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18_踏み込み方

「コウの様子がおかしい気がする」

セイヤが僕にだけ聞こえる声でそう言った。


「…いつも通りに見えたけど。…でも僕も少しだけ、違和感は感じたな」

彼は極めていつも通りだった。だからどこに違和感を覚えたのかは自分でもよくわからない。けれど違和感をセイヤも感じているのであれば、向き合わなければならない。


人と向き合い、ありのままを受け止め、愛する。とても険しく、しかしそう在りたいと決めた生き方。その意志を貫くように心が動いたのを感じた。


「セイヤは何でおかしいと思ったの?」

「立ち振る舞いはいつも通りだった。でもその前に悩みがあるって相談してきた」

「悩み?」

「ああ、内容は当たり障りのないものだったし、コウ自身も雑談半分みたいに話していたけど、なんかそこで…。ごめん、上手く説明できないけど、なんかそこで違和感を覚えた」

別に彼が悩みを相談すること自体は珍しくない。雑談半分というのであれば、むしろよくある話だ。だけどよくある雑談交じりの相談でセイヤが違和感を感じたことこそが、今行動する理由に成り得る。


「悩みの内容から何かヒントは?」

「ない。もし本当にコウに深刻な悩みがあるとすれば、さっき俺に話した内容は本質と掠りもしないものだったと思う。意図的に本質から外れた内容を話していたようにも感じる」

「わかった。後でコウと話してみ…」

「…どうした?」

急に黙った僕に対してセイヤが声を掛ける。僕自身、なぜ黙ってしまったのかわからないでいる。ただ、何かを感じたのだ。警告のような何かを。


「今から、コウのところに行ってくる」

僕はセイヤにそう伝える。


「今からか?すぐに戻ってくると思うぞ?手洗いに行っただけだし…」

彼が言うことはもっともだ。実際にコウはすぐに戻ってくると確信があった。だけど…。


「なんでかわからないけど、今すぐ行かないと間に合わない気がする。…今すぐ話さないと、死ぬその時までコウが抱えている何かを聞けない気がする」

理屈はなく、言うのであれば勘でしかない。


「わかった。じゃあ、俺と一緒に…」

そんな僕の根拠のない言葉にセイヤは即答してくれる。それから同行すると言いかけて彼は口を噤んだ。


「いや、マサムネだけで行ってほしい。少なくともさっき、コウは俺に何でもないような悩みしか話さなかった。俺が行くと逆効果かもしれない。マサムネ、頼めるか?」

目の前の悔しそうな彼の表情を見ずとも、彼の心境は想像できた。友人の心を自分では開けなかったのかもしれない。その考えが彼の心を傷つけているのだろう。きっと挽回したくて、本当は自分自身でコウの本音を聞き出したいはずだ。それでも冷静に考えて、僕に任せてくれた。


「もちろん」

僕は問いに真っ直ぐと答えた。


「俺が皆を幸せにしてやるなんて息巻いて、まだ全然何もできてないな」

彼が悔しそうに呟いた。きっと数年前の彼ならこんな弱音を吐かなかった。


「セイヤが弱音を吐いてくれるなんて、少し嬉しいや。今だってコウのこと頼まれて、僕は内心奮い立ってるよ。だから、胸張って待ってろ傲慢野郎」

「慰めてくれる流れだったのに最後罵倒された」

彼は唖然とした後に笑い出して僕に言った。


「マサムネ、頼んだ」

この言葉を聞いたとき、ようやく僕らは対等になれた気がした。本当に、ここまで来るのに時間が掛かったものだ。


そうして僕は走り出した。

何も聞かされていない女性陣はポカンとした顔をしている。彼女たちへの説明はセイヤに任せるとしよう。


走る。前を見て、横を見て、後ろを見て、コウの姿を探す。

広い遊園地。トイレに行くといった彼は案の定、トイレにもそこまでの道にもいなかった。

走って、首を回して、目を動かして、それを繰り返して、見つけた。


結構探し回った気分だったけど、時間としては10分弱で彼を見つけることができた。


「コウ!」

僕は彼の名前を叫ぶ。彼はいつも通りの佇まいで振り向き、感じた違和感は勘違いだったのではないかと頭をよぎる。

だけど進む。勘違いならそれでいい。でも、もしも勘違いでないのなら、きっと今しかできない話がある。


「話をしよう。これまでと、これからの話を!」

彼の悩みなどわからない。話してくれないかもしれない。それでも彼を知りたいを思うから、彼のこれまでとこれからの話をさせてほしい。


「…マサムネ」

いつも通りのスマートな佇まい、クールな雰囲気、柔和な表情、だけどその声音だけが彼の外殻の中身を微かに覗かせた。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「いきなりどうした?俺がお手洗いに行ってる間に何かあった?」

緩い口調の彼の声が耳に届いた。

らしくもなく悩みを切り出そうとして、結果偽りの内容しか話せなかった彼を心配して、セイヤがマサムネに彼と話をするように頼んだのだろう。

それに気付いていながら彼はなおも偽る。


「コウがトイレ行ってる間に色々あったし、その前々から色々あったんじゃないかと思って。とりあえずあっちのベンチに座ろうよ」

彼の本題を逸らすような返答は、目の前のマサムネには通じない。

とりあえずはマサムネの言う通りにベンチへ向かう。

人通りは少しあるが、比較的静かな場所だ。


「コウはさ、どんな子供だったの?」

まるで雑談をするかのように、マサムネは彼に尋ねた。


「どうって言われても…別に普通だったと思うけどな。ただの目鼻立ちの整った優しい少年だったよ」

冗談を交えた回答。きっとマサムネが心から彼を想って話しているのに、全くありのままを見せようとしないその姿勢に反吐が出る。

「最初から優男だったの?物心ついた最初の最初の最初から?」

「優男って…実際のところはあんまり覚えてないけど、思い出せる範囲だと今も昔もそんなに変わってないと自分では思うけどな」

彼はまた嘘をつく。あまり嘘をついたことはない。そんな自己評価を簡単に塗り替えてでも嘘を重ねていく。まるでそれが本当になるまで塗り重ねようとしているようにも見て取れて、我ながら哀れだった。


