立て掛けて窓際
ある程度の事ならば「そんなもんか」と割り切ってしまえるようになった、こういう変化は一体何と呼ばれるものなのだろう。飾り気のない生活が『我がスタイル』と言わんばかりの意識で自分にとって標準そのものである部屋を一瞥する事数秒。
『新生活』と銘打たれた広告に若干気後れしつつも所々ガタが目に付くようになった調度品を揃え直そうかと思っている。ますます複雑化しつつ、肝心なところで簡略化されてくる社会での重要な自己表現とでもいうべき家具選びは慎重に慎重を期す方が良いと思っているうちに、過ぎてゆく時間による摩耗、或いは経年劣化はどうすることも出来ない必然である。それはややもすると我が心の摩損の表現ではないのかと、洒落た一言を耳タコで聞いてくれる隣人が存在するべくもなく。
『タラレバはご法度なのだよ』
と競馬好きの知り合いに教授していただいたように、この場に誰か時間を共有する人…なかんづく『女』と書いて「ひと」と読むような誰かが存在したらなんて考えることはよそう。だんだん虚しくなってくる。実際それについてはちょっと前打ち解けてきたと感じていた人から恋愛相談を受けるという全くもってよく分からないありきたりな展開になったので懲り懲りしているくせに、そもそも調度品に気を遣おうとしているのもやはりタラレバ案件を意識するからである。今更のように。
蛇口を捻り、美しい線で直滑降してきた水、ウォーターをグラスに注ぎ、口に含み飲むかと思わせておいてすぐさま吐き出す。うがいをしたのである。医療関係者による口すすぎの有効性と切実感をこの身に受けたものとしてはこの後の手洗いまでやぶさかではない。これからの季節は忌まわしき花粉との戦も控えている。出来るだけ身を清めておくのは理にかなっている。適い過ぎている。だから困る。
合理的な事は多くの事では良い事である。けれど、合理的であるから必ずしなければならないという事になるといつしかルーティーンの中に組み込まれ、欠くことの出来ない日常の構成要素になってゆく。すると、その構成要素の分を予め考慮するように行動が計算されてゆき、いつしかあったはずの余裕はきれいさっぱり消え去っていることに気付く。とまあそんな大げさなものではないと信じたいが、少なくともこの頃自分の徒歩の速度が若干早まっているという影響は出ているかも知れない。
てくてくてくと歩いて、がったんごっとんと揺られ、またてくてくと歩いて目的地に到着する。とりあえず今日は「下見」という予定でやってきた大型のインテリアショップだけれど、もしかしたら購入を決定するかも知れない。それは神と30分後の僕が知っている。
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そして噂の「30分後の僕」が唐突にモノローグを再開するわけです。
「やっぱりねこの時期は混んでたね」
まるで友人に報告するかのように回顧する僕。新生活を始めたい人、始めなきゃならない人、無理やり新生活気分を味わおうとしている人、他、色んな人が来ているわけです。その中で、改めて自分が何を必要としているのかを考えに考え抜いた25分でしたよ。確かなことは、ここに集まっている他の人ほどには商品を必要としていない。というかいざ実物を見てみると「家具の配置」とか「色合い」とか部屋のテーマとかの面を抜本的に見直してイメージを作ってから選んだ方がいいのではないかと思えてくるのです。そのアイディアが浮かんでしまうと、余計にそれが正しいように思えてきたので僕は一旦退散したのです。
そして、僕は唐突に「書籍」が欲しいと思ったのです。内装のイメージを膨らませてくれるようなシャレオツな具体例というか、そういうものが惜しげもなく披露されている書籍がこの世の中にはありまして、まあそれに頼ってみようという事なのですね。で、書店がないかなぁと思っていると、普通に近くにありまして、見るからにあまり繁盛はしていないような書店なのですけれどそういう書店の方が良い場合もあるのかなと思いまして、そそくさと入店したのです。個人で経営している店らしくてですね、僕はまあ本が好きな方なので珍しい本も扱っていて「感心感心!」という風情で眺めていたのですが、当初の目的を忘れてはいかんなと思い、店主に相談してみたのです。
「インテリア?ですか。一応雑誌もありますがね、えっとああ、ここです。この辺りはインテリアの術というか、家具選びのセンスを磨けるような本とかを揃えているんです」
「へぇ凄いですね。意外とこういう本があるんですね」
痒いところに手が届くような品揃えに、再び感心気味に頷いていると店の奥の方から若い女の子が出てきて、まるで我々には無関心の様子でそのまま外に出て行ったのを僕は見た。
すると店主はとても複雑そうな表情で話し始めた。
「今出て行ったあの子がね、今度新生活を始めるんですよ。でね、私が家具を選んであげようとしたら、言うんですよ」
「なんて言ったんですか?」
そこで店主は一つ大きな呼吸をする。
「センスがないって」
「え…?」
「私にはセンスがないって言うんです。家具選びの。」
「はあ…」
その店主の表情はこの上なく切なそうだったが、色々な事情があるのだろう。
「それでこういう本を読んだ方が良いのかなって思うようになりまして…」
「なるほど…」
僕はそこで気になる事があったのでこう尋ねた。
「それで効果はありましたか?」
すると彼は菩薩のような微笑みでこちらを静かに見つめていた。その様子から何かを察した僕は、
「じゃあこの雑誌だけいただけますかね」
と告げた。店主は静かに「はい、ありがとうございます」とレジに向かった。
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ところで一体この一幕は何だったのだろう。何だったのかと訊かれれば何でもない事だったのかも知れない。インテリア雑誌だけを携え帰宅した僕は、雑誌を机に置いて「ふう」と普通の息ともため息ともつかない何かを吐き出した。
「あ、そうだった」
再び立ち上がってシンクに移動し、蛇口を捻る。慣れたグラスでうがいをする僕はこんな事を思う。
<何はともあれ先ずは本棚が欲しいかもな>
と。