17_模範
風の音が聞こえる。
木々が冷たい風に揺らされ、静かに悲鳴を上げている。
春になり暖かくなってきたが、今日に限って言えば冬の寒さが戻ってきていた。
気温5℃。デジタル時計に表示されたその数字を見て、今日のお出かけが少し憂鬱になる。
流石に昼頃は過ごしやすい気温になると思うが、夕暮れ時にはまた冷え込むのだろう。
カーディガンを羽織るくらいでいいと思って昨日準備していた服は降格し、厚すぎず薄すぎない中綿の入ったジャケットを羽織る。
鏡に映った姿はいつも通りスラっとした高身長に、綺麗に染められた金髪がサラサラとなびいている。耳元にはつい先日開けたばかりのピアスがいやらしくない程度に輝いていた。
家を出てふと庭を見ると、咲くのはまだまだ先のアサガオの葉が冷たい風により控えめに揺れている。アサガオという苗字だから庭でアサガオを育てるという安直な母の発想には、呆れたような笑いが出る。
アサガオ家は世渡り上手な父と、常にふわふわしている母、そして美貌と癖の強い性格を持ち合わせた姉3人、その弟である自分によって構成される。2階建ての家にそれなりの広さの庭を持つこの一家が、それなりに裕福な家庭であることは容易にわかる。
世渡り上手な父を見て、生きるのが楽になる立ち回りを覚えた。
ふわふわした母は趣味がコロコロと変わる人で、いつも楽しそうに家族に新しい話題を提供し、緊張感のない和やかな雰囲気が家庭の中にはあった。
長女は人に厳しく、己には甘いという最悪の性格なのだが、謎にカリスマ性でもあるのか常に周りには人が集まっていた。
次女は自由人で、アイドルやアニメのオタ活のために全国を飛び回っているかと思えば、定期的に男を引っ掛けヒモのような生活をし、急に家に帰ってきたかと思えば数カ月ダラダラ過ごすという行動の読めない人だ。
三女は全国模試で上位3桁に入るほど頭が良く、要領も良いため周りからも慕われているのだが、気まぐれのように人間関係を引っ掻き回し、飽きたらそのまま別のコミュニティへ行くという最悪の性格をしていた。
そんな昨今よく耳にする親ガチャで言えば当たりを引き、癖の強い姉たちの下っ端として育った結果寛大さを身に着け、この一家をよく知る人たちはコウが一番良い子だと評する。
家の敷地から出ようとした瞬間、あまり遭遇したくない姉が目の前にいた。
実家暮らしの三女は午前中に起きていることはないし、次女は今エジプトにいるらしいので、目の前にいる姉は長女ということになる。
「よう」
片手を挙げてそう言った姉の姿は相変わらずの美貌ではあるが、見惚れるよりも恐れる気持ちのほうが大きい。
「どこ行くの?」
ただでさえ背が高いのにヒールの高いブーツを履いているので、姉の目線は180センチを超える俺の目線とそう変わらない。
正月に会ったときにはピンクだった髪色は、今は赤く染め上げたようで威圧感が増していた。
「友達と遊びに。遅れそうだからもう行かなくちゃ」
柔和な笑顔と優しい声音を自身が発したのを確認しながら先を急ぐ。
「まあまあ、せっかくお姉ちゃんが帰ってきたんだから、ゆっくりお話ししようよ」
他人の予定など考慮するはずのない姉は一歩こちらに踏み込んだ。
「何か手伝ってほしいことでもあるの?」
「おいおいおいおい、ゆっくり話そうって言ったんだよ。手伝ってほしいことなんて、ついでみたいなもんだよ」
やはり俺を使いたいことがあるらしい。
「帰ってからじゃダメかな?」
そう言いながら俺はゆっくりとクラウチングスタートの体勢に入る。
「帰ってからでもいいよ」
姉もわずかに腰を落とした。
「逃げ切れたらなぁ!」
その姉の言葉よりも早く俺は走り始める。
100メートルを12秒以内で走る俊足の俺に猛スピードで迫る姉へ恐怖を感じながら走る。
スピードに乗ってきた俺は加速を重ね、少しずつ姉との距離を離す。ヒールの高いブーツを履いていたことが今回の姉の敗因だ。
姉の姿がかなり遠くになったが、スピードを緩めることはしない。この姉たちとの関係において、油断することが最も危険な行為だからだ。
素晴らしい家庭環境から癖の強い姉たちの分をマイナスしたとしても、それでも恵まれているのがアサガオ コウだった。
家族にも友人にも恵まれているのに、それでも心の穴を埋められないでいるのがアサガオ コウだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「リホちゃん、おはよう。早いね」
「あ、おはよう。アサガ…ってどうしたの!?髪ボサボサだし、汗だくだよ!」
いつも集合時間より15分は早く来るリホちゃんに会って早々驚かれる。
「気にしないで。皆と遊ぶための代償だから」
「いや、気になるよ!いつも3分くらい平気な顔で遅刻するアサガオ君が息上がってる状態で15分前に来てるんだよ!?」
こう聞くと姉たちほどではないにせよ、俺もなかなか碌でもないな。
「本当に気にしなくて大丈夫だから。姉から逃げてただけだよ」
「気になるワードが増えたんだけど…」
ジトっとした目で彼女に見られる。その顔に今日も可愛いなと心から思う。リホちゃんに限らず、女の子には可愛い一面が一面どころではなくたくさんある。そんな一面を見つけるのが好きだ。