「僕は、昔はもっと我儘だったよ。気に食わないことがあったらすぐに泣いてたし、それで親が折れてくれると学習してからはよくウソ泣きしてた」

「マサムネにもそんな時代があったんだな」

「それで小学生になってもウソ泣きを続けてたら親も流石にブチ切れて、3回も拳骨された挙句に夕飯抜きでガチ泣きしたんだ。それから、気に食わないことがあってもウソ泣きすることはなくなった」

マサムネは語る。なぜこんな話をするのか、その意図に感づいていながらも彼は当たり障りない返答しかできない。


「そうやってマサムネも日々成長して、こんなに立派になったんだなぁ」

自身の心境など考慮しない彼は、心境に見合わぬ間の抜けた口調で言葉を返す。


「そうだよ。僕も、セイヤも、リホも、そうやって成長してきた。自分可愛さに思う存分生きて、怒られて、責められて、考えて、反省して、そうやって変化してきた。その変化を成長とは一概に言えないと思うけれど、それでもそうやって足掻いてきた」

彼が意図して作ろうとした緩い雑談の空気を、マサムネは意図して壊すように言葉を紡ぐ。


「マサムネとか、ごく一部の人たちがそうやって成長してきただけで、きっと世の中の高校生はもっと適当に生きてるよ。俺もその適当な側の人間だよ」

真面目な空気が作られたのに合わせて、彼も真剣なふりをして返事をする。


「そうかもしれない。コウが深くは考えずに、深くは傷つかずに生きてきたならそれでもいい。だけど、もし実は傷ついてきたのなら、話を聞かせてほしい。思うままに生きて、否定されて、考えて、変わった経験があるならそれを教えてほしい」

何も知らないくせに、まるで彼の過去を知っているようにマサムネは聞き出そうとする。


「まあ、悪いことして怒られて反省した経験ならあるけど。でもそれは、ありふれたエピソードでしかないよ」

それでもなお、彼は本当の過去を口にしない。無意識に、これまで作り上げてきた外殻が定めた人物像の回答を自動で行う。

そんな彼に何度目かの吐き気を覚えるが、彼は優しくクールな仮面を崩さない。


「僕は、コウのことをちゃんと知りたい。だけど、コウが知られたくないって思ってるなら、これ以上は聞くべきじゃないと思う。でも、もしも心のどこかで知ってほしいと叫んでるなら、聞かせてよ。僕じゃなくてもいいからさ。セイヤでも、リホでも、ナガさんでも、クルスでも、シラヌイさんでもいいから」

マサムネの優しい口調が彼の耳に届き、自分の中でまた叫びが始まるのを感じる。


「俺のこと想って言ってくれてるのはわかるけど、本当に話すほどのエピソードはないんだ。申し訳ない」

それなのに、申し訳なさそうに眉を下げて、口元には少しの笑みを浮かべながら答える嘘つきしかそこにはいなかった。

恵まれた友人からの心配を、気遣いを、ここまでコケにする彼を許せなかった。殺してしまいたかった。


「コウ、もう一度だけ、最後に聞かせてくれ」

マサムネから最後のチャンスが与えられる。


「話さないで、いいのか?」

彼の耳に叫び声が届く。話したいと、話してしまいたいと、助けてほしいと。

ずっと心には穴が空いているような空虚さがあって、少しずつ苦しくなって、考えないようにすると少し楽なって、でも楽になっても時々叫び声が聞こえる。苦しい、痛い、辛い、と。


その声が少しずつ大きくなって、ここ最近は頻繁に聞こえてくる。

今、マサムネに話すことができれば、苦しみは、痛みは、辛さは、叫び声は、なくなるかもしれない。

だから、マサムネに助けを求めたいと、そんな叫び声が彼に耳に響いた。


「うん。俺に話せることは特にないかな」

届いていた叫び声は遮断され、彼はいつも通りに動作した。

友人がこれだけ寄り添っても、胸の奥から助けを求める叫びが上がっていても、それでも彼は本心を吐き出そうとしなかった。


「…そうか。皆のところに先に戻るよ。コウ、待ってるからな」

待っていると、セイヤから言われた内容と同じ言葉をマサムネからも掛けられる。悲しそうなマサムネの顔が瞳に映った。


マサムネはベンチから立ち上がり去って行った。彼も立ち上がって、マサムネの後ろ姿を見る。


助けてと叫ぶ声が彼の耳にだけ響いている。

その叫び声を遮断するように、ゆっくりと彼は目を閉じた。

目を閉じれば、向き合うことをやめれば、叫び声は遠のき、苦しみを避けることができる。


運命を変えられず、彼は今度こそゆっくりと目を閉じた。




「ダメだよ!マー君!」




閉じた目の向こう側で声が聞こえた。

この高校生活で、随分と聞き慣れた声だった。


「セイヤもマー君も踏み込みが足りないんだから。大切な友達が悩んでそうなら、ぶん殴ってでも聞き出さなきゃ」


そんな物騒な内容に思わず閉じた目が開く。


「私が踏み込み方を教えてあげる。効果はセイヤで試してるし間違いないんだから!」


目を開けた彼は、見た。


助走を確保した彼女は一歩、二歩、三歩と勢いをつけ思いっきりジャンプする。彼女よりかなり背の高い彼相手にはこれくらい必要だったのだろう。


「アサガオ君!歯ぁ食いしばって!」


次の瞬間、彼女の渾身の右ストレートが彼の左頬に直撃した。


そして、外殻にヒビが割れ、遠のいたはずの叫び声がまた―――。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


