お互い暗殺対象なのは重々承知の上ですが、本気で恋してしまいました
一神教を重んじる戒律の国、レストラ神聖国。
自立と進化を掲げる自由の国、ウェンテッダ王国。
思想の違いから長く戦争を続けていた二国は、この度、停戦協定の為に婚姻を結ぶこととなりました。
私――モニカはウェンテッダの第二王女として、レストラに嫁ぐ身。
和平のため、民のため、戦を止める唯一の手段としての、いわば政略結婚です。さながら人身御供、身を売るに近い行為。それだけでも気が重いというのに、私には重大な使命がありました。
それは、夫となる人を……
レストラ女教皇の息子、齢二十五の若き聖王、ヨランを殺害すること。
裏事に手練れた者たちを供としてレストラに嫁入りし、彼らの助けを借りて夫を殺す。これが、父に与えられた私の使命でした。
ええ、そうです。停戦協定など、父王陛下は望んでいない。この機を利用して一気にレストラを潰そうという計画なのです。私はそのために、姫としては勿論、暗殺者としても優秀になるようにと育てられました。毒の扱い、人を騙す為の所作、立ち回り方を叩きこまれました。
嫌ではなかったのか、ですって?
嫌に決まっています。誰かを殺すために育てられるなんて、こんなに悲しいことはありません。
だけれど誰が拒めましょう。レストラは悪だ、教えの元に人々を縛り思考を奪う洗脳国家だ、おまえがその手で戦を終わらせるのだと十歳のころから『教育』されて八年間。その日々から逃げ出せば、代わりに役目を押し付けられる誰かがいる。それは臣下の娘かもしれない、市井の者かもしれない。いずれにしても自国の民です。
私が盾になるほかありません。
王家の娘として、役目を全うするほかありませんでした。
ですが、もう疲れてしまいました。
教育も役目も、心を摩耗させるばかりでした。
きっと私は、暗殺者としては不向きな性格だったのでしょう。役目を果たした後、人を殺した罪を背負って生きていくつもりはありませんでした。
(父王陛下の望み通り、ヨランを殺害し、そして私の人生にも幕を下ろそう)
そんな気持ちで結婚式を迎えました。
レストラの教義に則り、顔を布で隠したまま、言葉ひとつも交わさない婚姻を結びました。
ヨランとようやく二人きりになったのは、夜も更けてからのこと。
爪に致死性の毒を塗り、夫婦のベッドに腰かけて、初めて彼と顔を合わせた時――
「なんて可憐な女性なんだ!」
「なんて素敵な殿方なの!?」
なんということでしょう。
私たちは、同時にお互いに、一目惚れをしてしまったのです。
●
「待ってくれ、美しい人。君もわたしを? 聞き間違いでなければいいんだが」
「いえ、私こそはしたない…… でも、思うままが口に出てしまったのです」
ヨランは口元を手で覆って、顔を真っ赤にしてうろたえていました。
私も同じです。両手で頬を押さえて、その頬も驚くほど熱い。こんな気持ちになったのは生まれて初めてでした。彼の紫の瞳と目が合った瞬間、雷のような衝撃が背中を突き抜け、居てもたってもいられなくなってしまいました。
私は、今この時まで、一目惚れなどというものを好意的にはとらえておりませんでした。
この青天の霹靂は、本や演劇、いわば物語だからこそ成り立つもの。目が合った瞬間に恋愛感情を抱くなどあり得ない。それは外見が好ましいだけで、せいぜいが切欠であって、人と人が愛し合うには時間が必要なものだろうと、そう思っておりました。
今私は、全ての一目惚れの物語に謝罪をしたい気持ちでいっぱいです。
本当にあるのです。
瞳と瞳で確かな何かを感じることが。この人こそが、という確信が!
私のような人ならざる道を歩んだ娘にさえ、恋の奇跡は、起こり得るものだったのです!
ですが――
(その相手が暗殺の対象だなんて)
喜びと嘆きは同じだけ訪れました。私は彼から目を離せないまま、『教育』の内容を思い出しておりました。
(レストラは神の名を借りて圧政を敷き、民を苦しめている…… 正義の皮を被った悪徒)
彼らは教えに背く者を容赦なく断罪すると学びました。そこに優しさはなく、温かい血の通わぬ者ら――神の名を借りて人を虐げ続けているといいます。
だけれどそんな風にはとても見えない。ウェンテッダの民にはない銀色の髪は美しく、そして何より、思慮深げな優しい瞳。
こんなにも私を真摯に見つめてくれる。
敵国であるウェンテッダの姫を。
(深い紫…… 吸い込まれてしまいそう。
ああでも、駄目よ! 私には任務があるのだから!)
