14_未成年の主張
先程まで大盛り上がりだった会場は静寂に包まれている。
目の前に立つ少女は満開の花のような笑顔でこちらを見つめている。
俺の感情はぐちゃぐちゃになっていた。急に告白されたことへの驚き、その相手がコトリであることの動揺、なぜ気づいてあげられなかったのかという後悔、俺のステージを見事に奪われたという悔しさ、会場中から向けられる視線による緊張、胸が高鳴っているような冷や汗を搔いているような妙な感覚。
とても一言じゃ表せない感情の渦の中からコトリに返すべき言葉を探す。
「告白、、してくれてありがとう。嬉しいよ。それからごめん。気づいてあげられなくて」
彼女に酷いことをしてしまったなと思い返す。俺がアイに告白するための舞台を作るのに、彼女を巻き込んでしまった。悪気はなかった。悪気はなくとも彼女を傷つけていた事実は変わらない。そして、今からも俺は彼女を傷つける。大切な存在である彼女を、俺の選択で傷つける。
「本当に全然気づかなかったね。具体的に言うと2年半の間ずっと好きだったんだから」
コトリが答えた。つまり最初から俺は何も見えていなかったらしい。とんだ愚者だ。
「コトリ、ごめん。その気持ちには応えられない。俺、好きな人がいるんだ」
そう言った。彼女を傷つけるとわかった上で、俺は彼女を拒絶する選択をする。
会場が少しだけどよめいた。
「そっか。わかった。返事をくれてありがとうございました」
コトリは頭を下げる。
頭を上げた彼女の表情に涙は浮かんでいない。むしろ凛とした雰囲気さえ感じられる。
「ちなみに、セイヤ君の好きな人って誰なの~?」
いたずらをする子供のような表情と声音でコトリはそう口にした。再び会場の視線が俺に集中する。
「はぁ、やってくれたな」
からかうような目線を俺に送るコトリに対して小声で呟く。元より告白するつもりではあったが、今しがた振った女の子が目の前にいる状況、より会場の注目が集まった状況により、告白のハードルがグンと上がった気がする。
軽く深呼吸をして、会場側にいる彼女に語りかける。
「俺が好きなのは…」
そこまで声に出して言葉を止める。俺は目と首を動かして会場を見渡す。次第に会場がざわつきだす。
「あれ?」
俺と同じように会場を見渡していたコトリが声を上げた。
いない。いなかったのだ。コトリから告白される直前まで彼女の姿は確認できていた。
「セイヤ、今すぐ追いかけて」
急に下のほうから声がした。声の主はステージ下まで駆け寄ってきたリホだった。
「追いかけてって、、いったい、、えっと、アイは?」
混乱した頭でリホに尋ねる。
「逃げやがった」
「え?」
「コトリちゃんがセイヤに告白したタイミングで逃げ出しやがった」
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『わたしには好きな人がいまぁす!!!』
その言葉を聞いた瞬間、全身から冷や汗が出るのを感じた。未成年の主張で会場に立ったセイヤが何を言うのかドキドキしながら見ていた。おそらく高校生活への感謝とかを叫ぶのだろうと思いつつも、私への告白だったらと妄想を頭によぎらせていた。
そのタイミングでのコトリの告白だ。コトリが告白する相手なんてセイヤの他にいない。
この学校に、いや、私が今まで会ってきた人たちの中にコトリよりも魅力を持っている者は存在しなかった。
一方で可愛いことが魅力の私。可愛いだけが魅力の私。もし彼がコトリの告白を受け入れたらどうしよう。もし彼が告白を断ったとして、コトリが駄目だったのなら私にいったい何ができるのだろうか。
終わったように思えた。告白の結果がどうあれ、私の恋は断たれたように感じた。
『わたしは!シラクボ セイヤ君!あなたのことが大好きです!!わたしと付き合ってください!!』
コトリの大きな声が会場に響き渡る。その決定的な告白の言葉を聞いて、内臓が搔き乱されるような、脳を揺らされるような感覚とともに膝が震えだす。
