葉を返す。
「はぁ、何を言ってるの?あなたに夢を叶えて幸せになってほしいから言ってるのよ」
アキラちゃんの幸せのためなのに。私はこんなに寄り添って、頑張っているのに。この子が14年前に言った言葉が脳をよぎる。あの時を思い出す度、私には活力が湧いてくるのだ。
「そもそも、、私は、、弁護士になりたいなんて思ってない!!」
娘の怒鳴り声が部屋に響いた。いや、それは叫びに近かったかもしれない。私は驚く。娘が怒鳴る姿を初めて見たかもしれない。
「今更何を言ってるの?あなただって子供のころから弁護士になりたいって言ってたじゃない」
『ママ、私ね、べんごしになる。ママもそれがいいんだよね!』
娘の言葉を思い出す。娘をどのように育てるか迷っていた私に決意をくれた言葉だった。
「いつの話をしているの?少なくともこの10年くらいは弁護士になりたいなんて一言も言ってない!私はお母さんの夢を叶えるために生きたくなんかない!」
その言葉に裏切られた気持ちになる。14年前のあの言葉を、娘は興奮して忘れてしまっているようだ。落ち着かせれば思い出すだろう。だってあれは私と娘の2人の夢の始まりなのだ。
「違うわ。あなたの夢よ。そして私の夢はあなたの夢を叶えることよ」
「だから私は弁護士になりたいわけじゃない!私の夢をお母さんの都合のいいように決めないで!」
「…」
娘は否定した。私との夢を。あの頃の言葉を。これまでの時間を。脳が拒む。
嘘だ。うそだ。それはだめだ。それはヒビが入る。その事実は私の失敗だらけだった人生。立て直したと思っていた母親としての人生にヒビが入る。
「今更言ったって仕方ないでしょう!私があなたのためにどれだけ苦労してるかなんて知らずに!私だってあなたが最初から弁護士になりたいなんて言わなければ別の道を選んでた!」
叫ぶ。怒鳴る。我慢できなくなった私は感情を発散させる。頭の中で小さな声が落ち着かなきゃと言っているけれど、それは私の怒鳴り声に掻き消される。
「そんな何も判別のつかない子供の頃の言葉を責められたってどうしようもないよ!あの時はこんな息苦しい毎日になるなんてわかるわけなかったんだから!」
「でももう遅いわ!ここまでやったの!あともう少しなの!もう少しで届くの!私と!あなたの!夢が!いいから黙って私の言う通りにしなさい!」
私は叫ぶ。娘も叫ぶ。あぁ、だめだ。もっと強く叫ばなくては。娘の声を掻き消せるくらいに。
だって、私はずっと見てきたのだ。14年前の光景も、夢を叶えた光景も、ずっとこの目を開けて、それだけを見てきたのだ。
だから、この夢を否定しないで。この夢だけは、この世の誰にも否定させない。
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話し合いはとっくに破綻していた。
最初はもっともらしい理屈を押し付け合う会話だったのが、もはや理屈すらも捨てて、ただ感情を吐き出す。
クルスの母親も、クルス自身も。
「一旦、落ち着いてください。まずはお互いに言い分を最後までしっかり聞きましょう」
いったい何度こう言っただろうか。私の言葉は叫び声に掻き消されるか、声が届いても落ち着きを取り戻したように見えるだけで、すぐに言葉も声も酷いものと化し、話し合いは破綻する。
そんな状況になって、どれくらい経っただろうか。3分か5分くらいか。10分は過ぎていないと思うが。
「なんで!私の人生だよ!これからは私に決めさせてよ!成功してみせるから!失敗しても全部私自身で責任取るから!」
クルスが叫ぶ。そんな彼女の魂の叫びが母親に届かないことは、この十数分で私もキクチも理解していた。
「誰があなたを生んだと思っているの!子供が責任なんて言葉を使っても何も重みがないの!いいから私の言うことを聞きなさい!子供のあなたにはわからなくても、歳を重ねればお母さんが正しかったって絶対にわかるから!」