当然、リホちゃんと付き合いたいなんて感情はない。彼女は再びマサムネの恋人となったし、そうでなくても高校1年生のときにマサムネが彼女に好意を抱いた時点で、リホちゃんと付き合うという選択肢は消えている。
リホちゃんに限らず、全ての女性は素敵な一面があって、それを引き出せれば喜びが湧く。
俺が女性に対して基本的に好感度が高いのは、世の中の大半の女性は姉たちより性格が良く、魅力的だからだ。そういう意味では姉たちのおかげで俺は女性に対して素敵だなと感じるハードルが下がっているのかもしれない。こんなことを姉たちに言ったのであれば、命どころか人としての尊厳まで奪われかねないので絶対に口に出さないが。
「みんなもそろそろ着く頃かな」
話を逸らすように俺はリホちゃんに問いかける。
「うん。このメンバーで遅れて来るのアサガオ君くらいだし。あ、マー君もたまに遅刻するか」
呑気な声音で俺を刺すようなことを言われるが、悪びれることなくいつもごめんねと言葉を返す。
「コトリちゃんとアキラちゃんは現地集合だっけ?」
「アキラはそう。コトリちゃんは何個か先のバス停で乗ってくるはず」
今俺たちがいるのはバス停だ。本来なら家から電車を経由してここまで来た方が早かったのだが、駅で姉が待ち伏せしていたら怖いので、今日は走ってここまで来た。
「皆で遊びに行くのも久しぶりだね」
「このメンバーで行くのは何気に初めてだしね」
言われて見れば確かにそうだ。いつものメンバーにコトリちゃんとアキラちゃんを加えて遊びに行ったことはなかった。学校ではよく集まってたし、女子会も開催されていたので言われるまで気づかなかった。
「なんというか、ここまで随分長かった気がするよ」
俺はそう呟く。
「感覚としてはあっという間だったのに、アサガオ君の言う通り思い返せば随分長かった気がする。なんだかおかしいね」
そう言って彼女ははにかむ。
「一番楽しみなのはリホちゃんなんじゃない?」
からかうような口調で彼女に問う。
「そうかも!なにせコトリちゃんもいるしね!」
「マサムネじゃないんだ…」
「マー君もだけど!」
彼氏より推しを優先する彼女に呆れながら返事すると、ぷくっと頬を膨らませて反論される。
「それに何より、今日の行先は」
俺はそこまで口にして、その続きは意気揚々と彼女が言い放つ。
「今日の行先は、遊園地!」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「大丈夫かなー?雨降らないかなー?」
バスの一番後ろの席で揺られながらそう心配するのはアイちゃんだ。
「天気予報では晴天だから大丈夫だって。それよりも隕石とかのほうが心配だ」
そう返事するのはマサムネだ。
「2人とも、いい加減にしてくれないかなー。俺も怒ることあるんだよ」
俺は2人に対してそう返す。
「だってアサガオが遅刻しなかったんだよ。それどころか15分前に着いてたなんて」
目眩を起こしたように目元を手で押さえたアイちゃんの前の席で、マサムネが続いて言葉を発する。
「今まで100回以上遊びに行ってるけど、コウが遅刻しなかったのなんて片手で数えられる程だよ」
「それは俺が悪かったけど、だからってそこまで言わないでほしいなぁ」
過去の行いを反省しつつ俺は嘆いた。
こんなくだらない会話をしている中、リホちゃんは1つ前の席の窓側で外を眺めている。最後尾の席には窓側にアイちゃん、中央に俺、その間にセイヤが挟まれている。
「それにしてもアイちゃんは見せつけるね。いい加減離してあげれば?」
ささやかな反撃をしようと俺は彼女にそう告げる。
彼女はバス停に来た時からセイヤの腕にコアラのようにしがみついている。
「別にいいでしょ?それにセイヤが嫌がってるみたいな話し方やめてよね」
頬を膨らませて彼女は反論する。
「嫌ではないけど、ちょっと腕が痺れてきたかな」
「ほら!心が痺れてるだって!キャー!」
気遣うような声音でセイヤが彼女に意見するが、悲願の恋人関係を結び、脳内がお花畑になった彼女の耳には違った意味へと変換されて届く。というか、どんな力でしがみつけば腕が痺れるんだ…。
「まったく、アイもいい加減落ち着きを覚えなさい。もう高校生じゃないんだから」
そう言ったのは先程まで外の景色を眺めていたリホちゃんだ。彼女はマサムネと復縁しても浮かれることなく、落ち着きを持っている。流石である。
そんな会話をしていたところでバスは停車し、コトリちゃんが乗車するのが見えた。
「キャー!コトリちゃん久しぶり!こっちこっち!6日も会えてなかったからマジ寂しかった!あ、マー君後ろの席に行って。コトリちゃんは私の隣に座って!」
「リホが一番落ち着きがないんだけど!?」
愛しの天使を目にして壊れてしまったリホちゃんに対してアイちゃんがツッコむ。
マサムネはリホちゃんの命令を従順に聞き、俺の隣に座り直す。
周りの乗客のほうを窺うと、迷惑そうな視線をこちらに向けている。これだけ騒げば当然だ。
コトリちゃんは俺たちの目の前まで来て、静かに、それなのに不思議とバス中に響く声音でこう言った。
「他の方々の迷惑になるから静かにしなさい」
そう注意するコトリちゃんの表情は笑顔なのに、凍り付くような声音と鋭い光りの灯った瞳をしていた。
リホちゃんは叱られた子犬のように小さくなり、男性陣もなぜか姿勢を正した。アイちゃんはコアラのようにしがみついていた腕を下ろし、綺麗な佇まいで膝の上に置いた。
