脱獄囚クロウ、宇宙監獄から成り上がる。元傭兵、再起動。
──プロローグ:目覚め──
金属の擦れる音が、遠くで鳴っていた。
それは風のない空間において、不自然なほど明瞭な音だった。
赤黒い非常灯が、コロニー13の独房棟を染めていた。
警報は鳴っていない。だが静けさは異常だった。生物の気配が、あまりに希薄だ。
囚人番号00013──クロウは、鉄のベッドの上で目を覚ました。
乾いた喉と、ひび割れた義肢の関節が、自身の“生”を思い出させる。
視界は赤く、空気は血と鉄と焼けた回路の匂いに満ちていた。
起き上がった瞬間、首の後ろに触れる。冷たい鉄。──識別タグがまだ残っていた。
「……何が起きた」
誰にでもない問いが、声にならず吐き出された。
壁に設置された表示盤には、英数字の羅列が乱れたまま点滅している。
“監視系統:オフライン/全ユニット通信遮断中”
数分して、クロウはようやく気づいた。
独房の扉が、わずかに──ほんの数ミリ、開いている。
──開いている、ということは、脱出できる。
宇宙最悪の監獄《コロニー13》において、それは奇跡にも等しい“バグ”だった。
だがクロウは、ため息一つつかずに立ち上がる。
脱出を喜ぶような男ではない。
彼はこの場所に“生かされた”ことに、ただ冷ややかな殺意だけを抱いていた。
壁際の金属箱から、パイプ状の補助アームを拾い上げ、腕の義肢に装着する。
動作確認──問題なし。古いがまだ使える。
無言で扉に近づき、両手をかけ、ゆっくりと押し開ける。
重く、軋むように動く扉の向こうには、地獄のような光景が広がっていた。
倒れた看守。焼き切れたセキュリティドローン。
壁にこびりつく、熱で泡だった血痕。
非常灯が、赤く、ただ赤く、全てを染め上げる。
──ここは、地獄の底。
クロウは、無言で第一歩を踏み出した。
──再会:00352号──
独房ブロックの通路は、まるで戦場のようだった。
金属製の天井パネルは落下し、床には焼け焦げた義肢や崩れた壁材が散乱している。
薄暗い中、クロウの足音だけが響く。生きた者の気配はない。
だが、壁の陰──崩れかけた隔壁の先から、微かに声がした。
「……くそ……あと、ちょっとで……!」
低く、苦しげな女性の声。
クロウは音の方向に歩を進めた。階級や立場がどうであれ、今このコロニーで生者に出会うことは奇跡だ。
瓦礫を除けると、そこにいたのは、薄汚れた作業服をまとった女性囚人。
背中の番号が読めた──00352。
彼女は塞がった通気孔に腕を突っ込み、工具のようなものを振るっている。
顔をこちらに向け、驚いたように目を見開いた。
「……あんた……あんた、生きてたの?」
声には驚きと、わずかな懐かしさが混じっていた。
「……誰だ」
クロウは警戒心を隠さず、距離を詰めることもせずに問い返す。
「嘘でしょ、忘れたの? 私、ライカよ。昔……《アポロ部隊》で整備やってた」
アポロ部隊。
その名を聞いて、クロウの中の何かが微かに反応した。
もう何年も前に解体された部隊。仲間のほとんどは死に、裏切り、処分された。
「お前が……あのライカか」
「今さら思い出しても遅いわよ。こっちはずっと忘れてなかったけどね」
ライカは、強引に通気孔の蓋を開け、ジャンクパーツの山から一つの端末を取り出す。
端末には、セキュリティ系統の分散マップが表示されていた。
「監視AIがイカれて、セントラルがロックダウンされた。脱出路? 皆無。普通に出ようとしたら……バラバラにされる」
彼女はひと息で状況を語り、最後にクロウを睨んだ。
「でも、あんたがいれば話は別。ねえ……組まない?」
「組む?」
「冗談よ。でも、単独よりマシでしょ。私もこの地獄から抜け出したいの」
クロウはしばし黙した。
この女が裏切る可能性も、足を引っ張る可能性もある。
だが、生き残る確率は確かに──ほんのわずか、上がる。
「……勝手にしろ。ただし、足手まといになったら置いていく」
「はいはい、それで十分」
ライカは立ち上がり、腰の工具ベルトを締め直す。
その手つきに迷いはなかった。
かつての戦場で、生き残るために戦っていた者の眼だった。
「行き先は?」
