歴史の終焉
今回のサブタイトルは『歴史の終焉』(フランシス・フクヤマ著 渡部昇一訳 三笠書房)をそのまま使いました。この『役に立たない』シリーズの中でもこれをそのままタイトルにしてもよかったと思えるような本の一つでした。今でもたまに読み返しています。つらつらと中に書かれていますが、これから先、ずっとこの作品とついてくるテーマが含まれています。
3月15日
ドタドタドタドタ……
廊下を走ってくる足音が近づき、智は警戒心を高める。
――父さんか……
そう思うと、手に力が入る。
目にも力が入ったところで扉が勢いよく開く。
転がり込むように入ってきたのは、サクラだった。
一瞬、父ではなかったことに安堵したが、なぜ戻ってきたのかわからなかった。
「なに。」
サクラの顔は青ざめるという言葉がしっくりくる。彼女は肩で息をして、不安な様子で智に聞いた。
「この家は、幽霊が、出るんですか?」
すっかりきょとんとする智。そのあと、あることを思い出したように言った。
「……あぁ、母さんの部屋のことか?」
「はい、私、出ていくときは閉めたはずなんですけど、半開きになっていたので……」
「あれは、わからないんだ。」
智はその部屋に向かって歩きながら言った。
サクラも恐怖体験をした直後なので一人になりたくないし、しかし、あの部屋に近づくのも嫌なので智と一定の距離を置いて、後ろについていった。
「わからないんですか。」
「ああ、もう、一年くらい前から。」
ドアの蝶番や周りを見ながら、智は説明を続ける。
「何度閉めても開くから、めんどくさくなってそのままほったらかし。別に故障とか、立て付けが悪いっていうのが原因じゃないんだ。」
閉めようとしたところで、智は見た。
長身痩躯の男が立っているのを。
外のあかりのせいで、顔や服はよくわからなかったがかなりの大きさだ。
その男は何も言わずに、こちらを見ているようだったが、
「智さん?」
「いや、なんでもない。」
智が一旦振り向いてサクラに言ったあと、もう一度振り向くと、
その男は消えていた。
智は目の前の現象に息を飲み、目を丸くしたがサクラには知らせなかった。これ以上怖がられても困ると思ったのだ。
踵を返し、ドアは開けっ放しのまま、その場を離れた。
そのあとはサクラを怖がらせようとして、ボソッとつぶやいた。
「じいさんが死んだ直後からだから、じいさんのポルターガイストかもな。」
サクラはさらに青ざめた。
「ちょっ!そういうこと言うのホントにやめてくださいよ!」
それを軽くあしらいながら部屋に戻る智。
「はいはい、冗談だ。というか、怖い話はパリドマ人も怖いのか。」
「まあ、ないことはないですね。女性はだいたいそんなもんですよ。」
「いや、性別関係ないだろ。」
「そうでしょうか……精神的なところでしかパリドマ人って男女の差がわかりませんからね。」
「ん?身体的な特徴は同じだってこと?」
「いえ、性別に分かれて性徴はしますけど、」
その言葉と同時に智の目線が少し下がった。
小さくはないが大きくもない。ただヒトと同じように成長していることがわかる。
「基礎体力が変わらないっていうところですね。」
「なるほど。パリドミアがあるから体力的な違いを作る必要はなかったのか。」
智の恐ろしいほどの理解力にサクラは驚いていた。
智は部屋のドアの取っ手を持ち、話は終了したとでも言わんばかりに閉めようとした。
「じゃ、おやすみ……」
しかし、智はサクラの目を見て固まってしまった。
お化けにおびえ、目をウルウルさせて上目遣いで見てくる彼女の言わんとしていることがある程度わかった。
「一人じゃ……寝られません……」
予想通りの言葉に、しかし、返す言葉もなく見下ろすだけだった。
「……そうですか。俺は一人じゃないと寝られません。」
そう言って無理やり閉めようとしたが、サクラに抑えられる。
「お願いします!今日だけでもいいので!床でもいいので!ここで寝かせてください!お化け屋敷の中を歩けませんって!」
「……あのなぁ…………さすがにどんなことを言ってんのかわかってんだろ?」
冷たい目で見降ろす智。
「わかっていますけど……そこをどうにか……」
「いいだろ別に、だったらよそで寝て来いよ。今までもそうしてきたんだろ?」
押し負けないように踏ん張りながら言い返すサクラ。