それから目的地まで会話はあったが、ご乗車している他の方々の迷惑になることはなかった。
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気まずい。
何が気まずいと言えば、俺の側にいる2人の空気感である。
遊園地に到着し、電車が遅延して到着が遅れるアキラちゃんを待つ間に、マサムネ、セイヤ、リホちゃんはお手洗いに行った。
つまりこの場に残っているのは俺とアイちゃんとコトリちゃんだ。つい先日まで仲良く女子会していたメンバーではある。(俺は女子ではないのだが)
最も女子会の話題に上がっていたのは恋バナだ。この2人がセイヤを狙っている数日前までは対等な共通の話題であったが、その恋に決着がつき、勝者と敗者が明確になってしまった。
そんな中、アイちゃんはどこか気まずそうな雰囲気が漏れ出ており、アイちゃんのその態度にコトリちゃんは申し訳なさを感じているように見える。ここは俺が仲介したほうがいいのだろうか。いささか特殊な状況ではあるが、似たような状況で上手く立ち回ったことは一度や二度ではない。
「2人とも、丁度いいタイミングだし、胸の内を話したほうがいいんじゃない?」
努めて穏やかな口調で言ったが、内容は直球だ。これが他の相手であればもっと遠回りなやり方を選んだが、この2人については直球で話を振った方がよいと判断した。
「…コトリ、私、その、、、」
数秒の間を置いて口を開いたのはアイちゃんだったが、すぐに言葉に詰まっている。
「アイちゃん、気を遣わせてごめんね」
動揺しているアイちゃんを見て逆に落ち着いたのか、コトリちゃんが話し始める。コトリちゃんの謝罪にアイちゃんは首を横に振る。
「あと、ありがとう。私にごめんとか、そういう謝罪の言葉を言わないでくれて」
コトリちゃんは言葉を続ける。
「アイちゃんは何も悪くないのに、謝られたりしたらどうしようって内心思ってた」
優しい彼女の声音が、ほんの少し怯えた様子のアイちゃんの耳にすんなり届く。コトリちゃんにとって、アイちゃんがセイヤと結ばれることは祝福すべきことなのに、謝られることこそが最も嫌だったのだろう。でも、アイちゃんはそれについて謝ったりはしなかった。
「謝ったりせずに、ちゃんと今みたいに言葉を選ぼうと頑張ってくれてる。それが私は嬉しい」
コトリちゃんのおそらく本音なのだろう言葉が優しく紡がれる。アイちゃんの瞳に少し涙が浮かぶのが見えた。
「私ね、セイヤ君と付き合う相手は正直誰でもよかった。アイちゃんじゃなくてもよかった。だって、セイヤ君が幸せならそれでいいから」
コトリちゃんは胸の内の告白を続ける。
「でもね、同じ人を好きになって、お互いに意識しながら頑張る恋のライバル的存在がアイちゃんでよかったと本気で思ってる。きっとアイちゃんが相手だったから本気で挑めたし、心から負けを認めることができた」
コトリちゃんは真っ直ぐアイちゃんと目を合わせて告げる。
「これからもセイヤ君の、、私の大切な友人の話をたくさん聞かせてよ。遠慮しなくていいから、少し複雑かもしれないけれど、私はアイちゃんとそんな友だちになりたい」
目の前にいる小さな女の子を見て思う。セイヤを除いて最初に彼女と話をしたのは俺だ。あの頃はじっと下を見て、まともに言葉を返すことができなかった女の子。ただ可愛いだけの女の子。そんな子が真っ直ぐに相手の目を見て、心からの言葉を丁寧に整理しながら伝えている。
正直なことを言ってしまえば、俺はシラヌイ コトリという人物を侮っていた。好きか嫌いかで言えば可愛いから大好きだった。しかし、尊敬できるかという観点で言えば論外という評価を下していた。
けれど彼女は変わった。いつも間にか俺なんかよりも随分と先を歩いていた。
俺は真剣な話をするときに嘘をつくことはあまりない。だけど本心で話すことはもっとなかった。いや、さらに正確に言えば本心で話す方法がわからないのだ。なぜなら、己の本心がわかっているとは到底言えないから。
目の前の彼女はわかってる。本心と向き合い、他者と向き合い、相手に本心を伝えられるようになった。ただ伝えるだけでなく、相手のことも思いやりながら伝えられるようになった。
可愛いだけというレッテルを貼っていた女の子は、いつの間にか遠い先へと進んでいき、俺が欲する何かを持って手の届かないところへと行ってしまった。
「ありがとう。コトリ、大好き」
そう言ってアイちゃんがコトリちゃんを抱きしめる。
「キーッ!」
そんな感動的な場面へ水を差すように奇声を上げたのは、お手洗いから戻ってきたリホちゃんだった。
「なんでアイが私のコトリちゃんを抱きしめてるの!」
リホちゃんは訳のわからないことを言いながら、抱きしめあう2人に向かって指を差した。
「リホちゃん、今いいところだから一旦あっちに行こうか」
そう言ってリホちゃんの腕を掴んで連行する。おそらく人間の言葉ではない嘆きを漏らしているリホちゃんの姿に、抱きしめあった美しき2人の女性は呆れたように笑っている。
そうやってリホちゃんの腕を握って連行しているところに、お手洗いから彼氏のマサムネが出てきたが、またリホが奇行に走ったの?と一蹴され、彼女は反論を始める。
