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炊事場に入ると、そこでは相変わらず狐の被り物を被った青年が既に調理を始めていた。
昨夜この狐の被り物を見た時は怖いとさえ思ったけれど、明るい日の中で見たら何だか愛嬌があるような気がして少しだけ目の端を緩める。
「おはようございます」
「ん? ああ、おはようございます。どうかされましたか? お水でも汲みにきましたか?」
青年は不思議そうに首を傾げながら鈴に問いかけてくる。
「いえ、お水は大丈夫です。何かお手伝いする事はありますか?」
「え!? お、お手伝い、ですか?」
「はい。家でもしていたので何かしていないと落ち着かないんです」
突然の申し出に青年はキョトンとして答えた。
「千尋さまが選んだ家柄の方はそんな事はしないと思っていましたが、そうでもないのですね」
「その家庭によると思います。私は佐伯家で家事をしていたので。それに、最近の女学校では家事やお裁縫を習うそうです」
「なるほど、良妻賢母を育てるというやつですね。では卵を割っていただけますか?」
「分かりました。あの、一つ伺ってもいいですか?」
「はい?」
「調理中にその被り物……辛くないのですか?」
ずっと気になっていた事を思い切って聞いてみた。するとそれを聞いた途端、青年はピタリと手を止めて後ずさる。そんな青年の様子を見て鈴は慌てて言った。
「あ、いえ! その、何か事情があるのでしたら別に答えなくてもいいです! その……不躾な質問をしてしまってすみません」
思わず癖でいつものように青年に頭を下げた鈴に、今度は青年が慌てだした。
「いや! 頭を上げてください! 花嫁候補に頭を下げさせただなんて知られたら、すぐさまここを出る羽目になってしまいます!」
「え!? す、すみません!」
「ああ、だから頭を上げて! 後生ですから!」
そうは言われても不躾で失礼な質問をしたのは自分の方だ。何よりも鈴は何かあるとすぐに謝る癖がすっかりついてしまっている。
炊事場でいつまでも頭を下げ合う二人を一体いつから見ていたのか、入り口の方から小さな笑い声が聞こえてきた。振り返ると、そこには千尋が立っている。
「ち、千尋様!」
「千尋さま?」
「おはようございます、喜兵衛。それに鈴さんも。こんな所で何かの儀式ですか?」
「ちが、違うんです! その、私がこの方にとても失礼な質問をしてしまって、なのでその……」
「あ、いや自分がすぐに答えられなくて誤解をさせてしまっただけで、鈴さんは何も悪くはないのです!」
二人の言い分を聞いて千尋は更におかしそうに目を細めると、おもむろに近寄ってきて言った。
「どうやらどちらも悪くはないようです。それで? 鈴さんはどんな質問をしたのです?」
「えっと、料理中にその被り物は辛くないのか、と……すみません」
鈴の言葉を聞いて千尋はくつくつと笑った。
「何も謝ることはありません。喜兵衛は正真正銘狐です。これは被り物という訳ではないのですよ。そして雅は猫です。真っ黒な猫なのです」
「……え?」
あまりにも唐突な千尋の言葉に今度は鈴が固まった。
もしかしたらからかわれているのかとも思ったが、固まった鈴を見て喜兵衛が焦ったようにオロオロしている。そんな喜兵衛を無視して千尋は鈴の顔を覗き込んできてさらに続けた。
「おや? 信じませんか? ちなみに私はこの地を守る龍神です」
「りゅう……じんさま……?」
「ええ。驚きましたか?」
「……はい……とて……も……」