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侯爵令嬢ですが、ざまぁをご所望でしたら丁寧にご用意いたしますわ

作者: 百鬼清風

 「ユリシア・ディ・フェルヴィエ。君を愛することはない」


 婚礼の夜、赤いビロードのカーテンが微かに揺れる寝室で、旦那様が開口一番そうおっしゃった瞬間、私は思わず微笑んでしまいましたわ。あら、やはり来ましたのね、と。


「まあ、これは小説でよく見かける台詞ですわね。台本でもお持ちだったのかしら?」


 私があくまで上品に聞き返すと、カミル・デュラン侯爵閣下は、怪訝な顔で私を見下ろしてきました。


「……台詞?」


「ええ。旦那様と同じような方が『君を愛することはない』と仰るところから始まり、その後に土下座か溺愛か、あるいはどん底のざまぁかが展開される物語は、王都のご令嬢方の間で大変な人気ですのよ」


 私の説明に、彼はさらに眉をひそめました。おそらく、まったく理解されていませんわね。まあ、それも当然です。彼が読むのは報告書か法律文書ばかりだと聞いておりますから。


「……ふざけているのか?」


「いいえ。いたって真面目にお応えしておりますわ。むしろふざけているのは旦那様ではなくて?」


 私はそっと寝間着の袖で口元を押さえました。笑ってしまいそうだったのです。だってそうでしょう? 政略結婚に愛情があるとでも? そんな夢見がちな話、童話の中にしかございませんわ。


「君のような温室育ちの令嬢に、私の心が分かるはずがない」


 あらあら、それは何度も聞いた言葉ですこと。王都の恋愛短編で、十人中八人の旦那様が仰いますのよ。そこから奥様が大逆転されるのが、読者の心を掴む鍵ですの。


「ちなみに、私にはカロリーナという心から愛する女性がいる。彼女は商人の娘だが、慎ましく、働き者で……」


「まあ、なんて典型的ですこと」


「……は?」


「旦那様、あまりにも教科書通りですわよ。今のお話、小説『夫の裏切りは昼下がり』の第六章とほとんど同じ展開ですの。ちなみに、その章の旦那様は最終的に破産して路上で泣いておりましたけれど、旦那様もそうなるおつもり?」


 さすがに、カミル様の額に青筋が浮かびましたわ。


「君は、自分の立場が分かっていないようだな。これは私の家であり、君はただの飾りに過ぎない。言うことを聞けば、穏やかに過ごせるだろう」


「ええ、理解しておりますわ。ですから、穏やかに“ざまぁ”させていただくだけですの」


 私がにっこりと笑うと、彼の顔に一瞬だけ不安の色が過りました。けれど、それはすぐに見下すような表情へと変わる。


「ざまぁだと? 貴族の娘がそんな下品な言葉を使うな」


「おや、それも小説でよくある台詞ですわ。残念ながら、下品な言葉は効果的ですのよ、旦那様。読者人気が違いますもの」


 その瞬間、部屋の扉がノックされ、家令が姿を現しました。私の側に控えていた侍女たちも、静かに動き始めます。お茶を運び、ガウンを私の肩に掛け、寝室の空気が一変するのを肌で感じました。


「家令。どういうことだ、なぜ彼女に?」


「申し訳ありませんが、侯爵令嬢のご指示を仰ぐようにとの命を承っておりますので」


「命? 誰の命だ!」


「ヴェレッティ侯爵閣下より。文書にて明記されております」


 父上、やりますわね。ちゃんと手を打ってくださっていたのですね。


「まさか、君……!」


「ええ、この婚姻に関する条件はすべて書類として残っておりますわ。愛情がないのは結構ですけれど、侯爵家への礼節と法的義務はお忘れになっては困りますの」


 カミル様の顔色が見る見るうちに悪くなっていくのを見るのは、なかなか爽快でした。なぜなら、それは“物語”の中ではいつも、旦那様が奥様を見下し続けた直後にやってくる表情ですもの。


 そしてその直後に、“ざまぁ”の章題が付きますの。


「この屋敷の財務書類と管理権限は、私に委譲されました。侯爵家からの持参金には条件がついておりまして、それを破ると……あら、まあ」


 私はお茶を一口飲み、笑いました。


「全財産が回収され、借金が残りますのよ?」


 カミル様の膝が、ほんのわずかに折れました。そこに重なったのは、家令の一言です。


「申し上げますが、現在の屋敷運営資金の八割は、侯爵家からの支援によって成立しております」


「おい……嘘だろ……?」


「では、おやすみなさいませ、旦那様。次章ではぜひ、態度を改めていただきたく思いますわ。そうすれば、溺愛ルートに進める可能性もありますもの」


 私はふわりとベッドを降り、部屋を出る際ににっこりと笑って振り返りました。


「ただし、それは今夜の私の睡眠の質次第でございますけれど」




 翌朝。私は普段より少し遅めに目を覚ましました。


 昨日は久しぶりに気分が高揚してしまって、寝付くまでに時間がかかりましたの。旦那様がどんな顔でベッドを占領したのかと思うと、つい想像が膨らんでしまって。


 控えめに言って、実に快眠でした。


「本日の朝食は、旦那様とは別室で?」


 侍女のエレナがそう尋ねてきたとき、私はちょっと考え込みました。


「そうね、いえ、やっぱりご一緒いたしましょうか」


 使用人たちの間で不安な噂が広がる前に、きちんと“見せておく”ことも大事ですもの。何より、旦那様の反応を見るのも楽しみですし。


 ダイニングに足を踏み入れると、先に来ていた旦那様――カミル様がカップを持ったまま、ぴくりと肩を揺らしました。その動きが昨日の威圧的な態度とは打って変わって、どこか落ち着きがありませんの。