左頬に手を添える。

手加減をしたのか、いや、単純に力が弱いからだろう。痛みはほとんどない。

むしろ彼女のほうが痛そうに拳を押さえている。


急に殴られて、彼がまず見たのは彼女ではなく周りの様子だった。

気づかずに歩いている人たち、一部始終を目撃し足を止めてこちらを見ている人たち、目を見開き唖然としているマサムネ。

そうして周りの反応を気にして、ようやく彼女を視界に入れる。


瞬時に周りを見て立ち振る舞い方を考えた彼と違い、彼女は真っ直ぐに彼だけを見ている。

怒っているように見えるのに、不思議と居心地の悪さは感じない。


「アサガオ君!頼って!」

簡潔に彼女は叫ぶ。


「え、えっと、とりあえず落ち着いて」

いつもの優しい声音で、困ったような表情を浮かべて彼は返事する。


「落ち着いてる!いや、やっぱ落ち着いてないかも!でもその前に頼って!」

あまりに強引に距離を詰められる。


「普段から十分に頼りにしてるよ。だから、俺は大丈夫だよ」

また彼は嘘をついて、当たり障りない返事を続ける。

叫び声は彼の耳に届いている。助けてと、そう聞こえる。

けれど、彼には…。


「いいから!頼って!!!」

頼りにしてると、大丈夫だと、そんな彼の偽りの言葉を聞かずに、彼女は土足で踏み込んでくる。


「だから俺は頼ってるし、大丈夫だって…」

困りつつも相手を諭すような優しい彼の口調に、初めて綻びが生まれた。ほんの僅かに、聞き流してしまうほどの涙声が混じった。


「お願い!!!」

その彼の僅かな変化を鷲掴みするようにさらに距離を詰めて、彼女は訴えかける。


両親に怒鳴られたあの日以来、長い時間を掛けて厚く厚く塗り重ねられた外殻。その外殻にヒビが入り、広がり、叫び声を上げている心が姿を見せる。

その姿に対して彼女は手を伸ばした。あまりに強引に、力いっぱい、真っ直ぐに手を差し伸べた。


『たすけて』


声は出なかった。心の叫びを、またも彼は抑え込んだ。

けれど、その誰にも届かない声にならなかった言葉は、僅かに唇の動きだけに漏れ出た。


「よかった!やっぱりアサガオ君は頼ってくれた!聞かせて、君の話を」

声にならなかったその僅かな主張を、彼女はしっかり聞き取って、彼の手を取った。


「何も、、話せることなんて、、ないよ、、、」

また彼は嘘をつく。けれど今度は明白だった。その声からいつもの優美さはなくなっていて、誰が聞いても涙声で、厚く塗り重ねた外殻のヒビの隙間から一粒の涙が零れた。


「安心して!私にできないことはマー君が、セイヤが、アイが、アキラが、コトリちゃんがどうにかしてくれるから!だから安心して話してよ」


一度壊れた外殻も、彼ならすぐに修復してしまうだろう。


だからその前に彼は、、、俺は言葉を紡ぎ始めた。


格好良くない、優美でもない、クールでもスマートでもないその語り口で、今度こそ本心を語り始めた。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「昔、まだ幼い頃、俺は異常だった。ロボットの玩具を組み立てるみたいに、生物の頭とか脚をもぎ取って、器用に縫い合わせて、遊んでいた」

ゆっくりと俺は語り始めた。その語る速さに合わせて世界もゆっくり動いているように感じた。


「その行為に悪意はなかった。子供がヒーローショーに夢中になるように、あるいは何となく蟻の行列に水をかけるように、命を解体してツギハギする行為をした。それを楽しいと思った。家族で行ったリゾートよりも、友達としたボール遊びよりも、ワクワクしたし、熱中できた。それらを棚に並べて、満足気に両親に自慢した。買ってもらった玩具を友達に自慢するみたいに自慢した。褒めてもらえると思った。だって幼稚園で似顔絵を描いたときは上手だねって凄い嬉しそうに褒めてくれたから」

周りが見えない。今太陽は雲に隠れているのかどうかも、まだ周りの人たちは俺たちに目を向けているのかもわからない。


「でも当然、両親はゾッとした顔で俺を否定した。理解できない、というより理解したくないという反応だった。いつだって優しくて、友達から羨ましがられる両親が、初めて俺を拒んだ瞬間だった」

音もよく聞こえない。俺がどんな声で話しているのかも、どんな表情で話しているのかも、わからない。


「肩を大人の強い力で掴まれて、痛かった。恐かった。いつもの優しい顔とは別人みたいな顔で視界がいっぱいになって、耳がキンと痛くなるくらい大きい声で非難された」

見えるのはリホちゃんとマサムネの姿だけ。2人の目がこちらに向けられている。


「大好きな両親が、自分を生かしている両親が、俺を否定した。当時の俺にとって、それは夜に暗闇の廊下を歩くよりも、死んでしまうことよりも、恐かった」

恐い。恐い。恐い。両親に否定されたように、目の前の2人に否定されてしまうのが、恐い。


「それからは両親の顔色を窺うようになった。両親の顔色を窺うだけでは不安で、姉たちの顔を窺うようになって、友達の顔を窺うようになって、周りの大人たちの、道行く人たちの、想像の行き届く世界の人たちの顔を窺うようになった」

