第十六話 過去との決別
「雪也くん、何か嫌なことでもありましたか?」
放課後の帰り道、いつも通り美鈴と帰っているとそう聞かれる。
どうやら顔に出ていたようで雪也はすぐにいつもの表情に戻した。
自分の事情であまり美鈴に心配をかけるわけにもいかない。
月曜日の今日、雪也が父の元に戻るなら今から父の家に行かなければならない。
ただ、雪也はどうしても決められないでいた。
「ああ、いや、なんでもない。月曜だし疲れたなって」
「私、自分がよく雪也くんに嘘をついていたので、雪也くんが嘘をついていることくらいすぐにわかります」
「……美鈴には関係のない事情だし、そんなに心配しなくていいよ」
「心配するに決まっています。それに……雪也くんは私の大切な友達だから、悩みくらい共有したいです」
雪也は黙り込んで、少し悩んだ。
けれどこの事情は母にさえ言っていない上にまず言えない。
だから誰かに聞いてほしい、心の奥でそう思っていた。
「……ちょっと、聞いてくれるか?」
「はい、もちろんです。ではあっちの公園で座って話しましょう」
「そうだな」
雪也は美鈴といつもの公園のベンチに座った。
前と立場が変わって、今は雪也が美鈴の優しさに救われる側になっている。
「で、何があったんですか?」
「前にさ……っていうか、一週間前の今日か。縁切ったはずの父さんが来た時あっただろ?」
「ありましたね、雪乃ちゃんが心配してました」
「実はあの時な……」
雪也は包み隠さず全てを話した。
父から勉強して来年の二学期から転校したらどうかと言われたこと。
最初は断ったけれど母のためにもと今は迷っていること。
美鈴は頷きながら最後まで話を聞いてくれた。
「雪也くんはどうするんですか?」
「まだ迷ってる……一回、今日父さんに会ってから、母さんにこのこと言おうかなって」
「雪也くんが転校すれば当然、今の家からは離れるんですよね」
「ああ、そうなる」
「それで雪也くんはいいんですか?」
いやだ、そうはっきり言いたい。
勉強の束縛から解放されたい。
好きなことにも時間を費やしたい。
新しくできた友達ともたくさん遊びたい。
ただ、母のためにも一年半ほど我慢して勉強した方がいいのかなと思う。
そうすれば母にも家族にも恩返しができる。
雪乃の将来の学費も心配する必要性が少なくなる。
「転校した方がいいのかもって思ってる……正直、父さんの方針で勉強ばっかしてきたからやりたいことが見つからないんだ。自分の存在意義すらわからない。勉強だけが俺の存在意義だって言われ続けて……実際そうなのかなって。俺にはそれ以外に存在意義がないのかもなって」
雪也は今まで心に秘めていた不安を美鈴に明かす。
心のうちを他人に言うのは少し恥ずかしかった。
しかし同時に少し心が軽くなった。
どんな言葉を投げかけられるのだろう。
美鈴がどう反応するのかと思っていれば、数秒の沈黙の後、予想とは裏腹に雪也をなぜか罵った。
「馬鹿ですね、雪也くん」
「な、なんでいきなり馬鹿なんて……っ!?」
雪也が驚いていると、美鈴は黙って両手を広げた。
そして雪也の背中と頭に両手を回して自身に抱き寄せる。
今、雪也は美鈴にハグをされている。
美鈴との距離はゼロセンチメートル、お互いに触れ合っている。
甘い香りが鼻腔を掠め、胸の鼓動がだんだんと加速していく。
ただ、同時に安心感もあった。
故に美鈴の包容力に包まれ、離れることができなかった。
「み、美鈴……?」
「こうしていると安心するでしょう?」
「それはそうだけど……」
「友達ですからハグくらい当然です」
美鈴の甘い言葉が耳元で聞こえる。
そんな言葉が雪也のわずかな抵抗をなくした。
雪也も美鈴の背中に両手を回してお互いに抱き合う。
「……自分に存在意義がないなんて言わないでください。こうやって必要としている人がいるんですから。雪也くんがいなかったら私はどうやって生きろと?」
「それは……大袈裟だろ」
「大袈裟なんかじゃありません。雪也くんが私を救ってくれたんです。ちょっと不器用だけどまっすぐな優しさが私を救ってくれたんですよ。雪也くんがいなかったらあの時私は死んでいました。生きたいって思えたから私はあんな状態から生きられたんです」
美鈴の言葉は今の雪也に深く刺さった。
自分を必要としてくれる人がいる。
雪也はあまり周りが見えていなかったのかもしれない。
透も、永戸も、美鈴も、雪也の友達でお互いを必要としている。
「それとも雪也くんにとっての私の価値はそこまで低いんですか?」
「いや、違う、そういう意味じゃない。美鈴は……俺にとって大切な存在だ」
「なら、自分の存在意義がないなんて言わないでください」
「美鈴……ありがとう……」
「雪也くんの選択は自由です。けどきっと雪乃ちゃんだって雪也くんと離れ離れになったら悲しみます。私だって嫌です。もっと、もっと雪也くんと青春らしいことしたいです」