「おはようございます、旦那様。昨夜はよくお眠りになれましたか?」


「……君こそ、よく眠れたようだな」


「ええ、とても。広い寝室、柔らかいベッド、おまけに誰にも邪魔されない時間。完璧な夜でしたわ」


 ついでに、夢の中では“ざまぁ短編集”の朗読劇まで開催されていましたの。私は観客席で拍手しておりました。


「……その、昨夜のことだが」


「あら? 昨日の夜のことといえば……ご自身で『君を愛することはない』と仰り、『慎ましい庶民女性を愛している』とも仰いましたわね。加えて『君は温室育ちで贅沢三昧』とも」


「言い方というものがあるだろう……」


「私の台詞でしたの? 失礼、それなら今後は台本をいただければ助かりますわ」


 苦い顔をして黙る旦那様に、私はにっこりと笑いかけました。笑顔は礼儀の基本ですから。


 使用人たちが出入りする中でこれ以上話すのも野暮でしたので、私は紅茶をひと口啜り、朝食に集中することにいたしました。焼き立てのパンに濃厚なバターを添えて口に含むと、やっぱり美味しゅうございます。


 この屋敷の料理人、侯爵家から引き抜いた甲斐がありましたわ。


「ユリシア。君は……本気で子爵家を掌握するつもりか?」


 沈黙を破るように、低く問う声が聞こえました。私は手を止めずに答えました。


「ええ。掌握というより、運営といった方が近いかと。だって、今のままでは存続できませんもの」


「それは……私の父の代の浪費が原因で……」


「そして、旦那様は何も手を打たれなかった。つまり、それは黙認と同じですわ。今さら他人事のように仰られても、困りますの」


「……君は、いつから準備を?」


「私が子爵家に嫁ぐと決まったその日から、ですわ。まさか、何の準備もせずに政略結婚などしませんことよ」


 わたくし、実はけっこう用意周到なのですのよ? でもそれは、侯爵家に育ったなら当たり前。花嫁修業は“お茶の淹れ方”だけではございませんわ。


「昨日、カロリーナ様と仰った方には、もうお会いになりました?」


「いや……さすがにそれどころでは……」


「あら、それは残念ですわね。彼女には本日、退去命令を出しておきましたの」


「何……?」


「わたくしの名義でこの屋敷に支払われている予算の一部から、彼女の暮らしの援助費が出ていたことをご存知なかったようですけれど?」


「……冗談だろ」


「冗談でしたら、わたくし、もっと笑顔でお話しいたしますわ」


 その時、扉がノックされました。


「旦那様、奥様、カロリーナ様が屋敷の前でお待ちかねです」


「会わせろ!」


 そう叫んで立ち上がる旦那様に、私は静かに紅茶のカップを置きました。


「よろしいですわ。ですが、ひとつ条件がございますの」


「条件だと……?」


「本日の記録は、第三者によって正確に残されます。後に“事実を捻じ曲げた”などと言われるのは不本意ですから」


「……何を企んでいる」


「いいえ、わたくしは常に正当性を持って行動しておりますのよ」


 そうして私たちは、応接室へと足を運びました。


 そこには、泣きはらしたような目をしたカロリーナ様が座っておりました。美しい方でございますわ。ドレスは仕立てのよいものでしたし、身なりにも隙がない。慎ましい、とは少々誇張だったようですわね。


「旦那様……どうして……」


「すまない、カロリーナ……これは、誤解だ。ユリシアが勝手に――」


「まあまあ。では、その“勝手に”という行動によって家計が改善し、屋敷の使用人の給金が滞らず、資産の運用が適正になった事実については、どうご説明されますの?」


「そ、それは……」


 カロリーナ様の視線が、私に移りました。まるで、狐に化かされたような目。よくあることですわ。


「あなたが、ユリシア様?」


「はい。正式にはユリシア・ディ・フェルヴィエ=デュランと申します。こちらこそ、あなたが“慎ましい恋人”のカロリーナ様でいらっしゃいますのね」


 彼女が表情を固めたのを見て、私はほっとひと息。


 そして、使用人に目配せして、茶を淹れさせます。


「これからは、外部からの生活支援は打ち切りとなります。代わりに、自立支援として商会の紹介状をお渡しいたしますわ。もちろん、わたくしの名前ではなく“リナルディ財務監査部”名義で」