「いやいや、心霊現象をこの目で見たんですよ。無理です。一人でいることが無理です。」
「寝たら変わんねえだろ。」
「じゃあ寝るまではどうすればいいんですか!」
ずっと上目遣いでお願いしてくるサクラについに智は折れた。
「……はぁ。わかったよ。お前の布団を下から持ってきてやる。それには俺が寝るから、お前は俺のベッドを使っておけ。」
そう言うと、サクラのことは気にせず一階に取りに行った。
一人でいるのも嫌だし、言いたいこともあるので慌ててサクラもついていった。
「そこまでするわけにはいきません。智さんがベッドを使って下さい。」
流石に音量に気を使って智は言い返した。
「うるさい。俺の部屋に入れてやるんだ。俺のルールに従えよ。」
妙な論理に立ち止まってきょとんとするサクラ。
「なんですかそれ。」
智の部屋の電気が消える。
サクラはベッドに潜って、その柔らかさに浸っていた。しかし、もちろん、智に対して申し訳ない気持ちもあった。
その気持ちのまま、じっと天井を見ていた。
智も眠れていなかった。サクラとは反対方向に体を倒し、壁を見続けていた。
「起きてますか?」
サクラは上を向いたまま尋ねる。
智も素直に返事をする。
「ああ。」
サクラはその返事を聞いて、智の方に寝がえりをうつ。
背中と後頭部だけが見える。
「お父様はどうして……その……暴力を?」
智は壁の方を向いたまま返事をする。
「……もともとそういう性格なんじゃないか?昔からだったし。母さんがいたときは母さんが擁護してくれていたし、じいさんが生きていたころは痕が残るけがはしていなかったんだけど……」
サクラは考え込むように再び上を見る。
「智さんを守ってくださる人が立て続けにいなくなってしまったんですよね……」
「まぁ、年齢的にそういうものはもういらないんだけどね。」
「……」
サクラは次の言葉が出てこない。
――私じゃ、智さんを支えることはできませんか?
言いたくても止まってしまう。
その気配を感じたのか、首だけうごかして、
「なんか言った?」
と、サクラの思考を察知したように聞く。
「ぅえ?……あっ、いや、何でもありません。」
「そうか。じゃ、お休み。」
「おやすみなさい……」
今度こそ智は完全に寝てしまった。
サクラはさっきの感情がぬぐい取れず、悶々としながら天井を見ていた。
たまに深呼吸をして心を落ち着かせる。
そうしているうちに自然と寝てしまった。
*
3月16日 朝
サクラは翌朝、すでに日が昇っている時間に起きた。
のっそりと起き上がると、すぐそこに誰かの後頭部が見つかる。
「……あ、おはよう、ございます。」
智だということを認識するのに時間がかかり、遅れてあいさつした。
智はベッドを背もたれに読書をしていた。
昨日とほとんど変わらない、紺色のYシャツに黒い長ズボンだ。
本から目を離さずに返事をする。
「昨日いろいろありすぎて疲れていたみたいだな。もう10時過ぎだ。」
その時刻を聞いて衝撃を受ける。
「えっ、本当ですか?……そんなに寝過ごしたのは、初めてです……」
「ま、飯にするか。」
智はおもむろに立ち上がる。
「お父様は大丈夫なんですか?」
「もう仕事に行ってる。それより、早くその服を着替えろ。また母さんのを使ってもいい。」
「え?あの部屋ですか……」
*
結局二人でその部屋に行く。
「ちょっ、着替えているところ見ないでくださいよ。」
「あ、そう。じゃあ、閉めるわ。」
と言って、ドアに手をかける。
「ああ!それは、いやです!」
「はいはい。後ろ向いとくから。さっさと着替えろ。」
智は後ろを向いた。
サクラはその姿を確認してから何を着ようか、クローゼットの中を探した。
智は後ろを向いたまま、質問する。
「なぁ、知っていたら教えてほしいんだけど、」
サクラはたくさん服を持ったまま、智の方を見る。
「そのパリドミアには透明人間になれる奴もいるのか?」
「ああ、いますね。ウェスタがそうでした。」
服を選びながら答える。
「ウェスタは私が向こうにいたときに私の護衛隊の隊長をしていたんです。」
「へ~。じゃあ、その人はは透明になってお前の着替えを覗いたのかもな。」
「なっ!ウェスタはそんなことしません。彼は自分に厳しく、他人に優しくをモットーにしていますし、父、要するに、王からの信頼も厚いんです。」
