『汝水のほとりに宿ったとき、ついに発狂した。』
今回のサブタイは中島敦の『山月記』から抜粋です。高校のころにこの作品を読んで、自尊心が高い人って苦労するよな、と思った、自尊心の高い人です。自尊心や、プライドはこの作品に言葉でないところに現れていると思います。それはきっと最後までまとわりついていきます。
3月21日
「サクラお姉様、ここで死んでくださいませ。」
彼女は、飛行男の背中に乗りながら見下すように言った。
中学生か、小学校高学年といったところだろうか。真っ青な目は少し吊り上がっていて、横で二つの団子にされた金髪の少女は地球で調達したであろう服を着ていた。白いパーカーにチェックのミニスカートといった服装だった。
その少女は視線を智の方に移した。
「あなたが契約者ですか。どんな能力か教えてくれませんか?」
「……」
周囲から少女は見えていないので、会話は成り立たない。智は無言を貫いた。代わりにサクラが口を開く。智にわかるよう、あえて名前も出す。
「パフェルキュア。どうしてそういうことを言うんですか?」
「お姉様が一番強いからに決まっていますでしょう。」
サクラはそのことが―最強とうたわれていることが―明かされ、すこし言葉に窮した。
――一番強い?あれでか?
一瞬だけサクラに目を向ける。智は自分の能力を反芻したが、桜を自由自在に操れるだけで最強とは思えなかった。
――だとするとこのパフェルキュアに手の内を明かすのは危険だな。しかも、池袋周辺は桜の群生しているところがわからないし……
パフェルキュアを熟視したまま考える。
人の波が引いてきた。徐々に飛行男とその目の前に立ち止まっている青年の構図があらわになってきた。周囲には踏み荒らされたスマホの破片や、逃げるときに落としたバッグなどが無数に散らかっている。それでもスマホを落とさずにいた人たちが写真や動画を撮ろうとする。あるいは警察に知らせたり……
「智さん、このままでは警察沙汰ですよ。一度距離を置いた方が……」
――いやもう遅いだろ……
と心の中で苦虫をつぶすが、打開案が一向に浮かばない。
「どいてくださーい!」
遠くから人垣を押しのける人たちが来る。警察だ。
飛行男はその場を飛び去り、駅中の商業施設に入っていった。
姿が見えなくなったところに二人の警察と四五人の駅員が駆け寄る。一人―正確にはサクラもいるが―立ちすくんでいる智に声をかける。
「大丈夫ですか。」
「僕はけがもしていないですし、何も取られていませんよ。」
「飛んでいた男はどこに行ったかわかりますか?」
人々はもう今のことは過ぎたという風に自分のスマホを探したり、乗り換えのホームに走ったりしていた。それを確認した智は百貨店の入り口を指さす、が、それはパフェルキュアが飛び去った方向とは違う方向だった。
「わかった。ありがとう。」
警官は部下を引き連れて百貨店の中に走っていった。
「駅員の皆さんはけが人を集めてください。数分で救急隊が到着します。我々は周囲の人から聴取をしていますので何かあったら声をかけてください。」
それぞれの人は仕事場に散っていった。
「どうします?」
「空を飛べるのか……」
「彼女はパフェルキュアです。王位継承順位36位。頭はいいんですが、高飛車で……一匹狼気取りかわかりませんが、学校でも友達はいないようなんです。でも、これほどとは……」
「そんなプロフィールはいらない。何かデメリットがあるはずだ。探す。」
二人は歩きながらも、対策を練った。
「この中にいると、私たちは戦えませんよね?」
「そうだな。そもそもここの辺は桜の木が少ない。あるとして……結構歩くところだと思う。」
ほどなく歩いていくと、地上に出られる階段がある。外に出て、二人は上を見渡す。
「…………いませんね……」
「あれだけ目立てば通行人も気づくか……」
周囲の人々を見渡すが、空を仰いでいる人はほとんどいない。
「……駅の中にいるのか。」
「え?そこまで言い切れます?」
サクラの言葉を待たず、智は今来た階段を下りて行った。
「でも、このままじゃ戦えないんじゃ……」
サクラは追いかけながら指摘する。
「…………」