そんな茶番を横目に見ながら空を見る。今日は雲1つない晴天だ。太陽が眩しくなってきたが、凍える空気を少しずつ溶かしてくれるのでありがたい。
俺は友人に恵まれている。今日集まった全員が善い人だ。善いというのは、誰かが本気で嫌がるようなことを意図的に絶対にせず、反対に誰かが喜ぶことを積極的にやろうとする人たちという意味だ。
だからこうやってお互いに気を遣って居心地の悪い空気になっても、相手に配慮しながらしっかりと本心を伝えて、より一層深い関係を築く。きっとマサムネも、セイヤも、アイちゃんも、リホちゃんも、コトリちゃんも、アキラちゃんも、そうやって絆を深めて、人間性を深めて、先へ先へと進んでいく。
俺だけが、皆が進む先へと進めていない。
どれだけ友人に恵まれていても、本心を語れない俺だけが、本心を自覚できない俺だけが、伝えられず、どんどん遠ざかっていく。
物理的に手の届く範囲にいても、表面上の友好関係を築けても、俺自身が進むための体の動かし方を知らなければ、友人たちも俺を一緒に連れていくことはできない。
『コウって今悩んでいることある?』
まだ真冬の寒い日、急に吹っ切れたような様子のセイヤに言われた言葉。
きっとあの時も、きっと今も、彼は、彼らは俺に手を差し伸べているのだろう。
でもダメなんだ。
馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない。
皆が俺を水辺に連れてきても、俺には水の飲み方がわからない。
だから彼らが凡庸な友情以上の何かを築いても、俺だけはその何かを築けない。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
遊園地のフードコーナーの一角。何を食べるかゆっくり考える。
ゆっくり考えられるのは、今ここには俺とアキラちゃんの2人だけであり、他の5人はジェットコースターに乗っている。
長蛇の列に並んだところ、俺たちが最後尾であり、かつ2人は一緒に乗れずに次の回になるということだった。
公平にジャンケンをした結果、敗けたのが俺とアキラちゃんだった。
フードコーナーには様々な店が並列しているが、基本的にどこも混雑している。時刻は11時55分。これから最も人の多くなる時間帯だ。
「うわ、リホっちの声だけここまで聞こえるよ。どんだけ遊園地好きなんだ...」
ジェットコースターから上がる悲鳴の中で、一際大きいリホちゃんの声が聞こえてきた。今日ずっとリホちゃんのハイテンションに振り回されたアキラちゃんは疲れた表情で呟く。
「1年の頃、初めて一緒に来たときもテンション高かったけど、今日と比べたら全然落ち着いてたね。あの頃はかなりはしゃぐのを我慢してたんだろうな」
数年前を思い出す。当時リホちゃんに抱いた感想は、クールだけど遊園地ではちょっとはしゃいじゃう可愛い女の子だった。けれど今日は子供たちよりもはしゃぎ楽しんでいる。あの頃は俺もセイヤも顔見知り程度だったから抑えていたのだろう。あと、この数年で彼女の性格がクールではなくアンポンタンに変わったことも関係してそうだ。
「1年生の頃のリホっちって、今と違ったの?」
アキラちゃんが純粋な疑問をぶつけてくる。
「全然違ったよ。クールな感じで、笑った顔を見るのも珍しくて、大きな声を出したりは絶対にしなかったな」
「嘘だよ」
またまたご冗談をみたいな顔で彼女はこちらを見てくる。俺の嘘偽りない答えはいとも簡単に否定された。まあ、半年前より昔のリホちゃんを知らなければ、信じられないのも無理はないが。
「リホっちってよく変なツボに入って1人でゲラゲラ笑ってるし、コトリちゃん見つけたら大声上げながら飛びついてるし、バカやるときも悪ノリするのが私とアイなのであって、最初にやり始めるのは大体リホっちだし」
「どうしよう。リホちゃんがクールだったことは事実のはずなのに、俺が間違ってる気がしてきた」
自分の意見に自信を無くしたので、この話題はもうやめることにする。
「そういえばアキラちゃんはリホちゃんといつも通りの感じだね」
「?…ああ、マサムネと復縁したのにってことか。まあ、元々リホっちとは気まずい空気になるような雰囲気でもないし、何より私がマサムネに振られるところ盗み見されてたから、全部見られて逆にスッキリみたいな?」
「え!?」
盗み見という知らなかった事実に困惑する。
「ま、まあ、2人が気まずくなってないならいいんだけど」
困惑したままそんな言葉を送ってしまう。それに対して彼女は頬っぺたのところに手を添えて、OKサインを出しながらなぜか可愛い子ぶっている。
「マサムネとは大丈夫そう?普通に話してそうには見えたけど」
一番心配していた部分の質問をする。
「うん、大丈夫!モーマンタイ!マサムネは優しいから、振った相手でもしっかり受け止めてくれてるよ」
その彼女の言葉から考えてしまうのはマサムネの変化についてだ。昔は純粋無垢な少年といった印象だった。リホちゃんと付き合い始めてから徐々に大人に、言い換えればお手本のような社交性を身に着けた。リホちゃんと別れてからは恋に対して夢見がちな部分も抜けて、そのとき俺はマサムネに対してこう思ったのだ。
こっち側に来た。
つまり理想の中で盲目的に生きるのではなく、目を開けて現実を見た上で上手く立ち回り、模範的な幸福を叶える存在。俺と同じ場所に来たのだと思った。
