12_卒業
『愛は永遠じゃないの』
また夢を見ていた。よく見る夢だ。少し前まで悪夢だと思っていたそれは、ここ最近だと気に留めることもなくなっていた。気に留めていないと言いつつ夢には見るのだから、心の奥底では気にしているのかもしれない。まあ、だから何だという話だ。心の奥底で気にしていたって、奥底以外では既に乗り越えているのだから気持ちは軽い。目覚めの良くなった俺の体は無意識に洗面台へと向かう。
先週までこの街を襲っていた寒波は跡形もなく去ったようで、昨日までに比べても今日はやけに気温が高い。朝の時点で暖房は点けなくてもいいかなと思うくらいには暖かいので、昼頃は少し暑いくらいかもしれない。久しぶりにぬるま湯でなく冷たい水で顔を洗い、いつものようにキッチンへ向かう。簡単な朝食を作り、皿を並べていく。いつもは気にしないのに、今日は鏡に映った制服姿の自分をじっくり見る。この格好がもうすぐしたらコスプレになるのだから時間というのは残酷なものである。
作った朝食をパクパク食べていると父が寝室から出てきた。今日は起きてくるのが少し遅いなと時計を見たが、どうやら俺の行動がいつもより早かっただけらしい。
「おはよー」
「おはよう。どっこらせ。いただきます」
すっかりおっさんになってしまった父のいただきますを聞きながら目玉焼きを飲み込む。
「母さんに会ったらしいな」
しばらくしてから父が言った。
「うん。先週、片道2時間かけて会ってきた。遠かったなー」
俺は母と会った時のことを思い出す。ていうか、会ったこと言ってなかったけ?受験勉強とかイベントの準備とか忙しくて伝え忘れてたかも。
「どうだった?」
「普通に元気そうだったよー。再婚相手との子育てで苦労してるみたい。あ、顔はだいぶ老けてたな。昔はあんなに綺麗だったのに」
改めて時の流れの残酷さに思いを馳せる。
「その…嫌な思いとかしなかったか?」
父が聞きづらそうに質問してきた。こんな気まずそうな父はめずらしい。父が仕事から帰ったら家にアイがいた時より気まずそうにしている。
「いや、特には。家出てった時に嫌な思いしたことは直接伝えて謝ってもらえたけど。その後は普通に近況報告して、雑談して帰ってきた」
正直なところ、俺の中で母のことに関しては非常にあっさりと解決している。会う前は緊張していたが、会って姿を見たらこの人も普通のおばさんなんだなと思い、なんだか許せてしまった。謝ってもらおうとは決めていたので形式的に謝罪を要求したが、その前の時点で怒りの感情とかはほとんど残っていなかった。
小さい子供にとって親というのは偉大な存在で、でもそんな親も世の中に溢れている普通の人なんだと気づく時が来る。大抵の人はそれに気づく時期が反抗期と重なっているんだろうけど、俺の場合はそんな時期に母親がいなかった。母親と会うことでようやくそれに気づけたのだ。良くも悪くも親が凡人だと知ることで、子供は一人前の大人へとなっていくのだろう。
「そうか。ちゃんと話せたんならよかった」
父は安心した顔でそう言った。
「俺がお母さんと会ったこと知ってるってことは、お父さんは連絡取ってるってこと?」
「連絡先くらいはお互いに知ってる。離婚した後もお前のことで数回はやり取りしているしな。今回は数年ぶりの連絡だったがな」
どうやら俺の知らないところで両親は連絡を取ることもあったらしい。
これから先、両親が再び一緒に住むなんてことはないだろう。母は再婚しているわけだし。でもそれはどうでもいいと思えた。両親の関係がどうであれ、俺の父と母であることは変わらないのだから。
「あ、そういえばお母さんと会った後に小学校の同級生と会ったよ」
「お前が懲らしめた奴らか?」
「そうそう。人脈をつたったら何人かと連絡取れたから」
俺の友達をいじめていた人たちのことだ。俺から会おうとしていてなんだが、彼らもよくボコボコにしてきた奴と会おうと思ったものだ。
「どうだった?」
「人それぞれって感じかな。何事もなかったかのように振舞う人、俺にビビってる人、俺を恨んでいる人、謝ってきた人」
