6.最終面接
ゆっくりと白いドアを開ける。
ドアの向こうには何もなかった。
いや、どこまで続くとも分からない白い空間の中に、一脚の椅子と二つの扉だけが鎮座している。ドアのあいだ、ちょうど椅子と向かい合う位置に神が立っていた。
「さあ、かけたまえ」
神が俺に向かって椅子を示す。
俺は恐る恐る白い空間に踏み出し、椅子まで歩いて行ってそっと腰掛けた。
「面接ならば通常、面接をされる側が名前を名乗って自らについて話すものだ。しかし今回に限っては逆に君が君の名前を私から聞き、君の人生を私から聞くことになる。いや、それとも君はもう思い出しているのかな?」
神は俺の向かい側の何も無い空間に足を組んで座る。
俺は記憶を探りながらゆっくりと言った。
「はっきりとは分かりません。でも、ひとつだけ思い出せたことがあります」
「なにかな?」
俺は幾度となく思い出そうとした一人の女性の姿を今再び思い浮かべた。
「俺には大切な女性がいました。顔も名前も思い出せませんが。でもその人は俺の前から消えてしまって、俺はそのことに心の底から絶望した」
「絶望して、どうしたのかな?」
「絶望した俺は……」
頭を上げて目の前に座る神の目を見る。瞬間、俺は理解した。
「俺は絶望して、そして、あなたの元に来たんですね」
「その通り」
神は頷く。
「唯一の希望であった女性を失った君は人生に絶望し、自ら命を絶ったんだ」
神の言葉に、俺の中に眠っていた記憶が一気に蘇り、朧げな形をとっていく。
厳格な家庭。
父との不和。
両親の元を家出同然に飛び出した日。
孤独な日々。
疲れて色褪せた毎日。
その中で出会った彼女。
思い出。笑顔。愛。希望。
死。
絶望。
最後に見たモノクロの風景。
頬を伝う雫が手の甲に落ちた。俺は静かに涙を拭う。
「なぜ忘れていたんでしょう?」
「君がそう望んだからだ。君は君にとって最も大切なものを失った瞬間、全てを失ったと思い、そして本当に全てを失おうとした。そうすれば悲しみすら感じることは無くなるからね」
「じゃあ俺はなぜ今もここに? 死んだ人間は新しい魂の一部になるんじゃ?」
「私がそう望んだからだ」
神は立ち上がると手を伸ばして俺の頭にそっと触れた。
「君は——君の魂は絶望に黒く染まっていた。それをそのまま魂の海へ還すこともできた。たとえひとつの魂がどれほど黒く濁っていようと、大海に混ざればそんなことはとるにたらないことだ。それに絶望もそれはそれでひとつの感情だ。本人にとっては辛いことであろうとも、それは単に不要なものでもないし、ただ消し去ってしまえばいいものでもない」
神は穏やかな表情で俺を見ていた。慈しみ。それは神が全ての魂に向けて注ぐ心だった。
「君は絶望に飲まれ、全てを失おうとした。実際、君は命を捨てた。しかしどうしても捨てられないものがあった」
「……失ってしまった彼女への執着、ですか?」
俺がそう聞くと神は首を振った。
「いや、それはもっと抽象的で根源的なものだ。空っぽのはずの君の中に残っていたのはほんのひと欠片の希望だった」
「希望?」
思いがけない言葉だった。大切な人を失って自分の命すら捨てた人間の中にそんなものが残っているものだろうか?
神は俺の疑問を見透かしたように頷く。
「確かに奇妙だ。絶望した人間の奥底にわずかとはいえ希望が残っているなんて。しかし君の魂は確かにそれを大切に守り抜いていた。なぜそんなことができたのか。それは君が自分の人生を肯定しようとする意思のなせる技であり、君が愛した女性から受け取った何よりの贈り物だった。君がもし本当に自らの全てを無価値と言うのなら、それは君が人生の中で感じた幸福や愛すら否定することになる。君はそれを良しとしなかった」
「俺は……」
「君は死を選びはしたものの、魂の海に還る直前で後悔したのさ。自分は自分の人生に絶望こそしたが、彼女からもらった愛や希望まで否定するつもりは無かったのだとね。つまり君は死んでからようやく大切なことに気づいた愚か者であり、負けず嫌いの頑固者であり、愛に生きた惚気野郎ということだ」
神は手を戻してにっこりと笑う。つられて俺も笑った。
きっと俺が彼女の姿ばかり思い出していたのは、それが俺の希望そのものだったからなのだろう。俺にとってはそれが何より大切な財産であり、それを否定することは彼女への、そして自分の人生への冒涜だと考えたのだ。
「私はそんな君がこのまま自分という殻を失って魂の大海へ還るのは惜しいと思った。君がもう一度生きる力を取り戻せるかどうか見てみたいと思った。君の中に眠る希望が絶望を振り払えるのかどうか確かめたいと思った」
「それで俺に面接官を?」
神は頷いた。