今この瞬間は、常に窺っていた人々の顔は見えない。それが良いことなのか悪いことなのかも、わからない。


「自分を偽る度、窺った顔は俺を認めてくれた。受け入れてくれた。尊敬してくれた。だから、これが正しいのだと、ようやく正常になれたのだと、そう思った」

そうだ。あの頃の俺は不安だったのだ。その不安から逃れたくて、一生懸命自分を作り変えたのだ。自分を解体して、周りの人たちが肯定するパーツだけを残して、足りないパーツは周りの肯定されている人たちを真似て補って、ツギハギして作り変えたのだ。


「正常になった俺を見て、周りの人たちは役割を与えてくれた。しっかり者だとか、人気者だとか、そういう見てくれのいい役割を。その役割に従順になると同時に、役割に合ったレッテルを貼られていった」

ツギハギして作り上げた原型を留めない俺は、周りから生きることを肯定された。


「そうして役割とレッテルに支配されて生きた結果、自分の本質がわからなくなった。生物をツギハギして楽しいと感じていた過去の自分は完全に他人になった。残ったのは、周りから期待された行動を読み取って実行して、それが生まれつきの人格だと偽る人形だった」

いつまでこうして本音を話せるだろうか。そもそもこれは本音なのだろうか。今は自分が再び自分を偽ろうとするのではないかと恐ろしい。


「いや、自分が人形みたいだと思ったのはついさっきだ。当時の俺は生まれ変わったのだと思っていた。正しい人間に生まれ変わったのだと。そう信じて生きた。今日まで生き続けた」

盲目的に信じ続けた。ただ人の顔色を窺ってツギハギして作った自分のことを、本当の自分だと信じ続けた。そう信じようとしたとき、きっと俺は過去の自分を見ないように目を閉じたのだ。


「でも生き続ける中で少しの綻びがあった。心から好きだと思って、言葉と行動でそれを伝えても、俺の恋人になったあの人たちは違うと答えた。あなたは私を好いてなどいないと、嫌いでないだけだと、恋人として正しい言葉と行動を与えているだけなのだと、そういうようなことを言っていた」

今思えば、彼女たちは随分とよくわかっている。彼女たちから与えられた言葉はここまで整理されたものではなかったけど、本質的な意味はどれも同じだった。

唯一、"ヒメカワ カオリ"は彼女たちが俺に伝えようとして、俺が理解できなかったものを、よりわかりやすく整理して俺に伝えていた。今になってそれに気づいた。


「彼女たちからそういうことを言われる度、違和感を覚えた。何かが足りていない。心に穴が空いているような感覚だった」

自分で捨てておいて、目を閉ざしておいて、心に穴が空いているのだと感じていた。


「だけど、俺が心に空いていると思っていた穴は、両親が拒んで、俺自身も拒んだあの頃の自分がいる場所だった」

穴が埋まるはずもない。穴など最初から開いていなかった。ただ自分自身で認識するのを拒んでいたから、そこにはあるはずのものがないのだと思い込んでいた。


「俺はもう、否定されたくない。大好きな人たちに拒まれたくない。苦しみたくない。悲しみたくない」

今の自分は声を出せているのか、目の前の2人に話せているのか、わからない。もし話せていたのだとしても、弱弱しい音になっていることは確かだった。


「俺は今幸せのはずだ。家族に恵まれて、友達に恵まれて、春から大学生で、容姿も優れていて、皆に受け入れられていて、幸せなんだ。幸福なんだ。それなのに…!」

怒りが湧いた。何の怒りかわからない。


「…それなのに、苦しい。。。痛い。。。気持ち悪い。。。」

ちゃんと2人のことを見て話せていたのに、目線は頭ごと下がり、嗚咽で体が震えるのを感じる。


「でも、苦しくても、痛くても、気持ち悪くても、あの時みたいな、、、拒まれて否定されたあの時みたいな苦しみよりはマシなんだ」

心から楽しいと感じた行為を、心から大好きな人たちに否定された。今にして思えば、両親の立場になれば、否定して仕方ないと、否定されるべきだと、そう思う。けれど、それがどれだけ正しい反応でも、また同じ反応をされたらと思うと恐怖で全てが覆われた。


「だから俺は、あの時のような苦しみを味わうくらいなら、今あるマシな苦しみを、痛みを、気持ち悪さを抱えて生きる方がいい」

どこかで苦しみを感じていようとも、客観的に自分は幸福だと思って生きる方がいい。


「だから、今話したことは忘れてくれ。明日にはちゃんといつものアサガオ コウに戻るから、俺を拒まないでほしい」

どうやら自分はみっともなく泣いているらしい。アスファルトに水滴が落ちていくのが見える。


本音を話して、結局最後は今までの自分を選んでしまった。周りが求める姿に偽装する自分を。

でも仕方ないだろう。大好きな両親に拒まれたときのように、大好きな皆に拒まれることを考えたら、いつもの自分に任せて、上手に生きてもらった方が良いに決まっている。


顔を上げなければいけない。今はすぐに切り替えられないかもしれないけど、せめて顔を上げて話を聞いてくれてありがとうと伝えなければいけない。でも恐い。自分で本音を話すことを選んでおいて、その結果2人に拒絶されたらと思うと、恐くて顔を上げられなかった。


「「拒まないよ」」

2つの聞き慣れた声が重なって聞こえた。


次の瞬間、両の頬にパシッと手を添えられ、そのまま顔を上げさせられた。


すぐ目の前にはマサムネの顔が、その隣にはリホちゃんの顔があった。

あの日の状況を思い出す。あの日は肩を強く掴まれて、今みたいに視界は両親の2人の顔で埋められた。

異なるのは、あの時の両親と違って、2人の顔が俺を拒んでいないとわかることだった。


それを確認して涙がボロボロと零れ出す。気持ち悪い声を上げて嗚咽して、頬に添えられたマサムネの手を涙で濡らしていく。


「拒まない。否定しない。お前がどれだけマッドサイエンティストな行為を過去にしてたって、いつまでも友人で在り続ける。お前が離れようとしても、今度こそリホみたいに図々しく踏み込んでやる」