一概に誰が心を入れ替えていて、誰がクズのままだとかは言えない。俺を恨んでいる人も内心では過去のことを反省しているように見えたし、謝ってきた人は罪悪感から救われたい一心だったようにも見えた。ちょっと話したくらいじゃ大したことはわからない。
彼らがいじめに加担していたことを許すことはないが、それはそれとして今の彼らのこともちゃんと見ようと思った。醜いと決めつけて見ないように目をつぶるのはもう終わりだ。俺は目を開けて生きていく。
「まあ、人間だからな。人の数だけパターンがあるさ。それに善人と悪人で綺麗に分けられているわけじゃない」
父がそう言った。その意見には同感だ。人間とは優しさも醜さも持ち合わせている変な生き物なのだ。
「あと、そいつらからあの子が今どこにいるかも噂レベルだけど聞けたよ」
「お前が救えなかった例の女の子か。会いに行くのか?」
「もちろん。ちゃんと謝って、ちゃんと友達にならなきゃ。といっても正確な情報はまだないから、会うのに時間が掛かりそうなんだけど」
あの子が俺をどう思っているのかはわからない。恨んでいるかもしれないし、忘れているかもしれない。それでも会いに行くことだけは決めていた。あの子のためでなく、俺自身のためにだ。願わくば、その行動があの子のためにもなればと思う。
「それじゃあ、食器洗いよろしくね」
朝食をとり終えた俺は歯磨きのために洗面台へと向かう。その後、身支度を済ませて家の玄関まで来る。
「いってきます!」
「いってらっしゃい」
父の落ち着いていて渋い声が返ってくる。今日は母のいってらっしゃいの声も聞こえた気がした。
玄関を出ると輝かしい太陽がなんでもない風景を照らしている。家の門を通過すると今日も1人の女の子が立っていた。
「おはよう。アイ」
「おはよう!今日はあったかいね!」
太陽に照らされた彼女はより一層美しく輝いて見えた。
俺たちは並んで歩きだす。歩き慣れたこの道も、いつかは懐かしい光景へと変わるのだろう。ふと上を見上げると桜の木のつぼみが大きくなっていることに気づく。
隣で鼻歌を歌っているご機嫌な彼女と一緒に登校するのもこれで最後だ。
今日は卒業式だ。
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春の日差しは暖かく、体育館には美しいピアノの音が流れていた。ピアノの音に合わせるように卒業生の名前が呼ばれていく。そこには目に涙を浮かべる者、友人と目が合い微笑み合う者、3年間に思いを馳せる者、暖かな日差しを浴びて眠りにつく者がいた。
「寝てんじゃねぇよ。起きろバカ」
この学校一の学力を誇る私にバカだと言い、隣の席から頭を小突いてきたのは我が愛しの人であった。
「人が気持ちよく寝てるときに何の用?まさか告白?それは大歓迎なんだけど時と場は考えてほしいかな」
「時と場を考えるのはお前だ。卒業式の最中に寝る卒業生なんて初めて見たぞ」
マサムネは私に注意する。告白じゃなかったようで残念だ。まあ、寝てた私がいけないんだけど。
「ちょっと寝不足でさ」
「勉強か?」
「いや、卒業旅行どこ行くか考えてた」
「マジで受験落ちればいいのに」
私の答えに彼の辛辣な言葉が返ってくる。卒業旅行なんて一生の思い出になるイベントを彼は軽視しているらしい。いや、大学受験という人生を左右するイベントを軽視している私が悪いか。
「あ、コトリちゃんの答辞まだだよね。あれは一言一句聞き逃せない。ほらボイスレコーダー持って来た」
「なに持って来ちゃってんだよ。先生にガチで怒られればいいのに」
「後でリホっちと鑑賞会するんだー」
「それシラヌイさんが本気で嫌がるやつだろ。それにリホはともかく、お前はいじるために鑑賞しようとしてるだろ。性格悪いぞ」
「私の考えを全てお見通しとは、さすがと言わざる得ないね。でも言い出しっぺはリホっちなの。許して」
「この場合、本気で答辞を鑑賞しようとしてるリホのほうがヤバいな」
彼はリホっちに若干引いている様子だ。思わぬ形で恋敵の好感度を下げることに成功した。
「"クルス アキラ"」
「はい!」
会話に夢中で気づかなかったが私の番が来ていた。私は何事もなかったように返事をする。マサムネは呆れたような顔でこっちを見ている。そんな顔もカッコいいよ!
