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プレゼント

作者: 浅井基希

(1)

 十八歳の誕生日プレゼントが新しい銃だということは予想していたけれど、まさかピンクのリボンがかかっているとは思わなかった。

 宮坂(みやさか)(しゅう)は誕生日の朝、リビングのテーブルの上にそっと置かれていた小型の銃を複雑な心境で見ていた。

 銃口に花が刺さってなくて良かったとも思うが、あの養父(おじさん)のやることはたまに乙女チックなので、やりかねない――それにしても、十八歳の誕生日にこのプレゼントということは、本格的に仕事を始めろということだ。


 民間警備会社に実銃の所持が認められて数年――

 柊の養父は元傭兵で、現在は民間人相手のボディガードを主体にした民間警備会社を経営している。柊はそこで戦いの基本を全て叩き込まれて育った、言うなればエキスパートだった。

 年齢が年齢、そしてまだ現役の女子高生――ということで、これまで表立っての仕事はしていなかったが、その実力は確かなものとして、仲間内では秘密裏に認識されていた。

「今日で解禁日――みたいな?」

 柊はそう言ってテーブルの上の銃を手に取る。

 軽い――弾が入っていない。当たり前か――心の中で呟いて柊は射撃訓練場に向かった。


 環境とは皮肉なもので、銃の所持許可が出る前から、柊は銃に慣れ親しんでいる。

 仕事の手伝い――あくまで「手伝い」――の時には、いつも隠して携帯していたし、何なら寝室にも隠していた。

 仕事柄、何が起きるかわからない以上、備えは万全に――それが家訓のようなものだった。


「おじさん」

 射撃訓練場――柊は射撃練習を終えていた養父の孝嗣(たかつぐ)に話しかける。

 一応養父なのだけど、「お父さん」に類する言葉で呼ぶことは禁じられていた。なんでも柊の父親に申し訳ないから――という理由らしい。

 柊の父親は孝嗣と同じく傭兵だったが、孝嗣を庇って死んだと聞かされている。

 父親が死んだその時、柊はまだ二歳だったので父親の記憶は全くない。母親の記憶も朧気だ。

 記憶にあるのは、引き取られた孝嗣に大事に育てられたということだけだった。

 そのわりには厳しい訓練で、自分の身を守る術――以上のものを教えられたけれど。

「おお、おはよう。プレゼント見てくれたか?」

 孝嗣は汗を拭きながら、爽やかな笑顔で柊を見た。

「うん。ありがとう。っていうかリボンは余計だったと思う。嬉しいけど」

「素直じゃないなあ」

「お礼言ってるじゃない……」

「リボンだよ。髪を縛る時にでも使ってくれないかなと思ったんだが」

 やっぱりちょっと乙女チックな理由だった。

「茶色のヘアゴムで大丈夫。更にリボンとか手間がかかる」

 柊の髪の毛は、後ろで少しくくれる程度の長さなので、特にくくらなくても邪魔にはならない程度のもの――逆にくくってからリボンを留めるほうが手間がかかると思う。

「そっか……女の子って難しいな……」

 孝嗣がちょっとだけ落ち込んでいた。

 微妙な年齢のおじさん――確か四十歳くらい――の心も難しいと柊は思った。


(2)

「それにしても、立派になったな……おじさんは嬉しい」

 プレゼントされた銃に合う銃弾をロッカーから取り出しながら孝嗣が感慨深げに言う。

「まあ、大事に育ててもらえましたし?」

 柊は銃弾のケースを受け取り、手際よくプレゼントしてもらった銃のマガジンに詰める。

「背も高くなって」

「それ気にしてるんだから言わないでよ」

 柊の身長は一七〇センチに届こうとしていた。孝嗣が一九〇センチ近くあるので、普段は対比としてそれほど気にならないのだけど、あまり身長が高すぎるのも、女子としては複雑だ。

 それでもボディガードの仕事をするには、それなりに有利ではあるので更に複雑だった。

「すまん……」

 また孝嗣が落ち込んでいた。


 落ち込む孝嗣を尻目に、柊は射撃場に入って利き手側の足を半歩後ろに引き半身で構える、いわゆるウィーバースタンスで銃を手にする。プレゼントされた銃はコンパクトだが、それなりに威力がある銃弾を使うもの――慣れてないと反動を受け止めるだけでも精一杯だろう。

 柊はターゲットに向けて照準を合わせて、引き金を引く。

 見事に命中――そして反動が、腕に染みわたる。気分が良い。

 この辺り、血は争えないということなのだろうか――勿論、実の親と、育ての親との。

「命中――流石。やっぱり柊だな。安心して新しい仕事を任せられる」

 孝嗣は自分のことのように喜んでいた。だが――聞き捨てならない言葉が入っていた。

「……新しい仕事?」

 高校の卒業式まであと数週間に迫ったこの時期にややこしいことを――

「そうそう。もう一個誕生日プレゼントでボディガードの仕事が入ったんだ」

 満面の笑みで孝嗣が答える。

「それプレゼントって言うの?」

 柊は遠慮せずにツッコミを入れた。

 十八歳の女子高生に渡されたプレゼントにしては何処までも無骨だった。

「……駄目かなあ」

 途端に孝嗣が不安げな顔になる。微妙な年齢の養父は扱いに困るなと柊は思う。

「いや、まあ――駄目ってわけじゃ……」

 柊自身もこの仕事は好きだし、高校は既に卒業が決まっているしで断る理由もなかった。


(3)

「警護対象者は月岡(つきおか)梨菜(りな)、二十四歳。一般企業――と言っても一流――に勤める会社員」

 会議室――数少ない社員の遠山(とおやま)(あゆむ)が資料を配りながら今回の仕事の説明をしていた。

 歩は警備も出来て、かつ頭脳明晰。仕事で柊とコンビを組むこともあり、柊にとっては頼りになる先輩みたいな存在だった。

「ストーカーか何かですか?」

 この会社は大体この辺りの依頼が多いので、柊はそう尋ねる。

「それが、父親があの月岡議員なのよね」

 歩が溜息交じりのオーバーリアクションで肩をすくめた。

「あの……?」

 ――誰? 柊は更に尋ねていた。

「現代社会の勉強してた? 首相に最も近い男だよ。柊も投票権あるんだから勉強しないと」

「はーい……」

 先輩の言葉はそれなりに重い。この会社は体育会系ではないけれど――

「で、問題は月岡議員は銃規制推進派ってところ」

「え、じゃあこんなところに依頼しちゃ駄目じゃん」

 柊は思わず声を上げていた。

 此処に限らず民間警備会社のほとんどは銃を使っている。もっとも、使用には細心の注意を払ってはいるが、銃規制推進を掲げている人がそこに依頼するだなんて――矛盾もいいところだろう。

「偉い。そこはよくわかってるんだ」

 月岡議員は知らないのに――と、歩は上手く柊を褒める。アメとムチだと思った。

「これは社外秘だけど、選挙が近いこの時期に、月岡議員にわりと具体的な内容の脅迫状が届いている――議員本人は警察が守れるけど、その娘を自然な形で守るのは誰でしょうか?」

 クイズ問題でも出すように歩が柊に訊いてきた。

「私たち」

 場合によっては警察に任せたほうが良いのだけど、あまり表沙汰にしたくない場合――例えばスキャンダルを避けたい場合など――はどうしても民間警備会社の出番になるのだけど、それくらいなら柊でもわかることだ。

「そう。偉い。――だけど、結構面倒そうな依頼よね」

 歩がまた溜息をついている。歩の勘はわりと当たるのだけど――今回はどうだろう。

 何処かでその「面倒」を期待している自分が居るなと柊は思っていた。


(4)

 夕刻。多くの会社は終業の時間――

 警護対象者の梨菜が勤める会社に向かう途中の車中で、柊は何度も資料を確認していた。

 柊は朝方にミーティングをしただけでそのまま学校に向かったので、もう一度しっかりと内容を頭に叩き込む。学校帰りにそのまま仕事に向かう時はいつもこのルーティンだった。

「この人――歩さんの好みのタイプっぽくない?」

 柊は梨菜の写真をまじまじと見てから、隣の運転席に居る歩に話しかける。

 梨菜はふわっとした感じ――名実共に良いところのお嬢様――みたいな印象だった。

「熱心に確認してたと思ったらそれなの?」

 歩は運転中なので助手席の柊をチラ見してから、呆れたように返してくる。

「いや、だって彼女さんと別れたって言ってたし」

 柊が前に会ったことのある歩の彼女もこんな感じの人だった――イメージでしか覚えていないのだけど、ふんわりした人だったはずだ。

「別れてません。大喧嘩しただけです。大体要警護者に手を出したらプロ失格だわ……」

 歩の横顔が一瞬真剣な表情になった。その辺りの矜持は格好いいと柊は思う。

 とはいえ、依頼人と必要以上に親密にならないのは、当たり前のことなのだけど。

「好みなのは好みなんだ」

「……それは否定しないけど、彼女に言わないでね?」

「あー、彼女さん怖いもんね」

 別れていなかったので良かったが、大喧嘩の原因は確か仕事で誤解されたからのはずだ。

 柊たちの仕事はボディガードが主になる。そして、柊も歩もこの世界ではわりと数少ない女性のボディガード――すなわち依頼主や警護対象者も必然的に女性になる。

 そして、歩はそんな人たちから不思議とモテる。

 柊としては歩をすっかり見慣れているので特に驚きはないが、歩はモデルのような佇まいだし、それなりに人当たりも良い。そして何より、守る者と守られる者という関係性で、更に相手を惹き付けてしまうのだろう。

 何ヶ月か前の依頼主がまさにそれで、歩に猛アタックをかけてきたのを彼女に誤解されたという話だったように覚えている。

「でも、そういうちょっと怖いところも好きだから仕方ない……」

 車のハンドルを操作しながら、歩が溜息をついた。

「大人の恋愛って難しいねえ」

 柊としてはそんなに大喧嘩するほど面倒なら付き合わなければ良いのに――などといった失礼なことを考えてしまう。

「柊もそのうちどうしようもなく誰かを好きになることがあるかも――って考えたら複雑な心境だわ。何これ、成長を見守る複雑な親心? 三年くらいしか見守ってないのに」

 歩が困ったような顔をしていた。

「ははは――これからも見守ってて下さい」

 柊の言葉に、歩が笑っていた。


(5)

「お話は通っていると思いますが、今日から月岡様を警護することになりました、遠山です」

 柊と歩は事前の打ち合わせ通り、梨菜の会社内にある簡易のミーティングスペースで梨菜と会い、軽い挨拶から話を始めていた。

「宮坂です。よろしくお願いします」

 簡単な自己紹介をした歩に倣い、柊も頭を下げる。

「はい。お手数をおかけします。お二人なんですか?」

 梨菜も丁寧にお辞儀をしていた。

 柊が写真から想像してた通り、その柔らかい雰囲気からしてお嬢様だ――空気感が違う。

 どちらかというと泥臭い環境で育ってきた自分とは正反対の人だと思った。

 その環境が嫌いなわけではないけど、梨菜のように柔らかな世界で生きているであろう人に対しての羨ましさのような感覚が、柊の中に少しだけ芽生えるのは何故だろう――これがないものねだりなのかもしれないなと柊は思う。