私はぎゅっと唇を噛み締めました。頭の中に父王陛下の横顔が見えます。思い出すとぞくりと震える、冷たい表情でした。
『おまえはレストラを潰すための駒。急かさぬゆえ確実に仕留めろ。損じれば死だ』
そんな風に言われ続けて、周囲の者も倣いました。私は人と目を合わせることすら稀な人生を送ってきたのです。
神殺しの娘。ウェンテッダの毒姫。
それが祖国での裏のあだ名でした。
なのに彼は、そんな私を美しいというのです。
褒めてくれたのです。
感極まらない理由がありませんでした。泣き出しそうになった私を、突然ヨランは強い力で抱きしめました。
「母よ許したまえ、わたしは初めて貴方に背く!」
彼の声は悲痛でした。そして同時に、強い愛情に震えていました。
「こんなにも心を揺さぶられたことはない。慈愛に満ちたまなざし、紅色の唇、黄金よりもまばゆい金の髪…… モニカ姫、君はまるで天使だ。母はわたしに天使を殺せと仰るのか!」
「ど、どういうことです、ヨランさま」
「わたしは――君の殺害を命じられていたんだ」
なんですって。
目を見開いた私に、ヨランは抱擁を緩めました。両肩をしっかり掴んで、辛そうに言います。
「君が襲い掛かって来た所を返り討ちにするという筋書きだ。無論、全ての手筈が整えられている。君をこの手で刺しさえすれば我が国は勝利が約束されると言い含められた。
……わたしは聖王であるが、実際には傀儡だ。実権は母、女教皇が握っている。誰も逆らうことはできない」
「では貴方は、今ここで」
「そう、本来ならば、君を刺し殺さねばならない。
……モニカ姫は放蕩を重ねた悪女、神に背く愚か者だと聞いていた。自由を謳いながら貧富で民を別け、不平等を強いる悪辣な王国、その筆頭たる王家の姫など死んで当然、神罰であると。
だが、そんなことが本当にあるのか? 信じられない。君が悪辣の姫であるなどと、とても思えない」
一息に長く語った彼は、あっけに取られている私の頬をそっと撫でました。
手が熱く感じないのはきっと、私も同じくらい温度を上げていたからでしょう。熱烈な視線が身体中を焦がして、倒れてしまいそうなほどに心臓が高鳴ります。驚愕と歓喜が同じくらいに込み上げて、その場で卒倒しなかったことが奇跡であるくらいです。
「私たち、同じ役目を与えられたのだわ……」
くらくらする頭のまま、私は小さく呟いていました。
何だって、と驚く彼に、ありのままを伝えます。この結婚の意味、ウェンテッダの思惑とレストラに対する認識。私がどう育てられたかも、全てです。
ヨランは信じられないという顔で私を見つめます。
ですがそこに嫌悪は無く、心からの慰めと義憤がありました。ますます嬉しくて身体が熱くなります。優しさというのは言葉でなく瞳で伝わるものなのだと、身をもって知りました。
「結局、双方の王は停戦など望んでいないということなのですね」
「残念ながら、そのようだ」
私の溜息に、ヨランは苦く頷きました。
父王陛下も女教皇も、停戦なんて言っておいて、結局排除しようとしているのです。自分の子どもを駒にしてまで――
「わたしは教義より、母より、自らの目を信じたい」
ヨランは熱っぽい溜息を吐いて、首から下げていた教徒の証に手を置きました。
「改めて問わせてくれ。
きみは本当に、自由を免罪符に人々を虐げる、堕落した国の娘なのか?」
「貴方こそ、平等の名の元に圧政を強いる狂信者の末裔なのですか?」
私たちは、真っすぐに目を合わせて問いあって。
「――ふふっ」
そして、同時に噴き出しました。
「ふ、ふふふ。ごめんなさい、笑ってしまって。でもおかしくて」
「ああ、その通りだ。とんだ茶番だ。ここが戦の最前線であるのに。殺そうとするはずが、ともに惚れ込んでしまうとは!」
「ええ、本当にそう。それに私たち、知らなくてはならないことが沢山ありそうです」
「そうだとも。役目はどうあれ、我らは国の責務を背負う者。だが相互理解を求める心が確かにある。そして、そう思うことを誰に咎められるいわれもない」
そう言うと、ヨランはまるで開放されたかのように、大きく手を広げてベッドに倒れ込みました。
きっと聖王には似つかわしくない、子どもみたいに自由な様子で、大きく息を吸って吐きます。そうして私を見上げて、どうぞと促すのです。
たまらなくなって飛び込みました。彼の腕を枕にして、同じように天井を向いて、深く深呼吸しました。
