5.五人目 - 20歳/女/大学生
ドアの向こうに立っていた女性は白い杖をつき、色のついたメガネをかけていた。俺は咄嗟に彼女の手を取ったが、少し強引に引っ張り過ぎてしまったかと反省した。
「あ、すみません。先に声をかけるべきでした。私は今回の面接を担当する面接官です。いま椅子のところまでご案内します」
彼女は俺に掴まれている手のあたりを見ながら微笑んだ。
「ありがとうございます。死んでしまったらもしかしたら目が見えるようになるかもなんて期待してたんですが、そう都合良くはいかないものですね」
彼女を椅子に座らせると、俺は自席に戻ってもう一度エントリーシートに目を通す。
彼女は生まれつき目が見えない。家はそれほど裕福ではなかったが、奨学金などを貰いながらなんとか大学で文学について学んでいた。しかし通学中の事故によって20歳で亡くなった。
「あの、ひとつ質問をしても良いでしょうか」
女性はこちらが質問するよりも先にそう言った。
「なんです?」
「もしも転生したら、この目は見えるようになりますか?」
念の為に資料を確認しながら俺は頷く。
「ええ。転生時に希望すれば障害や病気などは取り除くことが可能です」
「良かった。私、実はそのために転生を希望したんです」
「それはやはり生前から目が見えるようになりたいと?」
女性は不思議なほど的確に俺の顔の方を見ながら頷く。
「生きている時からずっと、この目が見えたら、と思っていました。私の目は生まれつきこうなのでそれほど自分が不幸だとは思っていませんでしたが、やっぱり不便は不便ですから。それに自分の周囲の人たちがどんな姿形をしているのか最期まで知らないままだったのは、今思うと少し寂しい気もしますし」
「なるほど」
「だから私、転生したら自分の目で色々なものを見ることが楽しみなんです。もちろん、目が見えなくとも家族や友人はいましたし、それなりに幸せな人生を送ったつもりです。でも、この世界に私が知らない感覚があることは知っていたから、それがどんなものなのかずっと知りたくて」
彼女は楽しそうにそう語る。
生まれつき目の見えない人間がどのように世界を認識しているのかなど俺には想像もつかない。ただ、少なくとも他人に比べてできないことは少なくないだろうと思う。綺麗な風景を見ることもできないし、愛する人の顔も知らないままだし、危険なものが近くにあることにも気付けない。事実、彼女は外を歩いていた時に事故に巻き込まれて命を落としている。
しかし、彼女の口調や雰囲気には不安や物悲しさのようなものは見受けられない。もちろん、障害を持って生を受け、そのうえ若くして死んでしまった彼女には彼女にしか知り得ない悲しみがあるだろう。だが少なくとも目の前の彼女からは、転生という大きなチャンスを掴み取ればその目で世界を見られるのだという希望が感じられた。
しかし俺にはこれまでの面接でもしてきたように、彼女の意思を確かめる責務があった。
「希望理由はわかりました。ただ、これまで見えなかったものが見えるようになるということは、そこにはある程度の覚悟が必要だと思います」
「覚悟、ですか」
「ええ」
うなずいて、俺は慎重に言葉を選ぶ。
「私には、あなたがどのように世界を捉えているかは分かりません。まあ、目が見える見えないに関わらず、他人が世界をどう見ているかなんて分からないものですが。ともかく、あなたはこれまで視覚に頼らずに自分の中に自分が認識する世界を築いてきた。たとえどれほど知識を得ていようと、その認知の世界と現実の世界にはギャップがあるはずです。つまり、もしかしたらあなたが思っているほど世界は素晴らしくも美しくもないという可能性があると思うんです。こうしてあなたの前で喋っている私も、実際に見てみたらおぞましい化け物のように映るかもしれない」
そう、世界とは醜く残酷なものだ。そんな世界に俺は嫌気がさしたのだ。頭の奥でそんな声がする。
勝手に浮かび上がってくる記憶の断片を無視して俺は彼女を見つめる。
「確かにそうですね」
彼女は少し微笑をこわばらせて頷く。俺に言われるまでもなく彼女自身もそれについて考えたことがあったのだろうと伺えた。
俺はさらに言葉を続ける。
「もうひとつ付け加えるなら、たとえ目が見えるようになったとしても、やはり世界には悲しいことも嫌なことも不便なことも無数にあるのだと思います」
「どういうことでしょう?」
「あなたは目が見えなかったから不便だったし、寂しかったと言われました。確かにその通りだと思います。目が見えなければ物にぶつかったり躓くこともあるだろうし、他人と同じように仕事をすることもできないでしょう。しかし目が見えるようになったからと言って、それらが完全になくなるわけではない。物にぶつかることも、躓くことも、他人と同じようにできないことも依然あるんです。目が見えるようになることがイコール幸福な人生、とは限らないと思います」
俺は喋りながらも、自分がまた意地悪なことを言っていることに半ば辟易としていた。これから生まれ直そうという人間に対して毎度出鼻を挫くようなことを言ってしまうのはあまり気分のいいことではなかった。