「今のところは、私たちが一名ずつ交代で警護しますが、状況に応じて増員することも――」

 歩が簡単に今回の警備プランを説明している。

「そうですか……本当にご迷惑を――」

 説明を受ける梨菜の表情は曇っていた。狙われているのに、周囲を気遣える人――依頼人としては結構珍しいほうに入る。

 大体の人は「どうして自分が」みたいに少し否定的な――被害者意識が強めのことが多いのだ。いや、狙われて警護対象になる時点で、日常生活を制限しなくてはならないなどの被害を受ける被害者ではあるのだけど。

「こちらも仕事ですので、そういった気遣いはなさらないようにお願いします」

 歩が簡潔に答えている。

 そう――これはビジネスなのだ。そこには迷惑だとかそういった概念は持ち込まなくて良い。

「わかりました。よろしくお願いします。あの、ところで――」

 梨菜が柊を見た。梨菜は何かを言い淀んでいるように、言葉を探している。

「宮坂が気になりますか?」

 歩が笑顔で梨菜に問いかける。柊は見慣れているが、相変わらず爽やかな笑顔だ。

 柊が考えるに、多分この辺りも要警護者が勘違いをするきっかけなのではないだろうか――大人の恋は難しいものだし。

「はい。あ、いえ、その……まだ高校生くらいの方でもこういうお仕事をなさるんだなと」

 失礼な感想ですが――と梨菜は付け加える。流石というか、梨菜は言葉遣いもお嬢様だった。

 それにしても、信用を得るには高校の制服姿はマズかったと柊は思った。

「年齢的にはそう思われるかもしれませんが、宮坂の実力は確かです。守秘義務があるので詳しくは言えませんが――要人警護の実績は何例もあります」

 ご安心を――歩が笑顔で続ける。また勘違いさせるかもと柊はうっすら思っていた。

「すみません。疑っているわけではなくて――その、学生の生活もあるのに申し訳ないと言いますか……」

 困ったように梨菜がそう話していた。

 確かに年下、しかもまだ高校の制服を着ている人間――要はまだ子供――に警護されるのは、不安が残ることだろう。それを何重にも包んだ梨菜の言葉だった。

 ――だが、柊にも柊の矜持はある。

「高校生ということが問題でしたら、私はあと数週で高校を卒業します。ご安心ください」

 それまで黙って成り行きを見ていた柊がそう言い切った。

 自分の実力を過信はしていないが、年齢だけで判断されるのも柊にとっては少し気にくわない感じがする――仕方ないことだけど。

「はい……よろしくお願いします」

 梨菜はまだ、何処か申し訳なさそうだった。


(6)

 車の中に場所を移して、梨菜の自宅に帰る途中――尾行をされにくいように遠回りのルートを使うので、時間がかかる――歩がミーティングスペースで出来なかった詳細な話を続けていた。

「ご依頼通り、本日から警護に入りますので、月岡様の生活も多少は制限され――」

「あの……その呼び方はやめていただけますか?」

 後部座席に座っている梨菜が困ったように歩に返していた。

 警護態勢に入っているので、柊も後部座席で車外を流れる車やバイクなどに注意を払いつつ、会話を聞いていた。

「では月岡さんで」

 歩はすぐに対応していた。こういう要望を聞くのも仕事の一部だ。

「そちらも少し……私には月岡という名前は足枷(あしかせ)にしかならないので」

 足枷――なんだか不穏な言葉が梨菜から出てきた。柊は少しだけ梨菜を見る。

 苦労のないように見えるお嬢様でも、不自由なことがあるのだろうか――実際今が不自由な状況になっているけれど。

「……では、梨菜さんでよろしいですか?」

「はい。そちらで。あとは過剰な敬語もやめていただけると――」

「わかりました。ではお互いに適度にいきましょう」

 バックミラー越しでもわかる爽やかな歩の笑顔だった。


「で、さっきの話に戻りますけど、梨菜さんの生活は多少ですが制限されます。基本的には要望に応えられるようにしますが、行動スケジュールは事前の提出をお願いします」

 歩は早速敬語になり過ぎない敬語になっていた。

「わかりました――いつ頃まで警備が続くのですか?」

 梨菜が尋ねる。

「……これはまだオフレコですが、関係筋から今週、衆議院を解散するという情報が入っています。解散総選挙が行われますので、その選挙が終わるまで――今後四十日以内が一応の目安となります」

 会社には仕事柄様々な情報が入ってくるのだが、歩がそれを口にするのはかなり信憑性の高い情報の時――ということは、またあの選挙カーがうるさい時期がやってくる。

 今年からは柊も選挙に参加出来るので、色々と知らなければいけないし、うるさいだとかは言っていられないのだが。

「そうですか……長くなりますね」

 梨菜はそう言うと流れる景色に視線を移している。

 その横顔は――柊の目には何かを耐えているようで、辛そうにも見えた。

 だけど、何故か惹きつけられるように、柊は少しだけ魅入っていた。


(7)

 梨菜の家――1LDKのマンション。エントランスはオートロック形式だったし、事前の下見でもそう簡単に不審者が入り込めるような隙はなかった。

「今日は私が担当です。不安でしょうけどお願いします」

 左耳にスマートフォンと連動させたワイヤレスの小型ヘッドセットを装備しながら、柊は冗談っぽく梨菜に向けて笑いかける。

「――宮坂、一言余計」

 歩が素早く、短く注意を飛ばしてきた。

「はい。申し訳ありません」

 柊も短く謝って、梨菜に「改めてよろしくお願いします」と頭を下げる。

「不安だなんて――よろしくお願いします」

 梨菜は丁寧に頭を下げていた。


「あの……宮坂さん。よろしければお茶でもどうですか?」

 歩が帰って十数分ほど――キッチンで夕食を作っていた梨菜が、柊に話しかけてくる。

 柊はリビングで待機――ソファに座ってはいるが、些細な異変にも気付くように神経を張り詰めていた。

「仕事時間中は飲食をしないことになってますので、お気持ちだけで。ありがとうございます」

 梨菜の申し出を柊は丁重に断る。

「そうなんですか? 大変なお仕事ですね……」

 梨菜が驚いていた。

 基本的に警護をしている時間は余程でなければ飲食をしないのは――勿論タイミングを見計らって水分補給などはするが――この世界の常識になっている。

 今夜の場合はただ梨菜の家に詰めているだけで、翌朝に歩と交代という流れなので、食事を取っても水分を飲んでも構わないのだが、一応柊なりのプロ意識として少しの意地を出してみただけの話だ。

 この辺り、子供っぽいのかも――柊は自分で思う。

「あと――時々これで会社と連絡してますけど、独り言ではないのでご安心ください」

 柊は左耳のヘッドセットを指差す。

「わかりました。あと睡眠は――毛布とか必要ですよね?」

「基本的に寝入ることもありませんので、お気遣いは――あ、上着だけ脱がせてもらいますね」

 柊はそれだけ言うと制服の上着を脱いでいた。エアコンも丁度良い具合に効いているし、凍えることはないだろう。

「……それって銃ですか?」

 柊は仕事の時は上着の下にホルスターで銃を吊り下げている。勿論、今日も携帯していた。

 梨菜はそれを目にして柊に尋ねてくる。

「はい。不快かもしれませんけど、これも警護に必要なものなので」

 梨菜は銃規制推進を主張している議員の娘――それなのに銃を持つ相手に守られるだなんて、きっと不本意なことだろう。

「――父は父です。私は、父とは違います」

 その言葉は語気が強く、梨菜を柔らかいお嬢様だと認識していた柊としては驚きだ。

 梨菜はまた、辛そうな目をしていた。

 どうして、そんな目をするのか――柊にはわからなかった。


(8)

「本当に寝なくてもいいんですか?」

 夜も更け、多くの人たちは眠る時間になった。

 梨菜も眠る時間――その前に「一応」と言って薄手のブランケットを柊に渡してくれる。

「ありがとうございます。でもお気遣いなく――数日は難しいでしょうけど、私は居ないものとして扱ってください」

 ブランケットを受け取りはしたが、使うつもりはない。

 冷たいようだけれど、これが柊たちの仕事なのだ。

「そんな……居ないものだなんて、此処に居るのに……」

 悲しいことを言わないでください――梨菜が辛そうに目を伏せていた。

 何か梨菜にとっての辛いことを思い出させてしまったのだろうか。

 だけど、深入りをしてはいけない――

「すみません……そういう仕事ですので」

 柊は短く答えて黙り込んだ。自分はこういうところがまだまだ未熟なのだという反省と共に。

 自分たちは空気のようになることが第一原則――要警護者に気を遣わせないのが重要なのだけれど、ほとんどの人は警護されることに慣れていないので、数日はこの感じが続くことになる。

 それでも、三日もすればほとんどの人は慣れるものでもある。その三日が長いのだけど――

「――おやすみなさい」

 梨菜が自分の部屋に向かう前に、柊に対して遠慮がちに挨拶をしてくれる。

 今のところ、梨菜は柊たちを空気のように扱うつもりはないらしい。

「おやすみなさい」

 柊は少しだけ笑って返事をしていた。


 深夜――マンションの共用廊下を誰かが歩く足音――上階の住人だろうか玄関ドアが開いて閉じる音が聞こえる。時計を確認したら午前二時半。こんなに遅くまで、大変な――お互い様か。柊は心の中で考えていた。

 勿論、警戒は解かずに、小さな異変にも対応出来るよう、また耳を澄ます。

 少し近くの道を走る自転車の音――遠くにバイクのエンジン――もうすぐ新聞の朝刊を配るミニバイクの音も聞こえてくるのだろう。

 深夜でも小さく街が息づいていることがわかる。柊はこの時間が好きだった。


(9)

 翌朝。梨菜の出勤のためにマンションのエントランスを出て、歩の待つ駐車場に向かう途中で、人影が目に入った――途端、その人影が梨菜に向けて走り込んでくる。

 中肉中背の男――手には刃渡り十五センチほどのナイフ――柊は持っていたスクールバッグを盾にして梨菜と男の間に割り込んだ。スクールバッグにナイフが刺さる。

 柊はそのままバッグごと蹴り上げて武器もろとも男を弾き飛ばした。

 間髪入れずに、よろめいている男の首元を掴んで鳩尾(みぞおち)に膝蹴りを入れ、前屈みになった男の腕を取り、後ろ手に(ひね)って地面に男を押さえつける。

「ぐ……」

 男は咳き込みながら藻掻(もが)くが、柊は圧倒的に有利な体勢――男の腕を後ろ手に捻り上げて、その背中に自分の膝を立て、男の動きを封じていた。下手に動くと男のほうが危ない。