俺はずっと内心で思っていた。理想を捨てられないセイヤに、熱に浮かされるアイちゃんに、純粋無垢なマサムネに、ずっと思っていた。
目を開けろ、と。
理想を他者に、世界に押し付けるなと。今ある世界を正しく認識し、上手に生きろと。
しかし、こっち側に来たと思ったマサムネは自らの意思で去って行った。
この数か月間、マサムネがずっと何かを考え込んでいたことは知っている。つい先日までその答えを出せていなかった。だけど、きっとあのイベントの日、彼は答えに辿り着き、彼の何かが変わった。
彼がまた理想の世界に戻ったようには見えなかった。ちゃんと目を開けているようには見えた。けれど俺とは違う道を進んでいる。
目を開けた彼は、現実を上手く生きるのではなく、別の生き方を選んだ。でもそれが何なのかわからない。
俺と同じ場所に辿り着いたはずの彼が、どこに行ったのかわからない。
「マサムネって変わったよな」
ついそんな言葉が飛び出してしまった。
「え?そうなの?私と仲良くなったときからは変わってない気がするけど」
彼女はうーんと考えるようなポーズをとって、思考する。
「あー、でも確かに、この前のミナラスの日からさらに優しくなったような」
彼女は曖昧な感想を口にしながら、さらに思考を深めて言葉を続ける。
「今まで私への向き合い方をどこか迷ってるような感じがしてたけど、その迷いが晴れたのかもね。だからこそ、私はあの日に振られたのかも」
どこか寂しそうに呟いて、それでも彼女は顔を上げた。
「マサムネは、何を想って迷いを晴らしたんだろうな」
雑談のような雰囲気で話したいと思ったが、その口調は随分と真剣なものになってしまった。
「今のマサムネは、リホっちの、私の、アサガオ君も含めて皆の、ありのままを知って、そのうえで愛そうとしてる」
俺の疑問を回答をあっさりと彼女は答えた。彼のことを語る彼女に瞳には、恋以上の想いが込められている気がした。
「だから私は、たくさんの私を知ってもらって、たくさん愛してもらって、たくさん愛を返そうと思う!あ、愛って恋愛的な意味じゃないよ」
彼女は自身の意思を話し、最後に大事な部分に注釈を入れる。
「俺なんかより、アキラちゃんのほうがマサムネのことよくわかってるんだな」
嘘偽りなくそう言った。合っているのかは定かではないが、俺がマサムネに抱いていた疑問を彼女は言語化し、それに対する彼女のスタンスまで言葉にした。
「そりゃそうさ。この半年間、誰よりもマサムネを見てきたのは私だからね。っていうか、マサムネ自身が相手のことをちゃんと知ったうえで愛したい的なこと言ってたしね」
最後におどけた口調で彼女は笑う。
「そうか」
誰にも届かない声量で呟いた。
マサムネは現実を上手く生きるよりも、向き合って愛する生き方を選んだのか。
それはとても面倒な生き方で、そう決意するだけでは続けるのが困難な生き方だ。でも、その先に心の穴を埋める何かがある気もする。
彼と話をしたいと思った。模範的幸福という心地良い湯舟で窒息しそうな自分を救い出してくれる気がした。
迷い続け、考え続け、感じ続け、答えを出した彼と話すことで、今度は自分があちら側へ行けるのではないかと、アサガオ コウはこの時思った。
迷うことも、考えることも、感じることも、己で答えを出すことも怠ってきた分際で、そう思った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
昼食を終えて男性陣でぬぼーっと休憩していると、女性陣の写真撮影タイムが始まった。
マサムネがカメラマンとして駆り出され、俺はセイヤと2人になる。
午前中にハイテンションのリホちゃんについていけてたのはセイヤだけだ。アイちゃんですら最後のほうは若干距離を取っていた。
そんなセイヤは流石というべきか疲れは見受けられず、午後からも楽しむ気で溢れている。
体力お化けのこの男はいいが、体力貧弱なのにフルスロットルで遊びまわっているリホちゃんのほうが倒れるのではないかと心配になる。まあ、そこはマサムネがちゃんと見ていてくれるか。
向こうではしゃいでいる女性陣と違って、俺たちの間にはゆっくりと風を感じるような時間が流れていた。
気温は太陽様のおかげで上昇し、上昇した気温を相変わらず冷たい風が冷やしてくれる。昼間は暑いかと思った中綿ジャケットも、定期的に冷たい風が吹いてくれるおかげで丁度良い具合だ。
膨れた腹と、上がった体温を冷ます風を浴びながら、眠たくすらなってくるこの空間で、俺は悩んでいた。
それは目の前のこの男、シラクボ セイヤに胸の内を打ち明けるかどうかをだ。
もっとも、上手く打ち明けられるほど感じている苦しみを言語化できないし、どのようなテンションで、表情で、声音で伝えればよいかもわからない。
やっぱりやめておくか。そう思う一方で、セイヤは俺の悩みと真剣に向き合ってくれるという確信が俺の心を揺らす。
ちらりと彼を伺えば、幾度も写真を撮り直す彼女らを見て微笑んでいる。
悩みを打ち明ける、軽く考え始めたその選択肢は、思っていたよりも大きく俺の心を揺さぶり、鼓動が僅かに速くなるのを感じる。
あぁ、俺らしくない。ひたすらにそう思った。自分で言うのもなんだが、周りからの評価も同じだろうからあえて言えば、俺は何でもスマートにこなす人間だ。仮に己の悩みをスマートに解決できずとも、悩みを他者に相談することくらいスマートにできるはずだ。