「"キクチ マサムネ"」
「はい」
マサムネも返事をしてその場に立つ。卒業生の全員が壇上に上がって卒業証書を受け取っていては式が長時間となるため、壇上に上がるのはクラスの代表だけだ。
そんなこんなで卒業証書授与が終了した。その後はご来賓の方やらPTA会長やら校長やらの有難い話を聞く。もちろん私は居眠りなんかしていない。
「"在校生 送辞"」
そのスピーカー越しの声と共に壇上に上がったのはメガネちゃんだった。あの図書委員のメガネちゃんだ。てっきり現生徒会長の役目だと思っていたので意外だった。
メガネちゃんはお決まりの序文を読み上げていく。そこからはメガネちゃんの実体験と絡ませて卒業生たちとの思い出が語られる。途中でメガネちゃんが涙声になり、いつもツンツンしている子のそんな姿に思わず涙腺を刺激される。メガネちゃんはコトリちゃんを中心とした先輩たちへの感謝を述べ、送り出す言葉を読み上げる。
「さっきまで寝てたくせにめっちゃ泣いてんじゃん」
マサムネが呆れた口調で言ってくる。くそう。反論したいのに涙で前が見えない。
「だっで、あのメガネちゃんがこんなにも先輩のことを想ってくれていたと思うと」
あぁ、なんて良い後輩に巡り合えたんだ。彼女とは図書室とイベントの準備でちょっと話したくらいだけど、こんなにも私を想ってくれていたなんて。
「いや、図書室で騒いだり、イベントで使う小物壊したりしたお前のことは、たぶん大好きな先輩達に含まれてないぞ…」
マサムネがとんでもない言いがかりを付けてくる。確かに図書室で騒いで怒られたが、あれはメガネちゃんがツンデレだからだろう。小物を壊しちゃったこともお茶目な先輩だなぁとメガネちゃんの中で好感度が上がっているはずだ。あと最近気づいたんだけど私って勉強できること以外割とポンコツだ。
「"卒業生 答辞"」
コトリちゃんが壇上に上がる。あの小さな女の子をこの学校の生徒で知らない者はいない。彼女の鈴の音のような声で答辞が読み上げられていく。
その鈴の音に、生徒のみならず、教師も保護者も彼女に言葉1つ1つに向き合うため、姿勢を正したように感じた。
「先日までの激しい寒波も過ぎ去り、柔らかく暖かい春の光が私たちを照らす今日この日、私たち卒業生315名のためにこのような晴れやかで心温まる卒業式を挙行していただき、心より感謝いたします。先ほどは、校長先生、来賓の方々、在校生一同から励ましの言葉と温かい感謝の言葉を頂戴し、期待と不安が入り混じる新たな世界へと踏み出す勇気を貰うとともに、一抹の寂しさを感じております。
思い返せば3年前の春、私たちは真新しい制服に身を包み、不安と期待に胸を膨らませながら、この皆瀬川高等学校に入学しました。こと私に関しましては、極度の人見知りでしたので、不安のほうが圧倒的に勝っておりました。そんな私が今こうして壇上に上がっているのは、この高校生活での何ものにも代え難い貴重な経験の数々のおかげと言えます。文化祭の実行委員から始まり、生徒会選挙、ボランティア活動、学級委員長としての務め、体育祭のリーダー、そして生徒会活動。その全てが私にとってかけがえのないものでした。私を常日頃から見守ってくれていた先生方、支えてくださった先輩方、一緒に険しい道を歩んでくれた友人たち、こんな頼りない私についてきてくれた後輩たち、そしてこの18年間私に寄り添ってくれた両親に心からの感謝を申し上げます。
もちろんこの3年間は良いことばかりではありませんでした。クラスに馴染めず学校に行きたくないなと思う時期もありました。文化祭や生徒会選挙などの舞台に怯んで逃げ出したくなったことも一度や二度ではありません。何かに失敗する度、それがとても小さな失敗であったとしても、夜に思い出し眠れなくなることもありました。それらから逃げることなく正面から向き合うことができたのは、私自身の意志と、その意志を尊重してくれる皆さんの存在があったからです。そして何より、私が自分自身のために、本気で生きようと誓うきっかけになってくれた1人の友人と出会えたことは、人生における最大の幸福でした。