無言を貫く智。もちろん周りの目を気にしてのことだ。
*
巨大な池袋駅の構内をくまなく探したが、結局、どこに行ったかはわからないままだった。
「そもそも行動が謎ですよね。飛びたいなら屋外の方がいいですし、何の前触れも、戦闘の意志もなく、発狂したみたいにパリドミアを使って……」
――それだ。あいつの目的がわからない。何をしようとしてあそこでパリドミアを使ったのか。それとも本当に発狂したのか……
『汝水のほとりに宿ったとき、ついに発狂した。』
中島敦、『山月記』の一節が脳裏をよぎった。
――あの男はさしずめ、息苦しい社会に発狂して鷹になった男だな。
その皮肉に口元がゆがんだのと同時に背後から悲鳴が聞こえた。智とサクラが振り返ると、再び低い天井すれすれを飛行する男が現れた。片手には通勤途中であろう女性を吊り下げている。
「智さん!これ以上は大ごとになってしまいます!」
「俺らをおびき出す罠だろう……」
先手を打たれた智は苦虫をつぶすような顔をしていた。
「でも、あの女性が!」
「わかっている!」
珍しく声を荒げる智。もはや周囲の目は気にしていないようだった。
「だったらどうすりゃいい!?あいつらの目標は間違いなくお前を殺すことだ!この前みたいなことをしてみろ!今度は人質どころじゃなくなるぞ!あの女、見つけ次第お前を殺すつもりだぞ!」
工間に首を絞められたことを引き合いに出し、サクラに警戒させる。
その声に飛行男は気づき、智の方を向く。智は自分が大声を出してしまったことに舌打ちし、飛行男をにらむ。
二人の目が合う。
「出口に向かう。」
飛行男とは逆方向に走り出す二人。飛行男は女性を突き落とし、ぐんぐんその距離を詰めていく。そしてその手が今にもサクラに届きそうになったところで、智はサクラを引っ張りながら倒れこむ。
かろうじてかすめるにとどまった飛行男はそのまま別の客と衝突し墜落する。
ちょうど道が横に伸びていたので今度はそちらに走り出す。
「地上に出て迎え撃つ。俺は出入り口にいるから桜の木を一本でもいいから探せ。」
「わかりました。」
二人は息を切らしながら出口に向かう。その後ろから再び飛行男が迫ってくる。階段を駆け上がり地上に出る。
「頼んだぞ。10分後、ここに集合。やつらがいたら改札前に。」
智は反転し、今出てきた出口に向き直る。
「はい!」
サクラは線路沿いから離れた方向に走っていった。
智は出口の看板をちらりと見る。
『北口a』
自分のある程度の居場所を記憶の中の構内地図と照らし合わせる。その思考の最中、飛行男が視界に飛び込んできた。智は運動に関しては可もなく不可もなくだったので、少し腰が引ける。
しかし、飛行男は出口が近づくと、飛ぶのをやめて階段を駆け上り、智を組み伏した。
「お前!……そうか!屋内じゃないと飛べないのか!」
思いっきり男を蹴り上げ、距離をとる智。両者ともに息が上がっている。
にらみ合いが続く。
周囲の人々の視線に先に気づいたのは智だった。
警戒心を解いて、頭の中を整理するために一呼吸置く。
――屋内じゃないと飛べないならここにいる分には安全か。パフェルキュアの目的はあいつの暗殺だとして、おそらく別の出口で待ち伏せをしているか。だとしたら詰めが甘いな。池袋駅のこちらに追い込んだとしても出口は10以上ある。そんな確率の低いことをするようなタマには見えなかったけど……いや、ここがホームだとしたら?一年間ここを利用していたら?この迷路を看破しているなら臨機応変に対応できるか……相手がバラバラでいるならこっちは固まった方がいいか。
智はとっさにサクラの行った方向とは逆方向に走り出した。
飛行男はそれを追いかけはせず、駅の中に再び引き返していった。
*
サクラは先ほど智と別れた地点から見えないところにある公園までやってきた。その公園は満開の桜で満たされていて、都会の喧騒は遠くから聞こえる程度だった。大通りからそれてビルの森に囲まれた空間にぽっかりとできた深緑の地帯。サクラの力を十分に発揮できるものだった。
――ここに来たら勝てる。
そう思って踵を返したサクラの目に……
パフェルキュアが入った。