「わからないよ!わからない…わからない!もう、私に関わらないでよ!」
「馬鹿なことを言わないで!あなたは私のものなんだから、私が死ぬまで関わり続けるのよ!」
それはとても子供が言っていい言葉ではなくて、それに対する返事もとても親が言っていいものではなかった。私は少し迷ったが、ここで声を上げようと息を吸い込む。30代半ばの男が怒鳴れば、彼女らを恐がらせてしまうかもしれないが、これ以上この親子に言ってはいけない言葉を叫ばせるわけにはいかなかった。
そうして、私が声を荒げようとした瞬間、親子の叫び声の中に一閃の声が割って入った。
「これでわかったなクルス。この人はお前を使って人生をやり直したいだけだ」
叫び合いの中で、ひたすらに冷たい声が、大きくもない声量に対して全員の耳にはっきりと届いた。
声の主はキクチ マサムネだった。
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彼女の家は貧しかった。
家には勉強机もなく、段ボールを机代わりに大して明るくない電球を照らして勉強していた。
彼女は弁護士になりたかった。憧れだった。
しかし、弁護士になるために必要な教材を揃えることも彼女にはできなかった。
バイトでお金を貯めれば教材は買えるが、勉強できる時間は減る。
中学を卒業したら働いてほしいという親のお願いを無視して高校に入った。
生まれてからずっと、彼女の世界は灰色だった。夢を叶えることで、世界に色を付けれるのだと盲目的に信じていた。
勉強した。猛勉強した。遊びに時間を割いたりしなかった。それでも彼女は平凡だった。
そこそこの偏差値の大学では妥協できず、難関と呼ばれる大学を受験した。その結果、落ちた。
結局は浪人した後、他の大学へ進んだ。何度も司法試験を受け、その度に振り落とされ、世界から存在を否定されるような感覚を味わった。
生まれてからずっと、彼女の世界は灰色だった。
あるとき、大学の教授から告白された。年齢が一回り上の男性だった。顔も性格もスペックも持ち合わせていない自分を選んでくれたことが嬉しかった。数年後、彼と結婚して娘が生まれた。
娘に幼稚園受験をさせた。娘は一番の成績を叩き出した。それでも娘に勉強を強要などしなかった。娘には娘の夢を持ってもらい、それを叶えて幸せになってほしいと願っていた。
『ママ、私ね、べんごしになる。ママもそれがいいんだよね!』
結婚した時に諦めたはずだった。しかし、娘自身がその夢を持った。欲が出てしまった。彼女は娘に夢を叶えてもらうことに決めた。
絶対に叶えられると確信があった。娘は彼女より出来が良かったから。何より、弁護士という夢を叶えるために必要なものはすべて準備してあげられるのだから。自分の時とは違って。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「これでわかったなクルス。この人はお前を使って人生をやり直したいだけだ」
混沌とした空気の中に一閃の言葉が割って入る。
「子供の意見を聞こうともしない。十数年の間、クルスが自分の意見を言えないわけだ。今日やっと本音をぶつけたら、黙って私の言うことを聞け、あなたは私のものだってさ。これできっぱり見限れるな」
つい数分前に初めて会った男子生徒は、学生に似合わない丁寧な話し方で少し気味悪さを感じていたが、その態度は一変し、軽蔑を含んだ冷たい目が私を捉えていた。
「うん。そう…だね」
"これできっぱり見限れるな"。彼のその言葉に対して、娘はそう答えた。
娘は私を見限ろうとしているのか。私を裏切ろうとしているのか。
あぁ、だめだ。娘が離れてしまう。