なのに言葉は喉元で引っかかる。プライドが邪魔をしているのか、自分ではよくわからない。
それでも数秒の時間を掛けて、こんなことスッと言えばいいと思いながら、緊張を感じて口を開く。
「セイヤ。俺、悩みがある」
緊張しているのにも関わらず、その口調も佇まいもやけにスマートで、自分は無意識に格好良い外側を作りだせてしまうのだと自嘲する。
胸の内を話すのは恥ずかしいのでセイヤのほうを見たくないと思いながらも、話し始めてしまえば俺の体は自動的に彼と目を合わせ、まるで内面の緊張がないような態度で声が出た。
「聞いてくれるか?」
悩んでいるとは思えないその凛とした美声は、本当の内面を覆い隠すように展開される。
「ああ、聞くよ」
てっきり彼は嬉しそうにするのだと思っていた。ずっと俺の悩みを聞きたがっていたからだ。しかし彼にそんな様子はなく、ただ誠実を絵にかいたような瞳で俺を見ている。
この後、俺は、この世に生まれてきてから最も、どの時よりも、何よりも、自分自身に絶望した。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
俺はセイヤに悩みを打ち明けた。本当に打ち明けようとしたはずだった。
でも俺の口から出た言葉は全て、表面的で、模範的で、薄っぺらい内容に装飾したようなものだった。
大学に入ってからの悩みだとか、春から始まる一人暮らしの悩みだとか、将来の悩みだとか、そういうものを適当に抜き取って、それっぽく装飾し、彼に伝えた。本気で俺の悩みに向き合おうとした彼に、偽りの悩みを伝えた。
なぜそんなことをしたのだろうか。
プライドが邪魔をしたのだろうか。
わからない。
わからない、わからない、わからない。
セイヤはそんな俺の偽りの悩みに真剣に向き合って、俺の立場になって同調し、誠実な態度で彼なりの言葉を伝えてくれた。
そして最後にこう言った。
「コウ、俺はずっと待ってるからな」
優しい声音に悲しみが混ざっているのに気付き、自分を嫌悪した。
これまでにも自信を嫌悪することは何度かあったが、他の人に比べれば少なかったのではないだろうか。
しかし、この日確かに、感じたことのない自身への気持ち悪さと、自身を殺してやりたいという衝動に駆られた。
なにより、、、
そんな衝動に駆られながらも、友人に対して偽りの相談をしているときでさえ、その男は優美であり、場に適した態度であり、模範的な表情と声音を崩さなかった。
アサガオ コウ、彼は偽り続けた。
これまで己の本心を他者に相談しようとしたことなどなく、この日初めて本心を打ち明けようとして気付いた。
自分は空っぽなのだと。求められる役を演じていただけなのだと。
与えられた役割に合わせて、周りから貼られたレッテルに合わせて、分厚く硬く外側をコーティングするように、模範的な人物を演じて生きてきた。
残るのは中身が空っぽで、外側には煌びやかな装飾が施される人形だけだ。
何のために生きているのかわからない、着飾ることが目的の人形。
彼は思う。
死んでしまえ。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
その子には3人の姉がいたが、広い家を持っていたので幼少期からその子だけの部屋が与えられていた。
部屋には小さな子供の背丈に合わせた棚があった。
棚に並べられるのは戦隊やロボットの玩具たちだ。
特にロボットの玩具はカスタマイズ性が高く、頭、胴体、腕、脚、武器、それぞれのパーツを好きにつなげることができた。
ロボットの組み立てにも飽きたころ、その子は次の玩具を探した。
お外でパーツを集め、組み立て、棚に飾った。
両親は温厚だった。
近所の子供たちから問題児として恐れられる姉たちに対しても、厳しく叱っているところを見たことがない。優しく注意する以上の姿を見たことがない。
だから、その子は心底驚いた。
そんな両親が耳が痛くなるほどの大声で、叫びのような恐ろしい声で、その子を注意した。
あの姉たちですらその子に暴力を振ったことはなかったので、初めてだった。
大人の本気の力で肩を強く握りしめられ、痛いと訴えても言葉は届かず、悲鳴のように怒鳴られ、心の底から恐怖を感じたのは初めてだった。
寛容な両親がその子に矯正を強いたのは、戦隊やロボットの玩具の横に並べられたそれを見たときだった。
バッタの頭、餓死した子鼠の胴体、カマキリの腕、脚として使われた生きたミミズ、背面に生える蛾の羽、武器として身に纏ったムカデの死骸、それらが器用にツギハギされていた。そんな異物が4体、5体と並んでいた。
その子は純粋だった。無垢だった。ロボットのパーツと生物の体は同じに見えていた。
なにより、ヒーローショーを見ているときよりも、お友達とかくれんぼしているときよりも、ロボットを組み立てているときよりも、家族で遠くに遊びに行ったときよりも、発見と思考を繰り返しながら異物と評されたそれらを作っているときが楽しかった。
その子にとって、その短い人生の中で、一番楽しいと感じている時間だった。
その時間を、その行為を、よりにもよって両親に、やりたい放題の姉たちにすら怒鳴ったことのない両親に、全て否定された。