「……どうして、そこまで?」


「旦那様の不始末の後始末は、夫人の仕事ですもの。ですけれど、同情と支援は別物ですわ。わたくし、甘くありませんの」


 しばしの沈黙の後、カロリーナ様は立ち上がりました。そして、わずかに頭を下げたのです。


「……ありがとうございました」


 それが、せめてもの救いでしたわ。


 カロリーナ様が去ったあと、旦那様は深く椅子に沈みました。まるで全てを失った人のように。


「ユリシア……君は……いったい何を望んでいるんだ……」


「それを、今お尋ねになりますの?」


「もう、私を愛していないのか……?」


「ふふ。それは――第三章でのお楽しみ、ですわね?」




 泣いて謝るのも、見下して去るのも、勝者の特権ですの。


 私は今、そのどちらにしようかと優雅に迷っております。旦那様、つまりカミル・デュラン子爵閣下が、ようやく“ざまぁ”という言葉の意味を理解されたご様子なので。


「……申し訳なかった」


 ええ、三日前には「温室育ち」だの「金で押し込まれた花嫁」だのと仰っていた方が、今では静かに謝罪の言葉を口にしておられますわ。


「旦那様、今の言葉、もう一度お願いできます?」


「……申し訳なかった、ユリシア」


 私は満足げに紅茶をひと啜りしてから、静かにうなずきました。


「よろしいですわ。その言葉をいただけただけでも、今後の交渉が円滑に進みます」


 朝の陽光が差し込む応接室で、私はひとつ、深く息をつきました。


 思い返せば、婚礼の夜からまだ五日。たったそれだけでここまで地位と主導権を反転させるなんて、なかなか良い成果ですわよね? なにせ、ざまぁ短編集では平均して六章はかかるんですもの。


「ユリシア……私の心は、まだ……」


「恋愛に進展があるかどうかは、今後の旦那様次第ですわ」


 私は扇子で口元を隠しながら、ちらりと視線を送ります。


「一応申し上げておきますが、わたくし今後の選択肢として『白い結婚のまま別居状態』も視野に入れておりますの。もちろん、公的には『円満』の姿勢を貫きますので、世間体は守られますわ」


「そんなことは、嫌だ……!」


 あら、ずいぶんとはっきりなさいましたわね?


 私はしばらく沈黙し、彼の表情を観察しました。どこか虚ろだった目が、今ははっきりと私を捉えている。


 よろしい、交渉の余地あり、と。


「では、まずはひとつの条件として、わたくしが指示した財務改革案を完全実行していただきます」


「……財務か」


「ええ。浪費を続けるご両親の懐には、週ごとの予算書と領収書提出義務を課しますわ。ご本人達には“育てていただいた感謝”として、旦那様から提案があったことにいたします」


「……どうして、そこまでする」


「旦那様が、ざまぁの前に破産して野垂れ死ぬような未来を迎えられたら、それこそ不幸でしょう?」


「……救っているのか、辱めているのか、分からないな……」


「両方ですわ」


 私は微笑みました。悪意ではありませんの。ただ、善意だけで戦えるほど、この世界は綺麗ではないのです。


「さて、財務に加えて、次は社交の改革です。子爵家は今や招待状の“空気”ですもの。わたくしが各家に挨拶を入れてまいります」


「……君が?」


「当然ですわ。そもそも、旦那様はそういう場が不得手でいらっしゃるでしょう?」


「……認める」


「よろしい。それでは第一歩として、今週末の王都楽団の晩餐会、わたくしが代理出席いたします」


 この晩餐会は、王都でも五本の指に入る音楽系貴族イベント。いわば、令嬢達の情報戦と“婚活”の場でもあるのです。


 私が華やかなドレスをまとい、堂々と登場すれば――それだけでリナルディ子爵家の印象は変わりますわ。


「……そのドレスは、君が持参したものか?」


「いいえ。元々子爵家の倉庫にありましたのを、私が修繕しましたのよ。お母様――つまり先代夫人のものですわ」


「まさか……母が……」


「素晴らしい生地でした。少しの刺繍と糸の手直しで、立派に甦りましたわ。何事も捨てる前に見直すのが肝心ですわよ」


 何気ない言葉でしたけれど、その瞬間、旦那様の顔から一気に緊張が抜けたように見えました。


「……本当に、私にはもったいない妻だな」


「まあ、それを言うのは第三者の仕事ですけれど」


「だが、それでも……」


「それでも?」


「君に見合う夫になりたい、と思ったらいけないか?」


 しばしの沈黙。私は視線を伏せ、紅茶に目を落としました。


 お茶の表面に映るのは、化粧を整えたばかりの自分の顔。その口元に、微かに笑みが浮かぶ。


「その気持ちが本物なら……第四章までは保留ですわね」


「じゃあ、第五章では?」


「まあまあ、気が早いですこと。少なくとも次章までは、試練が続きますのよ。だって、“ざまぁ”の途中ですもの」




 侯爵家の教育とは、実に厳しいものでしてよ。


 ティーカップは指三本で持つこと、扇子は感情を隠すために使うこと、そして一番大切なのは、「涙を流すなら誰もいない場所で」。そう教えられて育ちましたの。


 それゆえに、今この瞬間の私――リナルディ子爵家の新妻、ユリシア・ディ・フェルヴィエ=デュランが、屋敷の廊下で鼻の奥がつんとするほど堪えているのは、極めて教育的と言えるでしょう。