そんなたくさんの方々に支えられ、多くのことを学んだ高校生活の中で、気づいた1つのことについて話をさせていただきます。それは、1人の人間のことを、一言で表すことなどはできないということです。面接の時などに、あなた自身を一言で表すと何ですかと聞かれることもあるかと思います。私も受験のための面接練習の時にそれを聞かれ、考えてみました。私の場合は'人見知り'でしょうか。それとも'可愛い見た目の女の子'でしょうか。生徒会長を務めていたわけですから'リーダーシップのある人物'というのも当てはまるのかもしれません。他にも'消極的'だとか、全く反対の意味の'積極的'という言葉も当てはまるように感じます。先程もお話しさせていただいた通り、私はたくさんの経験をさせていただきました。それらの過程であった失敗と成功の積み重ねが今の私です。18年間の積み重ねが今の私です。それを一言で語ることはできないでしょう。
近寄り難いと思っていたクラスメイトが修学旅行をきっかけに同じ趣味を持っていたと知ったり、優しい人だと思っていた人が意外と毒舌だったり、生徒のことが嫌いなんだろうと思ってしまうくらい怖い先生が誰よりも生徒のことを考えてくれていたり。そんなたくさんの気づきが、何気ない日常と学校行事の中にありました。
私が皆さんに伝えたいのは、自分とは何者なのかを簡単に決めないでほしいということです。きっと皆さんも人間ですから、優しいところもあれば、醜い部分もあるかと思います。自分から見えている自分はこうだからとか、誰かにこういう風に言われたからとか、そんな狭い視野で自分自身の型を作らないでください。私が私のことを何もできない人間だと決めつけていたままだったら、私の高校生活は何もないままに終わっていました。人は誰だって可能性を秘めています。自分では気づいてなくても周りは知っていたり、周りは知らないけど自分では気づいていたり、自分も周りも気づいていないけれどいつか見つかるものだったり、そんな可能性に満ちています。そんな可能性に蓋をしないために、多くを知り、多くを学び、多くの人と関わり、何事にも本気で向き合いながら生きていきましょう。
居心地の良いこの場所を巣立つのは、とても寂しく、とても名残惜しいですが、ここで得た多くの学び、誇り、思い出を糧とし、これから先の人生を歩んで参ります。皆瀬川高等学校がこれからも色褪せることのない輝かしい歴史を刻んでいかれますことを祈念し、答辞の言葉とさせていただきます。
卒業生代表 シラヌイ コトリ」
感謝と生き方と寂しさ、そんな彼女の高校生活への想いを詰め込んだ言葉は、彼女の名前を読み上げられて終わる。きっと何を言うのかと同じくらい、誰が言うのかが大切なのだろう。彼女を見てきた私の心は揺さぶられ、さらに涙が溢れてくる。
周りの卒業生も、在校生も、先生たちまで涙を浮かべていた。彼女がこの学校にとってどれほどの存在であったかがよくわかる。
これはもう、後からいじったりはできないなぁ。それはそうとして鑑賞会はやるんだけど。リホっちは大丈夫だろうか。角度的に彼女の姿は見えないが、泣きすぎて過呼吸とかになっていないといいが。
その後、在校生が歌い、卒業生が歌い、最後に両者が校歌を歌う。
「"以上を持ちまして、第50回皆瀬川高等学校卒業式を閉会いたします"」
卒業式が終わる。この高校生活、完璧に過ごせたなんて言えないけれど、それでも一生忘れることはないだろう。特に最後の半年は楽しかった。
「"卒業生 退場"」
その言葉とともに私たちは式場を後にする。保護者席の中に両親の姿があった。私はウインクを送る。父は小さく手を振り、母は下手っぴなウインクを返してくる。我が母ながらお茶目だな…あと、あの年齢でウインクはちょっと…。
