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19_美しい世界を知った

茜色の光が世界を飲み込もうとし、飲み込み切れなかった東の空が藍色へと変わり始めている。

遠くの住宅街にはポツポツと灯りが増えていく。

ここから見える西の空はまだ明るいのに、視線を下にやれば薄暗いせいでたくさんいる人々の姿もよく見えない。

そうやって上へと変わり続ける光景を窓越しに眺めてから、正面に目をやって思わず呟いた。


「この状況、ちょっとおかしくない?」

僕にそう声を掛けられた彼女は、キョトンとした顔をした後にいつもの調子で反論した。


「仕方ないじゃん。私だって本当はセイヤと乗りたかったけど、今はコウと話してるんだから」

彼女の反論はその通りではあるのだが、だからといってこのシチュエーションの説明になるかと言われれば別だ。


「僕が言いたいのは、なぜナガさんと2人きりで観覧車に乗っているのかという点だよ」

お互いに恋人がいる身。どころかその恋人たちも遊園地にいる状況で僕とナガさんの組み合わせが成立していることが問題だ。


「別にいいじゃん。観覧車乗りたかったし。メリーゴーランドはちょっと恥ずかしかったし」

そう言って彼女は視線を下に向ける。僕も同じ場所を見ると、メルヘンなメリーゴーランドが回っているのが見える。小さなお子さんが大半を占めるそのアトラクションには、今頃リホとクルス、シラヌイさんが乗っているところだろう。ここからでは顔が見えないが、きっとクルスはウンザリした顔で、シラヌイさんは恥ずかしさと困った顔を含みながらも楽しんでいることだろう。もちろんリホが満面の笑みで楽しんでいることは疑いようもない。


「別に大人が乗ってるのを見てもなんとも思わないけど、いざ自分が乗ってると周りの視線が気になるんだよな」

この高校生活で幾度と付き合わされた僕の経験談を語る。


「私も2年前は平気だったけど、白馬に跨ってるときに年下であろう女子高生と目が合って以来、なんか恥ずかしくなっちゃった」

これが大人になるということか。だとしたら僕の恋人、全然大人になれそうにないな。


「話戻すけど、仮にもお互いに恋人がいる2人で観覧車に乗ってていいの?」

「私とキクチの仲じゃん」

「なぜか思った以上に親密度が高い…」

そんな僕の反応に彼女はムッとする。


「私の全部を受け止めるって言ってくれたじゃん。まさか忘れたの?」

怒ったような顔で、でも最後は少し不安そうな顔でそう言われて僕も弱る。


「それは確かに言ったし、気持ちは変わらないけど…」

彼女が逃げ出した日。見つけ出した彼女と教室で話した時間を思い出す。僕にとっても彼女にとっても大切な時間であったことは確かだけど、恥ずかしいことを言ったし、泣き顔まで見せたので思い返すとむず痒い。


「そうでしょ!キクチのこと頼りにしてるし、頼りにされたいんだから!観覧車くらい一緒に乗ってよ」

僕のあの日の言葉の肯定に満足そうな笑みを浮かべる彼女。憎まれ口を叩き合う関係性で、実際に今日もじゃれ合うように憎まれ口を叩き合っていたが、以前とは明らかに距離感が異なる。物理的な距離感は変わらないが、心の距離感がグッと近づいている。


「セイヤが嫉妬するんじゃない?」

「セイヤが嫉妬してくれるなんて嬉しい」

とろんとした顔をしている彼女を見て、これはダメだと諦める。


「でもキクチとなら2人きりでどこ行ってもいいって許可貰ってるよ」

「何その変な許可…」

「むー、何よ。キクチとはいつでも遊んだり相談したりできるように、わざわざ付き合い始めてすぐセイヤにお願いしたのに」

頬を膨らませる彼女を見て、僕への異常な好感度の高さに再度戸惑う。


「まあ、そう思ってくれたのは嬉しいかな」

素直な気持ちを伝えるのは恥ずかしかったが、彼女は伝えてくれるのに自分は伝えないというのはよくないと思った。


「えへへ」

彼女は僕の言葉に膨らませていた頬を一瞬で緩ませる。くそ、可愛いな。何年も威嚇してきた猫がようやく心を開いて甘えてきたみたいな感覚だ。


「それに私だってセイヤに許可出してるんだよ。リホとアキラならいつでも2人きりで遊んでいいって」

僕の知らないところで、僕の彼女が他の男と遊びに行く許可が出ていた。いや、まあ別にいいんだけどさ。正直セイヤに限らず、誰と2人で遊びに行こうが気にしない。彼女の選択を尊重するし、それを含めて愛する意志はある。


「さすがにシラヌイさんは許可出なかったか」

セイヤにとって、特に親しい異性の友人はリホとシラヌイさんだ。


「セイヤは浮気しないし、相手に恋人がいる以上はコトリもアタックしないとは確信してるけど。…けど、今の私ではそこまで心を広くできないかな」

その言葉に含まれるのは自己嫌悪の意味合いが大きいように見えた。


「それでいいんじゃないかな。いくら善人感が溢れるシラヌイさんでも、セイヤに好意を向けていた相手だし。2人きりにしたくないってのは当然だと思うよ」

「うぅ。ありがとう。自分でもそんなおかしなことは言ってないと思ってるけど、私の周りって優しすぎる人ばかりだから。自分のちょっとした嫌なところが際立つ…」

確かにセイヤとかシラヌイさんとか、根本的に優しくて善人という言葉が似合う存在は普通はそうそういない。


「無理に2人みたいにならないでいいと思うけどな。優しくなくても、他に良いなって思うところがあって魅力的な人はたくさんいるし」

優しくないし、善し悪しで言えば明らかに悪なのに、なぜか憎めなくて好感を抱く相手というのはそれなりにいる。


「まあ、そうだね。無理はよくない。でも、私が皆みたいに優しくなりたいって思ってるから、これから頑張ってみる!」

「…。ナガさんは凄いね」

彼女の意志に対して、心からそう言った。自覚があって、改善しなくても別に生きていけて、自分より酷い人もたくさんいて、そんな中でより善く在ろうとするのは、簡単そうで難しく、短そうでとてつもなく長い道のりだ。その道のりを進もうとする彼女を心から尊敬する。