「奥様、大丈夫でいらっしゃいますか……?」


 心配そうに後ろから声をかけてくれたのは、侍女のエレナ。けれど、私は首を振って振り返りませんでした。


「……泣いてなどおりませんわ。ただ、少々、感情が過剰供給されただけですの」


 そう言って、歩を進めます。廊下の先には、まだあの男が待っておりますから。


 カミル・デュラン子爵――わたくしの、名目上の夫。


 彼が先ほど言いましたのよ。


「ユリシア、君に花を贈りたいのだが、どんな花が好きだ?」


 ええ、誰にでもありふれた質問ですわ。それが、これまで「君を愛することはない」と断言していた方の口から出たのですから、その破壊力たるや。


 うっかり、うるっときてしまいました。


 だからこそ、いけませんわ。ここで気を緩めてしまっては、“ざまぁ”が未完成になりますもの。


 ……ええ、今夜で四章目。そろそろ決定的な逆転劇がほしいところですわよね。


 私は応接室の扉の前で、わざとひと呼吸置きました。姿勢を正し、顔にいつもの笑みを浮かべてから、扉を押して入ります。


「お待たせしましたわ、旦那様」


「いや、こちらこそ急に呼び出してすまなかった」


 カミル様は立ち上がって、まるで貴婦人でも迎えるかのように会釈しました。随分と変わったものですわね。三日前には椅子にふんぞり返っていたというのに。


「今日は一体、何のご用件で?」


「君の好きな花を知りたい。そう思って」


「……まあ、随分と情熱的ですこと」


 私はそう言いながらも、椅子に座って紅茶を一口。


 彼の視線がずっと私に注がれているのを感じながら、わざとゆっくりとカップを置いて、静かに目を合わせました。


「旦那様、まさかとは思いますが、“それで許してもらえる”などとお考えでは?」


「……そこまで甘くないことぐらい、今は分かっている」


「でしたらよろしいですわ。ちなみに、好きな花は“ジャスミン”。ただし、根が浅くてすぐに枯れる花束ではなく、鉢植えでお願いいたします。管理ができなければ意味がありませんもの」


「……分かった。きちんと育てる」


「花も、夫婦関係も、育ててこそのものでしょう?」


 私のその言葉に、カミル様が深く頷いたとき――


 ようやく、ひとつの“ざまぁ”が完了したのだと、実感しましたわ。


 今では使用人達の間でも「奥様の方が真の家長」という評判が立っているようで、呼吸を合わせるように皆が私に報告を持ってまいります。


「奥様、倉庫の在庫整理、完了いたしました」


「奥様、前任の執事から引き継がれていた不明瞭な帳簿が見つかりました」


「奥様、旦那様が自ら領収書を手書きで提出なさいました」


 あらまあ。随分と真面目になられたことですわね。


 私がちらりとカミル様を見ると、彼はやや気まずそうに視線を逸らしました。


 かわいらしい反応でございます。


 そして、夜。


 私は書斎で帳簿の整理を終え、寝室へと向かう途中、ふと廊下の隅で立ち止まりました。


「……旦那様?」


「……ああ、ああ。散歩のつもりだったのだが」


「わざわざこの廊下を?」


「偶然だ」


「でしたら偶然ついでに、お茶でもいかがです?」


「……いただこう」


 私達は並んで、深夜のティールームへと足を運びました。


 静かな部屋に、茶の香りと小さなティーカップの音だけが響く。以前ならば無言が気まずくて仕方なかったけれど、今は少し、落ち着く。


「ユリシア……改めて、君に礼を言いたい」


「まあ、お礼とは」


「この子爵家を、ここまで再生させたこと。そして、私を――」


「それ以上は口にされない方がよろしいですわ」


 カップを口元に運びながら、私はやんわりと止めました。


「旦那様が本当に変わったのかどうか、それを決めるのは“今”ではなく、“継続”ですわ。数日で態度を改めたと仰っても、それが半年、一年と続かなければ、ただの一時の気まぐれと見なされますもの」


「……なるほど、厳しいな」


「当たり前ですわ。わたくし、侯爵家の娘ですもの」


 思わず、互いに微笑み合いました。


 そして、次の瞬間、カミル様の目が真剣な光を宿して、私を見つめてきたのです。


「それでも私は……君を、愛している。そう言ってはいけないか?」


 心臓が跳ねました。けれど私は、表情を変えずに答えました。


「“愛している”の言葉は、もう少し、重いものとして扱っていただきたいのです」


「……すぐに言うものではない?」


「ええ。でも、その気持ちを育てていきたいというのでしたら、きちんとお世話を。鉢植えのジャスミンのように、手をかけ、見守り、根を深くしていく覚悟が必要ですわ」


 静かに、頷く彼。


 その時、廊下から風が吹き込んできて、彼の髪が揺れました。


 ああ、ここから物語は“ざまぁ”から“溺愛”へと移行していくのかもしれませんわね。


 でも、それを許すかどうかは――第五章の私が決めることでしょう。




 恋心というものは、意外と重労働なのですわ。


 ときに淡く、ときに苦く、じっと胸の底に沈んでいるようで、ふとした拍子に、顔を出して人の心をかき乱す。甘くてほろ苦い――まるでチョコレートに岩塩をひとつまみ混ぜたような味わい。


 そう、ちょうど今の私が感じているような。


 朝の執務室でカミル様の報告を聞きながら、私は紅茶のカップをゆっくりと回しておりました。視線はカップの中に落としたまま、耳だけで彼の声を追って。


「子爵領の穀物倉庫の点検、完了しました。二年前から未開封だった南側の棟に湿気が入っており、被害穀が全体の……」


「……被害額の算出と、保険申請の手続きもお忘れなく」


「すでに準備済みだ」


「……まあ。随分とご優秀に」


 カップを置いて彼を見やると、彼は少し気恥ずかしそうに口元を引き結んだ。


 まるで褒め言葉に慣れていない少年のよう。


 そんな旦那様が、いまや領地の管理に汗を流し、書類にも目を通し、時には自ら農村にも赴くなどと、誰が予想できましたでしょう?