教室に戻ってから最後のホームルームが始まる。生徒が1人ずつ前に立って思い出や感謝を語り、最後に担任が私たちを送り出す言葉を口にする。
このクラスは内輪ノリで楽しむ系の陽キャが多めなので、マサムネなんかはあまり好きじゃなかったみたいだが、私は賑やかで割と好きだった。まあ、他所に迷惑をかける行為は駄目だと思うが。
ちなみに陰で悪く言っている割に、陽キャの彼らとは親友のように仲良く振舞うマサムネはコミュ力が高いと言うべきか裏表が激しいというべきか。
1時間ほどで最後のホームルームは終わり、今度は友人たちとの写真撮影会が始まる。
「あーあ、やっぱり今日まで髪を黒に戻すんじゃなかった」
私はぼやく。私は2日後が受験日となるので髪の色を戻したが、写真撮影を考慮していなかった。
「アッキーの金髪もすっかり見慣れたから、黒のほうが違和感あるかも」
友人の1人がそんなことを言ってくる。ちなみに"アッキー"は私のあだ名だ。名前がアキラだとあだ名が複数生まれるものである。
彼女たちとの記念撮影も終えたので、私は本命のほうへ向かう。彼が友人との記念撮影を終えるのを待ってから声をかける。
「マサムネ、一緒に写真撮ろう」
いつもはもっと軽いノリで話しかけられるのに、今回はやたらと緊張した。私の顔は赤くなっている気がする。恥ずかしい。
「うん、いいよ」
てっきり彼は嫌がるかと思ったが、あっさりと写真を撮ることを了承してくれた。
「あ、カメラ誰にお願いしよう?」
「これでいいじゃん」
そう言って彼はスマホの自撮り機能を使って私とのツーショットを撮影する。
「そういうのも撮ろうと思ってたけど、2人並んだ状態でも撮りたいの!あと、今の写真は送っといて」
雑にツーショット写真を撮った彼に不満を覚えつつも、口元はにやけてしまっている気がする。心なしか鼓動も早く、なんだか変な感じだ。
「私が撮りましょうか?」
そう声をかけてきたのは私の母だった。
「お久しぶりね、キクチ マサムネ君。お元気だったかしら?」
「ど、どうもご無沙汰してます」
母の問いかけにマサムネは気まずそうに答える。私の反抗期面談を開催したときに、母に対して彼の態度は悪かったのでそれを気にしているのだろう。母はそんなこと気にしていないのだが、丁寧な口調で社交辞令のような笑顔は確かに内心で怒っているようにも見える。
「娘と仲良くしてもらってありがとうね」
母なりに彼に歩み寄ろうとしている。実のところ家で私がマサムネの話ばかりするので、母の中で彼の好感度は勝手に上がっている。それを知らない彼は、暴言を言い合った相手が話しかけてくるこの状況にかなり警戒しているように見える。
「こちらこそアキラさんには勉強を教えてもらったりと日頃からお世話になっております」
彼は丁寧な口調で返答する。私に対しては普段から口の悪い彼だが、親の前では私を持ち上げるらしい。というか、マサムネって私に対してだけかなり口悪いよな。アイに対してもそれなりに悪いが、圧倒的に私への扱いのほうが雑だ。リホっちとかへの話し方とかは優しい感じだし。そう思うと腹立ってきたな。
「えー、マサムネは私が勉強教えようとしても逃げるじゃん。他の人に教わるからって。嘘はダメだぞ」
「おま、なんでこのタイミングでそういうことを…」
「あら、私の娘では嫌だったのかしら?」
ちょびっと不機嫌になった母を見て彼の顔は青ざめる。私としては日頃の鬱憤を晴らせて満足だ。彼は恨むようにこっちを見てくるが、そんな顔にもキュンとする私にはノーダメージだ。
「ま、そんなことはさておき、お母さんカメラお願いね」
私が広げた話題を私が無理やり終わらせる。母にスマホを渡して、彼の横に並んだ。
「それじゃあ、撮るわね」
そう言った母が数枚の写真を撮った。出来栄えを見てみるが私はなかなか可愛く映っている。