彼女は道路を挟んだ向こう側にいた。もちろん、車通りが少ないので彼女は慎重に距離を詰めてきた。走ってきたからなのか、悪寒がしてなのか、首元に汗が流れる。
「やっぱり、植物が関係しているんですね、サクラお姉様のパリドミアは。こんなところでは木がたくさん生えているのは数えるぐらいしかありませんから。」
「どうして私を殺すんですか?」
「何度も言いますけど、あなたが最強と言われているからです。どんなパリドミアかはわかりませんが、それに勝てれば私が最強でしょう?」
「私が最強って、誰が言い出したんですか?そんなわけないのに……」
「大僧正様が、おっしゃっていたんですよね?」
サクラの口が止まる。口をぎゅっと結ぶ。
――そこまで知られているんですか。
「いくつか聞きたいことがあります。」
その『最強』を巡って、情報を集めようと思い、パフェルキュアに提案したが、
「話し合いをする気など、毛頭ございません。」
と一蹴されてしまった。パフェルキュアは腰につけていた剣に手をかけた。
――ここで攻撃を……
焦って反射的に上を見上げる。しかし、飛行男の姿はない。
――逃げるなら、今がチャンス。
と脱兎のごとく逃げ出した。
それを逃すまいとパフェルキュアはすぐさま追いかけた。
*
線路を跨ぐ大きな陸橋の上で智は一人佇んでいた。後ろは車が行きかい、下は電車がせわしなく走ってゆく。
――飛行男が追いかけてこないのは理解できる。飛行男はなんとかして地下に俺を引きずり込もうとするはずだ。あいつを餌に使うのか?だとしたら、パフェルキュアが今、あいつを探しているのか。でもパフェルキュアの目的は暗殺……あの二人の利害が一致しない。大体、飛行男の目的はなんだ……
『汝水のほとりに宿ったとき、ついに発狂した。』
――一つ交渉してみるか。
智はサクラとの待ち合わせ場所に向かって歩き出した。
*
「ただいまー。」
とあるマンションの一室。表札には『竹谷』と書かれている。
スーツ姿で帰宅した飛行男―[[rb:竹谷由紀 > たけやよしのり]]だ。
返事は返ってこない。
静かなリビングのテーブルには、出来合いのお惣菜がラップをかけて並べてある。
寝室の方を見ると、妻はすでに寝入っていた。電子レンジに惣菜を放り込む。無機質な音が響くのを死んだ魚の目で眺める。見るつもりもないのにテレビをつけ、中身をひたすら聞き流す。晩御飯を食べながら。
――何の変哲もない毎日。
*
翌朝、静かに身支度を整える竹谷。目には何も映っていない。
――家は家族との団らんのための”home”から、ただ寝泊まりするためだけの”hut”―「小屋」に成り下がり、
玄関のドアを開けると、今帰ってきたかのような足取りの隣の部屋に住む若い女性と廊下ですれ違う。もちろん挨拶はしない。名前すら知らない。
――近隣とのつながりという地縁的関係すら希薄になり、
朝の通勤電車に揺られる。押しつぶされそうな体を、肩をすくめながらやり過ごす。吊革につかまる手に力は入っておらず、無機質な目で流れる景色をぼんやりとみていた。
――すべての人間がイワシの群れとなり、
駅の中を歩く。今日も、昨日と同じところを、同じ時間に、同じように……
――漠然たる不安は、時に人を狂気とさせる。
『池袋駅で、ついに発狂した。』
*
智は例の集合場所でサクラの到着を待っていた。両手は鷹匠の手袋の様にタオルがまかれている。スマホを確認するとすでに10分を超えている。
――俺にパリドミアが残っているから、まだ殺されたわけではなさそうだけど……
遠くから足音が聞こえる。ビルの合間の日陰になっている道をサクラが走ってきた。カーブになっているので、後ろからパフェルキュアが追ってきているかはわからない。
着くなり膝に手を置いて、肩で息をする。
「智さん!……はぁ…はぁ…はぁ……」
つばを飲み込んでからサクラは続けた。
「桜の木が生えている場所、……見つけました。」
「そこにはパフェルキュアがいるんだろ。」
「はい。」
まだ肩で息をしているが、できるだけ正対する。
「仮にいないとしても、そこには行けない。」
「……え?」
「あの男のパリドミアはたぶん天井があるところでしか使えない。」