断ってほしかった。セイヤに私以外の特別な存在なんてできないでほしい。
断らないでほしかった。コトリで駄目ならば、私はこの想いを一生抱えたまま生きていかなければならなくなる。
最初はキラキラした感情だったはずだ。自分のその感情に気づいたときは嬉しくて、彼に会うたび緊張して、駆け引きのように交わす言葉が楽しくて。そんな純粋な感情に彼との思い出をデコレーションしていくのは幸せで、心に空いている穴が満たされるような感覚を味わえた。
あの頃はそんなプラスの感情だけが溢れていたのに、時間が経つにつれてそれら感情は転じていった。好きに比例して不安が大きくなり、キラキラがドロドロに変わって、彼と仲良くする女の子を妬む気持ちで溢れそうになった。
本当はコトリと仲良くしてほしくなかった。リホとも、アキラとも、キクチとも、アサガオとも仲良くなんかせずに私だけを見ていてほしかった。
容姿だけは優れているから、だからお願い、私を見て。
そんなことを思いながら私は下を向いた。日に照らされた海のようにキラキラで、虹のように美しいコトリのほうを見ていられなくなった。
周りのみんなはコトリによる突然の告白に驚いた表情をしている。そんな中、私だけが違った表情をしていた。手に持っていたグラスへと注がれた水に私の顔が映る。
眉間に皺を寄せ、口の形を歪ませて、嫉妬に穢れた醜い顔がグラスの水面に映っていた。
その醜く歪んだ己の顔を見て我に返る。
あぁ、優れていると思っていた容姿すらもこんな嫉妬に堕ちた顔では台無しだ。とうとう私は彼に見せられる姿を残していなかった。
ふと顔を上げる。
優しくて、頼りになって、かっこよくて、可愛くて、誰かのために頑張れる。なんだ。あの2人、どうしようもないくらいお似合いじゃん。
私の恋がもうすぐ終わる。咲いて、枯れて、腐って、それでも執念深く散ることはしない私の恋が強制的に終わりを告げる。
恋なんてしなければよかった。恋以外にだって楽しいことはたくさんある。きっと恋さえしなければ私は美しいままでいられた。こんなに醜くならずに済んだ。
ちゃんと目の前にある告白の結果を見届けるべきだとわかっていた。でも頭でいくら理解したところで心が従うわけではない。限界だった。これ以上のことを受け入れる隙間なんて私には残っていなかった。
だから私は彼女の告白の結果を見届けずに逃げ出した。
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少しだけ昔、あるところにお人形さんのように可愛らしい女の子がいました。
その女の子のことを両親はとてもとても可愛がって育てました。
女の子を可愛がったのは両親だけではありません。
学校の先生、クラスの男の子、クラスの女の子、周りの大人たち、周りの子供たち。
とにかくたくさんの人たちが女の子を可愛がりました。
その人たちはみんな口をそろえてこう言いました。
「可愛いね」「可愛いなぁ」「カワイイ」「可愛いねぇ」「かわいいね」「可愛いよ」
女の子は自分が可愛いのだと自覚します。
ときには女の子に酷い言葉を投げかける人たちもいました。
そんなとき、女の子の容姿に魅入られた人たちはこう言います。
「嫉妬だよ」「嫉妬だね」「ただの嫉妬よ」「嫉妬なんてダサいね」「嫉妬されるのも大変だね」
女の子は自身の可愛さを誇らしく思うとともに、持たざる人たちへ慈悲の感情を向けました。
女の子が少し大きくなってからも、周りから掛けられる言葉は変わりませんでした。変わらず女の子は愛され続けます。
変わったことといえば、周りに掛けられる言葉です。
「あの人は数学が得意」「あの人はバスケが上手」「あの人はピアノで賞を取った」「あの人は誰に対しても優しい」「あの人はリーダーシップがある」
可愛いが正義だと思っていた女の子は、可愛い以外にもたくさんの正義があることを知ります。