「マサムネは何で疲れた顔してるの?せっかくの記念写真なのに」
「お前が余計なことを言うからだ」
しまったな。せっかくの彼のカッコいい顔が疲れた男のカッコいい顔になっている。まあ、カッコいいからいっか。
「それじゃあ私たちは帰るよ。次に会うのは受験終わって、イベントの準備の時だね」
「そうなるな。お互い受験頑張ろうな。イベントの準備のせいで受験落ちたなんてことになったら笑えない」
「心配いらないよ。しっかり合格を掴み取ってくるさ。マサムネのほうもきっと大丈夫だから頑張ってね」
「ああ、頑張る。それじゃあ、またな」
「うん!またね。」
お互いの健闘を祈って私たちは教室を後にした。
終わるのを惜しむような足取りで廊下を歩く。ふと窓の外を見ると桜の木が並んでいるのが見える。花はまだ開いていないが、つぼみは随分と大きくなった。
廊下は明るく照らされていて、すぐ目の前には両親が肩を並べて歩く姿がある。窓とは反対の教室側を見てみるとまだ残っている生徒がいた。彼らは談笑しているようだが、どこか寂しそうにも見える。
毎年この国のあちこちで行われている卒業という行事。その中の平凡な一つの卒業式。そんな平凡ながらも大切な思い出となる時間を当たり前のように過ごせたことに私は感謝した。
そうして、私たち皆瀬川高等学校第50期生徒315名は卒業した。
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「よく乗り切ったね」
「うん、正直もう終わったと思った」
卒業式が終了し、ほとんどの生徒が帰宅した頃、2人の生徒が学校裏門辺りのベンチに腰掛けて話をしていた。
「コトリちゃんは良い意味でも悪い意味でも期待を裏切らないよね」
「はぁ、私はいつになったらコウ君みたいにスマートに何でもこなせるようになるんだろう…」
そう弱音をこぼすのはこの学校の元生徒会長である人物だ。
「まあ、昔に比べたら失敗もかなり少なくなったし、確実に成長してると思うよ。それはそれとしてコトリちゃんの場合は一定の間隔で何かしらやらかす気もするけど」
「うぅ、怒っていいところのはずなのに否定しきれない自分がいる…」
優しい顔をしたイケメンから発せられた意見に彼女は悔しがる。彼からそういう評価をされたことと、自身でもそういう評価になってしまうことに悔しさを覚えたからだ。
「でもいいんじゃない?たくさんの失敗の経験が今日みたいな対応力を育てたんだから」
「それはそうかもしれないけど、こんなの繰り返してたら心臓が持たないよ」
今朝のことを思い出し、彼女の顔は青ざめる。
「それにしても全部即興で話したのは驚いたなぁ」
「全部ではないよ。覚えてた部分もあったから。でも1月中には書き終わってたから、半分以上は忘れてたな」
「昨日の夜、読み返したりしなかったの?」
「学校に来てから読み返せばいいかと思ってて」
「その結果、家に忘れたと。直前まで本人に持たせておく学校側も悪いんだろうけど」
「そこは私が信頼されていたからこそだよ。見事にその信頼を裏切ってしまったわけだけど…」
「先生もかなり焦ってたね」
「それにしてもどこに置いたんだろう。ママとパパには卒業式に来る前に私の部屋を探してもらったけど見つからなかったし」
「まあ、書いた内容と違うこと話した以上、書き直しは必須だね。アレ、学校に提出しないといけないんでしょ?」
「うん。学校のホームページにも載せるみたいだから」
「まさかアキラちゃんのボイスレコーダーが役に立つとはね」
「アキちゃんの奇行も今回ばかりは助かっちゃったな。勝手に答辞の鑑賞会しようとしていたのは怒らないといけないけど」
以上が読み上げる答辞の用紙を家に忘れ、白紙の用紙を広げながら即興で答辞をやり遂げた彼女の後日談である。