「なるほど、だからあんなに不自然だったんですね……でも、じゃあ、どうしてパフェルキュアは天井のないところまで出てきたのでしょうか?」
「そこだ。あいつらの利害が一致していない。そこを利用して、あの男と交渉する。」
智は慎重に、しかし、覚悟を決めて、階段を下りて行った。
*
「ライト。」
野中沙月は契約者、ライトを呼んだ。
「どうした。」
数歩前を歩いていたライトは一度止まって振り返った。
時刻はまもなく10時。リーマとの集合時間が迫っている。彼ら―昨日集められた精鋭は分散し、池袋駅に向かっている。もちろん、人込みの中で互いの行動が見える範囲で。
「池袋駅で空を飛ぶ男が出たみたい。」
「サクラ姉さんではないけど……イミラの軍のやつか……少し急ぐ。みんなにも伝えて。」
沙月はすぐさまスマホで伝える。
*
場所は変わって、西武池袋線の改札前。リーマとその契約者、|八代兎《やしろうさぎ》は柱にもたれかかってライトの部隊の到着を待っていた。
「もう10分前だよ。」
小学校の低学年程度の少女、八代兎はリーマを見上げて尋ねた。
古くて汚い、いつから洗っていないのかすらわからないTシャツとズボン。髪の毛もぼさぼさ。足元はサンダルで、コンビニに行く程度の格好だ。
「そうですね……ただ、必ず来ますよ。」
そう言って人込みの中を眺める。
その横を、かの少女、パフェルキュアが通り過ぎた。
身の毛のよだつリーマ。
一方のパフェルキュアも気づいたようで、足を止める。しかし目を合わせようとはしていない。
「リーマお姉様もここにいるのですか。」
『も』と言う言葉に引っかかるリーマ。
「リーマちゃんが言ってたのってこの人?」
兎が口をはさむ。
「違うわ。でも、私の知り合いなの。」
そう言って、パフェルキュアを見る。
「遠視と透視のパリドミアをお持ちのはずですが、こんな年端も行かない女の子と契約して何の意味があるんですか?」
「そんなことはどうでもいいでしょう。それより、サクラお姉様を探しているんですね。」
話を変えて、パフェルキュアのやりたいことを指摘するリーマ。パフェルキュアは否定しない。
「一度取り逃がしてしまいましたが、次こそは殺しますよ。」
「やめなさい。」
先ほどまでの優しさは消え去り、その目には怒りの色が満ちている。こぶしに力を込めて、見えないことをいいことに怒鳴りちらす。しかしパフェルキュアは首を向けすらしない。
「あなたは私怨で動いています。確かにサクラお姉様はとても優秀で、非の打ちどころがない方です。あなたはそれにあこがれていたのでしょう?なぜ殺そうとするのですか。」
「その優秀さがうらやましいからですよ。このまま負けてはいられない。私の家の権威を高めるために必要なんですよ。」
「外戚政治ですか。……でも、あなたの母親は…」
「お母様を悪く言わないでください。すべては躾です。私はそう信じています。」
そう言うと、駅の奥に向かう階段を下りて行った。
兎が不思議そうに見上げている。リーマは一つ深呼吸をしてから兎の頭をなでた。
「ごめんなさい。私も取り乱しちゃったね。」
「なんで怒っていたの?」
純粋な子供の質問である。
「じゃあ、ライトお兄様を待っている間、昔話をしようかしら。」
*
惑星キャヴァラの学校を思い出す。
「サクラお姉様はね、私より二つ年上でとてもすごい方なのよ。勉強も一番。スポーツも一番。何をやってもなんでもできちゃう人なの。さっきの子はパフェルキュアって言ってね、あの子もサクラお姉様にあこがれていたのよ。でもね、何をやってもサクラお姉様みたいには器用にこなせない。私があの子の家にお邪魔していた時ちょっと、見ちゃったのよね。」
サクラの活躍を陰で見るパフェルキュア。一人家に帰ると母親に怒鳴られる。
もちろん、王族の一人なので、大きな宮殿である。その玄関口で母親の前に立たされるパフェルキュア。リーマは二階の部屋のドアを少し開けて覗いている。
『馬術の授業で落馬したと、先生から報告を受けました。そんなことではあの方には勝てませんよ。』
パフェルキュアは平手打ちをされる。