これだけみっともなく泣いて、醜い自分を表に出して、それでも彼は真っ直ぐに俺を見ている。


「もし今も生き物解体とかヤバ気なことしたいと思ってるなら、ちゃんと相談してよ。そのままお好きにどうぞなんて生き物が可哀想だから言わないけど、どうすればアサガオ君が心から楽しめるか一緒に考えるよ。難しいかもしれないけど、一生懸命考えるから。コトリちゃんとかだったらきっと名案を出してくれるよ」

リホちゃんも言いたいことを遠慮なく言いたい放題伝えてくる。


「周りの目なんか気にするななんて言えない。僕だって周りの目は気になるし、世間体を気にして行動することもよくある。でも、時にはコウの心を優先してほしい。つい偽ってしまうなら、偽らずにいられるかもって思ったときに心から笑ってほしい。コウのそういう居場所になれるように僕も頑張るから、コウも頑張ってほしい」

次々と2人は僕に語りかける。どう答えればよいのかわからないまま、今は2人の言葉を聞き逃さないように必死になる。


「苦しいなら言って。どうすれば苦しくなくなるか考えるから。痛いって感じたら教えて。痛いところに手を添えさせて。気持ち悪いなら聞かせて。気持ち悪いが全部なくなるまで想いを吐き出して」

俺は恵まれている。そんな俺の人生で一番不幸だったのはきっと、与えられた役割を、貼られたレッテルを、全うできるだけの優秀さがあったことだ。だからこうなるまで、溜め込んでしまった。


「もっとコウのことを教えてくれ。思ってること、考えてること、感じていること。それをちゃんと受け止めて、コウのことも、皆のことも、愛していきたいって思うんだ」

彼の声が響く。俺の頭に、俺の心に、この世界に、響く。


「私も同じ。私、昔は一歩引いて生きてきた。人って何考えてるかわかんなくて怖いし、面倒だし、酷いことを簡単にしちゃうから。でもアイがズカズカと声を掛けてくれて、マー君が少しずつ歩み寄ってくれて、セイヤもアサガオ君も私から歩み寄るのを優しく待ってくれた。凄く嬉しかった!私はアサガオ君みたいに器用じゃないけど、それでも嬉しかった分これから関わるたくさんの人たちに歩み寄りたい。冷たい態度ばかりだった頃の私と友達になってくれたアサガオ君には特に幸せになってほしい。辛いときもきっとたくさんあるけど、お互いに乗り越えられるように助けたいし、助けてほしい!」


想いを伝えられる。大切な彼らからありのままの想いを伝えられる。

だから、俺も伝えなければいけない。

いや、違う。

俺も、ありのままの想いを伝えたいのだ。

傷つきたくないとか、そんな本音ではなくて、もっと我儘な本音を。


「恐がりな俺を、、独りじゃ不安で目も開けられない俺を、、助けてほしい。一緒にいてほしい。辛いとき慰めてほしい。肯定してほしい。そして、、、背中を押してほしい」

全然クールではなくて、スマートでもなくて、もちろん優美でもない情けない言葉。それらを吐いて、ようやく紡げる言葉がある。


「俺も皆みたいに、傷つくかもしれなくても、面倒だとしても、誰かを愛せるように、そんなふうに生きてみたい。格好悪くても、足掻いて、もがいて、愛するを知りたい」

俺は愛されてきた。両親から、姉たちから、恋人たちから。もしかするとそれは未熟な愛なのかもしれない。一方的で、配慮も尊重もないような愛なのかもしれない。だとするならば、俺が本当に正しいと思える愛をあの人たちに教えたい。目の前の2人が俺にそうしてくれたように、愛を伝えることで、愛を教えたい。

だから俺は、愛するを知りたい。


「愛するって難しいよね」

「でもだからこそ、一緒に覚えていこう」

リホちゃんが、マサムネが俺に手を差し伸べる。

いつの間にか泣き崩れて膝をついていた俺に差し伸べられたその手を、しっかりと掴んだ。


そのまま2人に助けられながら立ち上がって、まだ不安で仕方ない弱い自分を隠すことなく、手を繋いだまま空を見た。


雲一つない青空が広がっている。

そのままゆっくりと歩み出して、ふらつく足を支えてもらいながら歩いた。


こんなにも泣いたのに涙はまだ溢れていて。

きっと周りの人たちはその光景にギョッとした顔で距離を取っている。もしかしたら関わりたくないと拒絶の態度を示しているかもしれない。

それでも俺は泣き続けた。


あの日以来初めて、周りの目など気にせず泣き続けた。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「こんにちは」

広い空間。白い壁に囲まれ、シンと静かなその空間には小さな男の子と、優美という言葉が似合う青年がいる。


「何してるの?」

青年は男の子の手元を覗き込んだ。


「それ、作ったの?」

目を輝かせて夢中に作業していた男の子が顔をこちらに向けた。


「うん。カッコいいでしょ」

悪びれることなく、無垢なるその声主の手元には、虫や小さな動物の部位を解体して、器用に針と通し、様々な色の糸でツギハギされた創作物があった。


「うん。格好良いね」

その創作物に青年は評価をした。すると男の子はにんまりと笑顔を浮かべて、足元にあった他の創作物を自慢するように目の前に持ってきた。


それらに少しギョッとしつつも、関心するような声を上げてから、再び男の子の方を見る。


「格好良いし、上手だね。でも、バラバラにされた虫や動物が可哀想じゃない?」

優しい声音でそう尋ねる。


「このネズミさんなんかは"しょーとかっと"で死んでるのを見つけたんだ」

"しょーとかっと"というのは男の子が公園に行くまでに使っている最短ルートで、狭くてジメジメとした路地裏の場所だった。

まるでお宝の在り処を教えるような言い方だった。


「こっちのスズメさんも?」

胴体だけになったそれに指を差して尋ねた。


「これは、、幼稚園で見つけたから。生きてたけど、どうせすぐに死んじゃってたよ」

ばつの悪そうな顔をして男の子は説明した。


「スズメさんを使いたかったんだね。でも、想像してごらん。君がお腹も空いて、喉も乾いて、もう死んじゃうかもと苦しいときに、お家くらい大きい動物が、君を踏んづけて殺しちゃうんだ。どう思う?」

