第5話 籠ノ姫
「紅茶をどうぞ」
柔らかな芳香が鼻孔を刺激し、脳内をクリアにしていく。
「良い香りだ」
「インドのダージリン地方で生産された紅茶で、ピュタボンの茶園で収穫された、ファーストフラッシュと呼ばれる種類で御座いまして、これは……」
得意げに語り始めたセバスチャンを、そっと手で制すると、
「また今度ね」
「ああ、申し訳ありません。また、悪い癖が……」
食事を終えると、シャワーで汗を流して、身支度を整える。
「行ってらっしゃいませ」
「留守を頼むよ」
セバスチャンに見送られ、今日は、神様以外からの依頼を受けるため、目的の場所へと向かう。
鍵を使えば一瞬で着くのだが、何となく、歩きたい気分だったので、刹那は、周りの自然を楽しみながら、ゆっくりと歩いて行った。
刹那が子供の時に比べると、建物などは、随分と変わってしまったが、手付かずの自然は、開発されずに今も残っていた。
木々が、アーチ状になっている細い道を進み、小高い丘の、古びた墓石の前に立つと、
「おはよう、母さん」
刹那の母親は病弱で、床に伏せがちな日々を過ごしていたが、刹那が五歳の時に、その短い生涯を終えた。
だが、自分の境遇を物ともしない、明朗闊達な女性で、臨終の際も、刹那や、近しい者達が見守るなか、笑顔で最後の時まで笑っていた。
「父さんは、相変わらず世界を飛び回っているけど、母さんの月命日には必ず、撫子の花を贈ってくるよ」
強い風が、刹那の髪を撫でるように吹き上げると、頭に響く声が聞こえた。
「旦那~」
黒い大きな羽根とは不釣り合いな、可愛らしい小動物が、上空から颯爽と現れる。
「慌てた顔をして、どうしたんだい?八咫烏」
「どうしたも、こうしたも、ありゃしやせんぜ!」
八咫烏は、腰に携えた一枚の和紙を、刹那の前に差し出した。
文章には大きな文字で、
『早く来るのじゃ!』
と、お世辞にも、達筆と呼べない文字が書かれていた。
「千代姫のお世話も大変だね」
八咫烏の喉を撫でると、頬を紅く染めて、猫がじゃれるように、気持ちよさそうに、羽根をパタパタと踊らせる。
「旦那だけでさぁ、あっしの苦労を解ってくれるのは」
「約束の時間には、まだ余裕があるんだけどね」
「千代姫は、御自分の都合を、優先しやすからねぇ」
「『八老三家』には、色々と世話になってるし、邪険には出来ないし……行こっか」
八咫烏が懐から団扇を取り出すと、一陣の風が、二人を包み込む。
一瞬にして、その場所から消えると、周囲の景色が一変していた。
広大な森の中に、寝殿造りの屋敷が佇んでいた。
周辺には白装束に、顔を特徴的な仮面で覆った守人たちが、腰に日本刀を帯刀して、微動だにせず立っていた。
「開門!」
八咫烏の号令とともに、重厚な大手門が開かれる。
通路の両端に整列した守人たちが、深々と一礼する。
刹那は、何時来ても、この出迎えには慣れなかった。
足早に、対屋から渡殿を通り、千代姫の住む寝殿へ向かう。
夜御殿に入る際には、一切の不浄を嫌うため、世俗の服装を脱ぎ、漆黒の衣冠に着替える。
几帳越しに千代姫が、肘掛けに、だらしなく突っ伏しながら、大きな欠伸をする。
「おおっ、やっと来たか」
几帳を開け、刹那が座る下座に駆け寄る。
「姫様!」
慌てて、両脇に控える従者が飛び出して来た。
赤を基調とした小袿を身を纏った少女が、無邪気に刹那に抱きつく。
「刹那!」
「刹那!」
同じ顔から、双子である女性達が、感情を押さえられずに、怒号を上げた。
「よさぬか、左近、右近」
口調はのんびりとしているが、その言葉は波紋となって、二人の動きを止めさせる。
「しかし……」
「二度は言わぬぞ」
その場の空気が、一瞬にして緊迫する。
すかさず、刹那が間を取り持ち、
「二人とも、千代姫を思ってのことだ。大人気ないぞ」
「儂は子供じゃ」
プウッと頬を膨らませ、拗ねるような態度を取ると、その場の雰囲気が和み、右近と左近は、胸をなで下ろした。
「それで、用件を聞こうか」
「これじゃ」
千代姫は、クシャクシャになったチラシを差し出すと、
「ミスタードーナツとやらに、連れて行ってはくれぬか?」
「は?」
この子は何を言っているのか、刹那は、呆気に取られた。
「姫様、外界に出るなど、冗談にしても笑えませぬ!」
「そうです、俗世の不浄の気を、御身に晒すなど!」
二人は、千代姫の我が儘には慣れているが、今回の其れは、群を抜いて、許容範囲を超えるものだった。
「千代姫、幾ら何でも、それは……」
「出来ぬとは、言わせんぞ」
「……」
自身の境遇を知ってなお、刹那に頼んだ千代姫には、打開策があるらしい。
「お主の力……正確には、最高神の力を借りて、儂の周囲に結界を張ればよかろう」
得意げに千代姫はフフンと鼻を鳴らした。
「神様の力を、お務め以外には……」
「相変わらず、頭が固いのぉ、彼奴には、話を付けておいたわ」
「あ……」
先日、神様からの電話の内容は、この事だったのかと、合点がいった。
本人の了承もあるならば、断る理由もない。
それに、個人的にも、閉塞的な空間に、千代姫が囲われてる状況は好ましくないと感じてた刹那は、首を縦に振る。
「では、行くかの」
「その格好でかい?」
「ん?」
さすがに、現代社会に於いて、千代姫の格好はコスプレにしても、レベルが高すぎるだろうと頭を抱える。
「左近、右近」
刹那は助け船を求めると、二人は諦めが付いたのか、
「姫様、お召し物を急ぎ、御用意させますので、暫しの間、刹那と歓談でもなされては頂けませんか?」
「わかった、汝らに任せる」
「はっ!」
深々と一礼し、左近らは部屋から出る。
二人だけになった部屋では、千代姫が退屈そうにゴロゴロしている。
「そのチラシは、どうやって手に入れたんだい?街頭で配られている物みたいだけど」
「八咫烏がの、口の周りに、甘い匂いをさせて、何やら頬を緩めておったから、何じゃと問うたのよ」