 私ですら、正直ここまでの変化を見せられるとは思っておりませんでした。


 人は変わる――ではなく、変わる努力を見せることで、ようやく“見直される”のだということ。ようやく、カミル様がそれを理解してくださったのなら……。


「ユリシア」


 名前を呼ばれて、私は我に返りました。


「はい?」


「今夜、城下の夜会に一緒に出席してほしい。王都の楽団が来ていて、貴族商会主催の懇談会がある」


「まあ、珍しく外出のお誘いですわね」


「君の力が必要だ。あの商会、どうやら子爵家との提携を前向きに考えているらしい」


「そのような素晴らしい機会、ぜひご一緒に」


 お誘いを断る理由などありませんでした。


 懇談会――つまりは社交の場。そうした場では、言葉の選び方、間の取り方、笑顔の分量一つが交渉材料になります。


 私の得意分野でございますもの。


 その夜、私は桜色のドレスに身を包みました。裾に繊細な銀糸の刺繍が施された一着で、動くたびに微かなきらめきを放つお気に入りの一着。


「本当に、君はどこに出しても恥ずかしくない女性だな」


「まあ。今さら照れ隠しの誉め言葉ですの?」


「照れ隠しなどではない。本心だ」


「でしたら、もっと自信をお持ちになって。あなたは私の隣に立つ資格を、ようやく手に入れつつありますのよ」


 その言葉に、カミル様は目を見開いた後、静かに頷きました。


 夜会の会場は、城下の中庭付きの貴族邸宅。すでに多くの人々が談笑し、音楽と香りのなかでワインを傾けておりました。


「リナルディ子爵ご夫妻ですわ!」


 誰かがそう声を上げると、視線が一斉にこちらに向きます。以前なら「財政破綻寸前の没落家」と噂された家名。今では「若き当主夫妻の劇的再建」で語られるようになりましたの。


 当然、その功労者は――私。


 でも、それを声高に主張したりはいたしません。


 それが“優雅なざまぁ”というものですわ。


「まあ、ユリシア様! 先日の晩餐会では素晴らしいご挨拶でしたわね!」


「子爵様も、随分とご立派になられて……まあ、失礼な言い方かしら?」


「はっはっは。否定はしませんよ」


 夫婦で会場を歩くたび、そんな声がかかります。カミル様の笑顔も、いつになく自然でした。


 途中、私たちは今回の招待元であるベニア商会の当主と向かい合いました。彼はこの地で織物業を広く展開しており、城下の雇用と税収を支える重要な存在。


「このたびはご出席いただき、ありがとうございます、子爵様。奥様もお美しく」


「こちらこそお招きいただき光栄です。商会の布地、侯爵家でも愛用されておりますのよ」


「それはまた……」


 軽く会釈しながら会話を続け、時折うなずくカミル様の姿を見て、私はそっと彼の袖を引きました。


 その合図で、カミル様が口を開きます。


「ぜひ、当家の制服用に新しい布地を採用できればと考えております。品質は拝見しており、信頼しております」


「それは光栄ですな……!」


 ――交渉、成立。


 これが“夫婦の呼吸”というものですわ。


 夜が更ける頃、私たちは庭園で二人きりになりました。静かな噴水の音だけが響く空間で、私は空を見上げました。


「随分と……成長なさいましたのね」


「君のおかげだ」


「いえ、違いますわ。私が手を貸したのはほんの少し。結局は、あなた自身の努力でしかありません」


 その時、ふと彼の手が、私の手に重なりました。


「……ユリシア。これまでのこと、すべて感謝している。そして、改めて伝えさせてほしい」


「……また告白ですの?」


「いや、そうではない」


 彼は、真剣な眼差しで続けました。


「君がくれたこの新しい人生を、私は決して裏切らない。だから――これからの未来を、共に築かせてくれないか?」


 私は一瞬だけ言葉に詰まり、それから、静かにうなずきました。


「では、まずは次章で様子を見させていただきますわ」


「えっ、まだ確定じゃないのか?」


「当然ですわ。ざまぁは完了しましたけれど、溺愛ルートの入口に立っただけですもの。ここからが本番ですわよ、旦那様?」




 最近、困ったことが一つございますの。


 それは、カミル様が私に夢中になりすぎて、日々の生活が“重く”なってきたことですわ。


 どういうことかと申しますと――


「ユリシア、今日は手ずから朝食を用意してみた。君の好きなトマトのスープに、アーモンドを練り込んだパン、そして……」


 朝食に始まり、


「昼食の時間か。ちょうど君の好きな店から取り寄せた料理が届いたところだ」


 昼も当然のように私の予定に割り込まれ、


「夜は花火大会があるらしい。君が見たいと言っていたのを覚えていたから、屋敷のバルコニーを飾り付けさせておいた」


 夜に至っては、もはや恋人未満の隠れ家デート状態。


 どうやら、第五章の“溺愛ルート突入”を本格的に意識なさったようで、あらゆる場面で「好き」という感情を全力でぶつけてこられるのです。


 そして今も――


「君が昔、庭の桜が好きだと言っていたから、新たに苗木を取り寄せて、敷地の東側に植えようと思う。許可をもらえるか?」


「……それは、あの、ありがたいのですけれど。毎日そんなに色々とされると……その、圧がすごいのですけれど」


「圧?」


「ええ、愛情の圧ですわ」


 私は思わず、紅茶のカップを置きながら目元を押さえました。恋というのはもっとこう、微細で、香水のようにふんわり香るものではなくて?