 男は生存本能が働いているのか、それ以上無駄に藻掻くことはなかった。

「さて、ご用件は?」

 大人しくなった男に柊は訊く。

 梨菜はすぐに駆けつけてきた歩がしっかりと安全を確保している。

「し、知らねえ!」

 男が必死の様相でそう訴える。

「へえ――何を知らないのか、教えてもらえます?」

 わざわざ「知らない」ということは何かを知っている。これは今までの経験上そうだっただけの話なのだけど。

「ふざけんなガキのくせに――」

 柊は無言でホルスターに収めていた銃を取り出して、男のこめかみに突き付けた。安全装置は外していないが、突き付けるだけでもそれなりの脅威にはなるから、手っ取り早い白状のさせ方だ。

 こういうことばかり習ってきたのも問題かもしれないとは、柊自身も思うけれど。

「け……怪我させろって頼まれただけだ!」

 話が早い。此方が一応プロだということをすぐに認識している辺り、少なくともこの男も一般人ではない――だけどすぐに吐く辺りプロでもなかった。

「誰に?」

 柊は銃を突き付けたまま、更に尋ねる。

「裏サイト……裏……」

 男は絞り出すようにそれだけを答えていた。それなりには限界らしい。

「――それじゃあ、後は警察でどうぞ」

 歩が呼んだであろうパトカーのサイレンが聞こえてくる。柊は突き付けていた銃を仕舞う。

 これ以上は警察の仕事――一般的には。


(10)

「あの……ごめんなさい」

 柊は男を警察に引き渡し、簡単な事情聴取――後日、また詳細な呼び出しがあるのだけれど――に答えてから、梨菜と歩の待つ車に乗り込んでいた。乗り込んだところで、梨菜が柊に謝ってくる。

「何がですか?」

 警護対象者を不安にさせないようなフォローは歩がしてくれているはずだけれど、柊も梨菜を不安にさせないよう、必要以上にサラッと明るく返事をしていた。

「鞄――駄目になっちゃいました」

 先程、柊が盾代わりにしたスクールバッグは証拠として警察に持って行かれている。

「ああ――あれ、防護用のダミーです。本体はこっち」

 柊は車のシートの下からもう一つのスクールバッグを取り出した。学校に通うのもあと少しなので、申し訳程度の教科書とノート入りだ。

「……え」

 梨菜は不思議そうな表情をしていた。


「それにしても、警護を始めた翌日に襲ってくるなんて、タイミングが絶妙すぎますね」

 歩が穏やかな口調で――それでも直球の言葉を放っていた。

「確かに――」

 柊もそれに同意する。

「でも……脅迫があったんですよね?」

 梨菜が改めて二人に確認を取っている。

「脅迫状が月岡議員――お父様の元に届いたのは一週間前。弊社に警護依頼が来たのが三日前、これを言っては梨菜さんを不安にさせてしまいますが、狙うチャンスは何日もありました」

 それなのに、わざわざ警備が始まってから事が起きるのは不自然――歩が続けていた。

「何のために……」

 梨菜がまた辛そうな表情をしている。

 出会ってからまだ一日も経ってないが、梨菜には笑顔が見えない。

 置かれている状況を考えれば当たり前なのだけど、少しは笑って欲しいと柊は思っていた。

「でも、うちに依頼したってことはそれも突き止めるんだよね?」

 柊はあえて明るく歩に話しかける。そして、その後で梨菜を見る。

「――突き止める?」

 梨菜はまた不思議そうな顔になっていた。

「まあ、うちに依頼したからにはね」

 歩は苦笑いで柊に返している。


 そう――孝嗣のやっている会社はただの民間警備会社ではない。

 徹底的に「原因」を突き止めて、「危険を排除する」までが売りの会社だった。


(11)

 梨菜の勤め先の駐車場、車の中。歩がスマートフォンで会社と連絡を取っていた。梨菜は出勤しているのでビルの中――とりあえずセキュリティがしっかりしている場所なので、べったりと張り付いての警護はしなくて良い場所だ。

「朝の男、脅迫状とは無関係――裏サイトでの依頼を承けただけ。裏サイトについてはうちの情報部が調べてるところだけど、少なくとも二件別々にそういう依頼がされている」

 今は昼前――あれから数時間でそこまで調べられるうちの情報部も凄い。

「梨菜さんを狙ってる相手は複数ってこと?」

 柊でも予想できる犯人は月岡議員と対立している人なのだけど、複数となると――

「そう。それも連携が取れていないので別組織がそれぞれ狙ってるみたいな感じ」

 歩は両手で宙に「こっちとこっち」と、大きなジェスチャーを交えて解説している。

「うわぁ……」

 どうなってるんだろう――柊はそう続けていた。

「怪しいのは月岡議員の対立候補予定で銃規制反対派の――とは言ってもそこまで反対してる風な人ではないんだよねえ。元々どっち付かずの日和見(ひよりみ)主義だし。って、はい遠山です」

 会話を中断した歩が耳にかけていたヘッドセットに手を添えた。多分また会社からの電話だ。

「ええ、はい。わかりました」

 そう言うと歩は通話を切っている。

「解散総選挙決まり。更に近辺の警戒を怠るなって社長が」

 歩は柊のほうを向いて、「言ってた通りでしょ?」とニヤリと笑っていた。


(12)

 夕方、梨菜の家に帰宅する途中の車の中で、歩が何気ない世間話といった風に解散総選挙の話を切り出した。梨菜は昼の速報で見たと答えていた。

 今日も遠回り――昨日とは違うルートで――帰宅することになる。

「梨菜さんは、選挙区には行かないんですか? 行くのであれば私たちも行くことに――」 

「私は、父には居ないものとして扱われてますから」

 梨菜が諦めを含んだ口調で呟いている。

 居ないもの――昨夜柊が口にして、梨菜が辛そうな表情をした言葉と同じだ。

 あれは梨菜にとって、言ってはいけない言葉だったのだ。柊はまた小さく反省していた。

「……今回のご依頼は月岡議員からのものです。多少の心配はされているのでは? 私が言うのも差し出がましいですが」

 歩のフォローが入る。この辺りは流石に経験豊富だなと柊は思う。要警護者を勘違いさせる原因の一つでもあるのだけど。

「もし、そうだったら――いいですね」

 梨菜はまた、辛そうな目をしていた。


「じゃあ、私はここで」

 遠回りの帰宅ルートの途中で、柊は車を降りた。今日のこれからの警護は歩だけになる。

「歩さん」

 柊はわざわざ歩の居る運転席側に回って手招きをして歩を呼ぶ。歩はウインドウから顔を出して「何?」と訊く。

「好みのタイプでも手を出しちゃ駄目だよ?」

 柊は冗談でそう耳打ちをしていた。

「あのね……」

 呆れた顔で歩が返していた。


 柊は帰宅して、シャワーを浴び、自分のベッドに倒れ込む。

 仕事は嫌いではないが、一時解放されるこの瞬間は格別だ。

 学校はもう自由登校になっているので行っても行かなくても良い。

 今朝の出来事は、まだ核心にまで至っていないので、ここで頭を悩ませるのは得策ではない。 あとは――梨菜の辛そうな目だけが柊の心に残っていた。

 梨菜はいつも何処か辛そうだ。調子が悪いとかそういったものではなく、ただ何かに耐えて生きているようなイメージがある。

 無事だったのだから、少しくらい笑って欲しいと思うのはボディガードのワガママだろうか。

「もうちょっとなんだけどな……」

 柊は独りごちる。「もうちょっと」って何がだろう――


(13)

 翌日――夕方。梨菜の自宅での張り込みの警備も二度目。

 丸一日半警護していた歩から引き継いで、柊は梨菜の自宅でまた警戒に当たる。


「音楽番組を見たいのですけど――」

 夜も半ば――梨菜がテレビのリモコンを手にしていた。

「どうぞ、ご自由に。私は玄関に居ます――って、そういえば今日のゲスト三年ぶりにあの人が出るって言ってましたね」

 録画頼めば良かった――柊は冗談交じりにそんな雑談をする。

「ファンなんですか? じゃあ、一緒に見ませんか?」

 一瞬、梨菜の目が輝いたような気がした。

「あ、えっとファンですけど……でも」

 梨菜もあのアーティストが好きなのだろうか。

 だが、仕事中という立場では、一緒に楽しんでもいられない。

「一時間くらい気を抜いても良いじゃないですか。あと、身近にファンの人が居なかったので、嬉しいです」

 そう言うと梨菜が照れたように少しだけ笑った。

 初めて梨菜の笑顔を見れた気がするけど、柔らかくて可愛い人だと思った。

「良かった――やっと笑ってくれた」

 柊は思わず口に出していた。

「え、あ……私、笑ってませんでした?」

 梨菜が戸惑ったようにそう返した。

「えっと、ずっと悩んでたみたいだったので、つい。ごめんなさい」

「宮坂さんが謝ることではないです。気をつけますね」

 梨菜はまた辛そうな目に戻りそうになっている。

「いえ、無理に笑わなくても……適度に。あ、テレビ見ましょうよ。ね?」

 柊はもう一度、梨菜の笑顔が見たくて、いつもより余計に明るく振る舞っていた。


 結局、警戒をしながら一緒にテレビを見ることになった。

 好きなアーティストの話を少しだけしながら。


(14)

 朝――柊は車で迎えに来た歩とヘッドセットで連絡を取りながら、梨菜のマンションの駐車場へ向かう途中、道路に面した廊下から地上を確認――人影が見えた。

「影が二つ――駐車場から正面に一人、右方向に――二人?」

『正面は犬の散歩の人物で確認済み。右方向はすぐ行く』

 ヘッドセット越しに歩が車のドアを開ける音がした。

「何かありました?」

 柊の言葉が聞こえたのか、梨菜が不安そうにしている。

「ご心配なく。エレベーターが下に着く頃には終わってると思います」

 相手が二人だとしても歩なら余裕だろうから――柊はそんな言葉で、いつも通りに梨菜の出勤を警護する。

「え……はい」

 梨菜は戸惑っていた。


「あーおはようございます」

 歩がマンションから出てきた二人に爽やかな挨拶を投げかけてくるのだけど、民家のブロック塀にならず者を押し付けて確保していた。足元には歪んだ金属バットが落ちている。明らかに何か危害を加えようとしている証拠だった。