女の子は少しだけ不安になりました。なぜなら可愛い以外の誉め言葉を、女の子は受け取ったことがありません。
みんなはいろいろとできることがあるのに、女の子にはなんにもありません。
女の子はそれでもいいかと思うようにしました。
だって可愛いは正義で、自分の可愛いがなくなることはないのだから。
でも、やっぱり頭をよぎることはあります。
―もしも自分が可愛くなかったら―
両親は、学校の先生は、クラスの男の子は、クラスの女の子は、周りの大人たちは、周りの子供たちは、女の子を褒めてくれたでしょうか。認めてくれたでしょうか。
女の子は今日も可愛い容姿のまま生きています。それで十分のはずです。可愛いだけでいいはずです。
もしも醜い姿に変わり果ててしまったときはみんな離れていくかもしれません。
そんな不安はずっと胸の内にあります。
でも大丈夫。
女の子の生まれ持った容姿は変わりません。
明日も可愛い女の子は生きていきます。
めでたしめでたし
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わからない。さっぱりわからない。
彼女が逃げ出した理由も、どこに逃げたのかもわからない。
思えば昔からずっと人の心の内を察するのが苦手だった。マサムネがリホに惚れていたことも、リホにもその気があったことも、アキラがマサムネに惚れたことも、コトリが俺に想いを抱いてくれたことだって、言われるまで気づかなかった。
唯一、気づけたことと言えば中学の頃にアイが俺に想いを寄せていると勘付いたときだ。あれだって実際に告白されるまでは確信を持っていなかった。どうやら俺は鈍いとは言わないまでも鋭くはないらしい。
だからこそ言葉を交わさなければならない。言葉を交わしたって相手が何を考えているのかわからないときはたくさんある。つまりそれは、言葉を交わさなければさらにわからないということだ。
だから俺は逃がさない。ちゃんと言葉を交わす。母親や小学校の同級生たちと話をして、少しだけお互いに理解することができることを知った。俺は理解したい。好きな人も嫌いな人も何を考えているのか知りたい。
この先、たくさんの人と話をしなければならない。小学校でいじめを受けていたあの女の子、心から嫌いだと思ってしまったヒムロ。そして今はアイだ。
走る。学校の廊下を走る。数キロ走った程度では途切れないはずの呼吸が、やけに乱れていることを感じながら走る。
彼女の行先、思い当たる場所に次から次へと訪れる。しかし、彼女は見つからない。
あれだけ一緒にいて、あれだけ想っていても、彼女がどこへ行ってしまったのかすらわからない。
自分の情けなさを俯瞰してしまったような感覚に陥る寸前、リホの姿が頭をよぎる。
思い出すのはあの日のこと。凍える寒さの中、屋上で彼女から精一杯の力で殴られた。
俺の人生を動かすきっかけになったあの日。そう、あの日に決めたのだ。
「俺がみんなを幸せにする」
独り薄く微笑んでそう呟いた。
俺の傲慢で強欲な願い。決して独りでは叶えられない願い。
今回のイベントも当然独りでは成せなかった。皆がいたから叶えられた。
これからだってそうだ。独りじゃ大したことはできないくせに、望みばっかり大きな俺を助けてくれ。俺も皆を助けるから。
アイが逃げた理由はわからない。彼女が辛いなら必ず助けてみせる。俺で力不足なら、皆も協力して彼女を助けてくれるはずだ。
だから足は止めない。彼女の行先はわからない。それでも彼女がいると思う方向に、前だと思う方向に、精一杯進み続ける。
正しいか間違っているかなんてわからない。それでも思う。わからなくても、見えなくても、不安でも、自分の意志で進んだ先の世界を見たいのだと。
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皆瀬川高等学校は1階が3年生、2階が2年生、3階が1年生の教室となっている。