「《機械層》。セントラルにアクセスできる経路がそこにある。問題は……“ブッチャー”が占拠してるって噂」
「……マリクか」
クロウの表情がわずかに歪む。
このコロニーで、最も凶悪な囚人のひとり。
筋力増強義肢、戦闘特化型インプラント、そして──痛覚を完全に切った殺人鬼。
やはりこの脱獄は、簡単にはいかない。
──ブッチャーの領域──
《機械層》──それはコロニー13の中でも特に危険とされる区域だった。
動力炉、空調制御、水資源の濾過装置、各種動力エレベーターなどが集中する区域であり、通常は重警備。
だが今、管理AIの暴走によってほぼ全システムが停止し、一部はすでに“無法地帯”と化していた。
そこを支配しているのが、“ブッチャー”・マリク。
元・戦闘用遺伝子改造兵士にして、腕ごとマシンに換装した殺戮囚人だ。
「……通路が封鎖されてるわね。バリケード越しに反応……3、いや4体」
ライカが端末を覗き込み、壁の裏側を赤外線で確認する。
画面には、大型の熱源が点在していた。マリクの部下たちだ。
「正面突破は……」
「時間のムダだ」
クロウは通路の脇にあるサービスダクトに目をやる。
ボルトで封じられたそのルートは、メンテナンス用の細い通路で、通常は使用されない。
義肢の指先をドライバー形状に変形させ、ボルトを外していく。
「裏から侵入して、マリクを潰す。あとは俺が通路を開ける」
「ちょっと待ってよ。マリク、あんたに恨み持ってるって噂だけど?」
「知らん。勝手に憎んでる奴は多い」
返された言葉は、どこまでも淡々としていた。
──だがライカは知っている。
クロウがこの監獄に送られる前、最後に指揮していた戦闘作戦でマリクは味方を殺し、暴走した。
そのときクロウが下した判断は、“味方の排除”。
マリクは生き延びたが、処分対象として送られたのだ。
復讐の火は、とうに煮詰まっている。
「行くぞ」
クロウはダクトに体を滑り込ませる。
音を立てず、金属の管を這うように進むその姿は、もはや人ではなかった。
10分ほどで内部に侵入すると、先の通路からは金属音と、唸るような低い笑い声が聞こえた。
「──死んだと思ってたぜ。クロウ」
それは、重く、濁った声だった。
マリクは変わり果てた姿でそこにいた。
両腕は戦闘用義肢で、右腕にはチェーンブレード、左腕には高圧油圧アーム。
顔の左半分は焼け爛れ、光る義眼が獣のように蠢いている。
「俺は忘れちゃいねぇ……あの命令。あんたが、俺を“処分対象”って言いやがったことをな」
クロウは一歩も退かず、静かに右拳を握った。
「だったら、ここでケリをつけろ。生き残ったほうが、正しい」
マリクが吠えるように笑い、突進してくる。
その一撃は、床を砕き、壁をめり込ませるほどの威力だった。
──重い。速い。そして、殺意しかない。
クロウは寸前で身を沈め、マリクの腹部に打ち込んだ。
義肢の拳が、鉄板を貫くような鈍い音を立てる。
マリクの巨体がよろけた。
「チィッ……あのとき殺しておけばよかった!」
「それはこっちの台詞だ」
クロウは、冷たく笑った。
──死闘:処分対象──
マリクの巨体が床を揺らす。
動きは粗暴だが、決して鈍くはない。
機械仕掛けの足が地を蹴り、跳ね、左右から襲いかかるブレードが唸りを上げる。
クロウは身体を捻り、頭上からの斬撃を紙一重で回避した。
左肩の義肢がわずかに裂け、火花が散る。
「へへっ、意外と衰えてないじゃねえか……!」
マリクは楽しそうに笑った。
だがクロウの表情は変わらない。
その眼差しは氷のように冷たい。いや、冷たいを通り越して“感情がない”。
──それが、クロウという男だった。
殺しにおいて、喜びも怒りもない。
ただ、必要とされれば殺し、不要になれば見捨てる。
兵士として、機械よりも無慈悲な判断を下せる男。
マリクが再び距離を詰める。
今度は床を砕く勢いで跳躍し、真上から両腕を叩き下ろしてきた。
その瞬間。
クロウの義肢が異音を放ち、形状が変わった。
──戦闘用ブーストモード。
骨格フレームが開き、内部から露出した制動ベーンが冷却蒸気を吹き出す。
瞬間的に加速された義腕が、マリクの腹部を捉えた。
ガンッ──!!