表情から怒りが読み取れた。
声から困惑が読み取れた。
目から怯えが読み取れた。
両親の存在が世界の大半を占める年齢のその子にとって、その存在からの全否定は生命の危機に等しかった。
それ以来、その子は異物を作っていない。
両親の顔色を伺い、姉たちの顔色を伺い、学校の先生の、たくさんのお友達の、近所の大人たちの、関わる全ての人たちの、道ですれ違う全ての人たちの、想像の届く範囲の世界の人たちの、顔色を伺って過ごした。
そうして生きていくうちに、周りからは役割とレッテルを与えられる。
しっかりした子。優しい子。賢い子。格好良い子。可愛い子。
肯定される。肯定され続ける。純粋無垢だった頃の自分を否定すれば否定するほど、自分を偽れば偽るほど、肯定される。求められる。
模範的な発言を、模範的な行いを、模範的な表情を、模範的な生き方を。肯定される。求められる。
そうしてその子は、役割を全うし、貼られたレッテルに従い、模範的な幸福を手に入れた。
世界は叫ぶ。あの時の両親のように。
人はこうあるべきだと、叫び続ける。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
皆で次はあれに乗ろうと決めて、列に並んだタイミングで、お手洗いに行ってくると嘘をついて、場を離れた。
嘘が上手な俺は誰に疑われることもなく、適切な速さでその場を去った。
その直前に、俺の偽りを重ねた相談を受けていたセイヤだけが、表情に心配に色を滲ませていたが、追いかけてくるほどではないと確信があった。
自分に絶望したあの瞬間、なぜか鮮明に昔の記憶が蘇った。
完全に忘れていたわけではない。ただ気にも留めなくなっていた当時の記憶が、生々しく脳を走り回り、気持ち悪さで吐き気を覚えていた。
笑顔溢れる遊園地の隅で、何をするわけでもなく佇んだ。
時計の長針がゆっくりと回るのを見ていた。
まだ針が半周もしていないとき、1組の男女が目に入った。
男性のほうは知らない顔だ。知っているのは女性のほうだ。
その女性は高校1年生の3月から付き合い始めて、高校2年生の7月に別れた恋人だった。
少し離れた位置で今の恋人であろう男性と笑い合う女性の姿が目に映った。
別れを切り出してきたのは彼女のほうだった。あの時も何度も聞いた文言を聞かされた。
『私のこと、好きじゃないよね』
好きだった。確かに好きだった。言葉で、行動で、態度で、好きだと伝え続けた。
けれど、彼女も、他の子たちも、最後にはそう言って去って行った。
目の前にいるそのカップルは、心の底から楽しそうに笑い合っている。
女性の顔は笑顔でくしゃりと歪んでいる。
よく見た顔のはずなのに、初めて見る顔だった。
俺と付き合っていた頃もよく笑っていた。可愛い笑顔で、可愛く見える笑顔でよく笑っていた。
今、目の前にあるくしゃりと歪んだ笑顔ではなかった。
世界で一番幸せですと主張するようなその笑顔は、やはり俺には真の意味で人を幸せにできないのだと証明してしまった。
目の前の彼女は幸せになっている。
それを見ている俺は、常に自分は幸せだと言い聞かせなければ、自分を幸せだと思えない。
彼女は真っ当な人間で、俺はどこかが欠落している人間なのだと、確信してしまった。
俺はその場に蹲り、泣き出した。
そうしてもおかしくない心境なのに、俺は周りの目を気にして、世界の目を気にして、蹲りもしないし、泣きもしなかった。
時計の長針が半周しないうちに戻らなければ皆を心配させてしまうので、体が勝手に皆のところへ歩き出した。
俺の体は、表情は、声は、俺の心と連動していない。決められた行動を、決められた表情を、勝手に生成する。
俺はこの先も変わらず、清く正しく生きていく。そこに心の状態は考慮されない。どんなに苦しくても、辛くても、模範的に動作する。
ならば、もう心なんて必要ない。模範的に生き続けて、模範的に死を迎えて、終わるだけだ。
きっと俺は自ら命を絶つこともできない。それは模範的な行為ではないから。
俺の体が俺の心を無視して長い人生を生き続けるのであれば、心は捨てなければ苦しいだけだ。
ああ、そうか。
ずっと心に穴が空いている感覚だった。
だけど実際は、心と体がつながっていなかったのだ。
穴など空いていなかった。ただ引き裂かれていた。
あの日、異物をツギハギするのをやめたあの日、心と体のつながりも断ち切ってしまったのだ。
助けてと心が叫ぶ。
だけど、アサガオ コウという存在は助けを求めない。
アサガオ コウの役割は助けを求めることではない。
アサガオ コウに貼られたレッテルは助けを求める姿ではない。
だから、アサガオ コウという存在は助けを求めない。
きっとこの先、多くの友人を持ち、一流の会社に勤めて、評価の高い恋人を持ち、結婚して、裕福な家庭で子宝にも恵まれ、子供たちをどこに出しても恥ずかしくない立派な社会人に育て上げ、老後も社会に貢献できる活動をして、死んだ後も多くに人たちが葬儀に参列する。
周りの人々がアサガオ コウの人生はそのようになるだろうとレッテルを貼り、それに見合う役割を与えるから、それに従って体は勝手に動いていく。
そんな長い人生の中で心にどれだけの苦しみを抱えていようとも関係ない。
周りから見れば十分に幸福な人生だ。
そんな人生を幸福だと思いますか?