レストラ特有のお香の匂いが、ふわりと鼻をくすぐります。不思議と嫌ではありませんでした。花とも香水とも違う、柔らかい香りでした。
「レストラは、よい匂いで満たされているのですね。私の国にはない、素晴らしい文化です」
私が言うと、
「ウェンテッダの宝飾技術は抜きん出ている。君の耳飾りひとつさえ、我が国では作り上げられないだろう」
ヨランは手を伸ばして、そっと耳をくすぐりました。
また、顔を見合わせて笑います。こんなに近くで、敵国の良いところを見つけて褒め合っているなんて、父王陛下が知ったら何と言われるか。恐ろしい横顔を思い出しても、さほど恐怖を感じませんでした。それよりもヨランの指の甘やかな感触に浸る方が、私にはずっと大切でした。
「……我が神は、心迷う時こそ神に問えと仰せられた」
ヨランはふと、こんなことを言いました。
「だが、わたしは何も迷っていない。それならば、自らの心のままに行動する。今は君のことが知りたい」
「はい、私も――ヨランさまのことを知りたいと願っています」
しみわたるような気持ちで、私は頷いていました。
「人は人の間に生きるもの、他に柱を持たず自らのみを律として生き、最善を尽くせ。そう教わりました。
だから私も、自身の思いに従います。貴方を知りたい。知って、もっともっと仲良くなりたい」
「モニカ姫……」
愛しげな声で、ヨランは私を呼びました。
胸の奥がぎゅうっと絞られるような、けれど甘美な痛みが心地よい、そんな声でした。
彼は寝そべったまま、そっと私の手を取ります。指先に口づけをくれようと顔を寄せた時、はっとして私は飛びのきました。
「いけません! 私の爪には強い毒が!」
「毒? ああ、君の国はそうやってわたしを仕留めようと」
「ええ、そうなのです。今拭い落としますからお待ちになって! 敷布をお借りします!」
私が慌てて枕の覆い布を掴むと、その手をヨランが掴みました。
「危ない、枕の下に短剣が」
「え?」
きょとんとする私。そしてすぐに察して、笑う私。
「お母上はベッドで私を刺殺するようにと仰せられたのですね」
「遺憾だが、そのとおりだ。……君の父上も、指先への口づけで至らしめようと計画したのか」
「ほかにもあります。――ああもう、ただ触れ合いたいだけなのに、難しい!」
私は生まれて初めて、おなかを抱えて笑いました。
爪に短剣、なんて物騒な初夜なのでしょう。爪だけではありません。毒物に耐性をつけるように教育された私の、奥歯にさえ痺れ薬がしかけられているのです。そしてきっと彼もあちこちに刃を仕込んでいるに違いありません。分かり切ってしまうと滑稽で、ですがそれ以上に捨て置けない現状です。
私たちはこんなにも相愛で、知り合いたい、愛し合いたいと思っているのに、国が許してくれないのです。
「ねえ、ヨランさま。このままでは私たち、仲良くするのはとっても骨が折れそうです」
「同意見だ。どうしたものか――」
忌まわしい短剣をサイドテーブルに置き、ヨランは腕を組みました。
思案すること数秒。
そして、に、と、少年っぽい笑みを見せます。
「では、こういう方法はどうだろうか?」
●
そうして結婚して、一年が過ぎました。
「ねえ見て、モニカさまのお顔」
「相変わらず冷たい顔ね。さすが差別国家の姫って感じ」
「でもヨランさまもよ、さっきから一度もモニカ様と喋らないわ」
「そりゃそうよ、停戦したとはいえやっぱり敵国同士だもの」
庭園パーティのざわめきの中で、レストラの淑女たちのひそひそ話が耳に入って来ます。訓練を受けた私の耳は他の人よりもずっと鋭いのです。悪口も評判も手に取るようにわかります。
冷え切った政略結婚。
一年間の間、ろくに会話しない氷の夫婦。
私たちはそう呼ばれています。
もともとレストラの民は私を歓迎しておらず、風あたりは決して穏やかではありません。敵国の姫となれば当然の扱い。嫁いだ日から変わりません。
私は口元を扇で覆って、静かに席を立ちました。淑女たちが慌てて視線をあさってに向け、代わりにウェンテッダ出身の侍女が私に添いました。
「姫様、どうなさいましたか」
「気分が悪いわ。部屋に戻ります」
「さようでございますか、では供を」
「不要です。お下がりなさい」
毒姫としての威厳を振りまいた発言に、侍女はさっと身を引きます。私の身体にどれだけの毒が蓄積されているか、そして、気分次第で相手が誰であれ簡単に殺害できる手腕を持つことを、彼女は知っているからです。