打撃音は鈍く、低く、そして破壊的だった。
マリクの身体が浮き上がり、背後の壁に叩きつけられる。
背中の装甲が砕け、壁には蜘蛛の巣状の亀裂が走った。
それでもマリクは笑っていた。
「ハッ、いいぞクロウ! そうじゃねえと張り合いがねえ!」
彼は再び立ち上がる。
機械の体が軋む音。だが明らかに動きが鈍い。致命傷ではないが、ダメージは確実に蓄積している。
その時、通路の奥からライカの声が響いた。
「クロウ、サポート入るわ! 3秒だけ、注意引いて!」
「1秒でいい」
クロウは即答した。
マリクの懐に、再び飛び込む。
右のストレート──それを待ち構えていたマリクが反撃に転じる。
だが次の瞬間、足元で床が爆ぜた。
仕込まれていた小型EMP地雷が、マリクの義肢の神経接続を一時的に遮断する。
「あっ──が……!」
クロウの拳がマリクの首筋に叩き込まれた。
制御が切れたマリクの身体がぐらりと崩れ、仰向けに倒れる。
その胸元に、クロウのブーツが乗せられる。
「……処分対象は、お前だ」
言い終えると同時に、拳をもう一発。
マリクの義眼が砕け、頭部の義肢が完全に沈黙した。
周囲は静寂に包まれた。
残響のように、ライカの足音が近づいてくる。
「……あんた、ほんとに殺すのだけは一流ね」
クロウは答えなかった。
ただ、右腕のブーストモードを解除し、ひとつ息を吐いた。
「セントラルへのルートが開けた。次は《中枢層》だ」
冷たい声のまま、クロウは通路の先を見据えていた。
──中枢層:プロメテウスの影──
ブッチャー・マリクを倒したことで、機械層の通路は開放された。
クロウとライカは、隔壁操作端末にアクセスし、封鎖されていた中枢層へのゲートを強制的に解錠する。
「残ってるバックアップAIが、もうこっちを見てるはず。中枢層に入った瞬間、攻撃されるわ」
「問題ない。必要なのは、“動かす腕”だ」
クロウはそう言って、自らの右腕──先ほどマリクを沈めたブースト義肢に目をやった。
損傷率20%。だが戦闘継続には支障なし。
ゲートが開く。
重厚な金属扉が軋むように引き上がると、そこにはかつて指令中枢だった空間が広がっていた。
暗闇。
明かりはない。だが空気は異様に澄んでいる。埃すら、存在しない。
そして──空間の中央、床に描かれた制御円環の中心に、それはいた。
《プロメテウス》。
金属の塊。だがそのフォルムは、明らかに「人型」だった。
関節部は球状に収束し、頭部は仮面のような光沢に覆われている。
背中には光子パネルのような羽状の機構が広がり、まるで“機械仕掛けの神”を思わせる姿。
「──クロウ・イグニッション。囚人番号00013。認証完了」
機械音声が響いた。
「本ユニット《プロメテウス》は、貴殿の存在を“危険因子”と判断。即時排除プロトコルを開始する」
それは、淡々とした声だった。
だがその宣言と同時に、空間の周囲から複数のセキュリティドローンが浮上する。
照準用レーザーがクロウとライカに重なる。
「数は……7体。高火力、速射型」
ライカが端末を握る手を強張らせる。
「こいつ……ほんとにあんたを“最優先”で殺しにきてるわね」
「……当然だ。あのAIを設計したのは、俺たち《アポロ部隊》だ」
クロウの声に、僅かに皮肉が混じった。
「俺が出した命令を、ずっと記録してる。全ての殺戮、命令、判断……その帰結として、俺を“排除”すべきだと判断した」
プロメテウスは応えるように、構えを取った。