「そうですか。」
「……よし。はい。もういいですよ。」
サクラはブルーのスカートに白いブラウスを着て、智が振り向くのを待ち受けていた。しかし、智は見もせずに階段を降りていった。
「そうか。じゃ、遅いけど朝飯にするか。」
「え?見ないんですか?」
階段を降りながら智はつづけた。
「見られたくないんだろ?それに見る必要がない。」
その言葉にサクラの乙女心は傷ついた。階段の最上段で仁王立ちになってふくれっ面で智を睨む。
しかし智はそんなことに気づく様子もなく、リビングに歩いていった。
その後姿をにらみ続けていたが、気づかれないと分かると、気を落として、自分の服を見直す。
「……はぁ……」
*
『三瓶めくる容疑者は幸手市内にすむ25歳の男性、こちらが中学生時代の写真なのですが、当時の同級生によりますと……』
テレビニュースを見ながら、サクラと智は向かい合ってご飯を食べる。こんがり焼けたパンが一枚。何も塗られていないが、テーブルには、はちみつやジャム、マーガリンなどがおいてある。
サクラは、瓶に入ったはちみつを手に取ると、すごい量のはちみつをパンに垂らす。
それを見てぎょっとした智は思わず、
「うわ、ゲロ甘じゃん。」
「え?これぐらい普通ですよ。」
「そう?文化の違いか……」
テレビではあおり運転についてのニュースが流れている。
『先日、首都高で立ち往生していた人をはねて逃走した車について、新たな情報が入ってきました。』
テレビの画面はその事故を捉えた車載カメラの映像に切り替わる。
智はそれを見ながら、サクラに言った。
「パリドミアをもらうと、パリドマ人が見えるんだよな?」
「はい。」
「それって、テレビの中とか、ラジオの音でも同じことが言えるのか?」
「え?」
智はテレビを指さす。
サクラは促されるようにテレビに目を向け、その映像を見て目を見開いた。
ちょうど画面はドライブレコーダーの映像を流していて、走り去る白い軽自動車を捉えている。その屋根の上には……
一人の少年が乗っていた。
サクラはひとり呟いた。
「チート……」
智はその言葉を聞き逃さなかった。
「知り合いか。」
サクラは一度頷いてから話を続けた。
「あの子は王位継承権第40位のチートです。パリドミアはこの世に存在する塩を操ることができることです。」
「塩。」
「あとは基礎体力があるというか、運動神経がいいんですよ。」
「待て待て。じゃあ、地球ではどんな力になったと考えられるんだ。」
「そうですね……海水に入っている塩しか使えないとかですかね。」
「人間の体も塩分が含まれているぞ。それはどうなるんだ。」
「うーん。どうなるんでしょう。その辺は会ってみないと分からないですね。」
その解答に得られるものがなさ過ぎて少々不機嫌になる智。
「……ま、それもそうか。」
静まり返る食卓。パンを口に運ぶ時のサクッという音がよく聞こえる。智が先に食べ終わり、食器を片付けに行く。流しの流れる音が聞こえる。
サクラはそれを見ながら、疑問を口に出した。
「智さんは家事全般できるんですね。」
皿を洗いながら答える。
「昨日も言っただろ。母さんがいないし、父さんはできないからな。さすがに一年もやればなれる。お前みたいな王族はこんなことしなかったんだろうな。」
食べ終わったサクラが自分の食器を下げに来る。食器を拭くタオルを手に取り、智が洗い上げたものを拭きながら答える。
「そうですね。むこうで暮らしている間はそういう苦労の上に生活しているとは思ってもみませんでした。でも、この星にきてからこうやって仕事をする人がいるんだってことを知って、まぁ、私も自分が使ったものくらいは……そうしないと不自然ですし。」
智は一度手を止める。何かを考えているようだが、何を思っているかサクラにはわからなかった。
水の流れる音が空間に響き渡る。
数瞬ののち智は再び作業に戻ったが、やはり、智の胸中はわからなかった。
サクラは怪訝な顔をしたまま、智を見ていることしかできなかった。
*
「このあと、どうするんですか?」
「なんでお前がそれを聞くんだ。お前の方がやつらのステータスはわかっているんだろ?」
再び智の部屋に戻った二人はこの先のことについて話し合っていた。智は勉強に使う椅子に座り、サクラはベッドに腰かけていた。