青ざめた見送りを背に、私は庭園を離れました。
嫁ぐ際に、私は身体の弱い姫であるという嘘の情報を、レストラに渡しておりました。ですからパーティの最中に離席したとしても、誰も不思議に思いません。
真っすぐに向かうのは寝室でした。ウェンテッダから山と用意された宝石飾りや重たいガウンを脱ぎ、髪を高く結う櫛を引き抜きます。そうしている間に、静かに寝室の扉が開いて閉じる音が、私の敏感な耳に届きました。
はっとして振り向くと、そこには険しい表情を浮かべたヨラン。
彼はまっすぐに唇を引き結び、つかつかと私に歩み寄ります。後ろ手に何かを隠し持っていることが姿勢からうかがえました。
私もそれとなく胸元に手を置いて――
「ヨラン! お声が聞きたかった! 寂しさで死んでしまうかと思いました!」
毒の丸薬が収まったブローチをむしり取って床に叩きつけ、靴のつま先で粉砕しました。
「君こそあんなに美しい横顔を晒して! 忍耐で心が死ぬかと! 今すぐに抱きしめたいのだがいいか!? いいな!?」
ヨランも、銀の食事用ナイフに見せかけた怜悧な刃をすこんと壁に投げつけて手放します。
そのまま両手を開いて抱きしめようとしますが、私は首を振りました。
「お待ちになって、まだボタンに毒針が。もう、お早く来すぎです。全部外してからお迎えしようと思っていたのに!」
「急ぎもするさ、君が扇で合図をくれたのだから。おっと、わたしもベルトの方がまだだった。留め具に仕込み刃がある」
「やだ、そんなところに隠すなんて。いつ使うと想定なさっているの?」
「君こそ。わたしが脱がせようと手をかけた時にちくり、だろう? 揃って下世話なことだ」
「まったくです。毎日毎日、たくさん道具を用意して――」
それらすべて、私たちはぽいぽい捨てて抱き合っているというのに!
●
与えられた役目に、監視の目。
私は彼を、彼は私を殺さなくてはならない。
二人を取り巻く環境は、愛し合い寄り添うことを決して許してはくれません。
ならばどうすべきか。
ヨランが提案したのは、冷え切った夫婦としての仮面をつけて過ごすという方法でした。
表向きは政略結婚をした夫婦として。水面下では互いに殺害をもくろむ敵として。つばぜり合いをしていると見せかけて、二人きりになれる寝室だけでは全てを脱ぎ捨てて愛し合うのです。
私たちはいくつかの合図を決めて、お互いを求めます。閉じた扇を口元にあてる。上着の二つ目のボタンを二度触る。他にいくつもあります。私は耳が良く、ヨランは唇を読む術を心得ていました。互いの行動で暗号を読み取り、怪しまれずに逢瀬することが出来るのです。
「モニカ。わたしのモニカ。もどかしいものだ。ここでしか君にキスができない」
懊悩を秘めた愛の言葉ともに、ヨランが熱烈な口づけをくれました。私の奥歯の仕込み薬には決して触らないようにすっかり心得ています。
「余所であってもキスはいけませんよ、人前でなんて」
「確かにそうだ。だが衝動とは恐ろしい。今日も耐えたが明日はどうだか」
「そんなこと仰って。私が貴方のキスで腰砕けになってしまう姿を人に見せたいのですか?」
「それは良くない。君のあられもない姿はわたしだけのものだ」
などと言って、彼は熱い抱擁をくれました。一気に顔も緊張も緩んで、私はとろけきった気持ちで胸に頬を寄せます。
ですが私たちは、決して、愛と快楽の為に仮面をつけているのではありません。
ただの恋人ならばそれでも良かったのでしょうけれど、互いに国を背負った身。決して身軽ではありません。
だから――
「……例のお話、進みましたか?」
そっと囁くと、ヨランはああ、と柔い肯定をくれました。
「良い知らせがある」
「実は私もあるのです。とっておきの良いお知らせ」
「それはひょっとして、わたしが持つこれと同じものかな?」
と、少しおどけた様子で、ヨランは懐から一封の封筒を取り出しました。
私もまた、帯の内側に差し込んでいた手紙を取り出します。ヨランの封筒にはウェンテッダの印章が、私のものには女教皇のサインがありました。
二人で目を合わせて、にんまり笑います。
「お義母様は正式に和平を受け入れて下さるそうです!」
「ああ、こちらも! ウェンテッダ王も席を設けると約束してくださったぞ!」
私たちは歓声を上げて、文字通り、飛び上がってくるくる回りました。
そう、そう、そうなのです!