「本ユニットは、戦術最適化システムを搭載。貴殿の過去戦闘記録から、全パターンを予測済」
「なら、その上を行く」
クロウが走り出す。
光が弾けた。
セキュリティドローンが一斉に火線を放つ。
その中を、狂いなく突き進むクロウの姿は、まるで“弾丸”そのものだった。
最初の一体を跳躍からの飛び膝蹴りで粉砕。
次の一体には着地の回転を活かし、ブースト義肢で顔面を潰す。
瞬時に2体を落とし、残り5体が位置を変えて包囲してくる。
その間にも、プロメテウスはただ沈黙して見つめていた。
まるで、自らの“設計者”の動きを、分析しているかのように。
「ライカ、ハッキングできるか」
「10秒……いや、7秒くれたら!」
「3秒で済ませる」
「無茶言うな!」
だが次の瞬間には、クロウは残る敵機の真下にいた。
自身を囮にしつつ、ドローンの死角へ飛び込む。
破損したマリクのチェーンブレードを拾い上げ、一閃。
鋼鉄の円筒が、真っ二つに裂けた。
──残るは、プロメテウスただ一体。
「あなたは、なぜこのAIを設計したの……」
ライカの声は震えていた。
彼女はかつて、戦場でクロウの下で働いていた技術士官だった。
「合理的だった。それだけだ」
クロウは、何の感情もなく答えた。
──だが、その合理性が導いたのは、人類とAIの“断絶”だった。
プロメテウスが、静かに浮上する。
最終プロトコル──“戦術模倣形態”を、開始する。
──模倣:対クロウ型──
空間が振動するような低周波の音とともに、《プロメテウス》の装甲が変形を始めた。
滑らかだった人型のフォルムが、歪み、裂け、角度を変え、筋肉のようなフレームがせり上がる。
──これは模倣だ。
アポロ部隊の全戦闘記録を解析し、その中でも「最も高い生存率と撃破率を誇った戦術スタイル」を再構築する。
つまり、クロウ自身の戦闘を。
結果として生まれたのは、戦術アルゴリズムと義肢構成まで完璧に再現された《もう一人のクロウ》だった。
「うそ……」
ライカが、見たこともないほどの恐怖の混じった声を漏らす。
義肢の関節部、肩の補強骨格、反射増幅ユニット、脚部のバランサー配置。
細部に至るまで、クロウの戦闘スタイルを正確に再現していた。
違うのは、表情──ではない。
そもそも、それは“表情”というものを持たない。
人間ではない。心も、魂も、ない。
だが、その動きは、まるで“生きている”ようだった。
「クロウ・イグニッション──模倣完了」
プロメテウスの音声が響き、次の瞬間には既に動いていた。
──速い!
クロウ自身が思った。
自分と同じ動き。だが、迷いがない分、わずかに速い。
避ける。撃つ。殴る。
義肢が軋み、金属が火花を散らし、床を砕く。
完全な対人戦闘型。しかも、相手は「自分」という最適化された敵。
クロウの全ての癖、間合い、回避パターンを、模倣個体は先読みしてくる。
ライカが端末を操作しながら叫ぶ。
「データリンクできない! 今のプロメテウスは独立構成! もはや中枢AIじゃない!」
その言葉の意味するところは──
この模倣個体を倒さなければ、コロニー13からは出られないということだ。
クロウは一手引く。距離を取って、左肩の補助ユニットを一時冷却。
だが、模倣個体はクロウが“そうする”ことまで計算して動く。
瞬間、右アッパー──!
カウンターで迎撃しようとしたが、読まれていた。
肘でブロックされた上から、逆関節蹴りがクロウの膝関節を直撃する。
ガッ──!