男の子の目線に合わせて青年は話す。


「こわい…いやだ」

男の子は素直にそう答える。


「スズメさんも同じ気持ちだったんじゃないかな」

男の子の目元に涙が浮かぶ。


「次からは、死んでるやつを使う」

反省した男の子の次の答えはそういうものだった。


「じゃあ、もう1個想像してみよう。君の大好きなお母さんが死んじゃったとする。あぁ、ごめん、泣かないで。あくまでもしもの話だから。でも想像は続けてほしい。死んじゃったお母さんをさっきのお家くらい大きい動物が持って帰っちゃう。そして、お隣さんの君が大好きなワンちゃんも殺して、お母さんと合体させてしまう。どうかな?」

小さな男の子を泣かせて胸が痛む。けれど大事なお話だから。


「いやだぁ…ママもヘイタロウもそんなになっちゃうのやだぁぁ」

ヘイタロウ、そうだ、確かお隣さんのワンちゃんはそんな名前だった。

男の子はボロボロと泣きながら声を上げた。


「俺は君が作ったそれを格好良いと思う。君があんまりのも楽しそうに作るから、俺も混ぜてほしいとも思った。けど、今想像したみたいにちゃんと考えないといけない。ちゃんと考えた君はこれからどうしたい?」

優しい声音が男の子に問いかける。


「スズメさんのお墓を作る。ネズミさんのも」

半べそをかきながら男の子は答えた。


「そうだね。お墓を作ってあげよう」

その後、白くて広いその空間で、雀と鼠、他にもたくさんの動物や虫のお墓を作った。

そのお墓に2人で手を合わせる。


「ごめんなさい」

男の子は埋められた生命だったものたちに向かってそう言った。


「次は、何を作るの?」

青年は尋ねる。


「もうネズミさんもバッタさんも使わない。次は、そうだな。虫さんたちとか、鳥さんたちのお家を作りたい」

涙で腫れたその目をまた輝かせて、男の子はそう言った。


「そっか。それは、いいね」

男の子に掛けたどの言葉よりも優しい声音で、青年はそう言った。


「また作ったら教えるね!」

男の子の満面の笑みがその無機質な空間で際立つ。


あぁ、そうか。これだけでよかったのか。


気付くと白くて広い空間は消え去って、空には少しの雲と海のような青空が広がっている。

辺りを見渡すと、手作りの小さなお家の中で親鳥が雛鳥たちに餌を与えている。


青年はスーッと息を吸って、この世界に体を預けた。

そして、ただ思った。


この世界はこんなにも美しかったのか。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


泣いて、泣き喚いて、泣き続けた。

後から心配して駆けつけたセイヤたちも、ただ傍にいてくれた。

マサムネとリホちゃんは俺が落ち着くまで手を握ってくれていた。


どれくらいそうしていたかはわからない。

長い長い時間のようにも、あっという間にも感じた。


泣いて、泣き喚いて、泣き続けて、泣き止んだ。


ようやく俺は整理した言葉で、まだ整理中の気持ちを、皆へと語り始めた。


近寄りたくない、そう思われてもおかしくない様子だった俺に対して、皆は真剣に話を聞いてくれた。

一番戸惑っていたアキラちゃんでさえ、茶化すことも距離を取ることもせずに、最後まで真剣な態度で話を聞いてくれた。


話し終えて、皆から暖かい言葉を掛けられて、そんな自分を情けないと思うには既にあまりにも醜態を晒していたので、ただただ有難いと思うばかりだった。


ある程度落ち着いてから、少し1人にさせてほしいと皆に頼んだ。

皆が心配そうにこちらを見る中で、リホちゃんだけは信じているからねと目が語っていた。


1人になったのは理由があった。

泣いて、感じて、考えて、皆に聞いてもらって、そうしてようやく整理できた。

これからまだまだ考えないといけないし、考え終わってもしばらくしたら似たようなことをまた考えることになるのだろうけど、それでも今したいと思えることは整理ができた。


電話を掛ける。

あれだけ世界を照らしていた太陽は既に沈みだしている。おかげで寒さが戻ってきて、風が指先を凍らせるように刺激する。

20秒待たないくらいで電話相手が応答した。


「もしもし、コウだけど」

やけに疲れている自分の声に少し驚く。どうやら泣き疲れているみたいだ。


「…どうしたの?」

数秒の静寂の後に、電話相手の声が返ってきた。


「今、話せる?」

緊張した声だ。まるで自分のものではないみたいだ。


「…うん。話せる」

その返事にホッとする。そして、俺は話を始める。


「最後にあった日、カオリに言われたことを考えてた。でも、その時は本当の意味で理解できてなかった」

「…うん」

電話越しに半年前まで交際していた"ヒメカワ カオリ"が短く返事をした。


「でも、俺の話を聞き出してくれる人たちがいて、思い出して、感じて、考えて、整理して、ようやく理解できた」

返事はない。電話越しの息遣いも聞こえない。それでも話し続ける。


「カオリの言う通り、俺は誰かを心から好きになったことはなかった」

心を封じ込めていたから。好きになるのをどこかで恐れていたから。理由はいくつかあって、それら理由と向き合って、それでも人を愛したいと思った。


「だけど、これからはちゃんと向き合って、好きになりたいと思う。上手に生きるではなくて、格好悪くても人を愛するために足掻きたいと思う。だから、また一緒にいさせてほしい」