「そう思えたのはキクチのおかげだよ。それまでは目を背けて不貞腐れることしかできなかった」

彼女の大きな目がキラキラと輝いていて、真っ直ぐと僕の姿を捉えている。


「あの日、教室で話してくれてありがとう。背中を押してくれてありがとう」

活舌の良い発音が、はっきりと僕の耳に届く。


「本当に本当にありがとう。大好き!」

とても真っ直ぐで、とても純粋で、とても心地の良い感謝の言葉だった。


人を愛そうと生きていくこの先、きっと何度も躓くことがあるだろう。


愛とは、例え相手がどんな態度を取ろうと、どんな反応をしようと、心からの思いやりと信念を持って、相手に与えようとし続けるものだとわかっている。


それでも、親切にしたのに冷たい態度を取られたり、優しさを無下にされたり、踏み込んだ結果傷つけてしまったり、そんなことがある度に折れそうになるだろう。投げ出したくなるだろう。


僕がこれから歩む困難かつ美しい道のりで、彼女から貰った感謝の言葉は必ず力になってくれるものだと確信した。


「こちらこそ、ありがとう。ナガさんと今こうして話せて、本当に良かった」

本当に良かった。本当に良かった。本当にそう思う。この感謝の気持ちができるだけ彼女に届いていればいいなと思う。


いつの間にか観覧車は頂上を通過しており、外の景色がゆっくりと下へと戻っていく。


リホと初めて観覧車に乗った日も、こんな色の夕焼けが輝いていた。

あれから色々あった。色々あって、当時は1つ1つがとても大きな出来事に思えていたけど、こうして思い返してみると全てが小さな出来事だったような気がする。とても大切で儚い、小さな出来事だったような気がする。


体も大きくなった。人間関係にも変化があった。周囲の環境も変わっていった。

だけど、今もこの世界を照らす夕日の色は、あの頃と変わらず綺麗なんだなと思った。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


4月1日。

段ボールが並び殺風景になった部屋を見る。段ボールの数が多いが、その半分以上は本だ。

最後の段ボールに思い出の品を入れていく。もともと整理整頓が特技の私は、分類別に用意した段ボールへと荷物を丁寧に収めていく。

思い出の品を入れる段ボールは1箱では足りず、3箱目の段ボールももうすぐ埋まりそうだ。


数年前の私が聞けばとても驚くことだろう。思い出の品なんて段ボール1箱どころか、トートバッグを満たすこともできないはずだった。

それが友人や後輩達から貰ったプレゼントで溢れている。その1つ1つを見るたびに、プレゼントしてくれた人たちとの時間を思い出し、心の温かさで涙が零れそうになる。

それらも段ボールに詰め終わり、残るは2つの写真立てだ。


1つは卒業式の日、学年問わずとにかくみんなでぎゅうぎゅうに集まって撮った集合写真だ。全員が笑顔だが、誰よりも笑みを浮かべているのは私だった。その大切な宝物を丁寧に段ボールへと入れる。


もう1つの写真は遊園地で撮影されたものだ。6人の友人に並んで、ここでも私は満面の笑みを浮かべている。そして6人の友人も負けず劣らずの笑みを浮かべていた。感傷に浸っても涙を流すことまではなかったのに、とうとう1粒の涙が頬を伝ってしまった。


悲しいのではない。寂しいのでもない。それは本心のはずなのに、悲しいし寂しいという感情が浮かび上がる。

戻ることはできない。独りで俯いていたあの頃にも、全力で青春に励んでいたあの頃にも、もう戻ることはできない。


それでも、それが正しくて、そうあるべきだと、そうあってほしいと思うのだ。

やり残したことも後悔もたくさんある。だけど、やり直したいなんて思わない。

私は前に進みたい。私は前に進み続ける。


1つだけ我儘を許してもらえるなら、その歩みの中で、今みたいに軌跡を振り返って1粒の涙を流すことは許してほしい。


そうして、1粒の涙を流し終えた私は、宝物を丁寧に箱へ入れて、最後の段ボールを封をする。


半日かかったその作業の終了に、達成感とほんの少しの喪失感を感じながら伸びをした。


ピロンとスマホから音がした。画面を除くと短い文面と1枚の写真が添えられていた。


『ハワイなう!』

写真には私では恥ずかしくて着れない露出度の水着を纏ったアキちゃんが映っている。そのピースしているアキちゃんの後ろには、これまた露出度の高い水着を着た彼女の母親が映っている。

よくあんな水着を着れるなぁという感想は胸に閉まって、仲睦まじい親子の姿に頬が緩んだ。


写真が少しブレているのを見ると、彼女の父親が慣れないながらも撮影したのかもしれない。

薄いブラウンのサングラスをかけたアキちゃんの目から、楽しいという感情が十分に伝わってくる。

真っ黒のサングラスをかけた彼女の母親も、目は見えないがその表情から喜びが読み取れた。


半年前。マサムネ君とイワダ先生、そして何よりアキちゃん自身が頑張って築いたその関係性に感慨深くなる。

人生にはいくつもの分岐点がある。アキちゃんにとってはあの話し合いの日がそうだった。もしかするとマサムネ君がアキちゃんを助けようと決めたタイミングのほうが重要な分岐点だったのかもしれない。


少し逸れるだけで、大きく変わってしまう。私なんて特にそうだ。あの日、あの図書館でセイヤ君に出会ってなかったら、そう考えると恐ろしい。

でも、恐ろしいと同時に思うのだ。もしあそこで出会わなくても、神様は、もしくは世界はチャンスを与えてくれたのではないだろうかと。

例えばセイヤ君が私に声を掛けない世界線だったとしても、高校生活のどこかのタイミングでリホちゃんなんかがしつこく声を掛けてくれたのではないだろうか。じっと下を向いて言葉を返さない私に、それでも声を掛け続けてくれたのではないだろうか。

そんなもしもの話は永遠にわからないだろうけれど、明確に人生の分岐点だったと言えるあの日さえ、最後のチャンスというわけではなかったと今は思う。


この先も分岐点はやってくる。何度も何度もやってくる。

その度に最善を選ぶことなどできないけれど、一生懸命考えて、一生懸命頑張って、前へと進んでいきたいと思う。


私の部屋から見える空。ハワイにいる彼女の空ともつながっている青さを見て、私はまた歩き出した。

歩き出して、立ち止まって、振り返って、お世話になった部屋に頭を下げて、また前へと歩き出した。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