「待って、そうじゃないわ。私は、私が、誰よりも娘を…」
「そう思うならちゃんと見ろよ」
「どういう意味?」
彼の態度に苛立ちを覚えながらそう口にする。
「自分の子供のことくらい、ちゃんと見ろってそのままの意味です」
頭に来た。私が誰よりも娘を見てきたに決まっている。私はそれを苛立ちを隠すことなく彼に言う。
「私が誰よりも娘を見てきたに決まって…」
そう口にしながら、視界に娘の顔が映った。
泣いていた。
娘は泣いていた。いつからだ。
娘が泣く姿を最後に見たのは何年前だろうか。
娘の姿に動揺する。私自身なぜこんなにも動揺しているのかがわからない。
部屋には空白の時間が流れる。
私は確かに娘のことを見てきたはずだ。思い出す。これまで見てきた娘の姿を。毎日見ているアキラちゃんの姿を。思い出す。一つ一つ思い出す。思い出しながら泣いているアキラちゃんの顔が私の目に映った。
そして、気づいた。
一つ一つ思い出した娘の姿から、私は娘の表情を思い出すことができない。
なぜ?確かに見てきたはずなのに。
娘と目が合う。
「あ、、、」
どこから出たかわからない掠れた声を漏らして、私は気づいてしまった。
私が見ていたのは娘の形だった。
ちゃんと勉強机に向かっている姿、ちゃんと成績を伸ばし続ける姿、ちゃんと門限には家に帰ってくる姿。そんな姿は思い出せるのに、その時の娘がどんな表情だったかを思い出すことができなかった。
私は見ていなかった。夢を叶えるために必要なことをしているか、そんな娘の働きを監視しているだけであった。
唯一思い出せるのは、べんごしになりたいと言った娘の笑っている顔だけだった。
私の中で何かが渦巻いている。それを拒みたくて仕方がなかった。だけど、拒んではいけないものだと感じていた。それは、私の瞳に映っている鮮明で心地良い光景を否定するもので、でもそれは、私が見ていなかった何かを映すためものだった。
「一度、落ち着いて話を整理しましょうか。なんなら後日また場を設けてもいい」
教師の男が言った。
娘を弁護士にするために生きた十数年、弁護士になりたくないと言った娘、私はもうどうすればいいのかわからなかった。
「もういいです。もう、終わりでいいです」
そう言ったのは娘だった。
それは私が夢を諦めた時に出た声と同じ音だった。
「俺ももう終わりでいいと思う。正直、こんな親との話し合いなんて不快なだけだ。でも、クルス、これはお前がスッキリするための話し合いだ。まだ何か本音が残ってるなら、それを吐いて終わりにしよう。醜い罵倒でもなんでもいい」
泣いていることを隠すように下を向いていた娘は、彼の言葉で顔を上げる。
娘は瞳を震わせながら、何かを考えている。
「私は、でも、こんなの、矛盾してる…」
「別に矛盾しててもいい。人の心なんて矛盾ばっかだ」
娘の弱弱しい声にそう答えたのは教師の男だった。その言葉を聞いて、娘は残っている本音を吐き出し始める。
「…私は、別に弁護士になりたいわけじゃない。お母さんからも解放されたいと思ってる。…でも、」
娘は言葉を躊躇った。私は震える。夢を否定し、私からの解放を望む娘から、どんな言葉が吐き出されるのか見当もつかない。それが酷く恐ろしい。今の心が乱れた私ではとても耐えられないかもしれない。
「でも」
言葉を躊躇い、何秒経ったのかもわからない時間が過ぎて、娘は言葉を紡いだ。
「お母さんにも幸せになってほしいと思ってる」
理解が追い付かなくて、でも心はパッと晴れるように光が差したように感じた。
「だから、やっぱり夢を叶えてあげたほうがいいんじゃないかって、思ってる自分もいる」
散々、夢を否定し、解放を望み、最後に吐き出した娘の本音は、そんな言葉だった。
その言葉を聞いて、恥ずかしながら初めて気づいた。