周りが求めるアサガオ コウではなく、自身が在りたいアサガオ コウの言葉で伝える。


「…コウはさ、私のこと、好き?」

彼女は問いかける。その声に期待が込められているのに気付く。望まれる返答に気付く。


「好きじゃない。良いところも悪いところも知ってるけど、好きじゃない。だけど、これから言葉を重ねて、一緒の時間を過ごして、もっと知って、お互いにほんの少しずつ変わっていって、その先で好きになれたらいいなと思ってる」

嘘偽りない本心を伝えた。


「…酷い。全然私が求めている返事じゃない」

彼女の言葉にはどこか涙が混ざっていて。


「初めて、私が求めてない言葉を掛けてくれたね」

どこか嬉しそうにそう言った。


「俺、頑張るから。格好悪い姿かもしれないけど、頑張るから」

「うん、わかった。私も頑張るよ。だから、また今度」

喜びの感情が湧いたのを感じた。それは告白が成功したからではない。あれだけ壁を作って遠ざけた彼女に、もう1度チャンスを貰えたことが嬉しかった。


「話を聞いてくれてありがとう。また連絡する」

「うん。待ってる」

それで彼女との通話は終わる。


この先どうなるかはわからない。上手くいかないかもしれない。それでも、たとえ上手くいかなかったとしても、進むことに意味がある。今はそう信じる。根拠のない状態で、信じて進み続ける。きっとその先に無意味なんて結果はないから。


格好悪く足掻いてでも愛するを知りたいと決意した青年は、まだ明るい空に浮かぶ一番星を見ながらそう思った。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


随分と日は傾いた。

沈むのが遅くなってきたと言ってもまだ3月。小学生が家に帰ろうかと思い始める時間帯には空は2つに分けられる。

西には橙色に白い光の線を通した光景が広がり、東には薄い青色から深い藍色へと綺麗にグラデーションした光景が広がる。

息を吐いても白い色を付けて天に上げることはないが、肌に当たる感覚は鋭い。そこには寒いという感想よりも冷たいという感想の方がしっくりきた。


遊び疲れた子供が父親におぶられ、まだまだ遊び足りない子供は母親と手を繋ぎながら帰りたくないと駄々をこねている。母親はその駄々に困った様子も見せず、慣れた態度で子供の手を引く。


その親子が通り過ぎるのを見れば、次は20台後半と見受けられるカップルが腕を絡ませて歩いていく。寒いのに丈の短いパンツを履き、頭には暖かそうなニット帽を被る女性。その隣には大きな黒いダウンを羽織り、サングラスをかけた男性がいる。特にこれといった感想を抱くことはなく、その親子とカップルが遊園地の出口へと向かう姿を目で追っていた。


周りの人々を見るのにも満足し、自分の足元に目を向ければ合格祝いと卒業祝いを兼ねて父から贈られた高価なブーツがある。その下ろしたてのブーツが夕日に照らされて上質な革であるという実感が湧き口元が緩む。まだ硬い革なので靴擦れを起こして靴下に血が滲んでいる気がするが、満足感が勝利して心が高揚する。

足首を回したり、しゃがんだりしてブーツに形の良い皺が入るのを観察していたところに、待っていた人物の影が見えた。


彼は少し遠くからゆったりとした歩調でこちらへ向かうが、足が長いのでペースは速い。すぐに俺の目の前まで到達した。


「待っててくれたのか」

美声が耳に届く。その美声に主は目元が赤く腫れていることでその整った顔立ちも崩れそうなものなのに、赤くなった目元が返って色気を感じさせるのが凄い。


「ああ。ちゃんと話せたか?」

彼の表情を見ればわかるのだが、敢えて言葉にして聞いた。


「うん。ちゃんと話せた。今はそのことに心から安堵してる」

吹っ切れた彼には以前のようなキラキラとしたオーラはない。代わりに奥ゆかしさと言うべきか、着飾っていない自然な美しさの品格があった。


「コウが今そうやって笑ってくれて、本当に良かった」

心からそう思い、思うだけにしておくよりも言葉にした方が気持ちがいいので、それをそのまま彼に伝える。


「皆のおかげだよ」

模範的な回答。だけどそれは模範解答だから選択された言葉ではなく、本心であるから選択された言葉なのだと思えた。


「マサムネとリホには救われてばかりだよ」

同意するように答える。俺もこれまで皆に助けてもらったが、自分においても今回においてもマサムネとリホの存在は特に大きかった。正直なところ、また俺は2人のように在れなかった。結果的にコウの心が救われたのだから、自分が活躍できたかなど今回の件では考えなくていいとわかっていながら、どうしても心に影が落ちる感覚はあった。