「な、何か、嫌な思いをさせてしまったのか……?」


「違いますわ。ただ、もう少し……節度というか、配分というか……“分量”というものを意識なさってくださいまし」


 例えるなら、ジャスミンの香水を瓶ごと頭からぶっかけられるような毎日ですの。


 とはいえ、溺愛される側の困惑というのも、それなりに甘やかなもの。


 先日、王都から戻ってきた父から手紙が届きましたの。


『カミル殿の変貌、実に愉快。少しはやりすぎているようにも見えるが、まあ、君の手綱の締め方次第だろう。引き続き調教……もとい指導、頼んだよ』


 ――我が父ながら、なかなか表現がアレですわね。


 そんな“溺愛過多”な日々が続いていたある日のこと。


「ユリシア。実は、来月、王都で開催される貴族会議に出席してほしいのだが」


「私が、ですの?」


「王宮付きの会計官から、子爵家の財政改革に関する講演の依頼があった。君の手腕は王都でも話題になっている」


「……まあ」


 驚きとともに、少しだけ胸の奥がじんわりと熱を持ちました。


 誰かに認められるというのは、思っていた以上に嬉しいものですのね。


「出席、了承いたしますわ。資料の準備も必要ですので、今から計画を立てましょう」


「ありがとう。君がいてくれて、本当に良かった」


「その言葉、あと二十回くらい繰り返してからでお願いいたしますわ。五章分の悪行を償うには、それくらいでは足りませんもの」


 私が茶化すと、彼は頬を少し赤らめながら笑いました。


 こんな風に笑う人だったかしら、と少しだけ見入ってしまったのは秘密ですわ。


 講演の準備は順調に進み、私は前日から王都に入りました。


 宿泊するのは侯爵家の別邸。私が育った場所でもあります。久々の帰還に、使用人たちが嬉しそうに迎えてくれました。


「お帰りなさいませ、ユリシア様。まあ、お美しくなられて」


「ふふ、ありがとう。少しは子爵夫人らしくなったかしら?」


「いえ、もう王妃様でも通じそうでございます」


「……それはさすがに言いすぎよ?」


 久々の空気に包まれながら、私は講演会の当日を迎えました。


 会場は王都中央図書院の大講堂。貴族や高官がずらりと並ぶ中、私の登壇がアナウンスされました。


「では次に、リナルディ子爵家の再建を成し遂げた、新進気鋭の若き夫人、ユリシア・ディ・フェルヴィエ=デュラン様にご登壇いただきます」


 拍手と視線の嵐の中、私は一歩一歩、壇上へと向かいました。


 この瞬間――ようやく、本当の意味で“ざまぁ”が完成したのかもしれませんわ。


 かつて私を“贅沢三昧の温室育ち”と蔑んだ人々。


 “愛されない妻”と断じた本人。


 そのすべてに、私は自分の力で立ってここにいることを見せつける。


 講演内容は、子爵家の財政再建手法、使用人教育の再構築、そして商会との連携による地方経済の立て直し。いずれも数字と実例に基づいた、実に現実的で冷静な話題。


 終わった後には、これまでにないほどの拍手が巻き起こりました。


「まさか、あのフェルヴィエ侯爵家の末娘がここまでとは……」


「やはり婚姻は政略だけでなく、能力の選定も重要だな」


「あのご主人、見る目はあったのだろうか?」


「むしろ、奥方に育てられたのでは?」


 あらあら。随分とご評価いただけるようになりましたわね。


 講演後、控室に戻ると、そこには――


「……来てくれてありがとう」


 カミル様がいらっしゃいました。


「どうしてここに? お仕事は……」


「すべて調整して、一日だけ空けた。君が舞台に立つのをこの目で見たくてな」


「……まあ」


「誇らしい気持ちと、申し訳ない気持ちと、色んな感情が一気に押し寄せた。だけど今は、ただひとつ言いたい」


「何かしら?」


「――惚れ直した」


「……そう言うと思いましたの」


 私は頬を少しだけ染めて、視線を逸らしました。


 “ざまぁ”の結末が“恋”になるなど、誰が予想できたかしら。


 だけどそれも悪くないと、今の私は――思っておりますの。




 恋というものは、静かに沁みるものだと思っておりましたの。


 いつの間にか傍にいて、気づけば気配に慣れ、名前を呼ばれるたびに鼓動が跳ねる。薔薇のように咲き誇るのではなく、野に咲くジャスミンのように、少しずつ馴染んでいく――そんな恋を、私は望んでいたのです。