『ママ、私ね、べんごしになる。ママもそれがいいんだよね!』
あの言葉は娘自身が望んだからこそ出た言葉だと思っていた。私がそうだったから。誰に言われるでもなく、私自身が弁護士になりたいとそう望んでいた。娘も同じだと、ずっとそう思っていた。
違ったのだ。娘のあの言葉は、母親に幸せになってもらうために言った言葉だったのだ。
ーーー。
ずっと、、、私の独りよがりの夢だったのか。
私は娘の夢を本気で応援する良き母親のつもりだった。しかし、実際はそう思い込みながら自分の叶えられなかった夢を娘に背負わせる醜い存在であった。
何故気づけなかったのだろう。
あぁ、そうか。
きっと、人生で初めて成功してしまったからだ。
夫ができて、娘ができて、初めて成功と呼べる人生を歩めていると思った。灰色だった世界に、初めて色が塗られた。
だからこそ失敗だった過去を払拭したかった。その手段が娘に私の夢を叶えてもらうことだった。娘も私のように弁護士になりたいのだと勘違いしてしまったとき、私は盲目になった。都合の悪いものは見えなくなった。娘の辛そうな顔を見ないように目を閉じた。
どうすればいいのだろう。唯一の成功だと思っていた母親としての人生すらも、失敗だった私はどうすればいいのだろう。
わからない。また失敗するかもしれない。失敗だらけの人生で、失敗しかしてこなかったとすら言える人生で、これ以上何かをするのはとても恐い。
…それでも、それでも娘に言わなければいけない。何を言えばいい?
目を開けた私は。
「アキラちゃん、、、ごめんなさい」
まずそう口にする。そのまま言葉を続ける。考えながら、拙く、言葉を続ける。
「私、ずっとあなたのためにって。…いいえ、違うわね。アキラちゃんの言う通り、確かに私は叶えられなかった夢を、あなたが叶えてくれることを望んでいた。アキラちゃんのためにって綺麗ごとを自分に言い聞かせて。本当は逆だったのね」
言葉にしながら考えて、考えながら言葉にして、ようやく私は真実に辿り着く。
「アキラちゃんが私のために頑張ってくれてたのね」
気づけなかった。娘がこれまで私のために頑張ってくれていたことに。気づけなかったのは私自身が娘のために生きているんだと思い込みたかったからだ。
だって、だって自分以外の人に夢を託すのは楽で、酷く救われた気持ちになるから。
たどたどしく言葉を続ける。それが自身の本音なのかもわからないまま。それでも今言わなければ、私はこの子の母親ではなくなってしまうから。
「もう、大丈夫よ。弁護士、ならなくていいわ。今まで押し付けてごめんなさい」
頭を下げた。自分の娘に。深く、深く頭を下げた。
不思議と、恥だとは思わなかった。
「…お母さん」
私は頭を上げて娘の顔を見る。泣いて腫れた娘の目には、動揺と警戒と喜びが混ざっている気がした。
「想い、伝わったみたいだな。もう弁護士にはならなくていいとのことだが、君はどうする?」
教師が娘に問いかける。
娘はじっと考えて、ゆっくりと答えた。
「私は、わかんないけど、とりあえず残りの高校生活を楽しんで、大学に行って、自分のやりたいことを探します」
その答えに未だ残念がる自分がいるのに嫌気を感じつつも、今はそれよりも本当の意味で娘の幸せを考えなければと思えた。
浅くなっていた呼吸を整えて、できる限りの穏やかな笑顔を浮かべたつもりの顔で、私は答える。
「ええ、それでいいわ。これからは、アキラちゃんの意思を尊重するわ」
自分がそう言えたことにほっとする。
「うん、ありがと。あと、弁護士もなりたいわけじゃないけど、なりたくないって程でもないから。お母さんの厳しいルールが嫌だっただけで。それに、勉強ができる子に育ててくれたおかげで、私にはなれる職業の選択肢がたくさんあるわけだから、そこは感謝してる」