「もちろん2人にも言い表せないくらい感謝してるけど、セイヤにだって同じくらい感謝してる」

俺の心境を読み取ってか、彼はフォローを入れてくれる。


「本当だよ。本心だよ」

フォローを入れてくれたのだと思った俺の思考すらも読み取ったように、彼は俺への感謝を念押しした。

コウは救われたというのに自分はどこかモヤモヤして、そのモヤモヤを見透かされてしまう始末。


「はぁぁぁ…俺って本当にダメだなぁ」

モヤモヤした感情をそのまま舌に乗せて言葉として吐き出した。


「悩みがあるなら聞くよ」

優しい声が聞こえるが、それはつい数時間前まで逆の立場のセリフだった。


「今日は色々あって疲れてるだろうコウに話すのはダサいし、申し訳ないけど、聞いてくれるか?」

今言った通り、ダサいし申し訳ないことだけれど、ここでモヤモヤを自分の中に押し込めるのはもっとダサいし申し訳ないと思うから。


「もちろん。セイヤがそうしたいみたいに、それが今俺がしたいことだから」

目を合わせて答えてくれた彼に、みっともなく悩みを打ち明ける。


「学校の屋上でリホにぶん殴られてから」

「ちょっと待って。いきなり聞き逃せないワードが出てきたんだけど」

悩みを話し始めて3秒で待ったをかけられる。


「…あぁ、ごめん。続けて。とりあえずリホちゃんってヤバ…凄いね」

2秒ほど固まった彼は俺の親友をなんとか称賛してから本題に戻る。


「リホに愛の鉄槌を受けてから、俺が皆を幸せにしてやるって本気で息巻いてたんだよ。今も息巻いてるんだよ」

あの寒空の下での日を思い出す。

何だってできる気になっていたけど、大したことはまだできていない。


「それなのに俺が皆を幸せにっていう傲慢で強欲な望みは未だ実現していない。まあ、それでも俺自身がリホや皆に助けられて、結果的にたくさんの人が幸せそうに笑っている今だから十分すぎるほどではあるんだけど、もうちょっと俺頑張れよってモヤモヤしてる」

言葉にしてモヤモヤを整理できた。まさに今言葉にした通りだ。最終的には、コトリは満開の華を咲かせて、マサムネは1つの生き方に辿り着いて、アイは自分の弱さと向き合って、クルスは心から青春を楽しめて、コウは殻を破って自己を取り戻した。リホは、、えっと、、遊園地を楽しんでる。だけどそれら全てが俺自身の力とは全然違うところで、各々が助け合って辿り着いた幸せだ。


息巻いて俺が皆を幸せにすると言っていたのに、俺の手が届かなかったところで皆は幸せを掴み取った。最高の結果だと思うと同時に、自分の情けなさを痛感する。


「それは何というか、、、信じられないくらい傲慢だね」

そんな俺の悩みに彼は真面目な顔でそう答えた。


「でも、そんな生き方もいいんじゃないかな。確かに身の程を弁えない考えかもしれないけど、俺は今日そんなセイヤに救われたんだから」

彼のその言葉は心地良く耳に響いて、さらに情けないという気持ちが膨れ上がると同時に、とても大きな安堵がもたらされた。


「ありがとう。そう言ってもらえて凄い嬉しい。本当は不安だった。どこまで踏み込んでいいのか。踏み込み過ぎてより傷つけるんじゃないかって」

彼が本心を語れなかったのだと推測して、本心を聞き出せなかった自分ではどうしようもできず、悪い結果になる可能性もあったのにマサムネに相談をした。結果的にはよかった。だが、コウを不必要に傷つける可能性もあったわけで。


「不安か…そうだね。俺も今カオリに電話したとき、凄い不安だった。別れて、去るのを追う気もなかった俺が今さら歩み寄ろうとしていいのかって。結果的にはよかった。だけどカオリに不快な思いをさせる可能性もあった」

俺と彼自身を重ねながら言葉は続く。


「でも、わからないから。行動するのも、しないのも、どっちがいいかなんて後にならないとわからない。後になってもわからないかもしれない。行動して傷つけるかもしれないし、行動しないことで傷つけるかもしれない」

彼の言葉には次第に熱が帯びて、これまでみたく優美を纏うのをやめることができたのだと改めて実感する。


「それでも選択しないといけない。悩んで、迷って、感じて、考え抜いて、その上で決断しないといけない。その結果傷つけてしまったのなら、落ち込んで、反省して、また悩むところからスタートする。そうやって最後は自分が下した選択を貫かないといけない」

腫れた目元で、綺麗な色の瞳に沈みかけの陽の光が入る。あまりに美しい青年から送られる言葉は、これからの俺に力をくれる言葉だった。


「だから、セイヤが迷いながらも在りたい自分を貫いて、俺を救おうと行動してくれたこと、心から尊敬する」

真っ直ぐと本心から語られた彼の言葉は、俺の胸に深く深く入り込んで。


「ありがとう。俺はこれからも皆を幸せにするために行動する!」

そんな傲慢で強欲な理想は、より強くなった意志として宣言される。


「うん、頼りにしてる」

これまでとは違う、けれど当てはめるとするならこれまで通り優美という言葉が似合う佇まいで彼は答えた。


「そういえば他の皆は?」

俺のモヤモヤが少し晴れた様子を確認して、彼は話題を変える。


「俺が2人だけでコウと話したいって伝えたら、まだ乗れてないアトラクション乗りに行こうって張り切ってたよ」

まあ、張り切っていたのはリホで、他のメンバーは顔に疲れが見え始めていたのだが。


「皆にはせっかくの時間を使わせちゃったからね。特にリホちゃんには時間の限り付き合わないと」

そう言って彼は皆のところへ歩き出した。


陽に照らされた彼の髪が艶やかな黄金の色味でなびく。

違和感ないほど器用にツギハギされた外殻。その縫い目を解いて中から出てきた彼もまた、美しい容姿であることに変わりなかった。


これから先、模範的でなくなった彼は他者と衝突することも出てくるだろう。これまで以上に傷つき、傷つけることになるかもしれない。

俺の中でも、彼の嫌いなところが出てくるだろうし、好きなところだって増えるだろう。それでいいと思う。


嫌われないように、拒絶されないように生きてしまうこの世界で、嫌われたとしても自分自身に寄り添って、拒絶されたとしても他者に歩み寄ろうとする存在も必要だと思う。


それが正解かなんて、きっと最期までわからない。わからないからこそ、人は生きる限り進み続けることができる。自分の感覚で、考えで、生きることができるのだと思う。


俺はそれを自由と呼ぶ。

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