『あなたが一番だと認められなくては次期パリドマ王にはなれませんよ!こんなふがいない報告、もう聞きたくありません。次からはないように。』
『申し訳ありません……』
「パフェルキュアはサクラお姉様と天秤にかけられていたのよね。そのことで親からきつく怒られて、暴力も受けて、それでもあの子は頑張っていたのよ。」
「あたしのママはもっとひどいよ。」
兎は自分の方がすごいということをアピールしたがっていた。
「あ、ごめんね。あなたもそうだったわね。嫌なこと思い出させちゃった?」
すかさず、フォローを入れるリーマ。
「あたしもママにいじめられていたから。」
「大丈夫よ、もう、そんなこと気にしなくていいから。」
リーマは座り込んで、そっと兎を抱きしめた。
そこで思い出したようにリーマは顔をあげた。
「あれ?さっきのパフェルキュアの言い方だと……サクラお姉様はもうこの辺にいる!?」
*
智は慎重に、周りを警戒しながら駅の中を歩いていった。徐々に通勤客は減少し始め、人と人の間から遠くまでよく見通せるようになった。天井付近にも、歩行者の中にも、飛行男の姿は見えない。少し天井が高くなっていて、死角になっているところがある。
そこを見上げながら通過すると、竹谷―飛行男と目が合った。
「死ね!」
と言いながら智に体当たりする竹谷。
先ほどのタオルを巻いた腕で何とかガードするも、その勢いに押されて倒される。
「智さん!」
「待て!話がしたい!」
「黙れ!話なんかない!」
「俺から提案がある。お前の今の生活を変えるために!」
「だったらもう達成されている。俺はこの力に満足しているんだ。この力のおかげで俺はもう救われている!」
「違う!お前は間違っている!」
無理に起き上がり、竹谷を押しのける。
壁に打ち付けられた竹谷をすかさず封じる。
「お前と組ませてほしい!」
「離せ!」
サクラもびっくりしている。
「どういうことですか!?」
「お前、パリドミアのルールを知らないのか?二重に契約なんかできないんだぜ?あのお嬢ちゃんを切り捨てるのか?」
――二つのパリドミアを一人の人間が持つことは不可能……一人の人間が二人分の遺伝子を持てないのと同じ理屈。だから、別の人と契約するには、その前の契約を破棄しなきゃならない……
サクラは状況を整理しようとしたが、智の言葉に遮られた。
「違う。そういう意味じゃない。協力関係になろうってことだ。お互いのやり方には干渉しない。片方から応援を受けたら無条件で救助する。悪くない話だろう?」
竹谷は智をにらみながらも思案しているようだった。
やがて肩を落とし、
「いいだろう。」
と言った。
「でも、俺のとこの女はそのお嬢ちゃんを殺そうとしているんだぜ?」
竹谷のネクタイをつかみ、ぐっと自分の方に引き寄せた。
「だからお前だけに頼んでいる。なんだったらパフェルキュアと行動していたってかまわない。」
「なるほど、基本は守りの姿勢だな。」
「死にたくないだけだ。」
停戦協定が結ばれたところでようやく解放する。
「俺の名前は香乃智だ。」
「私はサクラです。智さんと契約しているパリドマ人です。」
「私は竹谷由紀だ。……なんであんな言い方をした。」
竹谷は智が最初に発した言葉に疑問を持っていたようだ。
智は一呼吸おいてから話し出す。
「近代の文化だ。何の変哲もない漠然とした日常は、人々を不安にさせる。」
スーツの男たちが歩き去っていく姿を眺める。
「このまま人生が終わっていいのかという恐怖にかられる。」
人とは目を合わせない電車内の空気を思い出す。
「ならいっそ、狂気と一緒に身を滅ぼそうと思う人々が出てくる。否定的決断主義ってやつだ。」
智は冷ややかな目で竹谷をにらんだ。
「それがお前の狂乱で、戦前のファシズムを生み出した世界らしい。」
「じゃあ、これといった目的はなかったのですか?」
「そういうことになるな。」
サクラの質問に智は答える。
「戦争なんかどうでもよかったけどな。」
しかし、そのムードに水を差す存在が現れた。
すっかり打ち解けた三人の姿を見つけたパフェルキュアが剣を抜いて迫ってきた。
「俺のパリドミアは、正確に言うと、天井が低いところで飛べるっていうのだ。」
しかし三人とも気づかない。