「君が出会ったのは死を迎えてなおもう一度生きたいと願った者たちだ。ある意味では君と正反対の意思を持った人々と言える。彼らに出会い、その生きる目的を確認する中で、君は自分が思う生きることの意味を再発見していった。君が面接の中で転生候補者たちにかけた言葉は、決して無から生まれた言葉でも誰かから教え込まれた言葉でもなく、君自身の中から湧き出でたものだった。君は命を失って訪れたこの生と死の狭間の世界で、ようやく自分の人生を生きるために必要なことを認識したというわけだ」
神の言葉に俺は呆れて笑うことしかできなかった。俺はなんと愚かなのだろう。
「死んでからようやく生きることを理解するなんて、皮肉ですね」
「そんなものさ。だが手遅れではない。なにせいま君の目の前にいるのは神なのだからね」
神はそう言うと俺から見て左にある銀色の扉を手で示した。それはまさに神々しいと言うほかのない輝きと威厳を湛えていた。
「あの扉の向こうは魂の大海へと通じている。全ての魂はいつかはそこへ還り、新たな魂の一部となる。君が本来行くべきだった場所だ」
「彼女もそこへ行ったのですか?」
俺が尋ねると神は頷いた。
「ああ。それが定めだ。もはや君が求めていた存在はこの世界を構成する全ての一部となった。そして君もそうなることができる。それは悲しいことでも不幸なことでもなく、ごく自然なことだ」
「そうですか……」
「しかし」
神は右の古ぼけた茶色い扉を示した。木でできたそれは薄汚れて色褪せた、しかし温かみを感じさせる色をしていた。
「君にはもうひとつの選択肢がある。新たな世界で新たな人生をやり直すという道だ」
「……転生」
「そうだ」
「良いんですか? 俺のような一度生きることを諦めた人間が」
「確かに君は一度生きることを放棄した。しかし今の君は生きるために必要なことに気づき、生きることへの希望を見出している。私は君が正しい道を進めるかどうか見てみたい」
俺は立ち上がってその扉に近づいた。
その扉の向こうにあるのは混沌であると直感が告げた。綺麗なもの。汚れたもの。幸福。不幸。希望。絶望。この扉を開ければ、あらゆる素晴らしいものと恐ろしいものが待ち受けるだろう。俺は再びそんな場所へと歩き出さなければならないのだ。俺は今更のようにもう一度人生を生きるということの重みを感じた。自分はそれに耐えられるのだろうか。
神はそっと俺に近づき、共に古ぼけた扉を眺めた。
「恐れることはない、と言ってあげられればいいのかもしれないがね。しかしそれでは嘘になる。君は新たな人生を歩み出してもなお、再び大切なものを失って絶望を味わうかもしれないし、そのことを恐れるようになるかもしれない。でもそれは確かに必要なことなんだ。絶望を恐れ、時に味わいながらも、それを乗り越えて生きていかなければならない」
「俺には何もありません。特別な力も才能も」
「そうだ。今の君にあるのは心だけだ。君という心を携えて君はもう一度生まれるのだ。なんと頼りなく、そしてなんと業の深いことだろう。しかしそれこそが私から君に与える呪いであり福音であり愛なのだ。自信を持ちたまえ。言っただろう。君が面接の中で候補者たちにかけた言葉は君の中から出てきたものだと。君の中にはちゃんと人生を生きるための力が存在する。その力を私に見せてくれないか」
俺は深呼吸をして一歩踏み出した。彼女の朧げな姿、面接で出会った人々、そして俺が彼らにかけた言葉の数々を思った。俺はそれを無に返すことはしたくないと思った。俺は自分の人生を無意味だったとも無価値だったとも思いたくない。傲慢かもしれないが、俺は今再び心からそう思った。
手を伸ばしてドアノブを掴んだ。後ろで神がゆっくりと言葉を紡ぐ。
——絶望に呑まれ、それでもなお光を持ち続けようとした者よ。生まれ変わるが良い。
——学べ。新たな世界と新たな自分を。
——他者を尊び慈しむのだ。
——己の進むべき道を見つけよ。
——悲しみを受け入れ、常に前を向け。
——希望と覚悟を持って進むが良い。
——……これにて面接は終了だ。お疲れ様。気をつけて生きてくれ。
俺は扉を開けた。眩しい光が俺を待ち受けた。
お読みいただきありがとうございます。
せっかく小説家になろうに投稿しているのだから一本くらい異世界転生に関する話を書いてみようか、という感じで書いてみたのですが、気づいたら妙に捻くれた設定になってしまいました。
最初はもっとコメディタッチに実際の就活面接をパロディした内容にしてみようかと思っていたのですが、「そもそもどういう人間なら転生の面接に合格できるのだろう」と考えているうちに割とシリアスなテーマになっていきました。
やはり自分は主人公の面接官のような「うまく生きられない(生きられなかった)けどそれでも生きる希望を失いたくないと足掻く不器用な人間」が好きみたいです。
ただ、今回の作品の中での個人的お気に入りのキャラクターは神様です。
金髪で中性的、容姿端麗でパンツスーツを着こなしタバコも嗜む神。
彼(あるいは彼女)と主人公の対話シーンは書いていてとても楽しかったです。
やや長くなりましたが、ここまでお読みいただきありがとうございました。