「一人逃げたけど、こっちのほうが指示役っぽい。警察も呼んどいた」

 流石仕事が早い――

「わかりました。先に車、行っときますね」

 それでも柊は辺りを警戒しながら、梨菜を連れて車に向かう。

「え、え? 良いんですか?」

 梨菜が戸惑いの極致といった感じで柊と歩とを交互に見ていた。

「もうすぐ警察が来ますので、そちらにお任せですね」

 遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。


「お待たせしました」

 歩がなんでもない感じで運転席に乗り込んでくる。

「あの……ごめんなさい」

 梨菜がまた辛そうにしていた。自分がこんなにまで狙われている事実と、それを当然のように撃退してる柊たちに戸惑っているようにも見える。

「謝る必要はないですよ。大変なのは梨菜さん。こっちは有力な情報も聞き出せました」

 歩はフォローも慣れている。昨夜の自分と比べたら段違いだと柊はまた反省していた。

 いくらなんでも「やっと笑ってくれた」はないだろう――思い出すと恥ずかしくなる。

 だけど、あの笑顔に、何か救われたような気分になった自分が居るのも確かだった。


 一体、何故だろう――


(15)

 梨菜の警護が始まってから十日ほどが経つ。

 裏サイトの依頼のうち一件については、会社の情報部がわざと泳がせている状態だけど、既に発信者も突き止めているのであとは警察の家宅捜索がいつになるかといったところらしい。

 その前に孝嗣たちが「ちょっと話を訊き」に行く予定だ。


 そして、今日は柊の高校の卒業式だった。柊には特にこれと言った感慨はないつもりだったけれど、やはりこれである意味の終わりだと思うと何処か寂しい気分になるのも事実だ。

 仕事も今よりはもっと本格的になることだし、これからはもっと責任が重くなる。目下の大きな責任としては梨菜の警護を無事に済ませること――

 ここまで育ててもらった恩返しではないけれど、少しでも役には立ちたい。

 そういえば、保護者席にいた孝嗣が人目を気にせず大号泣していたのは、見なかったことにしようと思った。


 夕方――今日も歩から引き継いで梨菜の警護に入る。

 ここしばらくはならず者もやって来ないし、どちらかと言えば穏やかな警備になっていた。

 何処かに物足りなさを感じてしまうのは、柊の生まれ持った性質なのだろうか――

 あれから、梨菜とは少し雑談を交わすようになっていた。立場上、気安く冗談を言い合う――とはいかないけれど、同じアーティストが好きだったことが大きなきっかけだったと思う。


「少し出かけたいのですけど、良いですか?」

 夜の十時前に梨菜が柊に問いかけてきた。監視ではないけれど、安全確保のためには行動の把握が原則――梨菜も警護されることに慣れてきて、こうして少しずつ要望を出すようになっている。

「どちらに?」

「えっと、コンビニで買いたいものがあるんですけど」

「ご一緒します」

 最寄りのコンビニエンスストアまで歩いて往復で五分ほど、それでも警護に着くことになる。

 柊の本音を言えば少しくらい自由に行動させてあげたいのだけれど――そうもいかない。

「お手数をかけます」

 梨菜はまた、何処か申し訳なさそうにしていた。


「少し、変な感じですね」

 コンビニエンスストアまでの道を歩きながら梨菜はそう呟く。梨菜はふっと遠くを見て、それから柊を少し見つめている。

「何がでしょう?」

 柊はただ何気なく質問で返していた。

「普通だったら、私のほうが未成年の宮坂さんを守らないといけないのに、逆です」

 梨菜は困ったように――それでも少し笑ってくれている。

 少しずつ、梨菜が何かの辛さから楽になってきてくれているのだろうか。

「――それは仕方ないですね。これが私の仕事ですから」

 その梨菜の笑顔に少しの嬉しさのようなものを感じながら、柊は答える。

「あと、身長も宮坂さんのほうがちょっと高い。年下なのに――と言っては失礼ですけど」

「それは……」

 気にしてるのに――だけど、少しだけ困ったように笑っている梨菜を見ると、そんなことも言えない。大体梨菜だって柊と五センチくらいしか違わないのに。

「でも、守られているみたいで安心です。って、守ってもらってるんでしたね」

 梨菜が柔らかく笑う。今度は困ったような笑顔ではなかった。


「はい。どうぞ」

 帰宅後、コンビニエンスストアで結構な量の買物をしてきた梨菜が、袋の中からアイスクリームを取りだして、柊に渡してきた。

 期間限定フレーバーの少しお高い値段のもの――その分美味しい――だった。

「えっと……?」

 柊は思わず受け取ってしまったけれど――どうすれば良いのだろう。

 飲食をしないことは前もって、そして何度も梨菜には伝えている。梨菜が作る夕食は美味しそうなのでそれなりの誘惑なのだけど、ここしばらくは意地で飲食をしていない。

「今日卒業式だったって遠山さんが言ってたので、これくらいしか出来ませんけど」

 小さなお祝い代わりです――梨菜はそう続けている。

「ありがとうごさいます。でもお気遣いは――」

「遠山さんは少しくらいの飲食なら大丈夫だって言ってましたよ?」

 やっぱり歩が絡んでいた。歩のことだからきっと「意地を張っているんじゃないか」まで言ってそうだ。それも図星なのだけれど。

「一応、少しくらいならいいとは言ってますけど」

 今まで矜持と言うよりプロの意地みたいなもので柊は乗り切って来たのに、良いのだろうか。

「……早く食べないと溶けます」

 梨菜が首を傾げる。悔しいが、可愛い。これであとはもっと笑ってくれたら――って今何を考えたのだろう。

「じゃあ……いただきます。ありがとうございます」

 意地を張らず、たまには素直になるのも、多分大切なことだと思った。柊はカップを開けて、スプーンですくって一口食べる。とても美味しい。

 冷たいアイスクリームだけど、とても温かいものを食べているような気分だった。

 多分、自分はこのアイスクリームの味を一生忘れないと柊は思う。

 梨菜は柊が食べるのを見てから、「自分も」と同じものを食べていた。


「それじゃあ、おやすみなさい」

 アイスクリームも食べ終わり、梨菜がいつものように挨拶をして自分の部屋に向かう。

 警護に就いてから十日以上経っているけれど、梨菜はまだ柊たちを空気のように扱う気はないらしい。

「おやすみなさい」

 柊も静かに挨拶を返していた。


 夜中――孝嗣からの通信が入る。

『柊か。逮捕前の犯人から話が訊けた。対立候補の熱心な支持者――ありがちな話だ』

「また強引に尋問したんでしょ……」

 柊は小声で孝嗣と話す。

『いやあ、丁寧にお伺いしたら話してくれたよ?』

 孝嗣の言う「丁寧」は一般的な丁寧ではないと思うけれど、それも仕事の一部――もっとも、警察では追いつかないところをカバーしているので大目に見てもらっている。

『朝のニュースで流れるから、これでもう一つも止まると良いが……』

「――だったら良いね」

 柊は心からそう願う。それが梨菜にとってなによりのことなのだ。


 翌朝――梨菜はテレビのニュース番組を見て驚いていた。

「これで、解決――ですか?」

 梨菜が何処か安堵したように柊に訊く。

 テレビには脅迫犯が逮捕され、連行される様子がハッキリと映っていた。早朝にも関わらずしっかりとした鮮明な映像が残されているということは、情報を流したのは孝嗣たちだ。

 持ちつ持たれつ――大人の世界は謎が多いと柊は思う。ある程度の情報を提供して、ある程度の情報をもらって成り立つ世界は「信頼」だけで回っている。

「あと一件残ってます。まだ、油断は出来ません――あ、ちょっと待ってください」

 会社からの通話が入ったので、柊は話を中断して話に入った。

『柊、もう一件のほうだが、エスカレートしてる。注意しろ』

 孝嗣が短く伝えてくる。

「あー……それは、残念……」

 柊は短くそれに答えていた。

 勿論、今の状態では、突き止められた時の犯人に対してのものだけど。

 それでも、何処か自分の血が騒ぐのは、環境のせいだろうか――困った育ち方だ。


(16)

 あれから、月岡議員本人と家族に及ぶ、残り一件の脅迫は止むことがなく続いていた。

 孝嗣たちが突き止めて逮捕された対立候補の支援者は、言うなればその脅迫の便乗犯だということが明らかになっている。

 それ故の杜撰(ずさん)な計画――とも言えない安易な便乗――だった為に、すぐに突き止められた。

 脅迫の性質上、これまで出来るだけ秘密裏に動いてきたのだが、それも徐々にマスコミが動き出している。ただ、今は選挙の公示期間中なので、特定の候補者に有利になる報道ができないという制約があるため、大事にはなっていなかった。


「はい。わかってます。お父様の邪魔になるようなことは――」

 梨菜の部屋――柊が当番の今夜は、月岡議員から梨菜に電話がかかってきていた。

「わかってます。はい。大人しく――はい――」

 聞こえてくる梨菜の言葉だけでも、色々と確執がありそうだと思える程度には、柊が勝手に想像していた家族像とは違う。

 柊の父親はもう居ないけど、もし生きていたらこんな風だったのだろうか――色んな可能性はあるけれど、考えるとなんとも言えない気分になる。

 辛そうな梨菜の表情が見えるのも、それをより強く意識してしまうことになっていた。

「はい――お父様も気を付けてください」

 電話の最中、あんなに辛そうだったのにも関わらず、梨菜は最後にそんな言葉で締めていた。


 梨菜がスマートフォンをソファに投げ捨てるように置いて、キッチンに向かうと、冷蔵庫から琥珀色の液体が入った瓶を取り出してリビングのテーブルに置いている。

 柊の知識に間違いがなければ、ウイスキー――アルコール度数が強い酒――だ。

 梨菜はその他にも氷やグラスを次々とテーブルに運んでいる。

 多分、飲みたい気分なのだろう。柊にはまだわからない感覚だけど――

「玄関のほうに居ますね」

 柊はソファから立ち上がる。梨菜の邪魔をしてもいけないし、そもそも安全を守る立場とはいえ、梨菜に多大なストレスがかかる状態の一端を作っている自覚もそれなりにある。

「待って――返事はしなくて良いので、ただ愚痴を聞いていてもらえますか?」

 梨菜が柊を引き止めてくる。

「それで気が済むのならどうぞ」

 柊はまたソファに座り直していた。

 こちらはどうせ一晩中起きているのだから、何処に居ようと問題ではない。

 きっと――大人にはそういう夜が大切なことも、なんとなくだけどわかるから。

「……ありがとう」

 梨菜が小さく呟いていた。


「理想の家族像のために、ずっと頑張ってきたのに……だけど、父はどれだけ頑張っても、私を認めてはくれなかった――」

 小さな頃から何でも自分のできる限り頑張って、父の注目を引こうとしていたけれど、父は出世と世間での体裁にばかり目を向けていた――

 梨菜がアルコールを飲みながら話していたのは、そんな話だった。

 柔らかそうな世界に生きているお嬢様だと勝手に思っていたけれど、柊が想像しているより、もっと根の深いものを抱えて、それに耐えて生きている――それ故のあの目なのだろうか――

