第5話 赤いさんかく
スポーツマンとうんこ関係の話で児童の間で人気があったO先生だったけど、ぼくにとってはいい先生でなかった。
O先生は、おきゅう部の丸刈りたちのように活発でスポーツができても勉強ができない子とはすごく仲がよかったし、以前は「たいよう学級」(今日いうところの特別支援学級)の先生をやっていたこともあって、障害があってスポーツも勉強もぜんぜんできない子も特別に親身になって面倒をみていた。しかし生まれつき手が少し不自由でも勉強ができたぼくは、先生の好きなそれのどちらでもなかった。
ぼくが4年生になった時、O先生が穴実小に赴任してきて初めての担任になったけど、ぼくを「たいよう学級」に転級させるかで、ぼくとぼくの両親の議論になったことがあった。ちなみに「たいよう学級」は穴実小の校舎の1階の西側の1年生の学級の奥の国語教材室のさらに奥の、平たく言えば1階校舎一番西のはずれにあった。
4年生に進級したとき前の担任からの報告を聞いてO先生は少人数の「たいよう学級」の先生の目の届く中で教育を受けたほうがいいと強く勧めた。お母さんは世間体が悪くて将来に傷がつくと、ぼくは、近くに住んでいるいとこで小さいころから遊んできたマサオをはじめそれまでの友だちと別れるのがいやで(彼らは総じておとなしく勉強のできる子たちだった)それぞれO先生に対して強く反対し、ついには校長や教頭まで交えた教員会議まで開かれた。
その会議で、O先生は席上でぼくの「たいよう学級」への転級を強く主張したけど、これまで穴実小だけでなく穴実市全体でぼくのように勉強のできる子を「たいよう学級」に受け入れた前例はなく、それは難しかった。しかも病院でレントゲン撮影など何度検査しても原因不明である一方で、身の周りのことは少々時間がかかっても自分でできたので障害者として認定されてなかったこともあって、転級は却下になった。ぼくはこれまで通り普通学級の4年2組で勉強できることが決まった。
しかし、ぼくは、運動がだめなのに加えて給食や絵の具や墨汁をこぼして服を汚したり、鉛筆や消しゴムを床に落として失くしたりするような、ふつう勉強のできる子なら決して起こさないようなさわぎをよく起こした。そのたびにO先生は「お前はやはりたいようの子だな」といい、一部の子にはよく服を汚してきたないので、陰で「勉強がどんなにできても運動ができないのは人間としてダメだ」とか「バイキン」とまで言われた。自分でも自分がその通りバイキンに思えて仕方がなかった
父方母方どちらもぼくの周りの親戚のおじさんやおばさんで新制中学か旧制高等小以上の学歴を持つ人はいなくてトラックの運転手か大工のような職人か工場勤めの人だったけど、彼らはいとこたちの中でもそんなぼくをバカにし、口を揃えて、運動や勉強以外の身の回りのことがきちんとできて一人前の大人だ、勉強ができても運動や他のことができないぼくは大人になってもどこも行くところがなくなると言っていた。
周りがそんなだから、小学生のぼくでもいやでも早いころから自分の将来というのものに不安を感じて、放課後の合唱部から帰るとかなり遅い時間になるけど、それでも自分から勉強するようになっていった。できれば学年一番にならなければ未来はないんじゃないかと漠然と思っていた。
しかしその努力がなかなか成績に結びつかなかった。というのも、小学生のぼくの手でテストの答案に鉛筆できちんと読める字を書くことが難しかったからだ。書いてみてこれでは読めないと自分でわかっても筆圧が強すぎて消しゴムで消しているうちに答案は真っ黒になり、ますすます読みにくい答案になったまま制限時間が過ぎた。そして当時の同じクラスのぼくの友だちだったような勉強のできる子たちが100点を取る中、ぼくの答案にはきちんと書けなかったところや消しゴムで何度も消して読みにくくなった個所にどんどん赤いさんかくがついて85点とか92点いう点数になっていった。
そして他の子なら「よくがんばりました」とか「もうすこしどりょくしよう」といった言葉が答案に赤い字で採点された答案に書いてあるけど(いつも100点を取る子の答案には何も書かれていなかった)ぼくの場合赤い字で書かれているのは決まって「字が汚い、もっとていねいに書くように努力するように」だった。
O先生に一度だけ夏休みの読書感想文でお前のを全国コンクールに出してやる、ただしその汚い原稿を書き直してこいと言われて、夜遅くまで何度も時間をかけて書き直したけど、そのたびにこれではまだ汚い、書き直してこいと言われた。しまいにはぼくもキレて、書き直しはせずにその日はテレビでやっていたチャップリンの映画をお父さんと一緒に見て笑いころげてそのまま寝た。翌日、原稿をそのまま提出したら、