そこまで広い部屋ではないが、1人暮らしであれば十分な広さ。2人でも住めるが、そうなると手狭感は否めない。

もっとも、現時点で2人で住む予定はないし、どうしても手狭ならば引っ越せばよい。

そんな感想を抱きつつ、ようやく荷解きが終了した部屋を眺める。


「晩御飯どうしよっか?」

半日かけて荷解きを手伝ってもらったが、まだまだ元気そうな彼女にそう問いかけられた。


「食べたいものある?」

「うーん、ピザかなぁ」

こういうとき何でもいいと彼女は言わない。直観で浮かんだ食べ物を答えてくれる。


「じゃあ、買い出しに行こっか」

「まさかの作る気だった!?」

どんなピザを作ろうか悩んでいる俺に、彼女からのツッコみが入る。


「出前とかでもいいんじゃない?今日は疲れたでしょ?」

確かに今日は早朝から出発し、昼過ぎに到着してから今まで荷解きに時間を使っていた。つい4日前に引っ越し作業を終えた彼女は、3駅離れた新居から手伝いに来てくれた次第だ。


「近くのスーパーがどんな感じが見ておきたいと思って。それに手伝ってくれたアイに料理を振る舞いたい」

自分の料理の腕が高いとは思わないが、家に父しかいなかったので料理はしてきた。平均点くらいは出せるはずだ。


「それじゃあお願いしよっかな」

頬の緩みきった彼女の言葉にやる気が出てくる。


「でも、私も料理できるようにならないとだよね」

「アイが作ってくれるお弁当、美味しかったよ」

悩みを呟く彼女にそう伝える。高校2年生の終わり頃、少しの間だけ彼女がお弁当を作っていた時期があった。


「でもママにもリホにも不評だったしなー。不味くはないけど、味が雑で45点くらいだって。美味しいって言ってくれたのパパとセイヤだけだよ」

彼女は項垂れるように嘆く。


「もっと練習しようと思ってたけど。受験勉強もあって全然時間取れなかったし」

「これから上達していくよ。1人暮らしも始まったことだしね」

料理以外にも彼女にはやりたいこと、やってみたいことがたくさんあるだろう。彼女のペースでゆっくり上達していけばいい。


「ピザ、一緒に作る?」

荷解きを手伝ってくれたお礼なので、ピザ作りまで手伝わせるのはどうかと思いつつも提案してみる。


「作る!」

そんな心配も彼女の嬉しそうな賛同で掻き消される。名案と言わんばかりにやる気が漲り出した彼女の姿に思わず口元が緩む。


交際を始めて半月。引っ越しやら入学手続きやら卒業旅行やらを挟んで忙しかったのにも関わらず、既に5回以上のデートをしている。

もっとも、デート自体は付き合う前から似たようなことを散々していたので、新鮮味という意味ではそこまで変化はない。

彼女からの好意を示す言葉も前々から掛けられていたので、そこも変化はない。

明確な変化と言えば、俺から彼女に対して恋愛の意味合いでの好意を伝えるようになったことだ。これについても、恋愛の意味合い以外での好意なら前々から彼女に伝えていたので、変化としては小さく感じられた。


そんな中でわかりやすく最も変化したことは、隣を歩くときに手を繋いだり腕を組んだりすることだ。

人前で手を繋ぐのが恥ずかしいなんて女々しい気持ちもあるのだが、全くもってそんなことは気にしない彼女の積極性にいつも引っ張られている形だ。


そのような距離感になった2人なので、買い出しのため近所のスーパーに向かっている今も腕を組んで歩いている。俺の腕に彼女がしがみついているという表現のほうが、この光景を見た人が抱く感想に近いかもしれない。

遠出した観光地などの知った顔がいない場所なら気にしないが、これから知った顔が増える場所でいきなりイチャイチャしている姿を目撃されるのは恥ずかしく。どこかソワソワする。


隣で鼻歌を唄う彼女が目に入る。綺麗に施されたメイクによって美しい女性を作り上げた顔。その美しい女性の見た目の中に、玩具を買ってもらった子供のように上機嫌な様子が可愛らしさを覗かせる。

その姿に体温が熱くなり、鼓動が加速するのを感じる。


感じるが、これが盲目的な恋ではないと言い切ることはできなかった。

人は恋をしてしまう。その時点で見える景色は変わってしまう。それを俺は盲目と評していた。

盲目を嫌っていた理由は、盲目が終わったときにそれまでの感情も言葉も全てが嘘だった、もしくは間違いだったというように扱われてしまうことだった。

母が父に対してそうだったように。友人たちがそうだったように。

だから恐かった。

アイが俺に対してそうなってしまったら。何より、俺がアイに対してそうなってしまったら。


今、俺と彼女の気持ちは同じだ。好きで大好きで愛している。お互いに共通した想いだと思っている。

だけど、人は変わるから、環境は変わるから。これだけ想い合っている俺たちもいつかは想いが変わってしまうかもしれない。

心がそうはならないと宣言しているけれど、そうなる可能性は誰にでもあるのだと頭は言い放つ。


だから俺は受け入れる。これだけ好意を伝えてくれる彼女の気持ちが変わる可能性を。これだけ魂が好きだと断言している彼女への想いが変わる可能性を。


それでも、それでもだ。今、この瞬間、彼女を好きで、大好きで、愛しているという事実は、彼女が俺を好きで、大好きで、愛しているという事実だけは、変わらないのだと心でも頭でも思えた。

ようやく、そう思えた。


未来は誰にもわからない。

この先、俺とアイは離れるべきと思えてしまう時期が来るかもしれない。マサムネやリホですらそんな状況に変化するかもしれない。。

その結果、離れてしまうにせよ、一緒にいることを選択するにせよ、真剣に向き合って、言葉を重ねて、相手の心を感じようとして、決断しなければならない。

だからその時が来てもそうできるように、今この瞬間も、真剣に向き合って、言葉を重ねて、相手の心を感じようとして、愛することに努めようと強く思った。


「アイ」

俺は何度も呼んできた彼女の名前を口にする。


「いつもありがとう。好きだよ」

そして、これからも何度も伝えるであろう言葉を口にした。


「私も!」

咲いた花が世界での誕生を喜ぶような、心からの言葉が俺の耳に届いた。


何も特別ではない日々を送ってきた俺たちは、何も特別ではない今日を一緒に歩いた。

肩を並べて一緒に歩いた。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


すっかり春になった。

朝方は肌寒いが、昼になると暖かい。むしろ暑い。

そんな気候になろうとも私の生活に変化が生まれるわけではない。


大学3年生。もう華のキャンパスライフも半分が過ぎてしまったのかと思いつつも、あと2年で終わってしまう事実は正直そこまでショックでもない。それは早く社会人になりたいとか、そういう考えがあるからでもない。まあ、ぶっちゃけどっちでもいいのだ。学生には学生の良いところ悪いところ、社会人には社会人の良いところ悪いところがある。