しかしそれは実際、俺が背負っている責任から生まれた言葉だった。転生した後で、こんなつもりではなかった、となっては遅いのだ。転生は人生を生き直すことだ。本来生きられないはずの新たな生を生きるからには、そこには義務や責任のようなものがあって然るべきだと俺は思う。
それにまた、世界には悲しいことも嫌なことも不便なことも無数にあるということを、俺はおそらく経験から嫌というほど知っていた。世界は残酷だ。人が持つ希望を平気で裏切る。そんな世界、見えないくらいでちょうど良い。俺は過去に自分がそう思ったことを思い出した。なぜそう思ったのかまでは分からないが。
彼女は真剣な顔で俺の言葉について考えていたが、やおら顔を上げた。
「たしかに私もちょっと怖いです。自分は世界を理想的に考えすぎているかもしれないし、もしも実際に目で見た世界が理想からかけ離れた物だったらショックを受けてしまうかも」
「ええ」
「でも私、やっぱり自分の目で世界が見たいです」
彼女はきっぱりとそう言った。この部屋に入ってきた時には気づかなかった強い決意のようなものを彼女は纏っていた。
「どうしてもですか?」
「はい。実はやりたいことがあって」
「何ですか?」
「私、絵本を書きたいんです」
そう話す彼女の顔にはまた微笑が戻っていた。優しくも力強い笑顔だった。
「絵本ですか」
「私は目が見えない分、言葉で自分の世界を作ってきました。目が見えなくても、言葉でなら他の人と遜色なく繋がることができますから。だから生前はいつか小説を書きたいと思っていました。本を読むのも好きだったし、点字ならなんとか、って。でもその前に自分は死んでしまって……。そして今、転生ができると聞いて、私、絵を描いてみたいって思ったんです。今までそんなことしたこともなかったし、仮に描いても自分じゃ見られなかったけど、これからはそれができる。前世に言葉で作った世界を、転生してから新しく手にした目や絵を使って表現してみたい」
「たとえ目に見える世界が醜く残酷でも?」
「……はい。覚悟はできています。それに」
彼女は今はまだ光を捉えられないはずの目で確かに俺を見た。
「私、世界は素敵な場所だって信じてます。前世でも私の周りには素敵な人たちが何人もいました。もちろん世界は綺麗なものばかりじゃないけれど、きっと美しいものもたくさんあると、そう信じます」
結果:合格
理由:転生後の目標、逆境に対する覚悟、新たな世界への希望。
備考:同情のようなものも、正直まったく無いとは言えない。それでも彼女のような人間がチャンスを掴むべきだと感じた。彼女がどのように世界を見るのかという興味もある。いつか彼女の描いた絵本を読んでみたい。俺は彼女に眩しいくらいの希望を見た。
——彼女を選んだんだね
どこからか神の声がした。立ち上がって部屋を見回すが、面接後には毎回隣に座っていた神はまだこの部屋には来ていない。
——なぜ彼女を合格させたのか、教えてくれるかな
俺は一度深呼吸をして、どこかにいる神に向かって答える。
「彼女には希望を感じたんです」
——希望? 曖昧だね
俺は頷く。
「確かに曖昧です。でもそれが一番必要なものだと俺は思います」
新しい人生を生きるのだという意思。進むべき道を示す目標。逆境を乗り越える決意。それらの根底にあるもの、あるいはそれらの総称が「希望」なのだ。彼女は羨ましいほど希望に溢れていた。
そう、羨ましいほどに。
——彼女が正しい道を行くとは限らない。初めて見る世界に絶望してしまう可能性もある
それは確かにその通りだ。俺も彼女自身もそのことは危惧していた。目が見えたからといって必ずしも幸福になるとは限らない。
しかし。
「未来はわかりません。彼女は失敗するかもしれないし、絶望するかもしれない。それは誰にも分からない。彼女に限らず誰だってそうなる可能性はある。でも少なくとも彼女には夢も、覚悟も、希望もある。それは生きていく中で己に降りかかる困難を打ち払うための力になると思います。
——夢や覚悟や希望があれば絶望を乗り越えられると?
「絶対に大丈夫だなんて言えません。未来は分からないのだから。でも、持っていないよりずっと良い。俺は昔、それを人生の途中で無くしてしまった」
俺は昔、それを人生の途中で無くしてしまった。
どういう意味だ?
なぜそんな言葉が口から出た?
自然と出てきた自分の言葉に、俺は今一度自らの記憶を探った。
希望。俺にとっての希望。俺が無くしてしまった希望。それについて思うと、胸の奥にきつく締め付けられるような痛みを感じる。傷跡を指先でなぞるみたいに注意深く、痛みの源に目を凝らす。
霧の彼方に一人の女性の影が見える。長い黒髪が風に揺れる。彼女の顔を思い出そうとした瞬間、その姿はすっと霧の奥へと遠のいていく。
そうか。俺は。
カチャリ。
突然、扉の鍵が開くような音が鳴り響いた。音のした方を振り返ると、いつの間にか部屋の隅に真鍮のノブがついた真っ白なドアが出現していた。数秒前までそこにはただの壁しかなかったはずだ。
——ドアを開けて中に入りたまえ
「あれはなんのドアです?」
——面接会場のドアさ。さあ、最後の面接を始めよう