「なんだ、ぜんぜん汚いままじゃないか、おい、●●●、オレの言った通り書き直してきたのか?」
とO先生が怒りだしたので、
「もう、これ以上きれいに書けません!」
と答えたら、O先生は「もうお前のは出さないぞ!」とみんなの目の前で原稿を引き裂いた。ぼくはその場で泣くしかなかった。
家庭訪問でうちにO先生が来たとき、ぼくは思い切って「ぼくは手が悪いです」と言ってみた。O先生は怒り出して言った、
「おまえは自分が悪いことを手のせいにするのか? そんな甘えたことを言っている子は大嫌いだぞ。お前は勉強ができて努力もできる子だから、手が悪くても勉強して東京のいい大学に行けるかもしれない。でも、世の中には手が悪くて勉強もできない、おまえよりかわいそうな子もたくさんいるんだ。そういう子から見たらおまえなんかすごく恵まれているんだぞ。確かたいようにもいたな、手どころか足も不自由で自分で着替えができなくて、勉強も3年になってひらがなを書くのがやっとの子。オレが本当に支えなければならないのはそういう子なんだ。おまえは頭がいいんだから自分で人の何倍も努力しろ。そうしないとお前は生きていけないぞ。」
それは明らかに、この先、誰も助けてくれない中、人の何倍もの努力を要求されるぼくの人生に対する呪いの言葉だったけど、小学生のぼくにはそれに反論する知恵がなく何も言えなかった。
すると、いっしょにそれを聞いていたお母さんは感動した泣き出して言った。
「先生はおまえのことを本当は認めてくれて考えていてくれたんだよね。ありがたいよ。しかも本当にかわいそうな子を支えようとする立派な先生だよ。●●●、おまえは先生のいわれたように本当に人の何倍も努力しなければならないんだよ。だから、この先生のお茶がのんだお茶もお飲み。先生の飲んだお茶を飲むと先生みたいに頭がよくなるとおばあちゃんがいってたからね。」
と言って「もういりませんから」といってつぐのを断った、先生が口をつけた茶わんをぼくの前に置いた。
音楽の教師として一般の歌謡曲や流行歌を嫌っていたT先生と違い、O先生はそういうのが大好きだった。当時流行っていた「シクラメンのかほり」が大のお気に入りで。授業中も何かにつけてそのフレーズを口ずさんでいた。ある日の授業中、ぼくに「●●●、おまえ合唱部だけど、おまえのような子どもにこんな大人の情感を表現した歌なんか歌えないだろう、ためしに歌ってみろと言われた、ぼくはもう声変わりしていたけど丸々歌った。クラス全体が水をうった静かになったけど、O先生も黙り込んだ、そして、それから二度と授業中「シクラメンのかほり」を歌うことはなかった。
それから何日かたった後、O先生はぼくを教務室に呼び出した。
「●●●、今日、おまえを呼び出したのはお前を注意するためじゃないんだ。おまえ声変わりでソプラノやめさせられたんだってな」
「はい、そうです」
「おまえ、いつも熱心に練習していたのに残念だな。これを機会におきゅう部に来ないか。4年生の頃からおまえの手がずっと気になっていたが、いつまでも治らないのはオレの見たところではは自分の好きなことしかしようとしない甘えたお前の心のせいだ。たいようの子たちもおきゅう部のあの子たちもいつも苦手な勉強にがんばっている。でもおまえは勉強も好きそうだし、合唱でがんばっているといっても好きだからがんばっているんだろう。」
O先生と合唱部の担当のT先生の仲が悪いのは穴実小の高学年の子ならだれでも知っていることだった。O先生はさらに話をつづけた。
「オレがその子たちを見てわかったのは本当に人間を鍛え成長させるのは自分の本当にきらいなことを本当にがんばることなんだ。だから、おまえもおきゅう部に来い。お前なんか来ても補欠以下で球拾いもやっとだろうが、合宿に参加して集団生活を送り苦手なことに必死に取り組めば甘えた心が克服できて、人間としても成長できて、医者もわからないと言ってたその手がなおるかもしれないぞ。今すぐとはいわないが考えておけよ」
以前しゃべる言葉が聞きとりにくいとよくともだちや以前の担任の先生に言われていたけど、それがハッキリしゃべれるようになったのは合唱部の発声練習のおかげだと思っていた、ぼくはO先生の言葉がすごくフマンだった。でも、
「先生、ありがとうございます。考えさせてください」
と大人のように言ってぼくはその場を立った。
でも、結局、卒業するまでぼくは合唱部にいた、アルトパートになっても歌うこともT先生も好きだったし、部員の女の子たちもバイキン呼ばわりされずに仲が良かった。それに球拾い以上に合宿でO先生に浣腸されるなんてイヤだった。
(続く)