そして私は3階にある1年D組の教室にいた。別に理由はなかった。とにかく逃げたくて、3階まで走って、気づけば2年前まで毎日出入りしていた教室にいただけだ。
浅い呼吸を繰り返し、混乱した頭で、青ざめた顔から涙が零れるのを感じた。
何の涙なのだろう。不安、絶望、自己嫌悪、そんな単語が頭の中を巡る。
この教室を見て思い出されるのは、文化祭で縁日をテーマに出し物をしたことだ。クオリティの高い装飾を施されたあの日の教室はとても好きだった。忙しかったけど楽しかったから頑張れた。1年生の文化祭で思い出される顔はキクチの顔だ。私の我儘を一生懸命に手伝ってくれた。そして記憶が蘇る。あの時も私は、キクチを私利私欲のために利用したのだった。まるで中学時代のヒムロのように。唯一セイヤが嫌った人。でも、少しでも何かが違っていたら、例えば出会った場所とか時期とか、そういったものが違っていたら、私もセイヤから嫌われていたのかもしれない。
空を見る。気持ち悪いほどに晴れていて、水彩画のように輪郭のぼやけた空は、私の胸に渦巻く負の感情を飲み込むように和らげる。
一度深く呼吸をする。その一度の呼吸で浅くなっていた息は落ち着いた。
戻らないと。そう思って足を動かそうとするが、震えて前に進めない。ここに来るまでに走れていた足は動いてくれない。
もし今頃、セイヤとコトリが結ばれているのであれば、祝ってあげないといけない。そう思うと恐くなった。彼らが寄り添っている姿を見て、泣き出してしまう気がした。罵ってしまう気がした。もしそんなことをすれば、私は永遠に私を許せなくなる。心の奥底にだけ存在した自己嫌悪が、私の全てを覆いつくしてしまう。
教室の窓辺、最後尾の席よりも後ろの隅に座り込む。顔を伏せ、嗚咽する。不思議と涙は出てこず、気色の悪い嗚咽だけが他に誰もいない教室に響いた。
次の瞬間、教室の扉が開く音がした。
バッと顔を上げる。扉の前に立つ姿を見る前に、頭の中にセイヤの姿が思い浮かぶ。優しい声で、柔らかい表情で、見つけたと囁く彼の姿を妄想する。ここまで自己嫌悪し、ここまで恋を諦めようとしたのに、そんな表面の皮をめくれば、未だに都合よく彼が私だけを愛してくれる妄想に耽る。そんな自分が本当に気持ち悪くて仕方なかった。
見たくもない扉の前に立つ姿を見る。
そこに立つのは、キクチ マサムネだった。
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「よう」
開口一番、俺は教室の隅でうずくまる彼女に向ってそう声を発した。
「…」
彼女は何も言わない。ただがっかりしたような、ほっとしたような、恨めしいような表情を順番に見せた。
本当に思っていることが顔に出る人だ。
俺はゆっくりと歩み寄って、教室の中央辺り、最後尾の席よりも後ろのスペースに腰を下ろす。
「どうしてこんなところにいるんだ」
幼い子供に声を掛けるみたいに、やんわりとした口調で彼女に問う。
「な、何でもないよ。ごめんね。なんか変なスイッチ入って、えっと…体が動いちゃった的な」
数秒前までの青ざめた顔色は半強制的にいつもの彼女の顔になった。つまり彼女は取り繕った。
「行こっか。せっかくのイベントが終わっちゃう」
そう言って立ち上がろうとして、彼女は立ち上がるのに失敗して跪いた。
「大丈夫?」
思わず心配してそう彼女に声を掛ける。
「だ、大丈夫。えっと寝不足でちょっとね。あはは。私もすぐに戻るから、キクチは先に戻りなよ」
取り繕う彼女は精一杯いつも通りを装ってそう言った。
「いいや、もう少しここにいるよ」
「本当に私のことは気にしなくていいから」
弱弱しく、でも独りになりたいのだという意思を宿しながら俺にそう告げる。
「無理してるでしょ」
短くそう言った。彼女のほうを見ると困ったように瞳を潤ませながら作り笑いをしている。
「なに言ってんの。さっきまで会場で楽しんでたの見てたでしょ。無理なんかしてないよ」