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改札の外の椅子に腰を下ろす。高校生活が始まったばかりの頃は電車の乗り方がよくわからず、駅内に入るたび緊張していたものである。今となってはこの駅の内観も随分と見慣れてしまった。
もう少しで私が乗るべき電車が来る頃だ。親は車を持っているが、そもそも卒業式に来ていないため、帰る手段は普段と同じになる。別に親と不仲というわけではない。中学生の妹と小学生の弟の卒業式が被ってしまったため、そちらが優先された結果だ。私自身も親といるところを友達に見られるのは恥ずかしいので、妹と弟のほうへ行ってもらうよう促した。
ただの駅。この場所も随分と思い入れができたものだ。一番はやはりマー君と電車を待っていた時間が印象に残っている。どんな会話をしていたとかはぱっと思い出すことができないが、まだ電車が来なければいいのにとか考えていたことは思い出せた。
彼と会えるのはあと数回だ。イベントの準備とその当日。そのどこかで最後の告白をしなければならない。成功するにせよ失敗するにせよ、告白しなければ私は前へ進めない。もう彼への想いはバレているようなものだが、それでも明確に伝えなければと思う。
ふと私の隣の椅子を見る。ずっと座っているとお尻が痛くなるプラスチックでできたその青い椅子は、彼がいつも座っていた場所だ。今日も座ってくれていたらよかったのに。そんなことを考えていると、その場所に大学生くらいの見た目の女性が座った。彼かと一瞬でも期待してしまった私は無駄にがっかりしてしまう。
「リホ」
声が聞こえた。私は声がしたほうを見る。
「…何でいるの?」
私は目を見張る。見張った目には求めていた彼の姿が映っている。
「いや、大した用じゃないんだけど」
そう言って彼は小さなお守り袋を差し出してくる。
「これ、私に?」
「うん。昨日、コウとクルスと合格祈願に神社行ったから、そこでみんなの分を買った」
水色の小さなお守り袋を受け取り、優しく握りしめる。
「ありがとう。嬉しい」
自然と笑みがこぼれた私は感謝の言葉を口にした。
「他には誰に渡したの?」
「コウがナガさんに、クルスがセイヤに渡すことにした」
それを聞いていろいろと考えてしまう。マー君から私に渡すことを少なくともアキラは知っていたらしい。彼女がそれをどう思っているのかはわからない。嫌がっているかもしれないし、気にしていないかもしれない。私の受験へのモチベーションを上げるためにマー君から渡すように提案してくれたのではとも思いつく。実際のところはわからないが、アキラなら後者な気がした。わざわざ恋敵である私と仲良くなろうとした彼女だから、そう思えた。
「セイヤに渡すのがアキラなのは意外だね」
私は気になっていた部分には敢えて触れずにそう言った。マー君やアキラにどういう意図があったかなんて考えてもわからないままだ。でも、マー君が私のためにお守りをくれたという事実は揺らがない。
「男同士でお守り渡すの何か恥ずかしいじゃん。それに最近のセイヤって、言うのも言われるのも気恥ずかしいようなことすぐ言ってくるじゃん」
「あはは…なるほど。セイヤはかなりの心境の変化があったみたいだから」
確かに今のセイヤは恥ずかしいセリフを平気で言ってくる。まあ、彼がそうなったきっかけには私が絡んでいるんだけど。
「それじゃあ、お守りも渡したことだし俺はもう行くよ」
「うん。マー君も受験頑張ってね」
名残惜しさを感じつつも彼が去るのを止めようとはしなかった。
「うん、頑張る。リホも頑張って」
そう言って彼は私に背を向けて歩き出した。
私も電車の時間になったので歩き出す。お守りをぎゅっと握りしめながら最後にもう一度だけ彼の姿を見たくて振り返る。
「…」
振り返ると彼も私のほうを見ていた。目が合うと彼は胸あたりで小さく手を振った。
私はそれに対して大きく手を振り返した。