唇が震えるのを感じる。目が潤み、前がよく見えなくなる。
あれだけ娘に息苦しい思いをさせたのに、感謝の言葉を聞かされるなんて思いもしなかった。優しい子に育ってくれたのだと気づく。
いや、この子は最初から優しかった。母親の幸せのために弁護士を将来の夢に選んでくれるくらい、優しかったのだ。そんなことも知らずに、優しい我が子を苦しめ続けた。これ以上の大罪があるだろうか。
今日は気づいてばかりだ。思えば、娘はいつも私を傷つけないように言葉を選んでいた。私が大学に行っても一緒に住むと言ったときも、こういう理由で一緒に住む必要はないとやんわりと否定していた。私が酷い言葉を投げかけた後も、言い返さず耐えるように黙っていた。
つくづく母親失格だ。それでも、娘の反面教師にくらいはなれただろうか。
気づけば先程まで私の中で渦巻いていた何かは体を巡り、私の盲目的な世界を壊し、本当の娘の姿を見せていた。
ずっと目を開けたつもりになっていた私は、都合の良い世界を狂信する盲目でしかなかった。これからは、その盲目を失ったこの目で見ていかなければならない。娘の今と未来を。
失敗だらけの人生。夢を叶えられず、娘を不幸にした。そんな私にも、まだ残っているものがある。
失敗は成功の母と言うが、それは失敗を糧にできる子がいてこその言葉だろう。私もこれからは、失敗を糧に生きていくことができるだろうか。
私にまだ残っている、大切な家族の幸せのために。
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…あれー?なんでこうなった?ちょっと展開が予想外すぎたのだが。
俺は目の前で泣くクルスの母親と、泣き終わったクルスを見ながらそんなことを思っていた。
俺の計画ではクルスの不満を全部ぶちまけさせて、それに母親がキレ散らかして、絶交という形できっぱりと離れ離れになるのだと思っていた。それがどうしてハートフルは展開に落ち着いてしまったのか。
いや、いいんだけどね。問題が解決した上で、みんなが幸せなのが一番だからね。
それにしてもクルスがここまでいい子だったとは。学校でもいい子として認識されている彼女だが、どこか演じているようにも見え、正直なところ腹黒系の女子だと思っていた。どうやら本当にただのいい子であったらしい。
クルスの母親にしても、聞いた話と厳しそうな顔つきから、娘を道具としか思ってない人間なのだろうと決めつけていたが、娘を大切に思う気持ちはちゃんと持ち合わせているらしい。ついでに今回協力してくれたイワダ先生も、頼りにならなさそうとか思ってたけどいい感じに話を進めてくれた。
もしかしなくても俺って人を正しく評価できない奴なんじゃないか。
あと、こうなってくると俺の役立たず感が強い。親子の縁を綺麗に断ち切ってやろうとか思っていた手前、今の親子愛に満ちた空間が超気まずい。
親子が落ち着いてきて、穏やかな空気感で会話を始めたタイミングでひっそりと廊下に出る。
3分ほどボケーっと不思議な余韻に浸っていると、応接室からクルスの母親が出てきた。
「あら、まだいらっしゃったのね。先程は失礼な態度をとってしまってごめんなさい」
掛けられたのは謝罪の言葉だった。
正直、俺もかなり失礼な態度をとってしまったので、先に謝られて精神的に敗北感を感じる。
「こちらこそ失礼な態度をとってしまいました。申し訳ございません」
ちゃんと謝る。これが大人の対応なのだ。知らんけど。
「いいえ。あなたの言った言葉は正しかったわ。間違えていたのは私だもの。キクチ君だったかしら。娘と真剣に向き合ってくれてありがとう。今日、私が悔い改めることができたのはあなたのおかげだわ」
同級生の母親に感謝されてしまった。本当は縁を切らせるつもりだった後ろめたさもあり、感謝の言葉が胸にチクチクとダメージを与える。