私たちはずっと、仮面の下で準備をし続けていたのです。
一年間――
耐えに耐えて、お互いの国に本当によい結果をもたらす為に、働き続けていたのです!
『表向きは動きを見せないようにしよう。しかし裏で働きかける。わたしはウェンテッダに、君は我がレストラに。この戦争がいかに無意味かを理解してもらう』
初夜のあの日、ヨランが提案したのはこういうことでした。
父王陛下は私の意見を聞き入れません。彼の国もまたそうです。だが別口から攻めてはどうだろうか。一応は停戦のていを見せている結婚相手に無体は働けまい、やってみる価値は十分にある――と、彼は言いました。
『二人は我々を甘く見ている、そう思わないか?』
いたずらをする子どものような顔でヨランは言いました。
『君もわたしも、人心を把握し、立ち回ることに長けている。皮肉にも教育の賜物だ。その技が自らに向くとは思っていまい。出し抜くための手管を使うなら、君にではなく相手の親にだ』
『……それは、ちょっぴり、かなり、胸のすく思いが致しますね』
私もまた笑いました。
そんなこと、今まで考えたこともありませんでした。
身に着けた技術を、殺すためでなく、和平のために使うのです。駒として使おうとした父王陛下に仕返しをするようなものでもあります。それも誰にも害のない、平和な方法でもって。
私たちはしっかと手を結び合い、誓いました。
『親の世代のしがらみはここで断つ』と。
そして――
今日、私たちが手に入れた手紙は、この一年の間に言葉と手管と情報と計画を駆使した、親の篭絡作戦の結果でした。そしてそれは、吉報となってこの手に確かに届いたのです!
「お義母様は、大層わたしを気に入って下さいました。貴方に人となりを聞いていたのですもの、出来て当然なのですけども」
「こちらこそ、ウェンテッダ王は厳しい方だが分かりやすい御仁でもある。思ったよりも手間取らなかったよ」
親の情報を交換した私たちは、遠慮なく学んだ技を発揮しました。
私は人に気に入られる所作や行動を読むことは得意でしたし、彼にしたってそうでしょう。この政略結婚が失敗に終わっていることも、実際に手を取り合った方がはるかに得だということも、繰り返し説けば伝わりました。私たちが愛し合っていることも、互いの国を認め合っていることも、理解していただけたのです。
結果、ウェンテッダで改めて和平協定を結ぶ手配となりました。
今度こそ本当の、裏のない、真実の協定――戦争をなくすための協定です。
「これで、やっと…… 本当に戦争は終わるのですね」
感慨深く呟くと、ヨランはああ、と、しみじみとした頷きを返してくれました。
「君と出会った時、分かったんだ。皆、相手のことを知らないだけだ。自国の物差しでしかものごとを測れていない。知った時に、きっと変われる。そう信じた」
「ええ。その証そのものに、自分たちがなろうと決めたのです」
だからこそ、一年間の仮面を耐えることができました。誤魔化し続ける日々は苦痛だったけれど、国や民を揺らさない為に必要だと戒めて。
でも、そんな日々はもう終わります。
私は手紙を胸に抱いて、安心の吐息を長く吐いて――しかし、不思議に首を傾げました。
「ところで、どうやって父王陛下を説得されたのです? 難航していたはずです、決め手がないと二人で悩んだではないですか」
「ああ、それか。最高の切り札を見つけたんだ」
ヨランは言いながら、私の手を引いてベッドに腰かけました。
そして、とっておきの秘密を教えるみたいに、私の耳に囁きました。
「モニカから話を聞いて、ひょっとしたらと思うことがあった。ウェンテッダ王は内心、君を大切に思っているのではないかとね」
「それは…… さすがに無いかと」