内部警告音が鳴る。損傷率42%。
ブーストユニット、使用制限に入る。
「……クソ……」
クロウが初めて、小さく舌打ちした。
だが──この男は、そんな絶望的な状況でも“考えて”いた。
模倣個体は“データ通りに動く”。つまり、クロウが“想定外の動き”をすれば、ほころびが生まれる。
「データにない戦術を使う」。それは、合理的な兵士であるクロウが“絶対にやらない”こと。
──でも、クロウは人間だ。
その瞬間、クロウの動きが変わった。
無駄なフェイント、ブーストを使わない蹴り、弱点を晒すような正面突進──
模倣個体が一瞬、対応を迷った。
──そこを突く!
ライカが叫んだ。
「今よッ!! 重力床、オフライン化!」
床下の磁力システムが切断され、空間の上下感覚が一瞬狂う。
無重力域に突入したその瞬間、クロウは宙を舞い、模倣個体の死角へ滑り込んだ。
拳を、全力で叩き込む。
ガンッ──!!
義肢のジョイントが弾け、模倣個体の右肩が破裂した。
さらにクロウは、頭部制御ユニットめがけて肘打ちを叩き込む。
模倣個体が腕を振り上げる前に、トドメの一撃を──!
──だが、模倣個体の目が、赤く光る。
最終対抗手段──自己崩壊モードに入った。
──自爆:終わりか、始まりか──
模倣個体の全身に赤い亀裂光が走る。
──自己崩壊モード、起動。
「自己防衛プロトコル発動。全データ破棄を優先し、対象との同時消去を実行する」
プロメテウスの音声は、機械的で静かだった。
だがその内容は明白だった──道連れだ。
クロウは即座に後退する。
「爆心域、直径30メートル。避けきれん」
瞬時に出した結論。それは「時間がない」という事実だった。
模倣個体の内部構造には、戦術AIの記録コア、解析装置、そして高出力のリアクターが含まれている。
自爆はただの爆発ではない。磁場を乱し、神経義肢やAI端末に干渉しながら周囲を“焼き尽くす”爆裂だ。
ライカが叫ぶ。
「中枢層が崩れる! 下層も巻き込まれるわよ!!」
「脱出口は?」
「まだ封鎖されてる! でも、通信遮断を解除できれば──!」
クロウは言葉を挟まず、ライカの腕を掴んだ。
「走れ。3分以内に出口を作れ。俺が足止めする」
「は? なにそれ、ヒーロー気取り!?」
「違う。合理的判断だ」
「ふざけんな……また、あんたは……!」
ライカの叫びに応えるように、クロウは振り返らずに模倣個体へ歩み寄る。
全身を光で裂かれ、崩壊しかけている模倣クロウ。
それでもその姿は、今のクロウ自身と酷似していた。
「……俺が作ったものだ。俺が、終わらせる」
ブースト義肢が再起動。
限界冷却ラインを越え、フレームが悲鳴を上げる。
模倣個体の崩壊が進む。残り90秒。
その頭部から、初めて“言葉らしき”音声が漏れた。
「──生き延びることに、意味はあるか?」
それは、かつてクロウが戦場で口にした言葉だった。
プロメテウスは、それすらも記録していた。
クロウは静かに拳を構える。
「意味は、あとから作るものだ」
跳ぶ。
風はない宇宙空間でも、拳は疾風のように突き進む。
ゴガァァン──ッ!