 返事はしなくて良いと言われているので、柊は一切の言葉を発していない。

 それに、柊にはこういう時にかける言葉を見付けることが出来なかった。

 未熟だから――でも、きっと、大人になっても何も言えないだろう。

「ずっと理想の家族を演じるだなんて……何処かで無理が来ます」

 梨菜はそう言うと、結構なペースでグラスをあおっている。


「……無理……です。もう無理……」

 数十分後――梨菜がソファにもたれて、天井を仰ぐ。ウイスキーの瓶はほぼ空になっていた。

 要警護者の行動をできるだけ制限しないようにという原則があるのだけれど、流石に飲みすぎなのではないかと思った。歩なら、こんな時でも上手く止めることができたのだろうと思うと、止められない自分の未熟さが、また柊の身に染みる。

「もう飲まないほうが良いですよ――その、多分梨菜さんのためにも」

 それでもなんとかしたいと思った柊は、余計なことかもしれない言葉を梨菜に投げかける。

「……心配してくれるんですね。お仕事だから?」

 仕事だから――というのも勿論あるが、それよりも辛そうな梨菜が心配だ。

 梨菜はいつも何処か辛そうで、いつも何かに耐えている。

 柊のワガママでしかないけど、出来るなら、この前見せてくれた笑顔でいて欲しい。

「単に心配です。それに飲みすぎです。もう寝ましょう」

 柊は半ば強制的に、会話を遮った。

「そうですね……おやすみなさ……」

 梨菜はソファから立ち上がるが、足元が不安定になっている。

「大丈夫ですか――って、ちょっと」

 柊は慌てて立ち上がり、ふらついている梨菜を受け止めた。

 ――と思ったら、緩い力でソファに押し倒される。

 反撃しようと思えばいくらでもできる状況だったけれど、梨菜は守らなくてはならない人――反撃をすることも躊躇われる。

 ましてや酔っている人を相手に何処まで本気で反撃して良いものか、柊にはわからない。

「梨菜さん、何を――」

「どうして、抵抗しないの――私を捻り上げるなんて簡単なことでしょう?」

 酔っているはずなのに、梨菜の言葉は至って普通のそれだった――

「……私は、あなたを守らなくてはなりません」

 柊は身体の上に覆い被さっている梨菜を押し返すこともなく、ただ静かにそう告げていた。

 勿論、いつでも反撃はできる状態なのだけれど。

「でも、今、守られるはずの私が、あなたに危害を加えようとしている」

 一滴――梨菜の目から涙がこぼれ落ちた。その雫は柊の頬に落ちて、冷たく濡らす。

「梨菜さん――?」

「――あなたは、私の心まで守ってくれるの?」

 綺麗で、何処か追い詰められているような目をした梨菜が訊く。

「……わからないけど、辛そうな梨菜さんを見るのは私も辛いです」

 柊の本心からの言葉――要警護者にここまで感情移入するのは、本当はいけないことだけど、このままでは今にも梨菜の張り詰めている糸が切れてしまうと思ったから。

「そう……なら、同情でも良いから少しだけ体温を感じさせてくれる?」

 梨菜の手が、柊の頬に触れる――そのまま、キスをするように梨菜が近付いてくる。

 ――いけない。だけど、何故か拒否できない。

「梨菜さ……」

 唇が触れた。柔らかくて――少しだけ苦い。

 柊の初めてのキスは、梨菜の涙とアルコールの味だった。

「……ごめんなさい。寝ます……おやすみなさい」

 梨菜はそう言うと、押さえていた柊の腕を解き、おぼつかない足取りで自分の部屋へと消えていく。柊はその後ろ姿に、何も言葉を返せなかった。

 自分たちのような仕事をしている上で、要警護者との間でこういったことが起きる場合があるというのは知ってはいたが、柊はそれを経験したことはない。

 先輩の歩なら――いや、これは自分の問題だ。

「心まで守れるかなんて、そんなの……」

 柊は小さく呟いていた。


(17)

 翌朝――今日は梨菜の仕事は休み。

 梨菜は二日酔いになっていたようで、昼前に歩が来るまで起きてこなかった。柊としても顔を合わせにくいのでそれで良かったのだけど、二日酔いというのも辛そうなので、アルコールを飲める大人も大変だと思う。

 梨菜が入浴している間に、歩に昨夜の簡単な経緯の説明を――キスされたことは黙って――したら、歩は苦笑いになっていた。


「今日はどうしますか? 買物にでも行きます?」

 入浴を済ませて身支度を整えていた梨菜に、歩が尋ねている。

「えっと……家に、居ます」

 梨菜は一瞬迷っていたけれど、またいつもの何処か辛そうな目をして答えていた。

「強制はしませんけど、何処か――何処でも良いので、少し外の空気を吸いません?」

「でも、またお手数を……」

「一応これでもお守りしてきたつもりですけど、ご不安ですか?」

 歩は爽やかな笑顔で梨菜に話している。

「いえ、そんなことは――ただ、今日は持ち帰りの仕事もありますし……」

 梨菜が申し訳なさそうに答えていた。これまでは、大体あの笑顔と台詞で歩に惹かれる人が多かったし、実際誤解される事態にまでなってるのに、昨夜はどうして自分だったのだろう。

 単に酔ってたから、人恋しくて誰でも良かった――だったら少し悲しいかもしれない。

 どうして、悲しいと思うのか、柊は自分でもわからないけれど。


「あ、失礼、会社からです」

 不意に、歩のスマートフォンが鳴った。

「はい――はい。わかりました」

 歩は返事をしながら、タブレット端末を取り出した。ジェスチャーで柊たちに見るようにと、指し示す。画面には梨菜の父親――月岡議員が映っていた。

 動画配信サイトで、生配信のインタビューに答えているようだった。

 公職選挙法では選挙期間中に候補者が動画配信をすることは禁止されているが、今回はウェブメディア――しかも個人での配信に答えている形なので、その辺りは黒に近いグレーになる。

 その危険を冒してでも答えるほうが得策だと思ったのだろう――梨菜はそう言っていた。


『銃の所持許可が出ている警備会社にご家族の警備を頼んでいるというのは本当ですか!』

 配信者はワイドショーのレポーターのように、過剰にまくし立てる口調で尋ねていた。

『はい。民間人警備の実績がある会社を選んだ結果そうなっています』

 一方の月岡議員は落ち着きのある受け答えをしている。

 柊が月岡議員の顔をじっくりと見るのは初めて――と言って良いくらいなのだが、精悍な顔立ちをしていた。目元が少し梨菜に似ているような気もしたが、その目つきは対照的だ。

『――信条に反するんじゃないですか?』

 配信者は更に質問をしている。

『しかし、もし脅迫にあることが実行されたら――犠牲になるのは家族です』

『なんだかんだ言って、身内が一番大事なんですねー?』

 わざとらしく語尾を上げて、若干イラッとするような配信者の口調だったけれど――

『公職にある活動をしているのは私自身――家族は私の仕事とは無関係の民間人です。無関係の民間人に危害を加えるという脅迫はテロリズムであり――』

 配信者の質問は、簡単に論点を変えられている。

 それに継ぐ質問が『テロと言いましたが――』になっていた辺り、煽っていたようだけど、月岡議員のほうが一枚上手で煽りになっていなかった。

「無関係――ねえ」

 通話を終えていた歩が、誰に言った風でもない口調で呟いていた。

「父の言いそうなことです。遠山さんたちまで巻き込んでいるのに――」

「それは違いますよ。私たちは巻き込まれたわけではなくて、仕事です」

 歩はいつもの調子でサラッと答えている。

「仕事……そうですよね……」

 梨菜はそう言ったきりで、何かを考えるように黙り込んでいた。


 持ち帰りの仕事があると言っていた梨菜は、自分の部屋で仕事をしてくると部屋に消えた。

 リビングには柊と歩が残されたので、今後の警備計画を詰める話し合いだ。

「会社内に入り込むわけにもいかないんだけど、あの内容がね……」

 歩が小声でポツリと呟く。

 脅迫状には梨菜の住所から勤め先の詳しい部署まで特定されている。今のところ会社以外は張り付いて警護が出来るのだが、会社の中にまで入るとなると、勤め先の事情が絡んでくる。

 一応会社側にも話は通してあるが、そう簡単に張り付いての警護という訳にはいかないだろう。

 事前チェックではセキュリティもしっかりしている会社だったので、そう簡単に部外者が入れる場所ではないけれど、どんなものにも盲点はある。

 ――例えば、ビル全体で契約している清掃会社などのスタッフは、それほど厳しいチェックを受けなくても各フロアに行き来ができるのだと歩は言う。

「私たちがそこのスタッフになれば良くない?」

 柊も小声で話す。

「脅迫がエスカレートした時点でやってるんだよね。一人潜り込ませてる」

「……話が早い」

「ただシフトの都合でべったり張り付けるわけじゃない。あと気になる報告が上がってる」

「何?」

 柊は前のめりで訊く。歩の確信が持てない限り教えられることはないだろうけれど――

「残り一件の書き込み、月岡議員の支持者って可能性が出てる」

 歩は柊が思っていたよりもあっさりと教えた。

 ということは――かなり有力な情報だということだ。だけど――

「なんで味方が脅迫するの」

 一般的な感覚だったら応援するだろう。今回の脅迫は真逆ではないかと柊は思う。

「もし――今回、何処かで銃が使われて、誰かが傷付いたら『銃規制推進派の月岡議員はやはり正しいのでは?』という世論の風潮になる可能性がある。一種の歪んだ応援の形なんだろうね」

「だけど、敵と味方の両方から狙われるなんて……」

 柊としては、できるなら少しでも自分が味方になりたいと思った。

 そうでなければ、梨菜の目に映る世界は敵ばかりになってしまう。

 ここまで感情移入するのは、良くないというのはわかっているのに――止められなかった。


(18)