娘に暗殺者としての教育を施すような方です。優しくされた記憶も一切ありません。苦笑を浮かべて否定すると、ヨランは指を振りました。
「書簡のやり取りから察したよ。気づかないとは人心掌握に長けた君らしくもない。しかしわたしも母上の篭絡が出来なかったのだから、身内だと気づけないこともあるのだろうな。
王にはこのように持ちかけたんだ。孫の顔を是非見せたい、とね」
「孫っ……!?」
私は真っ赤になって絶句しました。
そういうことは慎もうと、二人で約束していたのです。ベッドは共にし、抱き合い、キスもしておりますが、一線を超えてはならないと。
万が一の時に備えて、無節操で無計画なことはしてはならないと。なのに――
「それがてきめんに効いた。ウェンテッダ王ははじめ、孫が出来ても関係ないと言わんばかりの突っぱねっぷりを見せていたが、楽しみにしているのは見え見えだった。その辺りから切り崩したら、君を国内でのもめ事から遠ざけたいことや、暗殺を仕向けた後悔が漏れて来たよ。
もちろん、君にした教育は許されることではない。だが、酌量の余地はあるように思えた」
「父王陛下が…… お父様が、そんな……」
まだ信じられませんでした。戸惑う私の肩を、ヨランはそっと抱きました。
「本人の口から聞くといい。父としての顔を、あの方は君に隠し続けていたようだから」
「……そうします。ありがとう、ヨラン」
彼は――
私がもう諦めていた父王陛下との関係すら、正してくれたのでした。
なんて手腕、なんて優しさなのでしょう。ここまでの感謝と情愛を伝える術が見当たらなくて、私は顔を覆って俯きました。嬉しいことが多すぎて、心の処理がおいつかないのです。嬉しい悲鳴でした。涙がこぼれましたが、ちっとも悲しくない。雫は温かくて、びしょびしょに掌と膝を濡らしました。
「そんなに泣かないでくれ。これからすることがやりづらいじゃないか」
「これからすること……?」
きょとん、と、私は首を再び傾げました。協定の支度でしょうか。それとも仮面夫婦をやめる段取りでしょうか。
どれにもヨランは首を振りました。抱かれた肩を、ぐっと強く引き寄せられました。
「ウェンテッダ王に嘘はつけない。なら、すべきことをせねば、な?」
「っ……!」
それは――つまり、孫の顔。
彼が私をベッドに座らせた理由が、ようやく察せられました。私は真っ赤になってヨランを見上げましたが、彼は魅力的な微笑みを浮かべて、こつんと額に額を押し当ててきます。
「何人が良いだろうか。モニカに負担はかけたくないが、少なくとも二人は欲しい。私たちの愛の結晶がそれぞれの国を善く導けるように」
「あっ、そっ、それは、その、今から!?」
「今からだ。ずっと待ちわびていたよ。君を本当の意味で抱ける日を。だからもう焦らさないでくれ、わたしのモニカ、わたしの天使」
囁きはひどく甘くて。
音だけで、吐息だけで、私をくらくらさせるには十分でした。
どんな毒でも使いこなしてきたのに、味わって、耐性をつけてきたのに、抗えませんでした。甘くて強い、私を溶かしてしまうとっておきの、ヨランだけが持っている毒。
流れのままに近づいてくる、一番強い毒を持つ魅力的な唇が近づいてきた時――
私はもう、蕩け切った情けない声で、こう言う他ありませんでした。
「お、奥歯の毒、取り除いてからにして下さい……!」
そうしたら、もう、後はお任せします、と。
こればっかりは、磨いた技も手管も役に立ちません。全面降伏を宣言した私に、ヨランは心の底から、たいそう嬉しそうに頷いたのでした。
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