だから私は小学生から中学生になるときも、中学生から高校生になるときも、高校生から大学生になるときも、特別何か想うわけでもなくすんなりと環境の変化を受け入れた。


とまあ、私の話はいい。先程も言ったとおり、私の最近の変化は大学2年生から大学3年生になっただけであり、何1つ感想は出てこない。

この春から環境が変わるのは弟のほうだ。

私の弟、つまりはアサガオ家の長男にして、アサガオ家の末っ子。整った顔立ちは家族全員に言えることだが、性格面に一長一短ある女性陣と違い、うちの男性陣は万人受けするような性格をしている。

簡単に言えば優しく穏やかなイケメンなのだ。我儘な私にとって、私よりも我儘な姉たちにとっても、そんな末っ子は可愛い存在である。


その弟がいよいよ3日後には実家を飛び出し、遠く離れた地へと巣立っていく。

代わりに2番目の姉が実家に帰ってくるそうだが、アサガオ家の誰も望んでいないそのお話については今は関係ないので割愛する。


現在の時刻は17時過ぎ。まだ夕方だというのに彼女とのデートから帰ってきた弟は引っ越しの準備を始めたらしい。持っていく物、置いていく物、捨てる物を整理しているようなので、邪魔してあげようと思い部屋の扉を開ける。


「手伝いに来たよー」

そんな私の声を聞く前から弟は嫌な顔をした。


「そんな顔するなよ~。嫌だと思っても態度に出す子じゃなかったでしょ~」

「俺は嫌な時はちゃんと嫌って表現することにしたの」

半月前、遊園地から帰ってきた弟に変化があった。長女は変化の原因は女だろうと決めつけていたが、実際は弟が抱えていた悩みの解決を友人たちが手助けしてくれたようだ。


弟の悩みが模範的な人生を送っていることへの苦しみだったことは予想の範囲内だった。前々から弟が悩んでいることは知っていたし、その理由もいくつか候補はあった。そのうちの1つがまさにビンゴだったわけだが、私も確信したのは2週間前にセイヤと話をした時だ。遊園地で何があったのかをセイヤは言わなかったが、いくつかカマをかけて質問したら断片的に情報を得られたので、弟の悩みは特定できた。


前々から弟の悩みが何かをある程度までは推測できていた私だが、仮に悩みの内容を確信していたとしても私にできることは何もなかっただろう。私でも家族の誰かでも弟のペルソナを破壊することはできなかったと確信がある。まあ、仮にペルソナを破壊できるとしても私は何もしなかったのだが。弟がどんな人生を歩むのかは、私が大きくに関わるよりも少し離れて見ているほうが面白い。


「あんなに素直で良い子だったのに。やっぱり歳を取るってよくないね」

だから私が弟とする話は基本的にくだらない内容だけだ。


「素直だったというより、従順だったのほうが合ってるんじゃない?」

「気付いてしまったかー。もうコンビニにアイス買いに行ってくれるコウはいないのか」

「暇してたらそれくらいは全然行くけど。今は見ての通り引っ越しの準備をしてるから。邪魔しないで」

良い子であるため、あとは面倒な姉との衝突を避けるために従順だった弟はもういないみたいだ。弟が成長してくれたみたいで嬉しい。でも言うこと聞いてくれなくなったのは悲しい。


「邪魔しないから話に付き合ってよ」

私はへらへら笑いながら部屋の椅子に腰を下ろした。


「最初の手伝いに来た宣言はやっぱり嘘だったんだ。話してたら作業効率落ちるけど、まあいいや」

賢い弟は追い出すより話をするほうが楽だと判断したらしい。


「話って?」

「人生の先輩としての話題だよ。つまりは恋バナだよ」

「人生の先輩なら大学生としての心得とかのほうが良かったな」

「初のキャンパスライフ、初見の楽しみを奪うなんて真似はしないよ」

そんな軽口を叩きながら、軽口の口調のまま話に入る。


「なんで別れた女の子をもう1度選んだの?」

軽口の口調のまま言ったにも関わらず、部屋にはピリッとした空気が蔓延する。


「ヒメカワ カオリさんのことだよ。私は情報通だからね、もちろん知ってるよ」

弟は警戒を顔に出す。別に2人の関係をどうこうしようなんて気はないのだがね。


「まさか彼女のこと好きなの?」

私がしたかった質問はこれだ。まず間違いなく弟はヒメカワ カオリに恋愛感情を抱いていない。なので弟が質問に対してどう答えるのか興味があった。嘘をつくか、はぐらかすか、正直に答えるか。


「今は好きじゃない。これから好きになるために一緒にいる。彼女にもその旨は伝えているよ」

その返答につい口角が上がってしまう。


「恋って、しようと思ってできるものなの?それはヒメカワ カオリを好きになるって自分に言い聞かせているだけじゃないの?」

さあ、何と答える。と、弟に好奇の眼差しを向ける。


「大抵の人はしようと思わなくても恋に落ちるんだと思う。でも少なくとも俺は、相手を好きになろうって意志のもと、恋愛をすると決めた」

偉く真面目な回答が返ってくる。弟は当り障りないことばかり言って生きていくのだろうと思っていたので、自我を出すようになってくれて私は喜ばしい。弟の友人たちには感謝だ。


「その結果、恋にならなかったとしても?」

弟は何を考え、どう生きていこうと思っているのか。それを知っておきたかった。私はこれから先も弟の人生を少し離れた位置から見物していくので、今の理想と未来の結果とでどんな結論に至るのか興味があった。


「それでも、好きになる努力をする。仮に恋はできなかったとしても、愛することができるようになりたいと思ってる」

立派な答えが返ってきた。恋よりも愛するに重きを置く。大学生どころか社会人でもその考えを持っていない人は多いというのに、これはこれは立派で未来の結果が楽しみだ。


「でもそれって、誰でもよかったってことじゃないの?コウの目的はヒメカワ カオリを愛することで、そしてできれば恋もすることみたいだけど、それは彼女じゃなくてもよかったんじゃない?」

今の会話とセイヤから聞き出した断片的な情報から、弟がやりたいことは愛することであるという答えに結び付いた。きっとこれまで表面的にしか人と関わって来なかった彼だから、芯の部分で人と関わりたいと思っているのだ。その手段が愛することなのだ。