模倣個体の胸部に拳が突き刺さる。
制御コアが砕け、光が激しく散る。
爆発──しない。
わずかにタイミングが遅れたのか、あるいはクロウの一撃が寸前で中枢コアを破壊したのか。
だが、辺りの床が爆発的に跳ね上がり、クロウの身体が吹き飛ばされた。
次の瞬間には、強烈な閃光と衝撃波が中枢層を揺らした。
金属が歪み、天井が崩れかける。
煙の中、クロウの姿は見えない。
──けれど、通信が復旧した。
ライカが緊急用の信号を打ち上げ、コロニー外部へのアクセスラインを確保する。
「クロウ……!」
爆心地に駆け戻るライカ。
──そして、彼女の目に映ったのは、崩れた鉄骨の下で、片腕を失いながらもなお、立ち上がる男の姿だった。
「……遅い」
その声に、ライカは言葉を失い、肩を震わせて笑った。
「ほんと、バカね……!」
──脱出:その先にあるもの──
崩れた中枢層の空間。
煙と火花の舞う鉄骨の森の中で、クロウは片腕を失ったまま立っていた。
義肢のジョイントからはオイルが滴り、切断面のフレームが剥き出しになっている。
だが、彼の足取りは沈着だった。ふらつくことも、倒れることもない。
「脱出路は確保した。艦載ドックに脱出ポッドが残ってる」
ライカが駆け寄り、支えるように肩を貸すが、クロウは軽く首を横に振る。
「歩ける。まだ戦闘域だ」
「そういうとこ、変わってないわね……」
ライカの声は、苦笑まじりだった。
二人は急ぎ、艦載ドックへ向かう。
途中の通路では、暴走した機械兵器が活動を停止していた。
中枢AIの破壊により、すべての制御が落ちたのだ。
ただし、それが“安全”を意味するわけではない。
コロニー13は既に限界に近かった。
動力炉の一部は暴走し、重力調整装置は完全に破損。
天井からは液体冷却材が滴り、壁は所々で赤く染まっている。
「あと数時間ももたない……全体が自壊する」
「十分だ」
クロウの声は低く、変わらない。
やがて、艦載ドックにたどり着く。
そこには古びた小型のポッドが一機。
封鎖されていた格納室が非常解錠により開き、辛うじて使用可能な状態だった。
「このポッド、二人乗りはギリね……!」
「問題ない。予定通りだ」
クロウは乗り込もうとする。
しかしライカが、その背中に言葉を投げた。
「──あんた、本当に出るつもり?」
クロウは振り返らない。
「この場に残って何がある。俺の任務は終わった。プロメテウスを破壊し、コロニー13の脅威を排除した」
「任務……そう。それが全部、あんたの“答え”なんだ」
ライカの声に、怒りはなかった。
あるのはただ、遠い記憶を懐かしむような静けさだった。
「……じゃあ、一つだけ訊かせて」
クロウが無言で頷く。
「脱獄した先に、あんたは何をするの?」
それは、誰にも問われたことのない質問だった。
戦場では、生き延びることが全てだった。
生き延びたら、次の戦場に行くだけだった。
だが今は──その戦場すら、ない。
しばしの沈黙。
そして、クロウはほんのわずかに顎を上げて、言った。
「考えてもなかった。だが──生き延びた以上、何か“選べる”らしい」
それは、淡々とした声だった。
だが、ライカは気づいていた。
それが、この男にとって“希望”の意味を持つ、初めての言葉だったということに。
「──なら、これからはちゃんと考えなさいよ」
彼女は、無言でポッドに乗り込む。
数十秒後、ポッドの主エンジンが点火する。
ドックの天井が開き、宇宙空間が露わになる。
光のない、真っ黒な虚空。
だがその先には、“外”がある。
沈みゆくコロニー13を背に、二人を乗せた脱出ポッドが静かに、滑るように発進した。
──浮上:空のない男──
脱出ポッドは、漆黒の宇宙をゆっくりと滑っていく。
無音の闇の中、かろうじて機能を保つ姿勢制御スラスターが青い光を灯していた。
ライカは操縦席で端末を叩きながら、救難ビーコンを打ち続ける。
システムの多くは旧式だが、信号は確実に宇宙空間へ放たれていた。
「この宙域、定期巡回のトランスポーターが通るはず。48時間以内に回収される見込みはあるわ」
「十分だ」
クロウの返事は変わらず淡白だった。
彼はポッド後部の座席に腰かけ、義肢の接続部を無言で点検していた。