彼女は瞳に溜まった涙を必死に零さないようにする。
「俺の前で取り繕うことないでしょ。聞かせてよ。泣いている訳を」
無言の時間が生まれる。10秒くらいして、彼女はゆっくりと口を開いた。
「コトリが、セイヤに告白して、恐くなったの。どうしようもなく、恐くなったの。ダサいでしょ?」
自嘲的な笑みを浮かべて、彼女はそう言った。
「何が恐いの?」
俺は問うた。ただ問うた。
「なんだろうねぇ。失恋とか、そういうのが恐いってのもあるけど、でもたぶんそれだけじゃない。自分でも・・・私は一体、何が恐いんだろうね」
疲れた声で、さらに深く顔を伏せながら彼女は言った。
「私さ、可愛いでしょ」
「ミスコン2位になれるくらいには」
「去年は1位だったつーの」
鳴き声の混じった空元気の口調で返ってくる。
「私さ、ずっと一番可愛かったの。そりゃトップモデルとかに比べたら全然だろうけど、学校とか、小さな町とか、そんな枠組みの中では一番可愛かったの。それだけが…私の価値だったの。だけど、コトリは私よりも可愛くて、優しくて、人望もあって、勉強もできて、一生懸命で、一番愛されるべき存在で、実際に一番愛されていて。そんなコトリを妬んだ。妬みだけして、私は何もしてこなかった」
彼女はどこか一点を見つめている。まるで自分自身を意識しないようにするために、そうしているみたいだった。
「だから、そんな私とコトリを比べて、秤にかけて、セイヤにふさわしいのは、どう考えたってコトリだった。私はいらなかった」
教室は静寂となる。彼女の涙はまだ瞳に溜まったままだ。
「俺は、ナガさんのこと好きだよ」
一点を見つめていた彼女の目が、顔ごとこちらを向いた。
「顔が?」
「違えよ」
キョトンとした顔でそう問うてきた彼女に否定で返す。
「いや、今のは俺も言葉足らずだったけど。顔でも、もちろん恋愛感情でもなくて、ただありのままのナガさんが…」
そこまで言って言葉を止めた。ありのまま、それは今使うべき言葉ではないような気がした。だって俺がありのままだと思っているナガさんはきっと、ナガさん自身にとってはどこか取り繕っている姿なのだ。
「ありのままのナガさんなんて、俺は知らないな。俺だけじゃない。きっとセイヤも、リホですら知らない。でもね、ナガさん。俺は、俺たちは、いつもくだらない話をしてるナガさんが好きだよ。そしてきっと、ありのままのナガさんだって好きだよ」
そう告げた。本心だった。俺はナガさんが好きだ。リホも、セイヤも、コウも、クルスも、シラヌイさんも好きだ。人類皆が好きってわけじゃない。ただこの短い人生で、話して、笑って、怒って、見て、そういう積み重ねを経て、俺は周りの皆が好きだと思う。
ここ数カ月、恋だとか愛だとか、難しいことをずっと考えていた。だけど、俺の気持ちは至極簡単で、理屈とかをこねくり回さずとも、なんとなく、みんなが好きだと、そう思うのだ。
「本当は今だって、俺は空気を読んで会場に戻ってればよかったんだ。そうすればナガさんが独りでゆっくりと気持ちの整理ができて、きっといつも通りの調子で俺たちと話すんだ。だけど、俺は踏み込みたかったんだ。ナガさんが抱えている苦悩に、本当の意味で共感なんてしてあげられないってわかっていても、理屈とか抜きにさ、ナガさんのこと好きだから、打ち明けてほしかったんだ」
いつもなら気持ち悪いと一蹴されるだろう。でもナガさんは俺の言葉を否定しなかった。ゆっくりと飲み込むように、じっと俺のほうを見ていた。
「私、可愛いだけの女の子だよ」
無表情のまま、彼女は俺に言う。
「なんでそう思うの?」
「だって私、何もできないから。いつも優しい誰かを利用して、依存して、美味しいところだけ貰って生きてきたから」
彼女の目元に皺が寄る。己への嫌悪で怒っているように見えた。
「ナガさんは何もできない人なんかじゃないよ。でもね、俺がナガさんに知ってほしいのはそういう何ができるできないの話じゃないんだ」