したがって弟の目指す生き方は愛することで心からのつながりを持つことであり、それはヒメカワ カオリである必要はないと私は結論付けた。


「はぁ、だからお姉ちゃんとこの話題はしたくなかったんだ。お姉ちゃんの言う通りだよ。きっとそれはカオリでなくたっていい。極論を言えば誰でもいい。俺は尊敬する友人たちの姿を見て、彼らに話を聞いてもらって、人を愛することを目標にしたいと思ったんだ」

それが正直者の弟の答え。愛するは手段であり目標にすべきものではないのだが、愚弟はまだそこまで見えてはいないらしい。もちろん私から教えたりはしない。


「それでも、その誰でもいい中から俺はカオリを選んだ。だから誰に何を言われようと、これからも彼女とお互いを知っていこうと思う」

愚かではあるが今出せる答えを言い切った姿は男らしくて実に私好みだ。今はそれで十分だ。


「どうせ別れるよ」

最後にそう忠告する。これについては弟が何と返事するのかわかっているが、私から話を振ったのだからちゃんと弟の口から聞いておこうと思った。


「そうかもしれない。でも、お互いのことをしっかり考えて、ちゃんと向き合って、その結果別れるのであればそれは無意味ではないと信じているから」

そう言い放つ真剣な顔には弟でなければ惚れているところだ。


「そっか。外野から口出しして悪かったね。応援してるよ。本当に」

そう、応援している。私は本当にそう思っている。

せっかくの1度しかない人生だ。見てみたいではないか。ドラマや映画では幾度と語られ、現実で目にすることができるのかわからない本当の愛だとか永遠の愛だとかを。


「邪魔したね。手が止まってるよ」

すっかり引っ越しの準備が停滞している弟にそう言って私は部屋を去る。


「一応、ありがとう。言葉にしてみて俺も頭の中を整理できた」

私の背中にそう告げる弟の対して微笑を浮かべながら自分の部屋に戻る。


父は上手く生きることを選んだ。愛想がよく、コミュニケーション能力に長け、4人の子供たちを何不自由なく育て上げた偉大な存在だ。さぞかし立派で私を含め多くの人から感謝と尊敬をされる存在だと思う。そして、物語にしてしまえば面白味がないので私好みではない。


母は幸福者だ。整った容姿もそうだが、何より己を偽らずとも素の状態で多くの人から愛されてしまうような性格は天性のものだ。有望な男性と結婚し、子宝にも恵まれ、味見をして周るように趣味を楽しんでいる。人より苦労を知らず、生まれ持った幸運と生きる中での幸運を堪能する。何も悪事を働かず、それ故に裁かれず、傷つかず、幸せを噛みしめて生きてきた。これも物語にしてしまうと面白味に欠けて退屈だ。だから私は母の人生を羨ましいとは思ったことがない。


姉たちの人生は面白い。

いつも事件の中心にいて、最後は己の力量のみで結果を勝ち取る長女。

ふらふらと生き、トラブルに巻き込まれてはトラブルを拡大させ、最後は美味しいところを持っていく次女。

だが、この2人の人生は奇天烈で面白くはあるが、当人たちの葛藤などが大してなく、深みがない。


そして弟だ。

それなりのギフテッドを持って生まれ落ち、環境にも恵まれ、理想とも言える生き方を遂行してきた。

にも拘わらず当人は苦しみ、もがき、絶望していた。

これが凡人ならば早々に折れて諦めて開き直り、天才であれば周りからの疎外に苦しみながらも個としての生き方を確立する。しかし、中途半端に優秀な弟はそのどちらにも転ばない。転べない。

そういう意味では弟は不幸だ。もっと才がなければ苦しみに耐えようとしなかった。もっと才があれば苦しみを割り切れた。環境が恵まれていなければ苦しんでいる暇などなかった。

そんな人生だからこそ私は価値を感じる。興味をそそられる。


そう考えて、これからの弟の行く末に期待する。父にも、母にも、恐い姉にも、怖い姉にも、そして私自身にも期待していないが、弟ならば期待できる。

凡人と呼ぶには優秀で、非凡と呼ぶには物足りない、そんな人間の足掻くような人生でしか生まれない価値があるのだと信じていた。

人を愛することに人生を捧げ、愛した先に言葉では言い表せない何かがあるのであれば。

名作と呼ばれる小説の文字を、全米を泣かせた映画の映像を、世界から称賛された歌姫の歌声を超える何かに辿り着けたのであれば。

世界も捨てたものではないなと思う。


それどころか、その世界はきっと。


そこまで考えてやめる。この先の言葉を埋める資格があるのは、自らの意志でそれを掴み取った者だけだから。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


時が過ぎていく。

当たり前のように時間は進んでいく。

どんなに強く願っても時は戻ってはくれない。

どんなに研究を進めても時は止まってくれない。

どんなに速く走ったって時は加速してくれない。

そんな当たり前の話。


不平等なことばかりのこの世界で、時間だけは平等に流れ続ける。

いつの時代に生まれるのかを選ぶこともできないが、生まれた時代の中では平等な時の流れを生き続けられる。


なぜ生命は存在するのか。

ある人は神が大いなる目的のために創造したと言う。

ある人は意味などないと断言する。

ある人は自ら意味を見出すのだと公言する。

ある人は遺伝子を繋いでいくためだと語る。

正解なんてわからないし、考えるだけ無駄だというのが正論な気もする。

少なくとも自分にはその答えはわからないし、他の誰にもわからないのだと個人的には思っている。


でも、思うのだ。

広大な宇宙で、計り知れない時の中で、同じ場所で同じ時に一緒に存在するというのは神秘的なことなのではないかと。

北極に現れるオーロラのように、空を映し出した湖のように、雨上がりの虹のように、意味などないのかもしれないが神秘的で心惹かれるそんな光景と同様に、同じ場所で同じ時を一緒に存在するのは神秘的で心惹かれるものなのではないだろうか。