 あれから、もう一件の脅迫は止むことがなく、膠着状態が続いている。

 柊は午前中、久々に会社の会議室で、孝嗣と話していた。

「支持者の数が多くてなあ……炙り出すのに時間がかかってる。他の可能性も考えないといけないし、その他の依頼もあるし、正直会社だけでは手が回らん……」

 警察とも協力し合ってはいるが、警察のほうは「具体的な被害が出た事件」が起きないと本腰を入れてくれないというのは、いつものことだから。

「あんなに犯人逮捕に協力してるのに」

 柊は唇を尖らせる。二件あった脅迫の一件は、柊を含めた会社の人たちで解決している。

 現に、二人もならず者を現行犯逮捕したというのに――

「俺たちの手柄は向こうの手柄ってね」

 そう言って、孝嗣が肩をすくめて半笑いで溜息をついた。

「でも実際に被害が出て、梨菜さんを守れなかったらこっちが悪くなるじゃん。ズルいよ」

 手柄は向こうでリスクはこちらだなんて不公平だ――孝嗣に言ってもどうにもならないことだけど、愚痴らずにはいられない。

「そうだよなー。柊たちだから安心はしてるんだが、やるせないよなあ……」

 孝嗣は愚痴を上手く受け止めて、なだめている。社長というのも大変そうだと思った。


 夕刻――梨菜が会社から帰る時間。

 歩が会社のエントランス近くに車を回してきて、柊が梨菜を警護をしながら車へと向かう。

 それぞれに帰宅を急ぐ群衆の中から、人影がふらりと近付いてきた。

 マズい――柊の直感的とも言える感覚が叫んでいた。

 それは歩も同じだったようで、運転席から飛び出していた。

 人影は、ゆっくりとジャケットの懐に手を入れる。

「柊! 防護!」

 歩はそう叫ぶと、即座に梨菜の前に立ち、防護用のシールドが入ったバッグを広げていた。

 柊はその影に入り込むように梨菜を押しやり、更に梨菜を隠すように、自分も盾になる。

 ――刹那、銃声が響く。

 弾は大きく外れ――わざと外したかもしれない――後ろにあった車に当たったようだ。

 柊は盾になりながらも、自分のホルスターから銃を抜いていたが、この人の多さで発砲するわけにもいかない。第一、柊たちの最大の任務は梨菜を守ること――集まってくる群衆に紛れて走り去っていく相手の後ろ姿を目で追うことしか出来なかった。


「犯人は細身で性別不明。銃はハッキリ見えてないけど口径の小さい――」

 やってきた警察の事情聴取に、歩が答えている。一応警察ともある程度の連携はしているし、顔見知りなので話はスムーズに進む。

 周囲には野次馬がたむろしていて、中にはスマートフォンで撮影をしている人もいる。

 流石にショックが大きかったのか、梨菜の顔色は悪い。そして、またいつもの目をしている。

 梨菜と柊は警察の車の中で事情聴取を順番に待っていたので、野次馬にスマートフォンを向けられたりすることはないけれど、遅かれ早かれこの発砲事件は報道されるだろう。

 柊がスマートフォンでリアルタイム検索をしたら、それらしき書き込みが既に数件出ていた。

 車の窓をノックする音が聞こえる。柊が見遣ると、顔見知りの刑事――いつも柊たちに優しくしてくれる人だった。「大変だったね」と缶コーヒーを二本、柊に渡してくれる。

「差し入れもらいました」

 柊は刑事に礼を言った後で、梨菜にまだ温かい缶コーヒーを手渡した。

「あ……ありがとうございます」

 受け取りはしたけど、梨菜は口を付けようとはしない。

「どうして……こんなことばかりなんでしょうね」

 梨菜がぽつりと呟いた。梨菜が狙われる理由は、自分が議員の娘だということだけ。

 ――ただ、それだけだ。

 その疑問に、柊は何も答えられない。答えるだけの何かを持ってもいない。

 柊にはそれがとても悔しくて、悲しかった。

 梨菜の全てを守りたいのに――そんな想いが柊の胸を掠めていた。


(19)

 発砲事件があった翌日には、裏サイトでの脅迫と危害を加えてくれという依頼の書き込みは消えていた。しかし、手紙で送られてきた脅迫状に書かれていたことの危険性が消えたわけではなく、まだ警護が続いている状態だった。

 脅迫それ自体も問題なのだが、偶然選挙期間に重なってしまっているので、世間では発砲事件がよりセンセーショナルに受け取られている。

 月岡議員を支持する者――それに反対する者――有象無象(うぞうむぞう)と言って良い感情が渦巻いていた。


「警備はもう結構です」

 朝、梨菜の会社へ向かう車の中で、梨菜自身が突然そんなことを言い出した。

 脅迫をされ、実際に狙われても、要警護者には普段の生活を送ってもらうという方針で今日までやってきているのだが、梨菜が会社でも腫れ物に触るような扱いになりつつあるという報告は潜り込ませている柊たちの仲間からされている。

 梨菜は今、自宅以外は何処に居ても安息の場がない状態と言っても良い。

 そもそも、今は自宅に居ても、柊か歩のどちらかが警護として居る状態だから、完全に一人で居る時間も無い。それでは身体も心も芯から休まらないだろう。

「そういう訳にはいきません。第一依頼主は梨菜さんではないので、中止もできません」

 歩が先手を打つような言葉で梨菜を説得する。

「でも、あの時一番危なかったのはお二方です。これ以上ご迷惑をかけるわけにはいきません。それに、これから何かあったとしても、私はそういう運命で――」

 また梨菜は辛そうな目をしていた。柊は今までに何度、この目を見てきたのだろう。

 ――運命。そんなものがあったとしたって、自分の手で変えるしかない。

「面倒――梨菜さんってすっごい面倒!」

 柊は思わずそんな言葉を口にしていた。

「――宮坂!」

 運転席から歩の声が飛ぶ。

「悪いのは犯人でしょ? 梨菜さんはいっつも全部の責任とか不幸を一人で背負ってるみたいだけど、私だったらこんな優しい人にそんな運命背負わせない。それに、もしそんな運命だったら自分で変えれば良いじゃない!」

 柊の立場上、こんなことを言ってはいけないのはわかっている。

 だけど、今日は止められなかった。

「何があってもって言ってるけど、運命だったら訳わかんない相手に殺されても良いわけ?」

 いつも何かを諦めているようで、それでもまだ何かを信じてずっと耐えている梨菜を見ているのは嫌だった。これはただ、柊の自分勝手な感情の押しつけだ。

「私は、何をしたって……でも、あなたに私の何がわかるっていうんですか!」

 予想外の言葉だったのか、梨菜はいつもの――何かを耐えている様子ではなく、反射的で感情的に言い返しているみたいだった。

「わからないよ! わからないけど好きな人のことだったらわかりたいって思うじゃん!」

 あれ――今とんでもないことを口走った気がする。

「宮坂さん――」

 梨菜が驚いた顔をしていた。

「あ……」

 柊は先程の自分の発言を思い返す。

 「好きな人」だなんて、どうしてそんな言葉が自然に出てきたのだろう。

 だけど、それで柊の梨菜に対する全ての感情――勝手な期待や苛立ち――の説明が付く。

 しかし、勢いに任せて取り返しの付かないことを言ってしまった。プロ失格だ――

 歩は運転席で小さな溜息をついていた。


(20)

「なるほどねえ……」

 歩が柊の話を一通り聞いてから小さく呟いていた。

「要警護者を――プロ失格だよね……」

 梨菜の会社の駐車場、車の中――柊は頭を抱えていた。

「――良いことを教えてあげる。私の彼女、依頼人の家族だったのよね」

 ハンドルにもたれかかりながら歩がそんなことを言う。

「嘘だ――歩さんそういうのプロ失格だって……」

「まあ、依頼人の家族だからセーフでしょ。で、今回の依頼人は誰?」

「え、月岡議員……」

「そう。ということは、梨菜さんは依頼人の家族――セーフでしょ? 私の基準では」

 なんとも都合の良い歩の理論が出てきた。

「でも要警護者……」

「あー聞こえない。聞こえない。何のことかな? 私は柊の好きになった人がたまたま、偶然、依頼人の家族だったってことしか知らないなあー?」

 歩は運転席に座ったまま大きく伸びをしている。

「……ズルい」

 現実とはそんなものなのかもしれないけど、大人とも子供ともつかない柊にはそう見える。

「そう。大人はズルい。高校も卒業したことだしこれからズルさを覚えよう?」

「教えてくれるの?」

「こればっかりは習うより慣れろ。沢山失敗して覚えるしかない」

 歩は溜息交じりに、柊を突き放すようなことを言う。

「失敗……だよね」

 柊の立場も問題なのだが、ただでさえ勢いに任せてわりと重要なことを言ってしまっている。

 これを失敗と言わずに何というのだろう。

「……向こうも柊のことを悪くは思ってないみたいだけど? つい、感情的になるくらいだし」

「でも……」

 そうだったとしても、納得が出来ることではない。

「初恋が――初恋じゃないかもしれないけど、叶うことなんて滅多にないよ? 柊は幸運だ」

「……ズルい」

 二度目の言葉だった。

「大人はそういうものなのです。思ったより大人げない意地も張るし、見えないところで頑張ってたりする。梨菜さんもずっと意地張って頑張ってるみたいだけど、さっきの様子を見てたら、柊がそれを崩せるかもしれないね」

 そう言って歩は笑っていた。

 柊は、キスされたあの夜に梨菜が言っていた言葉を思い出す。

 梨菜だって、ずっと頑張っているのに――気付けなかった自分の未熟さが嫌になる。

「許してくれないかもだけど、謝るしかないよね……」

 柊が考えた結論はそれだった。

「それも当たって砕けろ。許してくれないかもしれないけど、謝らないよりはずっといい」

 謝れないままで後悔を残すよりはね――歩が優しく、見守るように笑っていた。

「……そういうものだよね」

 柊は明日の夜に歩と警護を交代するまで、謝る言葉を考えておこうと思った。


(21)

 過ぎて欲しくない時間ほど早く過ぎるものなのだろうか、柊が自宅で梨菜に謝るための言葉を考えていたら、いつの間にか寝入っていて気付くと翌朝だった。

 どんなことがあっても眠れる時は確実に眠るというのも、柊が身につけた一つの生き方ではあるのだけど、何もこんな時にまでそれを発揮しなくても良いのになとは思う。

 歩と交代で、今夜は柊が梨菜の家に詰めることになる。

 結局、どう謝るかをしっかりと考えられないまま――こんなところまで未熟だ。


 簡単な申し送りをしただけで歩は帰って行き、梨菜と二人になる。

 気まずい――というか、本来なら先日柊がしたのは、担当を外れるくらいの問題発言だったと思うのだが、零細企業だけにそうもいかない。恨めしい――いや、それは八つ当たりだ。