「違いますよ。俺がいてもいなくてもクルスは…じゃなくてアキラさんはちゃんと今回のように和解できたと思います。優しい人ですから」
正直な感想をクルス母に返す。
「そうね。とっても優しくて、私の自慢の子よ。私も自慢の親とまでは行かずとも、親として恥ずかしくないと思われるように精進するわ。今日は本当にありがとう」
最後に頭を下げてクスル母は去っていった。きっとあの人の人生はこれからなのだろう。
「人は歳を重ねるほど変わるのが難しくなる。でも、どんなに歳を重ねようが変わることはちゃんとできる。変われたのなら、そこからまたリスタートだ」
いつの間にか後ろにいたイワダ先生がそんなことを言う。いい年齢のおっさんがくさいセリフを言って恥ずかしくないのかと内心思いつつも、似たようなことを考えていたので少し恥ずかしい。
「この着地点でよかったんですよね?」
俺は先生にそう尋ねた。
「わからん。それがわかるのはこれから次第だ。私たちにできることはもうないに等しい。ここからは本当にあの親子の問題だ」
きっぱりと先生は答える。その通りだと思った。話はまとまったように感じていたが、実際はこれから細かいことまで親子で話し合っていくのだ。今回の着地点が正しかったかなんて考えるだけ無駄だ。今回の着地点が正しかったと、この先で思えるように生きていくしかないのだ。
「じゃあ、俺は職員室に戻る。クルスのことちゃんと見といてやれよ」
そう言って先生も去っていった。
応接室からクルスが出てくるのを待っていたが、しばらくしても出てこないので俺は再び応接室に入る。
「なんで出てこないんだよお前」
ソファーにぐたーっと寄りかかっている彼女に対してそう言葉を投げる。
「え?ああ、ごめん。ちょっと考え事してた」
「これからどう母親と付き合っていくかか?」
「いや、それは別にそんなに」
違うのかよ。あれだけ母親とのことで悩んでて、なんで考え事の内容がそれじゃないんだよ。
「キクチ君。ありがとね」
「何に対してのお礼?」
「色々含めて全部に対してだけど、強いて言うならお母さんに残ってる本音全部出せって言ったくれたこと。こうなるとわかってて言ってくれたんでしょ?」
全然違う。俺が残ってる本音を吐き出せって言ったのは親子を絶交させるためだ。というか残ってる本音が母親に幸せになってほしいという気持ちだなんて全く想像してなかった。
「いやー、どうだろうなー。そこまではわかってなかったと思うぞ」
彼女の見当違いの感謝が俺の良心を抉る。本当の狙いなど言えるはずもなく、ぼやかしながら答える。
「でも、私はキクチ君のおかげで救われたよ」
いつもはどこか荒んでいるように見える彼女の目がやたらとキラキラしているように感じる。
「あのさ、キクチ君」
立ち上がり俺との距離を詰めた彼女は言葉を切り出す。
「私、キクチ君のこと好きだと思う。今度は本当に」
俺の顔を見上げながら彼女はそう告げてくる。
「まさか、さっきの考え事って…」
「うん。キクチ君のこと考えてた」
思考の巡りが一気に悪くなる。なんと答えればよいのか言葉が出てこない。
「それで、どう?私とお付き合いしてくれる?」
「…あー、えーと、、、ごめん。クルスのこと恋愛対象として見てこなかったから」
なんとか言葉を捻りだし、彼女を振る選択をする。
しかし、彼女は立ち上がり、グイっと俺の胸元まで距離を詰めた。
「これから恋愛対象として見てくれればいいから」
そう言って彼女は応接室の扉のほうに向かう。
「じゃあ、また明日!私、簡単に諦めるつもりないから!」
そんな言葉を残し、彼女は去っていった。
その時の彼女の顔は赤く染められており、初めて見るクルス アキラの恋する乙女の顔だった。
まじかよ。