だから自分が存在する理由なんて考えない。ただ同じ場所で同じ時に一緒に存在する生命たちを愛そうと思う。

神秘的な光景に直面した時のように、忘れないように心に刻んで、ありのままの全てを受け止めることに努めようと思う。


そんな格好付けた思想を恥ずかしいとは思わない。

もしこの世界に意味など何一つないのだとしたら、意味がないなりに美しく在りたいと願うから。


ずっと薄っすらとだけ目を開けて世界を見ていた。

目を開けた結果、見えるものが絶望の類なのかもしれないと想像したら恐かったから。

目を閉ざしてしまうことも避けていた。暗闇と向き合うのは恐かったから。


そんな臆病さを抱えたまま、ゆっくりと目を開けた。

そして、僕らは―――。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


桜は散って、若々しい葉を纏って、緑色を深めて、徐々に枯れて、裸になって、また蕾が芽吹く。

そうして何度目かの春風が僕の頬を撫でた。


目の前には薄いピンク色の花びらが広がっていて、風に吹かれてはゆらゆらと踊る。足元に視線を落としても、薄いピンク色が世界と溶け込むように春を創っている。


そんな満開の桜が散り始めた今日、出会ってまだ数年のその人が隣を歩いている。

出店で購入した3色のお団子を幸せそうに頬張っている。


「晴れてよかったね」

彼女の言葉を聞いて空を見上げる。予報では小雨だったが、空の半分は薄い雲に覆われていて、残り半分から水で薄めたような青色を覗かせている。


「気温も丁度良いね。暖かくて風は涼しい」

眠たくなってしまうような世界に包まれて歩みを進める。


「それにしてもこんな良い花見スポットがあったなんて。来年は皆でここに来ようよ」

相変わらず2つ結びのその髪を揺らしながら彼女は言った。


「集まるのは大変なんじゃないかな。空港からも遠いし、新幹線も通ってないから、来るまでに時間かかるよ」

僕のごもっともな回答に彼女の顔が不満気になったのがわかった。


「まあ、それでも集まれるといいね。きっといい思い出になる」

そんな彼女の機嫌を取るように口から出た言葉は、意外にも嘘偽りではなく本心からの言葉だった。


「だよね!難しいかもしれないけど、提案はしてみようよ」

彼女の言葉に同意してから、次の話題に移る。


「それにしても1年あっという間だったね」

「初めての大学生。色々あったのに、思い返してみれば一瞬だった…なんだか私、年々時間の経過が早く感じるよ」

「それが歳を取るってことなんだろうね」

「うぅ…悲しい」

僕らが高校生ではなくなって1年が経った。一緒にいた皆はそれぞれの場所で新しい生活を送っている。


「私たち遠距離恋愛になって1年経つけど、意外と問題ないね」

「遠距離って程でもないけどね。電車で片道2時間。今日みたいに中間地点で合えば1時間で会えるし」

「むー、すーぐそうやって茶々入れるんだから」

先程までお団子を食べて緩んでいた口元がぷくっと膨らんでいる。


「気軽には会えないでしょ。本当はもっとどうでもいい用事で話したいときたくさんあるんだから」

ここで電話で話せばいいじゃんなんて言ったらどういうことになるか未来が見えているので、そうだねと相槌を返した。


「大学入りたての頃は月に2回会うくらいになっちゃうかなって思ってたけど、なんだかんだ月5回くらいは会えてるからよかったよ」そう言いながら月5回会っているカップルが遠距離なのかという疑問が再び浮かんでくるが、余計なことを言わないように今は忘れよう。


「本当よかったよ。マー君に月1回くらいは会おうねって言われたとき、少ないなって内心思ってたもん」

「内心じゃなかったよ。僕がそう言った瞬間、少ねぇよって言われたよ」

1年前の彼女とのやり取りを思い出す。自然と会わなくなって破局というパターンを避けるために発言したのだが、彼女は月1回会えば十分という風に捉えられてしまったらしい。


「まあ、マー君はなんだかんだ口答えしつつも会いに来てくれるからいいんだけど」

自ら惚気て勝手に上機嫌になっていく彼女に可愛らしさを感じつつも、僕が口答えするっていう部分は余計だなと思う。


「そういえばセイヤとナガさんは順調そう?」

話題を変える。2人とは年始に会ったきりだが、リホならナガさんと頻繁に連絡を取っていることだろう。


「あー、先週セイヤと2人でドライブ行った時には、アイと一緒に住むことになりそうって言ってたし、ラブラブなんじゃない?」

恋人が他の男とドライブデートしてたという新情報を聞きながらも、そこにはツッコまず話題を続ける。この2人が恋仲になることはないと思ってるし、僕もナガさんと3回くらい2人だけで遊びに行ってるので人のことは言えない。


「へー、同棲始めるんだ。親友たちがラブラブのようでよかったよ」

「いいよねー、同棲。私たちもする?」

「大学まで2時間も掛けて行きたくないよ」

「私の住んでるほうに来てくれる前提なんだ。マー君のそういうとこ好き。でも、例えばこの辺に住めばお互いに大学まで1時間の距離にはなるよ」

「大学まで1時間も掛けて行きたくないよ」

「マー君のそういうとこよくないと思うよ」

そんな軽口の結果、同棲は却下となる。


「どうせ一緒に住むことになるんだし、今は今の距離感を楽しもうよ」

「…今のプロポーズ?」

「…今のプロポーズみたいだったな。ごめん、そんなつもりはなかったけど、でもそういう風に思ってるよ」

少し頬を赤らめた彼女が僕の回答に機嫌を良くしたのがわかった。僕の恥ずかしさを代償に恋人の機嫌が取れたのなら良しとしよう。


「他の皆はどうしてるか知ってる?」

「知ってるけど…マー君皆のこと知らなすぎじゃない?もっと細目に連絡取ればいいのに」

「僕だってコウの近況は知ってるよ」

「それは同じ大学で同じ学部なんだから当然でしょ」

彼女の指摘にぐうの音も出ない。僕だって数カ月に1回はセイヤやクルスと連絡は取っているのだが、週単位で連絡を取っているリホからすれば怠っているらしい。ちなみにナガさんからは月1回以上は連絡が来るので、僕にしては連絡頻度の多い相手だ。まあ、先程聞いた同棲の話は初耳だったが。


「それで他の皆はどんな感じなの?」

「コトリちゃんは夏から留学だって」

予想通りまず初めに出てくるのはシラヌイさんの名前だった。リホ曰く、一番一緒にいたいのは僕で、一番大切なのはナガさんで、一番親しみを覚えているのはセイヤで、一番好きなのはシラヌイさんらしい。高校1年生からの付き合いの僕らを差し置いて、好きな人ランキング1位がシラヌイさんなあたり僕の恋人は薄情だなと思う。


「へー、留学かぁ。どこに行くの?」

「アフリカの、、えっと、、国名は忘れちゃった」

「アフリカ…凄いね。いや、凄いのかどうかもよくわからないけど」

僕の通う大学にも留学先がアメリカとかヨーロッパとか台湾とかあるらしいが、アフリカ方面はなかった気がする。高校生の頃から躍進が凄かったシラヌイさんだが、今度は世界へと羽ばたくようだ。