 ところが、ですわ。


「ユリシア、今日は馬車で郊外の湖に行こう。二人きりで」


「今夜は星空を見に中庭を改装した。流星群が来るらしい」


「週末、舞踏会があるが、どうか君の時間をもらえないか」


 最近のカミル様は、もう完全に“野生の薔薇”でございますのよ。情熱全開、愛情全力、接近戦上等。毎日がまるで求愛の嵐。


「……旦那様、少し落ち着いていただけませんこと?」


「落ち着いているつもりだが?」


「それで落ち着いていらっしゃるのなら、落雷はそよ風ですわね」


 私は頭痛混じりにこめかみを押さえました。


 王都での講演会以降、何かが彼の中で弾けたようで、私への愛情表現がもはや暴風域。日々、屋敷中の使用人が「またですか……」という顔をしているのが、申し訳ないやら面白いやら。


 それでも、少しずつ確かに変わっていく彼を見て、私は――少しだけ、気持ちを許しはじめていたのです。


 けれども、そう簡単に「恋人同士」などと名乗って差し上げるわけにはまいりませんわ。


 ざまぁの代償は、そう簡単に償えませんもの。


 そんな折、王都から一本の書状が届きました。


『ヴェルディーニ大公家の嫡男が来月ご婚約予定とのこと。祝宴にはぜひ出席を』


 大公家とは、王国でも最大級の資産を有する名家。その祝宴は一種の社交界ビッグイベントとして、各家の婦人達が腕を競う場でもあります。


 つまり、ここで“どのご夫婦が最も輝いているか”が如実に評価されるわけですわ。


「旦那様、少しばかり腕試しをしてみませんこと?」


「腕試し?」


「ええ。夫婦として、他家に見劣りせぬよう、少しばかり“お稽古”をいたしましょう」


「……つまり、試練か?」


「“テスト”とお考えくださいまし。合格なさったら、それなりのご褒美も検討いたしますわ」


 その瞬間、カミル様の瞳がきらりと光りました。


 まるで、宿題をもらった優等生のような反応。……ふふ、かわいらしい方ですこと。


 とはいえ、この手のイベントでは「見た目」だけでは済みませんの。立ち居振る舞い、会話の間、視線の交わし方、夫婦としての自然な距離感、すべてが審査対象です。


 私は即座に特別講師を王都から呼び、屋敷で“夫婦の演技稽古”を開始いたしました。


「もっと自然に、肩を寄せて。恋人である以上、緊張してはだめですわ」


「わ、分かってはいるんだが……こういうのは慣れてなくて……」


「ふふ、でしたら練習あるのみですわよ?」


 私はあえて距離を詰めて、腕を組む。


 すると彼はぴくりと肩をこわばらせ――


「だ、だめだ……鼓動が……!」


「まあ。練習で倒れてしまうようでは、本番で手が震えてしまいますわよ?」


「ち、違う! その、君が近くて……その、いい香りがして……!」


「はい、そこ。演技中に動揺しない、という課題が追加ですわ」


 まったく、先は長いですわね。


 とはいえ、努力の成果は着実に現れました。


 日に日に表情が柔らかくなり、私の視線にも平然と応じ、会話も途切れずに続けられるようになった彼の姿は、誰が見ても“頼もしい旦那様”。


 そして――ついに祝宴の日が参りました。


「……ユリシア、今日の君は、本当に美しい」


「まあ、嬉しいことを仰いますのね」


「……初めて出会った時、君の笑顔を見たときのことを思い出した。あの頃は、自分がこんなふうに君の隣に立てるとは思っていなかった」


「……随分と感傷的ですわね?」


「君の隣に立つ資格が、ようやく少しだけ得られた気がする。それが嬉しいんだ」


 私はしばしの間、彼を見つめました。


 きちんと整えられた衣装。堂々とした立ち姿。穏やかで、けれど確かな視線。


 ああ――本当に、変わられましたのね。


「では、今日は“夫婦役”ではなく、“夫婦”として行きましょうか」


 私がそう言うと、彼の顔がぱっと花開いたように笑顔になりました。


 祝宴会場には、すでに多くの貴族が集まっておりました。


 煌びやかな装飾、音楽、香り、会話。まさに社交界の真骨頂。


「まあ、リナルディ子爵ご夫妻!」


「ご講演のあとは、まさかこのような形でお会いできるとは」


「奥様のドレス、お美しい……」


 次々と声をかけられながら、私たちは堂々と歩きました。自然に、けれど必要以上に寄り添わず、適切な距離で。


「――完璧だ」


 誰かの声が、背中越しに聞こえました。


 その瞬間、私は心の中でひとつ深く息を吐きました。


 やっと、“私の夫”が完成したのです。


 帰路の馬車の中、私は隣に座る彼に言いました。


「旦那様、合格ですわ」


「……本当に?」


「ええ。そして、ご褒美は……明日の朝、お楽しみに」


「……それは、どういう……」


「ふふ。それは秘密ですわ」


 けれど本当のご褒美は、この日、心から“並んで歩けた”という実感。


 そして、もう“ざまぁ”ではない、“愛”の始まりを感じたこと。


 さあ、残すは最終章。ここまでたどり着いたこと、それこそが物語の真髄でございますわ。




 愛されることに、慣れていなかったのは、きっと――私の方でしたのね。


 思えば、結婚してすぐのあの日。寝室の扉を開けた瞬間、聞かされた冷酷な一言。


『君を愛することはない』


 そして始まった、ざまぁの物語。


 あれから数ヶ月。全ては、まるで夢のように――いえ、現実よりも鮮やかに変わってしまいましたの。