 定位置のソファに向かう時に、梨菜と目が合った。今しかない。柊は思い切り頭を下げた。

「先日は申し訳ありませんでした」

「ごめんなさい」

 柊と梨菜の二人が、ほぼ同時に謝っていた。

「え……あ、その……」

 予想外の展開に驚いた柊が顔を上げると、梨菜も驚いたように柊を見ている。

 どうして梨菜が謝るのだろう――柊にはわからない。

「私から言わせてください」

 梨菜が、ゆっくりと、それでもハッキリと言い切っていた。

「……どうぞ」

 何故か、その雰囲気に負けたような感じで、柊は発言を譲る。

「――あれから、宮坂さんに言われたことをずっと考えていたんです」

 何かを考えながら、梨菜が緩やかに話し出した。

「運命なんて変えられないのに、この人は何を言ってるんだろうって思いました」

 感情的にその言葉を口走ってしまった柊には、何気に刺さる言葉だった。

「あれは言い過ぎまし――」

「でも、私は今まで理想の家族のために、その運命が変わらないような努力をしていた」

 柊の言葉を遮るように、梨菜が続ける。

「…………」

 理想の家族――梨菜が酔った時にずっともう無理だと言っていた――

「そんな夢物語みたいな理想なんて壊して良かったんです。そんな運命なら自分で変えてしまえば良い――その為にもう少し頑張ってみようと思いました」

 上手くいくかはわからないけど――そう言って梨菜が笑う。

 その笑顔はとても柔らかいけれど、まるで何かを覚悟したような、そんな瞳をしていた。

 梨菜のその瞳に、柊は心臓を掴まれたような感覚がした。

「――だけど、私は余計なことを言い過ぎました。梨菜さんはずっと頑張ってるのに、何もわかってなかった私が悪いです。申し訳ありません」

 柊は改めて頭を下げる。自己満足かもしれないが、自分の謝りたかったことは言えた。

「でも、心配してくれた結果の言葉でしょう?」

 怒ってないどころか、そんな風に捉えてくれていたなんて――柊は頭を上げて梨菜を見る。視線が合い、梨菜が仕方ないといった風に笑っていた。

「それは……確かに心配ですけど、でも言って良いことと悪いことがあると思います」

「――好きな人だって言ってくれたのも、悪いことですか?」

 一番突かれたくないところに話が来てしまう。

「あ、あれは――その……ごめんなさい。私なんてほら、まだ本当の恋愛とかもわからな――」

 梨菜の人差し指が柊の唇を塞いだ。

「それなら――大人の恋愛を教えてあげます」

 梨菜が柔らかく――どこか色っぽく――笑う。

 滅多に見せない梨菜の笑顔が、さっきから柊の心に入り込んで来ている。

 優しくて、柔らかくて――もっと見ていたくなる笑顔だった。

「梨菜さん……」

「私に――運命を変えさせて」

 そう囁くと、梨菜はゆっくりと柊をソファに押し倒して、唇にキスをしてきた。

 この前と同じ――柔らかい――だけど、今日はアルコールの味も涙の味もしない。

「んんっ――」

 キスが深くなり、受け止めている柊から声が零れる。

 息が出来なくて、甘くて――ゾクゾクする。

 やがて、梨菜の唇が、柊の首筋へと移った。その寸前、梨菜が笑っていた。


 ――そんな笑顔を見せるなんて、大人は――ズルい。


(22)

「……おはようございます」

 早朝――ソファで寝ていた梨菜が目を覚ましたのを、柊は横目で確認して挨拶をしていた。

「眠れませんでした?」

 起き上がった梨菜は自分のしどけない姿を気にする様子もなく、不思議そうに柊を見ている。

「一応、仕事なので、その……起きてないとですし……」

 あれから柊は、ソファで寝入った梨菜にブランケットをかけて、乱れていた服装を着直して、その隣でずっと起きていたのだけど、一緒に寝るのが正解だったのかもしれない。

 それは良い――いや、良くないのだが、どうしても梨菜を直視できない。

 早く歩が来てくれたら――それはそれで勘の良い歩のことだからバレそうな気がするけど――

「あの……怒られたら、私のせいですからね?」

 心でも読まれてるのかと思うくらい的確に柊の心情を言い表した梨菜の言葉だった。

「それはいいので、ちゃんと服着てください」

 柊はまだ乱れた格好のままでいる梨菜に、床に滑り落ちていたブランケットを拾ってかける。

「ありがとう……嫌われたかと思いました」

 ブランケットをかけた時に、梨菜の身体に柊の手が触れ、梨菜がその手をそっと掴んでいた。

「嫌いになんて――」

 そう簡単に嫌いになれるわけがないのに――梨菜はどうしてそんなことを言うのだろう。

「あんなことをしたのに?」

 梨菜が首を傾げている。

 確かにあの時は少し人が違ったような感じだったけれど、柊としてはそれだけで嫌いにはなれないし、むしろ梨菜が自分よりも色んな意味で大人なのだということを再確認したような――それよりも昨夜のことを思い返すと、恥ずかしさがこみ上げてくる。

「……嫌われたくてあんなことしたんですか?」

「何処かで、少しだけ思ってました」

「そんな――」

 梨菜はまた、全部のことを自分で背負おうとしている――

「でも、我慢しないって決めましたから、嫌われなくて良かったです」

 柔らかく梨菜が笑う。その微笑みに引き込まれるように、柊は梨菜の頬に触れて、キスをしていた。

「み、宮坂さん――」

 唇を離すと、珍しく梨菜が慌てたような表情を見せている。

「梨菜さんは、そこで照れるんですね」

 柊は改めて、大人は不思議だと思った。


(23)

 梨菜は出勤の時間になる前に素早くシャワーを浴びて、身支度を整えていた。

 あと十数分で歩が来る時間――不意に柊のスマートフォンが鳴る。

 そういえば、昨夜はヘッドセットを着けていなかった。というか、いつの間にか外れてた。

 柊は慌てて電話に出る。

『おはよう。もうすぐ着くけど、準備できてる?』

 歩の話し声の向こう側に、エンジン音が聞こえている。

「おはようございます。準備できてます」

 柊は梨菜のほうを少し見て確認した後で答えた。

『オッケーあと五分くらいかな。警戒よろしく』

「わかりました」

 柊が通話を切ろうとしたその前に――

『って、何かあった?』

 歩が突然そんな問いかけをしてきた。

「――何がですか?」

 いくら勘が良いとは言え、電話だけで何かがあったのがわかるものなのだろうか。

『ちゃんと謝れたのかなって。声が明るい』

 良かった。色々バレてない――まだ。

「それは、ちゃんと謝りました」

 柊は梨菜に聞こえないように離れた場所に移動しながら小声で答える。

『了解。お疲れ』

 歩がそれだけ言い残して通話を切っていた。

 なんとなく、歩と顔を合わせたら何かがバレそうな気がするのだけど、どう乗り切れば良いのだろう――柊にはわからない。梨菜は至って普通に準備をしている。

「もうすぐ車が着くそうです」

 それでも、仕事は仕事――切り替えなくては。

 柊はいつも以上に気を引き締めて仕事に向き直る。

「わかりました」

 梨菜もそれに応えてなのか、いつも通りの返事をしていた。


 柊はマンションの部屋を出て、階下を見る。

 歩の車がエントランスにベタ付けされ、柊たちを待っていた。

 上から見て周囲に怪しい人影はない――今日はスムーズに警護が進みそうだ――

「おはようございます」

 歩がいつもの爽やかな笑顔で二人を迎えている。

「おはようございます。今日もよろしくお願いします」

 ずっと、何処かで遠慮がちだった梨菜がそんな風に挨拶をしていた。

「後ろに特別装備があるから着けて」

 歩が指し示していた後部座席にあったのは、防弾ベストだった。

 二着――歩はもう着用しているだろうから、柊と梨菜の分だろう。

「襲撃されたでしょ? あの後月岡議員との交渉で追加予算が取れたんだよね」

 歩は明るく顛末を話していた。

 交渉したとは言え、決して安くはない警護にかかる費用に更に追加――それも身を護るものを認めたのは、ある意味梨菜がそれなりに大事にされている証拠でもあると思うのだけど、梨菜の表情は複雑なものだった。それでも、いつもの辛そうな目ではなかった。

「とりあえず着ましょうか」

 柊は一着分のベストを梨菜に渡す。

「どうやって……着れば良いんですか?」

 梨菜が尋ねてくる。考えてみれば普通の人はこのような装備にお世話になることはないので当然の疑問だと思った。

「このタイプだと普通はジャケットの下です。こうやって――」

 柊はベストに付いている胴体部分の面ファスナーを剥がしてベストを前後に開くと、前と後ろで身体を挟むように着るのだと説明する。

「ちょっとした鎧ですね……少し重いです」

 梨菜が腕を通しながら、呟いていた。柊は苦笑いで面ファスナーを閉じる。

「あ、宮坂には最新のアンダーアーマー式のもあるからね?」

「わかりました。それは後で着ます」

 梨菜に防弾ベストを着せた後で、柊は自分の分を着込んでいた。

「――って。何か仲良くなったね?」

 歩がバックミラー越しに二人の様子を見ていて、そんなことを言い出した。

 マズい――いや、マズくはないかもしれないけれど――やっぱりマズい。

「え――そんなことは」

 柊は慌てて何かを打ち消そうとしたが、これでは余計に怪しまれるのではないだろうか。

「ん? 喧嘩してる気まずい状態よりは大歓迎ってことだけど?」

 歩がたたみ掛ける。これは気付いててわざと言っているのか、どちらだろう――

「そうなんです。この前は私も大人げなくて、つい言い返してしまいましたけど、考えてみたら宮坂さんの言っていることのほうが正しいと思って、昨夜謝ったんです」

 勿論お互いにですけど――梨菜はそう続けていた。大人は、こういうところの会話も上手い――柊は心の中で感心する。

「それは――後輩がお役に立てたようでなによりです」

 歩が爽やかに笑っている。褒められたのか何なのかわからない、柊には謎の残るやり取りだ。

 だけど、とりあえずバレていないみたいで助かったのかもしれない。

 昨夜の出来事に後悔はないけれど、プロとしては色々と問題があることなので――バレなくて良かったのだろう。

 梨菜と歩はそれからも楽しげに世間話をしていた。

 これが、処世術――なのだろうか。大人には未知の世界が多いと柊は思っていた。


(24)

「で、この前の襲撃に使われた銃は、違法な粗悪品ってことみたい」

 柊たちは梨菜を会社内に無事送り届けてから、駐車場で申し送りがてら話し込んでいた。

 そこで歩が、この前の銃の出所と、現在の操作状況を教えてくれる。

「だから外れた?」

 あの時の銃弾は標的の梨菜を大きく外れて、柊たちの背後にあった車に当たっている。

 そもそも銃なんてものは、それなりの訓練なしに簡単に標的には当てられないものなのでもある。

「かもしれない。外した、外れた、どちらでも油断が出来ない。困ったことにね」

 歩が腕を組んで首を傾げていた。

 粗悪な銃と熟練の腕で外した――もしくは未熟な腕で外れた――どちらにしても、問題はそんなものを持った危険な人間が梨菜を狙っているということだ。

 そこからどう守るか――そして、どうやってその危険を徹底的に摘み取るかだった。

「あと一つ。投票日まであと五日。敵が大きく動くならこの数日だと思うけど、残念ながら緊急で別の案件が入ったから増員は見込めない。装備の増強はそのためもある」

 緊急の案件――今までの経験だと政府、もしくはそれに準ずる機関からの、公に出来ない類いの依頼だ。それほど詳しくは聞いていないが、孝嗣はそういった依頼も扱っている。

 しかし――ということは情報部を含めて、会社の人員はほぼ全てそちらに流れるだろう。

 これで柊たちの先行きは、限りなく険しいものになったことが確定していた。

「……わかりました。とりあえず今日は帰るね」

 だけど、どんなに危うくなったとしても、覚悟なら最初から決めている。

 柊は少々のことでは動じないようになっていた。そうやって生きてきたのだ。

「うん。あ、追加。キスマーク付いてるよ」

 歩が表情を一切変えずに、柊に言い切って笑う。

「――え!?」

 柊は反射的に心当たりのある首の辺りを押さえていた。

「引っかかったね」

 歩は腹が立つくらいの爽やかな笑顔で柊を見ている。

「こ、この――意地悪……」

 やはり、歩はとっくに気付いていたのに言わなかっただけだった。

「何が意地悪なのかなあ?」

 そう言いながら、歩は今まさに意地悪な微笑みを浮かべている。

「……ごめんなさい。プロ失格です」

 要警護者に好意を抱くまでならともかく、関係まで持ってしまうなんて、一番駄目な――

「別に良いんじゃない?」

 歩は軽い調子でそう返して、柊を見ている。

「――そういうものなの?」

 多分、歩の基準では大丈夫なのだとは思うのだけれど、どうしても訊かずにはいられない。

「んー手を出したなら問題だけど、同意の上で手を出されたっぽいし」

 歩の抉るような鋭い指摘に、柊は何も返すことが出来なかった。


(25)