「じゃあ、留学に行っちゃう前に会いたいね」

「だよね!絶対に近々会いに行こうと思ってたの!」

彼女はワクワクを顔に滲ませている。


「シラヌイさんのところまで、電車と新幹線を乗り継いで行って4時間弱ってところか」

「旅行がてら一緒に行こうよ。私、コトリちゃんの家に泊まりたいし」

「それ、僕は独りでホテル泊ってこと?」

「当たり前じゃん。男の子が恋人以外の女の子と同じ屋根の下で一夜を明かしていいわけないでしょ」

「はい、そうですね。僕がナガさんと同じ屋根の下で一夜を明かしたときもそういう反応をしてほしかったな」

去年の秋、ナガさんが僕のところまで観光がてら遊びに来て、運悪く豪雨で帰れなくなったことがあった。仕方ないので僕の家に泊めたのだが、セイヤとリホがあまりにもあっさり許可を出したので複雑な気分だったのを思い出す。


「だってマー君とアイとじゃ絶対に何も起きないじゃん。どうせ明け方までゲラゲラ笑いながら一緒にゲームとかしてたんでしょ」

そんな雑な反応をされるが、恋人からの信頼という意味合いで受け止めることにする。まあ、実際ゲラゲラ笑いながらゲームしてただけなんだが。


「でもその理論だとシラヌイさんの家にも泊っていいのでは。何も起こらないよ。リホもいるわけだし」

「それは、、、私がコトリちゃんを独り占めできないじゃん」

完全に私情だった。この子、シラヌイさんのこと好きすぎるだろ。


「シラヌイさん大丈夫かな。僕よりもリホと2人きりというほうが心配になってきた」

「…だ、大丈夫だよ」

そう言うリホの目が血走っているように見えるが、きっと気のせいだろう。


ちなみに僕はシラヌイさんとは連絡を取っていない。リホと会う度、シラヌイさんの最新情報を聞かされるし、僕の最新情報もリホを経由してシラヌイさんの耳に届いている。


「まあ、シラヌイさんには遊びに行こうと思ってるって連絡してみるよ」

「私から連絡するから、マー君は連絡しなくて大丈夫だよ」

「…はい、じゃあよろしく」

久しぶりに連絡を取るチャンスだと思い一応言ってみたが、リホによって即ブロックされた。


「クルスは相変わらず?」

「うん、めっちゃキャンパスライフをエンジョイしてるみたい。この前なんてナイトプール行ったらしいよ」

「ナイトプール?それ大丈夫なの?悪い男に絡まれたりしてないよね?」

「お父さんみたいな心配するじゃん。そこまで知らないけど、男の影もねえってぼやいてたから大丈夫なんじゃない?ていうか、恋人いるのに他の女の子の心配するのはどうなのかな」

心配で思わず質問攻めした僕に、リホはムッとした表情でそう主張する。


「いや、クルスはしっかりしてそうで、実際は全然しっかりしてないから心配で…」

「むむ。それは反論できない」

クルスに聞かれたら怒られそうな会話してるな。


「でも皆で初詣行ったときにアキラがマー君に言ってたこと覚えてる?彼氏がああいうこと言っちゃう女の子の心配してるのは、彼女的にはジェラシーなわけなんだよ」

つい数か月前の初詣を思い出す。化粧も上手くなり、ファッションにも気合が入り、より綺麗になったクルスの第一声。


『今さら私と付き合いたいなんて言っても遅いからね。まあ、どうしてもって言うなら考えなくもないけど』


隣にリホがいるのに、というより隣にリホがいるからこその発言なのだろうが、嫌な汗が出たのを覚えている。僕は愛想笑いするしかなく、リホはシャーっと威嚇していた。その反応をクルスは愉快そうに見ていた。


「まあ、クルスのことは大切だけど、一緒にいたい相手として選んだのはリホなんだ。だから安心して」

「本当に?あの日の屋上で、好きとまでは行かずとも琴線に触れる部分はあったってアキラに言ってたのに?」

「おい、盗み聞きしてた内容を持ち出してくるのはズルいぞ」

変な汗が出ちゃったじゃないか。


「でも真面目な話、クルスに魅力を感じたのは本当だよ。それを踏まえてなお、もっと知って一緒にいたいって思ったのはリホだったんだ」

平気で嘘をつける僕だが、これは大切なことなので本心で伝えた。それを彼女がどう受け取るかわからないが、これは嘘偽りなく伝えると決めている内容だ。


「うん、わかってる。意地悪なこと言ってごめんね」

僅かに頬を赤らめた彼女が真剣な声音で答えた。


「まあ、それでもちょびっとだけ嫉妬しちゃうから、その気持ちはわかってほしい」

「うん、そうだね。僕も心配させないように頑張るよ」

人は嫉妬してしまうものだ。嫉妬しないように心掛ければ済むような簡単な問題ではない。それを理解し、ちゃんと配慮したいと思う。


「でも、私もマー君にはアキラと友達としてこれからも関わってほしい」

「うん、そのつもりだよ。だけどリホが心配してしまうようなことはしないようにする」

そう言って一旦会話に区切りが付く。その間も暖かな気温と涼しい風は変わらず心地良かった。


「アサガオ君はどんな感じ?」

30秒ほど無言が続いてから、リホが次の話題を切り出した。


「特に変わらずだけど…あ、ヒメカワさんがうちの大学に入ってくる」

ヒメカワさん。コウの恋人。高校時代に付き合って数カ月で破局したが、卒業後に再び交際を始めた相手だ。


「おお、それはおめでたいね。同じ大学内に恋人がいるのは羨ましいな」

リホはそんな感想を言って、言葉を続ける。


「2人は上手くいってそう?」

ほんの少し心配を含んだ声音で問われる。コウがどういう心境でヒメカワさんと付き合っているのか、ほんの少しではあるが僕も彼女も聞かされている。


「上手くはいってると思う。といっても外野の僕からじゃ実際のところはわからないけどね」

僕はそのまま言葉を続ける。


「強いて言うなら、少し特別な関係に見えるかな。これまでコウが恋人といるのを遠目に見てたときの感想は、まさに恋人だなって感じだった。だけどヒメカワさんといるときのコウは、あまり恋人っぽくは見えない。だけど仲が悪いって雰囲気でもなくて、2人だけの絆があるように僕には見えた」