彼女をしっかりと見て、俺は言葉を続ける。
「俺たちは別に、ナガさんがこれができるから好き、これができないから嫌い、そんな風に決めている訳じゃない。ただなんとなく好き。なんでかよくわからないけど一緒にいて楽しい。ナガさんの持っている容姿だとか、人望だとか、そういう評価なんかはしてないんだ」
彼女と目が合う。
「人はきっと、本来はそういう理屈なんて関係ない感情に、明るい人だからとか、変なことばっか言う面白い人だからとか、そういう理由を少し無理やりにでも当てはめてるんだ」
いつもは感情が顔に出る彼女は、今は無の表情で、ただ俺の言葉を待っている。
「だから、これが足りないだとか、ここが劣っているだとか、そういう考え方でナガさん自身の価値を決めつけないんでほしい。容姿だけが取り柄だなんて言うなよ。ナガさんがミスコン1位の容姿じゃなくたって、俺はナガさんのこと好きだよ。好きだから、今みたいに友達になっていたよ」
彼女の目に溜まっていた涙が頬を伝った。
「私、心の奥底では、キクチにも、コトリにも、嫌な感情を向けていたよ」
「俺だって、機嫌が悪い日とか、体調が優れない日とか、大切なはずの人たちに向けちゃいけない感情を抱くときもあるよ。ナガさんだって、嫌な感情を向けちゃうときもあるかもしれないけど、嫌な感情だけを向けていたわけではないでしょ?」
少しずつ、溜まった涙が零れていく。
「うん。一緒にいて楽しいって気持ちも、好きって気持ちもちゃんとある」
「それなら俺は十分だよ。一緒にいて楽しいって気持ちも、好きって気持ちも、嫌な感情も、全部受け止めたいって思うから、俺は受け止めるよ」
そうだ。俺は受け止めたいのだ。ナガさんのことを好きだと思う。俺の周りにいてくれる人たちのことを好きだと思う。好きな人からの感情は、嬉しいものでも、少し辛いものでも、全部受け止めたいと思うのだ。
「私、、私は、、そんなに大切にされるような人間じゃない」
少しずつ流れていた涙は、次第にボロボロと溢れ出した。
「コトリが、キクチが、リホが、たくさんのことをたくさん頑張ってきた。私は、頑張ってこなかった。自分可愛さに何もしてこなかった。そんな私が、ありのままを受け止めてもらうなんて、あまりに虫がいい」
体育座りの体に顔半分を埋めて、涙を流しながら目元に皺を寄せた彼女は、怒りの混じった複雑な心境を口にした。
「それでも、それでも俺は、全部受け止めるよ」
「...なんで」
それでも己の姿勢を変えない俺に、彼女は小さく呟いた。理解できないと彼女の表情が物語っていた。
「俺が、そうしたいからだ。誰かに頼まれたわけでも、義務感や正義感でもなく、俺がそうしたいと思うから。上手く理屈なんか説明できないけど、きっと一生綺麗に言語化することなんてできないけど、好きな人たちの全部を受け止めようとするのは、心地良いんだ」
自分でも説得力に欠ける言葉だと思う。それでもこれは正直な想いで、言葉にすればするほど遠ざかっていくようなこの感情は上手く言語化できない。
好きな人たちの全部を受け止めたい。半年前、俺がリホにできなかったことだ。彼女の感情を勝手に想像して、重荷に感じて、手放して、自由になれると思っていた。羽が生えたように自由になったその体には、ずっと胸の中心に違和感が残り続けていた。
俺があの時するべきだった選択は、手放すことではなく、寄り添うことだった。きっとお互いに完璧に理解することなどできないとしても、考えて、感じて、言葉を交わして、行動で伝えて、よく見て聞いて相手を知って。そんな選択をすべきだったのだ。
だから俺は、
だから僕は、
「だから僕は、選択する。手放すやり方じゃなくて、ちゃんと相手を受け止める」
教室に空白が生まれる。音が、空気が、静まり返る。彼女と目が合う。数秒、数十秒。錯覚かもしれないけど、言葉はないのに彼女と通じ合えている気がした。あぁ、きっと、こんな時間のために、僕は考え苦しみ足搔いてきたんだ。