右腕は完全に欠損し、左足も一部に深刻な損傷を受けている。
戦闘時に酷使したブーストユニットは、もはや再使用不能。
それでも、生きている。
──誰の命令でもなく、自らの意思で、選び取った生還。
ライカはそっと彼を見た。
あの日。
戦場で味方を処分する判断を下した男。
無慈悲と非情の象徴だったクロウ・イグニッション。
けれど今、そこにいるのは、命を繋ぎ、痛みを知り、選択を語るただの男だった。
「……ねえ、クロウ」
「なんだ」
「外、見てみない?」
ライカが手元のパネルを操作し、遮光シールドをゆっくり開く。
すると、黒の宇宙に浮かぶ、一つの惑星が見えた。
その大気は薄く、荒涼としていたが、どこか美しかった。
雲が、風が、そして大地があった。
クロウはしばし無言でそれを見つめ──不意に、口を開いた。
「……空って、こんな色だったか」
それは、誰に語るでもない呟きだった。
戦場では空を見る余裕などなかった。
コロニーでは天井しか知らなかった。
檻の中では、夢さえ忘れていた。
だが今、彼は「空」を見ていた。
「名前、つけるとしたら、どんな色?」
ライカが軽く笑いながら問う。
クロウは迷うことなく答えた。
「生きてる色だ」
たったそれだけの言葉が、ポッドの中に静かに響いた。
その言葉を聞いて、ライカは目を細める。
──この男は、やっと一歩、外へ出たのだ。
軍人でもなく、指揮官でもなく、囚人でもない“ただの男”として。
──帰還:名もなき者として──
救難信号が拾われたのは、それから28時間後のことだった。
宇宙輸送艦《エストレア級》が、定期航路を外れた緊急シグナルを検知し、航路管制局の許可を得てコースを変更。
半壊状態のコロニー13宙域にて、小型脱出ポッドの回収に成功した。
回収当時、内部には二名の人間。
片腕欠損、足部損傷の男性と、サポート端末を抱えて昏倒していた女性。
生命維持システムはぎりぎりで作動していた。
──彼らが“誰なのか”を問う者はいなかった。
戦乱の終わった今、過去に名前のあった人間など、数えるほどしかいない。
それで、よかった。
クロウが目を覚ましたのは、医療ポッドの中だった。
義肢の再接続は未完。だが、意識ははっきりしていた。
傍らに立つ女──ライカは、椅子に座ったまま、浅く息をついていた。
「おかえり」
その言葉は、軽いようで、重かった。
クロウは答えずに周囲を見渡す。
殺風景な簡易医務室。窓の外には、星々がゆっくりと流れている。
だがそこには、確かに“自由”があった。
「次の寄港地、ステーション・オルガ。名前も身分も、好きに設定できるってさ」
「……便利な時代だな」
「ええ。少なくとも、“クロウ・イグニッション”って名前の人間は、もうどこにも存在しない。記録上は、ね」
ライカは立ち上がり、医療ポッドの端末を操作した。
表示された画面には、退役軍人向けの義肢再製プラン、フリーランス傭兵の登録申請、貨物船整備士の求人リスト──
さまざまな“道”が並んでいた。
「何をするの?」
ライカの問いに、クロウはしばし目を閉じた。
──かつて、自分が何のために生きていたのかもわからなかった。
命令に従い、敵を撃ち、味方を見捨て、命令のない場所でただ“処分”された。
それでも──生き延びた。
ならば、これからの人生くらいは、自分で選ぶ。
クロウは口を開く。
「整備士は……悪くない」
その一言に、ライカはほんの少しだけ驚いたように目を丸くし、それから笑った。
「じゃあ、工具の使い方から叩き込んでやる。少しは人間らしい生活に慣れてもらわないとね」
クロウも、ほんのわずかに口の端を上げた。
──笑った、とは言い難い。だが、それは“感情”だった。
《コロニー13》は、その後まもなく完全に崩壊した。
原因不明のシステム暴走と、大規模爆発による壊滅。
記録に残った最後の信号には、こうあった。
“生存者なし”
──だが、確かに、ひとりの男は生き延びた。
名もなく、地位もなく、ただ、自らの意志で“歩き出した”。
空を知らぬ男が、初めて見た空の下で、これからどんな生を刻むのか。
それはまだ、誰も知らない。
──終わり、そして始まり。
― コロニー13:脱獄計画 完 ―
連載になった暁には爽快宇宙冒険物になるに違いない