話しながら思い出す。2人にはぎこちないながらもお互いに歩み寄ろうとするような暖かい空気感があった。


「そうなんだ。それはきっといいことだね。…って言いたいけど、正直なところわからないよね。何が正解かなんて」

リホはゆらゆらと落ちる桜を見ながら答える。


「でも、もしも正解じゃないとしても、私はアサガオ君を肯定したいって思っちゃう」

彼女が微笑んでこちらを見る。僕は彼女の言葉に頷き返した。


「今度コウとヒメカワさんと一緒に遊びに行こう。きっと楽しいよ」

そんな言葉を返した。なぜか今の彼らと一緒の時間を共有したいと思った。

関係性というのは良くも悪くも少しずつ変わっていく。だからこそ今の彼らと関わりたいと思ったのかもしれない。


「うん、きっと楽しいよ」

リホも僕と同じ声音でそう答えた。


そんな話をしているうちに花見ルートを一周してしまった。この後はカフェでゆっくりとしてから夕食に行くつもりだ。


「夕食、何にしようか?」

2人で肩を並べて桜並木を歩きながら、僕は彼女に尋ねる。


「うーん、迷うね」

きっと彼女の頭の中にはたくさんの料理で埋め尽くされている。


「和食、洋食、中華、何がいい?」

やや効率厨の僕は絞り込みを開始する。


「ハンバーグ、エビチリ、醤油ラーメン、お好み焼き、クリームパスタ、お野菜たっぷりのお鍋…」

頭に浮かんだ料理を呟く彼女。どうやら絞り込みには時間を要しそうだ。


「この前行った定食屋さんも美味しかったね」

「あー、それもいい!」

ふと思いついたお店を言うと、さらに彼女は悩んでしまった。


悩み始めた彼女は口先を尖らせ鼻に近づけている。

彼女の癖。何を食べるか悩んでいるときについ出てしまう癖。


盲目の恋をしていた頃の僕は、その癖に愛おしさを感じていた。

盲目の恋から覚めた頃の僕は、その癖をみっともないと感じていた。


そして今は、特に何も思わない。愛おしいとも、みっともないとも思わない。

ただその姿に、いつものリホだとほんの少し安心感を覚えるような気もする。


盲目の頃の僕と、盲目から覚めた頃の僕と、今の僕。どれが良いかなんてわからない。どれが良いにせよ、僕はそんな彼女の隣をこれからも歩きたいと思う。


「よし!決めた!ハンバーグだ!あっ、でもやっぱり天ぷらも捨て難い」

独りで盛り上がっている彼女に思わず笑ってしまう。


「ハンバーグにしよう。僕も今日はハンバーグの気分。次回は天ぷらだね」

笑いながら答える僕に彼女は言う。


「わかった!よし、じゃあハンバーグだ!ふふ、楽しみっ」

いつもながらにご機嫌な彼女は歯を出して笑っている。


並びの悪いその歯には矯正用のブラケットが取り付けられている。彼女は一生懸命バイトして貯めたお金で歯の矯正を始めた。

気にしなくていいのにと伝えたら、高校時代に彼女の歯並びのことで嫌味を言ってブチ切れられたエピソードを掘り返され、当時の失言に再度謝罪する羽目になった。


思い返せば彼女の歯並びについても、愛おしいと思う時期とみっともないと思う時期があった。内心だとしてもみっともないと思うのは酷い話だと思うが、それについては反省。

そして今は、やはり特に何も思わなかった。別に彼女の歯並びの悪さを見て愛おしいともみっともないとも思わない。

だから彼女に掛けた気にしなくていいという言葉は本心だった。もちろん矯正すると決めた彼女の意思も尊重する。


カワイ リホという存在を構成する要素の些細なところまで目につき、身勝手にも良し悪しを決めていたあの頃。

今は相手のありのままを受け止めようと努めることができて、少しは大人になれているのだと思えた。


桜並木を抜け、コンクリートばかりの世界に添えられた街路樹の横を通る。

街の音が聞こえる。人の声、木々が揺れる音、車の騒音、烏の鳴き声。その中に彼女の声音が混じって、心地良い感覚に満たされる。

信号機で立ち止まって、彼女の笑った顔を見て、少し目を閉じて、ゆっくりと目を開いた。

空が、街が、揺れる木々が、擦れ違う人々が、隣にいる彼女が、見えた。

その光景に心から思った。この世界は―――。



この2年後――




僕とリホは―――。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


桜並木を歩く。

2年前、初めてマー君と訪れた場所だ。

1年前、皆で集まってお花見をした場所だ。

思い出が色褪せながらもキラキラと輝いて、アルバムの写真を眺めるように感傷に浸る。

そして今も私は、同じ桜並木を大好きなマー君と歩いている。


大学生活も残り1年となった。無事に就職できればだけど。

色々なことがあった。嬉しいことや楽しいことだけじゃない。悲しいことや一生の後悔になるようなこともたくさんあった。

それでも今の私はこの桜並木を歩いている。彼と一緒に歩いている。


彼と何でもないような雑談を交わしながら歩いていく。

ふと手を差し伸べられ、その手を取って隣を歩く。


すぐに余計な事を一言を言っちゃう彼。

直してほしいと思いながらも、そんな彼らしさが無くなったらそれはそれで寂しい気もする。


なんだかんだ言いながら始めた同棲も1年になる。出会ってまだ10年にも満たない私たちは随分と距離を縮めた。そう思うと少し不思議な感じだ。


1年後、私はどうしているだろうか。

社会人として働き始めれば当然環境は変わる。そんな環境の変化があっても、またこの桜並木を彼と歩けるだろうか。


彼と目が合う。その目を見て大丈夫だと確信する。


だってあなたの目が。

あなたの声が。

あなたの表情が。

いつも私に伝えてくれるから。


「私たち、これからも一緒に歩いていけると思う?」

大丈夫だと確信した上で、言葉にしてほしくて、そう問うた。


「先のことはわからないよ。でも今は、これからも一緒に歩いていけると思う」

やっぱり余計な一言を添えてから、私の欲しい言葉を彼は言った。


彼の言う通りだ。私たちはこれからも一緒にこの世界を歩いていける。


だって、あなたは私を。そこまで考えて、一旦止めた。

その続きを彼が言おうとしてくれたから。


出会って6年。意外にも伝えられるのは初めての言葉。そして、伝えるのも初めての言葉。


「僕はリホを」


「私はマー君を」




「「愛している」」




目を開けた私たちは、美しい世界を知った。

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