距離がかなり詰まったところでようやく竹谷が気づき、その狙いがサクラだと判断した。
「あぶな……」
竹谷の目の動きでようやく気付いた二人だった。
最早手遅れだと思われたその時だった。
パフェルキュアの剣をはじく、別の剣があった。
剣が宙を舞い、地面に落ちる。
サクラの命を救ったその男はリオンだった。イミラ軍にいた、軍人だ。白地の服に真っ赤な刺繍が張り巡らされた服をまとい、右に一つ、左に二つの剣を指して、その一本を抜いていた。
「あぶねー、間に合った~。」
「リオン君……」
二つの出来事にしりもちをついていたサクラが驚いたように見上げた。
「サクラ姉さんもいたんですか……こりゃ、大収穫だ。」
と言いながら、慣れた手つきでパフェルキュアを倒し、拘束する。
顔面が地面に当たり、鈍い音を立てる。
「おい、パフェルキュア、よくないだろ?サクラ姉さんを殺そうとしていたな?」
その騒動を、ようやく追いついたリーマと兎は遠くから見ていた。
「リオン……ってことは近くにイミラが……」
リーマが見渡す。しかし、それらしき男はいない。
兎が駆けだす。
「兎ちゃん!?」
――今行ったら、私のこともばれかねない……イミラに捕まることは避けたいし、もうライトお兄様と合流する時間に……
「リオンお兄様、離してください!」
「だめだ。お前を連行する。そこの三人も。よろしいですね?サクラ姉さん。」
リオンはパフェルキュアを組み伏せたまま、サクラを見上げる。
「イミラのところに行くんですね?」
智はその言葉に反応する。
――イミラ?こいつからイミラの方に通じているのか?
サクラも智に知らせることを意図してあえてこの質問をした。
「普通は『どこに連れて行くの?』とかですよね?」
にやけ気味に返事をしながらリオンは立ち上がる。話している間にパフェルキュアの両手を縛りあげていたようだ。
「ま、そうですよ。この間、ユタダイ兄さんから連絡が来ましてね。姉さんが動き始めたので、ライト兄さんより先に取っておかないと、と思いまして。」
――おおよその勢力はイミラ軍とライト軍か。どちらもこいつが必要……なんでこいつにこだわる?
いろいろ仮説を立てようとしたが、それを遮る少女が現れた。
兎である。
「なんだこの子……見えてるのか?」
疑問を口にしたのは竹谷であった。普通、パリドマ人はパリドミアの契約をした者にしか見えない。
兎は縛られて座り込んでいるパフェルキュアの肩を叩いた。
パフェルキュアは傷の跡が残る顔をぐらりと巡らせてさっきリーマと一緒にいた女の子だと気づいた。
「あなた……」
「まさか、ライト兄さん側の誰かが……」
リオンは殺気立って周りを見渡した。
兎は優しく、語りかけるようにパフェルキュアに話した。
「あたしも、お母さんにいじめられているんだよ。」
「私のこと、リーマお姉様に聞いたの?」
「うん。」
兎の服がはだけたところからあざや傷がところどころ見える。
リーマは観念したように近づいてきた。一度リオンをにらみつけてから。
「お母さんね、ごはんをくれないし、夜になったらどこか行っちゃって、いつも一人なの。」
その言葉で竹谷は逡巡する。
「虐待……いや、ネグレクトか。」
「たまに、お金くれて自分で買ってきなさいって言われる。」
「私は、そんなことされていないわ。ごはんはいつも作られていたし、服だってたくさん買ってもらったわ。」
パフェルキュアは兎の服を見て、悲しそうな顔をした。そして、手は縛られているからどうしようもなかったが、彼女の肩に寄り添い、頬を寄せてやった。
「かわいそう。あなた、苦しかったのね。辛かったでしょう?私も…………私も……」
それ以上は何もしゃべらなかった。
ただ、彼女の頬を一粒の涙が伝った。
その場は沈黙した。
――虐待か……
智は自分のことの様にも思えた。
「リーマ、あなた、どうしてここに?」
サクラがついに口を開いた。
「お久しぶりです。サクラお姉様。ご無事で何よりです。」
「もっとも、ここから先、無事かどうかは保証できないけどな。」
横やりを入れたのはリオンだった。
「リーマ姉さん、サクラ姉さん、あんたたちを野放しにするわけにはいかない。」