それとも不幸だと思いますか?
幸福でもあり、不幸でもあると思いますか?
考えるだけ無駄ですね。
そう思って彼は、目を閉じた。
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その後も俺は皆と遊園地を楽しんだ。
一生の思い出と言ったら大袈裟かもしれないけれど、でも案外最期に思い出すのはこんな日の記憶かもしれない。
それくらい今日は良い1日だった。
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大学生になってからも皆との交流は続いた。
流石に会う頻度はかなり少なくなってしまったけど、それも皆がそれぞれの道を歩んでいる証だ。
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就職した。誰が聞いても凄いって言葉を掛けられる一流企業だ。
幼い頃から優秀だと言われてきた俺も、流石に選ばれし者ばかりのこの会社では埋もれてしまう。
でも大事なのは一番になることではない。会社の一員として、自分にできることを精一杯頑張ることだ。
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就職してから久しく恋愛とは縁がなかったが、25歳にして恋人ができた。
頭が良くて、綺麗で、多くの友人に囲まれる素敵な人だ。
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付き合って2年と少し。恋人と籍を入れた。
血のつながりがない相手と家族になれるのは不思議であり、素敵だなと感じた。
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友人たちも幸せそうだ。それぞれの道を進みながらも幸せな生活を送っている。
久々に皆で集まって話をして、過去を懐かしみ胸は満たされ、未来に向けての気力も貰えた。
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子供が生まれた。何もかも初めてだけど、家族皆で協力して、立派な人に育て上げてみせる。
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一流企業なだけあって秀才止まりな俺では上へはいけないが、それでも子供たちを育てるお金は十分にある。
大きなプロジェクトにも関われて、とてもやりがいを感じられる。
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とうとう子供たちも成人した。ここまで一緒に育ててくれた妻には感謝だ。
子供たちはどこに出しても恥ずかしくない、立派な社会人になってくれた。
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歳も取り、仕事も引退だ。
時間ができたので旧友と会うことも多くなった。
今度、旧友たちと老いた体など気にせず旅行に行く。
もうすぐ孫も生まれるので楽しみだ。
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孫たちも大きくなってきた。
人生も終わりを意識し始める頃合いだ。
今は未来の子供たちのために、できることを精一杯取り組んでいるところだ。
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病院のベット。
周りには子供たちと、孫たちが私を囲んでいる。
陽だまりの中で眠るように、心地良い最期だ。
あぁ、自分はなんて幸せなのだろう。
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最期に目を閉じる間際、思い出す。
青春の終わり。遊園地に行ったあの日。
あの日は良い日だった。
そういえば最期に思い出すのはこんな日の記憶かもしれないなどと思っていたな。
まさか本当にその通りになるとは。
うん。あの日は良い日だった。
自身の目がゆっくりと閉じられる。
もう目を開けることもないだろう。
幸福の中で永い眠りにつく。
うん。あの日は良い日だった。
だってあの日は、、、あの日は、、、
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あの日は、目を閉じた日だった。
自分の■と向き合うことをやめた日だった。
この長い人生、閉じ込められた■がずっと叫んでいたが、その声は厚く厚く塗り重ねた外殻に覆われ、あまりにも小さい音だった。
今、よりにもよってこの最期の瞬間に、体が死を迎えたこの瞬間に、外殻は壊れ、■の叫びが鮮明に聞こえた。
■の叫び声が、鮮明に聞こえた。
心の叫び声が、鮮明に聞こえた。
誰か助けてと、鮮明に聞こえた。
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もしもあの日に戻れたのなら―――。
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「コウ!」
声が聞こえた。聞き慣れた声、つい先程も聞いた声。その声がやたらと懐かしく感じた。
「話をしよう。これまでと、これからの話を!」
忘れてはいない。目を閉じる前、ずっと苦しかったときも変わらず、俺の中で彼の存在は大きかった。
「…マサムネ」
つい数十分前にも呼んでいた彼の名が、なぜか懐かしむように口から零れた。