「確かにそうですね……。」
何も浮かばずに沈黙してしまうサクラを見かねて、智が話を始める。
「あいつはどうなんだ。さっきのチートとかいう奴は。さっきのニュースを見た感じだと、東京の方、要はこっちの方に向かっている。」
「じゃあ、こっちに近づいているんですね……でも、別に私たちの居場所が割れているというわけではないので、戦いは避けられますよ。」
「ほとんどのパリドマ人がそういう考え方だから一年間も戦争しっぱなしなんじゃないのか?」
「そんなことはありませんよ。地球の規模に対して参戦しているパリドマ人の人口が少ないからそもそも出会いにくいんですよ。もっとも、一年間もあるからどうなっているかはわかりませんけど。」
「例えば、お前が言っていたみたいに軍を形成することはできるのか?」
「おそらくできているでしょう。私たちは連絡手段がありませんが、契約者のスマホで何とかなるでしょう。」
「お前が知っている中でリーダーになりそうなやつは誰だ。」
「一番信望があるのはライト君だと思います。王位継承順位3位。容姿端麗、博学英才、運動神経抜群、おまけに性格もいい。絵にかいたような王子ですよ。おそらく剣術で彼の右に出るものはいないでしょう。パリドミアもあまり不自由しないと思います。」
「そいつが王様でいいじゃないか。」
「もう一人、王候補がいるんですよ。王位継承順位7位のイミラです。かれはいわゆる暴君でして、この間の戦争でも……」
そこで言葉に詰まるサクラだったが、智がその先を推察して話し出してしまった。
「暴虐ぶりを発揮していたと。」
智の言葉に便乗するように、サクラは話を続けた。
「そうです。戦果の悪い者は殺して、簒奪して、あの手この手で勝とうとしますから。ただ、彼の軍事力と戦略については認めざるを得ません。軍隊としては一流です。」
「なるほど。今思いついたんだけど、お前が保身のためだけにここにいるのならどっちかの保護下に入ればいいんじゃないか。さっきのチートはどっちだ?」
「え?えっと……おそらくイミラのほうだと思います……。」
「よし。じゃあ、まず、そいつに接触しよう。」
彼は昨日と同じショルダーバッグを肩にかけると玄関の方に歩いていった。
サクラは余りのテンポに戸惑いつつも智についていった。
「待ってください。それは戦いに身を投じるということになりませんか?」
「そうかもしれないけど、ユタダイによればお前は信頼されているんだろ?お前がそういう奴なら最前線で戦うよりも、交渉の切り札として使われる可能性の方が高いだろう。」
あっという間に靴を履き終わってしまった智は、まだ棒立ちのままのサクラを見て言った。
「お前、もう周りに見えてもいいだろ。」
「え?さすがにそういうわけには……」
「じゃあ、飯食うときとか、屋内だけでもいい。一人でいる方が不自然な場合もある。」
サクラは逡巡したようだが、やがて頷いた。
「わかりました。最小限ではありますけど、そうします。」
*
改札口を通る直前、サクラは不可視化した。
昨日の朝と同じ電車に揺られている。すでに通勤ラッシュなんて過ぎてしまって点々バラバラにしか人がいない時間帯である。
春の日差しが若干強く差し込み、車内を明るくしている。
好天に恵まれているはずなのに、サクラの顔はあまり浮いた表情ではなかった。そこに一抹の不安を抱えたのか、智も流し目でサクラを見ているが、これが最良の策だと信じてやまなかった。
所沢駅で乗り換える。都会の方にいる可能性が高いと考え、池袋行きの電車を待つため、向かいのホームで電車を待つ。
その間、智は一言も話さなかった。
*
池袋で降りる。智は一人でさっさと歩いていってしまうので、サクラはその背中を追いかけるだけになってしまう。
「現状どうなっているかわかりませんけどこの星も大きいですから、そう簡単には見つからないと思いますよ?」
「軍隊を形成しているならその本拠地もあるはずだろ。そこを探す。」
人がいないというわけではないのであまり大きな声ではないが、智は自分の行動を説明する。
「そう簡単に見つかりますかね……」
「人でなくても奇妙な動きをしていたら怪しいだろ。桜が変な軌道で動いてたりな。」
池袋周辺をぶらつく。地下の連絡通路を使い、北口、西口の方に向かう。
*