雪也は勉強以上のものを見つけようとしたのかもしれない。
勉強以上に大切と思えるもので、勉強以上に必要なもの。
前までそれがわからなかったが、今ではしっかりとわかる上に言い切れる。
「約束だしな、美鈴と青春するって」
「そうですよ。私たちが卒業するまで雪也くんには私の青春に付き合ってもらうんですから」
「……ありがとう、ちょっと安心した。考えもまとまった」
雪也が美鈴から離れると、美鈴はニコッと笑顔を雪也に向けた。
美鈴の笑顔をもっと見たい、美鈴と青春を送りたい。
そんな思いが前よりも強く、しっかりとある。
「でも父さんのところは行ってくる。過去としっかり向き合いたいから」
「はい、頑張ってください」
雪也は公園を離れてそのまま父の家に向かった。
もう何を言われてもいい。
今の雪也を必要としている人がいるのだから。
ここに雪也の存在意義があるのだから。
***
「来たか、とりあえず中に入れ」
日が沈んだころ、父の家に訪問すると父は相変わらずの厳しい表情で出てくる。
中に入ると、父の家は雪也たちが住んでいた時より質素になっていた。
それに幾分か埃っぽい。
家事に手をつけられていないのだろうか。
「この家もな、もう引っ越す。アパートに住むことにした」
父に案内されて椅子に座ると、そんなことを言い出す。
そんなことを語る父の表情はなぜか穏やかだった。
「アパートに二人で住んで、通う予定の塾に近いところに住む。そして家政婦を雇おう」
「父さん、俺は……」
「お前が合格した後も全面的に支援しよう。お前の経歴のためならいくらでも注ぎ込んでやる。さあ、答えを聞かせろ、雪也」
「受けない、俺は受けたくない」
「なんだと!? この馬鹿息子め」
向かいに座っていた父は立ち上がり、雪也に近づく。
そして雪也の頬を思いっきりビンタする。
けれどあまり痛みはなかった。
むしろ懐かしいと思う気持ちの方が強かった。
「受けろ、雪也! これは提案じゃなくて命令だ!」
「前々から言いたかったんだけどさ、お前は俺に興味ないんだな」
「違う! これは雪也のことを思ってやっている……」
「もういい、邪魔なんだよ」
雪也は胸ぐらを掴もうとしてきた父の手を振り払う。
そして今までの恨みの分、父の頬を思いっきり引っ叩いた。
リビングには二人しかいなかったのでその音が何回か部屋中に響いた。
「なっ……」
「もう俺はお前の操り人形じゃない。今の俺には大切な人がいる……母さんには申し訳ないと思う。けど今の場所が俺にとっての存在意義なんだ」
「勉強だけすればいいものを……後悔するぞ! お前は実の母を苦しめるというのか!?」
「なら大学なんて入らず就職したらいい。選択肢はある。父さんは母さんのことなんてどうでもよくて、それを言って自分の操り人形にしたいだけだろ?」
雪也は冷静に父に言い放つ。
父の顔は今まで見たことがないほど紅潮していて、怒りを抑えているようだった。
拳を握りながら近づいてきたので、雪也も最初で最後の親子喧嘩でもしてやろうと構える。
けれど父は拳を放つことなく、雪也の足を払った。
そして雪也は体勢を崩して尻餅をついてしまう。
「雪也、いいか? お前の存在意義は勉強だけなんだ」
父は体勢を崩した雪也に殴りかかる。
殴られる、そう思って目を瞑った時だった。
玄関のドアが開く音が聞こえて、父の拳は寸前で止まる。
「……どうせこんなことだろうと思ってたわよ」
「え、母さん!?」
音が聞こえてすぐにリビングの扉が開く。
そこにはスーツ姿の母が立っていた。
「実の息子に何やってんのよ。息子に手をあげたクソ野郎」
母もなかなか口が悪い。
そういえば母と父が喧嘩していた時も、母が優勢だった気がする。
昔の記憶が蘇ったのは三人が久しぶりに同じ空間にいるからだろう。
「なんでいるのかは知らんがちょうどいい。お前もお前だ! 雪也になんて教育を……」
父は母に足音を大きく立てながら近づく。
母に暴力を振るうのではないか。
しかしそんな心配は不要だったらしい。
近づいてきた父の腕を母は掴み、そのまま背負い投げをして地面に叩きつける。
「私、あなたと別れてから休日は柔道に行ってたの。今度あなたに会った時にボコボコにできるようにね」
「……つよっ」
「雪也、行くよ。こんな奴放っておいて」
「ま、待ってくれ! 雪也! 俺の元にくれば必ず国公立大学に通わせてやる。こいつの元にいたら大学すらまともに行けないかもしれないんだぞ!? 俺の方が金はある。だから……」
「ああ、そうそう、私、最近になって彼氏できちゃったんだよねー。結婚も考えてくれてるからすぐに籍入れるかも」
「なっ……」
「だからあなたのことはもう必要ないの、さようなら。金輪際、私の息子に手を出すな」
母はそう言い残して昔住んでいた家を出ていく。
雪也も父を見ることなく、母について行った。