 あれから、犯人側の大きな動きがないまま、投票日は明後日に迫っている。

 怪しい人物も数名リストアップされてはいたが、どれも決め手に欠けている状態で、今の警備体制では此方から打って出ることも難しくて――柊たちの会社が危険を徹底的に排除する方針とは言っても、人手がなければ何も出来ない。

 本当なら全てをクリアにして、梨菜には安心してこれからを生きて欲しいのに――柊は改めて歯がゆさを感じていた。


 朝――いつものように、梨菜が家を出る時間、歩からの連絡が来る。

『あと十分くらいで着くから――外の様子よろしく』

「了解」

 柊は通話をしながら、外の廊下に出る。

「引越しの業者さんかな。マンション前に軽トラが一台、作業員も――!」

 トラックの影から出てきた人の姿が確認できた瞬間、銃声によく似た乾いた破裂音が響いた。

 柊は人影が見えた瞬間から、条件反射で頭部を守りながら身を伏せる体勢に入ってはいたが、防弾ベストでもアンダーアーマーでも保護されていない柊の腹部に痛みが走った。

『柊!?』

 ヘッドセット越しでも音が聞こえたのだろう、歩が珍しく焦った声を出していえう。

 同時に、玄関のドアが開きかけた。柊はそれを押しとどめて梨菜に中に居るように伝える。

 ドアの内側から柊の名前を呼ぶ梨菜の声が聞こえたが、柊はそれを無視してドアの前に陣取っていた。

 上層階なので下からの攻撃には角度があるし、マンションの廊下には手すりもあるので、廊下に座り込めばほぼ隠れることが出来る。

「多分撃たれた。犯人はまだ撃ってきてる――上から狙える」

 上――柊の居る階へ向けて相手がもう一度発砲してきた。

 柊は梨菜に聞こえないように――これ以上の心配をさせたくなくて――小声で電話の向こうに居る歩に伝える。

『無理するな! 隠れて!』

 ヘッドセットの向こうで、激しいエンジン音と共に歩の命令が飛ぶ。

「隠れてる。梨菜さんは家の中」

『馬鹿! 柊が隠れろって言ってる!』

 銃弾がマンションの外壁に当たった音がする。多分、二発――

「隠れてるよ――でも、今しかない」

『止め――』

 柊はヘッドセットをはね飛ばして、歩との通話を強制的に終わらせた。

 遠目から見ても相手は狙いが定まっていない。明らかに銃を持て余している感じの扱い方だ。

 先程喰らった一発は、まぐれ当たりといったところか――笑えるくらい運がない。

 柊はホルスターから銃を取り出してセーフティを解除した。戦略的に、銃は下から上に撃つよりも、上から下を向いて撃つほうが有利だ。

 柊は冷静に銃を構え相手に照準を定めた。自分でも驚くほど冷静だった。

 相手の銃弾が近くの壁を(かす)めた。少しでもズレていたら危ないのは、柊だってわかっている。

 だけど、梨菜に対する危険を摘み取るには今しかない。ここで決着を付けてやる――

 まず銃を持っている相手の腕を狙って撃つ――右肩にヒット。

 これでもう攻撃は来なくなった。後は逃げられないように、相手の足を狙う。

 さっきの一発の反動が腹部に響いて痛みが更に強くなるが、もう一発分身体が持ってくれれば良い――柊は引き金を引く。

 相手が足を抱えてうずくまった。これでもう逃げられない。

 役目は果たした。あとは歩がいる――


「柊――!」

 下のほうから車のブレーキ音と歩の声が聞こえてきた。

「大丈夫……」

 とは言ったものの、歩には聞こえていないだろうし、かなりの痛みで意識が朦朧とする。

 痛みを感じる腹部に手をやると、ベタリとした(あか)い液体が手に(まと)わり付いた。

 足元にも少しだけ、紅い雫が落ちている。

 柊は、改めて、自分が撃たれていたのだと認識をすることになった。

 そう認識したら、途端に痛みが深くなった気がする――思わず腹部を抱えるように、廊下にうずくまっていた。

 背後から、ドアの開く音がする――梨菜の足音と、小さな悲鳴が聞こえる。

 梨菜が咄嗟に自分のコートを脱いで、うずくまっている柊の傷口をそれで押さえていた。

「駄目……止まって……」

 血が止まらないのか、言いながら梨菜が泣いている。

 梨菜の辛そうな顔なんて、もう見たくないのに――もしも神様が居るなら残酷だ。


 だけど、これが運命だったとしても、そんな運命なら――自分が変えてみせる。


(26)

『私は銃規制推進を掲げてきましたが、今回の件では抑止力としての重要性を実感し――現法案成立前まで遡らずとも、現行法での運用の下に――』

 テレビの中、月岡議員が会見を開いていた。

『――銃を持った犯人に狙われた以上、規制を推進するのが筋では?』

 記者の声が飛ぶ。

『娘を狙った銃は違法に入手されたものだと判明しています。そして、娘を守ったのは適法に管理されていたもの――問題は法を破った側にあると思っています』


「あれ程の立場の人が手の平を返すのは、かなりの勇気が必要です。それくらいは梨菜さんを大切に思ってるんじゃないですかね? 勿論、何処かに計算もあるでしょうけど」

 テレビを消して、歩は梨菜に優しく話しかけている。

「はい――いかにも父らしいやり方です」

 犯人は逮捕され、供述も取れたのだが、やはり月岡議員の支持者だった。

 それも、かなり熱狂的、狂信的と言っても良いくらいの発言をしている。その事実から来るであろう様々な批判を、主張を(ひるがえ)すことでかわす狙いもある――梨菜はそう話していた。

 あの後、梨菜は「理想の家族」という幻想から一定の距離を――それもかなり遠く取るということで、話を付けていた。

 家族と直接連絡は取らないし、何かあっても頼ることもないと、ある意味での決別だった。

 もっとも「現状では」ということなので、今後状況が変われば、臨機応変に対処するそうだ。


「やっぱり大人ってズルい……」

 病室のベッドの上で柊は呟く。

 柊はあの時、腹部を撃たれていたが、銃弾はウエストに近い下腹部をやや深く掠めた程度――幸いにも内臓に損傷はなく、結果としては二週間の入院ということになっていた。

 それも、もう残り二日ほどで退院だ。

 柊自身、この仕事に対しての覚悟もしていたし、それはもういい。まだ少し傷口が(うず)くけど。

 だけど、自分も先程のようなズルいかもしれないことを飲み込んで――時には反抗しながら、大人になっていくのだろうか。

「……何ですか?」

 梨菜が柊をまじまじと眺めていた。柊はその視線に気付いて尋ねる。

「私は、やっぱり未成年を好きになってしまったんですね?」

 確認をしているような梨菜の言葉に歩が盛大に吹き出していた。

「そんな言い方アリなの? って、未成年に先に手を出したのは梨菜さんなのに……」

「宮坂さんがしっかりして大人っぽいから、ついさっきまで忘れてました」

 柔らかな笑顔で梨菜が柊を見る。どうして今ここで、そんな笑顔を見せるのか――

「な、なんでそういうこと言うの……怒れないじゃない……」

 予想外の言葉と笑顔に、柊は照れてしまって何も言えない。

 歩はまだ笑いながら「ごゆっくり」と病室を出て行った。


 この状態で二人きりにされても困るのだけど――案の定、静かな時間が流れる。

「ごめんなさい――」

 沈黙を破って梨菜が口にしたのは、そんな言葉だった。

「梨菜さんが悪いワケじゃ……」

 そもそも、自分の主張のために梨菜を狙った犯人が悪いと柊は思う。

「じゃあ言い換えます。守ってくれて、ありがとう――怪我させて、ごめんなさい」

 梨菜はそう言って、ベッドの上に座っている柊の傷口辺りにそっと触れていた。

「これが仕事だから、覚悟はしてました。だから謝らなくて良いです」

 柊はその手を握りしめる。何度謝られたって、悪いのは絶対に梨菜じゃない。

 それだけは、この仕事をしていていつも思う大事なことなのだ。

「でも、私という標的が居たせいです」

「梨菜さんはまたそうやって全部自分で――」

 あれから、梨菜は勤めていた会社も辞めて、マンションも引き払い、今は柊たちの会社に一旦就職した形で寮に入っている。

 前の会社には元々コネのようなもので入ったと梨菜は言っているけれど、環境を大きく変えるのは相当な決断だったはずだ。

 それなのに、梨菜はまだ何かを引き受けようとしている。

「――だけど、私の運命を変えてくれて、ありがとう」

 梨菜が柊の手に、また自らの手を重ねた。

「……運命は梨菜さんが自力で変えたんじゃないの?」

 私にはそんな力はない――柊は素っ気なく続ける。

「きっかけをくれたのは宮坂さんですよ?」

 梨菜はそう言って、また柔らかく笑う。

「――ズルい」

「どうしてですか?」

「そんな風に笑われたら、何も言えなくなる……」

 いつも辛そうな目をしている梨菜を見るのは柊にも辛かったけど、こうして何かを吹っ切ったように柔らかく笑っている梨菜を見るのも、ある意味で柊には辛い。主に嬉しすぎて。

 梨菜を守り切ったという実感も何処かにあるので、余計にそう思う。

「それじゃあ、しばらく静かにしてて――」

 そう言うと、梨菜は身体を乗り出して、柊の唇にそっとキスをしてきた。

「ん……」

 一瞬で済むと思ったそれは、柊の予想外に深くて、思わず声がこぼれる。

「希望をくれて、ありがとう。続きは退院したら――ね?」

 唇を離して、梨菜が笑顔で柊の耳元に囁いた。


 やっぱり、大人はズルい――

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