「…キクチ、私もね、コトリみたいに頑張りたい。色んなことを頑張りたい。でもね、私、弱いから、自分に甘いから、すぐに音を上げると思うの。だからね、もし私がまた逃げ出しそうになったら、今みたいに受け止めて、そして背中を押してくれる?」
一言一言を区切るように、たどたどしく、幼子のような声音だった。
「もちろん。何度だって受け止めるし、何度だって背中を押すよ」
僕は微笑んでそう答えた。
「なんでキクチが泣いてるの?」
少し笑ったような口調で、彼女からそう言われた。目元に指先を当てると、微かに濡れていた。
「なんでだろ。わからないけど、なんだかナガさんとこんな会話ができたのが、嬉しくって」
やけに素直に答えてしまった。後から思い返して恥ずかしくなるやつな気がする。でも今は、もう少し。
「私、行ってくるよ」
彼女は立ち上がり、俺に微笑みかけた。俺もゆっくりと立ち上がる。
「コトリの告白の結果がどうだったにせよ、私の気持ちを、私の言葉で、セイヤに伝えてくるよ」
涙で目は腫れて、体はまだ少しだけ震えていて、それでも前を見て彼女はそう言った。
「キクチ、言葉の通り背中を押してほしい。強めでお願い」
教室の扉の前に立ち、彼女は振り向かずにそう言った。
「わかった」
自分の頬が緩むのを感じながら僕は答える。
流石に本気の力でやるわけにもいかないので、力加減は調整しつつ、でもしっかりと想いを込めて、強く彼女の背中を押した。
「キクチ!いってきます!」
「ああ、いってらっしゃい」
そんな短い言葉を交わして、彼女は走り出した。
彼女とセイヤの結末がどうなるのか僕は知らない。両想いであることは知っているけど、結果がどうなるかなんてわからない。それでも大丈夫。壁にぶつかるたび、悩んで、足搔いて、もがいて、僕らは今を生きていく。
彼女が決着をつけるように、僕も向き合わないといけない相手がいる。
その相手に電話を掛けようとスマホを開く。
ふと空を見上げると、水彩画のような幻想的でありふれた空が広がっている。
窓の鍵に手を掛け、静かに開く。次の瞬間、爽やかな風が教室を駆け抜け、廊下へ流れ、あっという間に校舎全体の空気を入れ替える。そして、ひらひらと一枚の花びらが机に落ちた。学校より高い位置にある丘から舞ってきたらしい。まだ時期ではないが、常に日差しが当たるような暖かい場所では桜も咲き始めているみたいだ。
机に落ちた花びらを手のひらに乗せて眺める。するとまた風が吹いて、僕の手のひらから花びらを攫い、3階の教室から下へと踊るように落ちていった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
走る。走る。全速力で駆け抜けていく。
ふと校舎内に春風が吹き抜けた気がした。
彼はまだ体育館にいるのだろうか。
そうだとしても、そうでないとしても、私の声が彼に届く舞台へと走り続ける。
走り切って、息が整わないままに叫ぶ。
学校で一番高いこの場所は、よく陽が当たるのと、数秒前まで走っていたのとで暑さを感じる。
それでも心地良い風が頬に当たり、少しだけ体温を安定させる。
走って、風に吹かれて、ボサボサになった髪を直さないまま私は叫び続ける。
彼の名前を叫び続ける。
しばらくして体育館から数人、十数人と生徒が出てくる。そこに彼の姿は確認できない。
運動場で部活動に励んでいた生徒たちも足を止め、こちらを見上げている。
それでも構うことなく彼の名前を叫ぶ。
叫んで、息継ぎをして、また彼の名前を叫ぶ。
目下、体育館からではなく校舎から彼が出てくるのが見えた。
彼と目が合うのを確認して、最後にもう一度だけ彼の名前を呼ぶ。
「シラクボ セイヤ君!」
体育館にいた生徒もほとんどが外に出てきて、私を見上げている。
「私は!あなたのことを!」
広大な宇宙の、無限にすら思える星々の、ちっぽけな惑星の、とある島国の、小さな町の、平凡な学校の屋上で、私は精一杯に叫んだ。