「ユリシア、今日の君は、まるで春の精霊のようだ」


「それ、先週も仰いましたわよ」


「だって事実だろう?」


「ふふ、そういうお上手は、三日に一度で十分ですわ」


 カミル様は、すっかり“愛妻家”の皮をかぶった野獣と化しましてよ。


 仕事中でもこっそり手紙を寄越し、昼休憩には庭で紅茶会を仕組み、私が咳をすれば宮廷薬師を呼ぶ勢い。


 かつては“君を閉じ込める”などと宣言していた方が、今や私の半径五歩以内に存在できなければ寝つけないと申しております。


 愛されることは、こんなにも甘く、そして――息苦しいほどに尊いのですね。


「ねえ、ユリシア。私と正式な“誓約”を交わしてもらえないか?」


 ある日、彼はそう言って、婚姻契約書の新規草案を差し出しましたの。


 そこには、こう記されておりました。


『本契約において、夫は妻に対し、生涯にわたり誠実と尊重と溺愛を義務とする』


 ……笑いそうになるのを必死でこらえましたわ。


「まあ、ずいぶんと偏った契約ですわね?」


「君はそのくらいの扱いを受けて当然だと、私は思っている」


「……承知いたしました。けれど条文を一つ、追加してよろしいかしら?」


「なんだって構わない」


 私はペンを取り、一文を添えました。


『妻は夫に対し、適切な頻度で躾けを行うことができる』


「……これは?」


「今さらですの? わたくしがいなければ、あなたはまた道を誤りますでしょう?」


「……反論できない」


 ふふ、やっと素直になりましたのね。


 けれど――この物語を、私たちだけの幸福の記録で終わらせるつもりはありませんでした。


 私が改革した子爵家は、今や地方行政の模範例とまで呼ばれ、視察の申し出が続々と届いておりました。


 そんな中、王宮から一通の正式な召喚状が届いたのです。


『次期王女教育の特別顧問として、ユリシア・ディ・フェルヴィエ=デュランの起用を望む』


「……光栄ですが、大任ですわね」


「君ならできる。いや、君にしかできない」


「でも、王都での滞在が増えると、子爵家を任せることになりますのよ?」


「構わない。君が築いた礎を、今度は私が守ってみせる」


 堂々と胸を張ってそう言われて、少しだけ、涙腺が刺激されそうになりました。


 けれども私は、それを笑みに変えて言いました。


「ならば、留守中の屋敷では、使用人への甘やかしを禁じますわよ」


「えっ、なぜだ」


「わたくし以外に“愛を振りまく”など百年早いのです」


 きっと今の私は、ほんの少しだけ、独占欲というものを知ってしまったのでしょうね。


 王都での生活が始まってからも、毎週届く手紙は変わらずに甘やかしく、けれど敬意を欠かさず、言葉の端々に愛が滲んでおりました。


『ユリシア。君の不在に慣れるのは、月に慣れるより難しい。だが、君の道が栄光へと続くものならば、私はその道を照らす街灯でありたい』


 ええ、もう。


 何を気取った詩人のような手紙を書いておられるのかしら。


 でも、それが少しだけ嬉しい――と、思ってしまう私もまた、変わりましたのね。


 そして、春。


 私は再び子爵領へ戻ってまいりました。


「ただいま、カミル様」


「お帰り、ユリシア」


 広間で待っていた彼は、微笑んで私を迎えてくれました。


 そして、ぽつりとこう言いました。


「……私、実は決めていたんだ。君が戻ったら、あることをしようって」


「なにかしら?」


 彼は、私の前に跪いて、そっと手を取ったのです。


「ユリシア。君を、再び“妻”として迎えたい。形式でもなく、政略でもなく、愛情に基づく誓約として。私と、もう一度、結婚してくれないか?」


「……」


 私はしばし、言葉を失いました。


 そして――


「そうね。では、条件を提示いたしますわ」


「条件……?」


「一つ。これまでに口にされた“愛している”の言葉を、覚えている限り、全て再現していただきます」


「……い、今ここで?」


「ええ、そしてそれができたなら、その時初めて――“愛されて良かった”と、わたくしは思えるかもしれません」


 彼は一瞬たじろぎましたが、ゆっくりと立ち上がり、私の手を取ったまま、まっすぐな声で言葉を紡ぎ始めました。


「君は私の光だ。朝の風よりも清らかで、夜の灯よりも温かい。君と出会って、私は生まれ変わった。……愛している。これ以上の言葉があるなら、教えてほしい」


 私は、もう笑うしかありませんでした。


 これ以上を望むなんて、欲張りが過ぎるというものですわ。


「……合格。再契約、いたしましょう」


「……ありがとう」


 そして、彼はそっと、私の額に口づけを落としました。


 ざまぁの物語は、もう過去のこと。


 今ここからは、愛の物語の始まり。


 さて、これから先――私はいったい、彼をどれだけ躾けていくことになるのかしら?


 ふふ、それもまた、楽しみでございますわね。



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カミルさんは相当に駄目な人のようで、そんなものとなんでこんな優秀な女性が嫁がされたのか、そもそも一体、どんな育ち方をしてカミルさんがこんなことになったのか、裏事情も気になる一話完結の物語で面白かったで…
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