数日の間、智とサクラは同じような方法で東京や関東近郊、ベッドタウンなどを回ったが、これといった成果はなかった。
その間、二人はお互いの国、星の文化について議論をした。
そしてサクラは日本の文化に触れた。
高層ビルや各種タワーは彼女の星にはないようで、彼女は足をすくませていた。また、寿司やてんぷらなど様々な食文化にも触れた。しかし、基本的に糖分を欲しがるようで、甘いもの、それがなければ甘い飲み物を口にしていた。ファッションもその一つである。いつまでも母親の服を見ているのでは少々気が引けるところもあり、いくつかの服を買わせた。彼女は年ごろの女性ということもあり、服選びにはかなりの時間を割いた。もちろん智が同席するはずはない。
しかし何よりも彼女の興味を引いたのは、この社会であった。圧倒的な自由と、ある程度の平等。資本主義の考え方や民主主義という政治体制。そしてそれらの変遷についても様々聞いてきた。絶対王政、市民革命、資本主義、社会主義、ファシズム、そして共産主義の崩壊。どれもこれもに青天の霹靂といったリアクションばかりとる。
「じゃあ、すべての政治体制の淘汰の先にリベラルデモクラシーがあるんですか。」
「まあな。人によってはこの政治体制以上に強固な理論はないって言い切る研究者もいる。」
「でも、まだ改善の余地はあるかもしれません。」
向こうの国の言葉で大量のメモを残していた。
*
日が傾き始め、駅に向かう人足が多くなってきた。
二人は池袋の駅に戻っていたのだが、手掛かりになりそうなものはなかった。
「明日は通勤ラッシュを見てみるか。」
と、智が提案するとサクラも頷きながら答えた。
「人が多い方がいいですしね。」
ところがその引き返していく二人に通りすがった女の子―リーマが遠くから気づいた。
「あれ……ひょっとして……」
彼女は驚いたようにその方向を見つめていたが、人垣に覆われて接触することはかなわなかった。
「お姉様が契約している……」
*
スマホを耳にしているのはライトである。興奮を抑えられないという様子で話している。
そこは大きな家のようで天井が吹き抜けになっている。その声に周りにいる人たちも注目しているようで、電話の方に目を向けている。
地球人や、パリドマ人が入り混じっているこの空間は、智とサクラの推測のようにライトのアジトと言うべきところである。
「本当か!サクラお姉様がついに動き出したか!」
『はい。池袋にいるのを見ました。』
「池袋ってどこだ!?」
「東京だよ。ここから新幹線で一本。というか、飛行機が降りたところの近くだよ。」
ライトの契約者と見える一人の女の子が横から口をはさんだ。
彼女は真っ黒の髪をくるくるとまとめており、運動しやすそうな格好をしている。特に肌の露出が多く、ノースリーブに短パンといった、子供のような恰好をしている。しかし、風貌は割と大人びているようにうかがえる。
「ああ、あそこか!おい、リーマ。サクラお姉様はほかのだれかと組んでいるのか?」
『そこまではわかりません。』
「そうか……まあ、いい。ひとまず、俺たちもそっちに向かう。リーマはできるだけサクラお姉様の居場所を割り出し続けてくれ。明日の10時、その、池袋に。」
『わかりました。』
ライトは電話を切って周りに向き直り、これからの方針を伝えた。
「最重要事項だ。前から話に出ていたサクラお姉様が動き始めた。できるだけ慎重に、確実に彼女を味方に引き込むようこれから忙しくなると思ってくれ。……サナギはいるか?」
「はい。」
吹き抜けになっているため二階から顔を出し返事をするサナギ。
「俺とお前を含む部隊を組む。人数は10人程度。今日のうちに出発する。人員の選定を頼む。」
「わかりました。」
「今からだと何が一番速い?」
「新幹線だ。まだ最後のやつに乗れるはずだ。」
一人の地球人と思しき壮年の男が言った。
「間に合うのか。」
「金沢駅を9時に出るやつだ。急げば間に合う。」
「わかった。すぐに向かおう。」
こうして、智の知らないところで着々とパリドマの王位継承戦争に向けた下準備が整い始めていた。
*
3月21日
二人は再び池袋の駅に降り立った。
せわしなく急ぎ足で行きかう人々。
智は一人、ゆっくりとその歩みを進めていく。肩がぶつかりながら、智をかわして歩いていく。誰かに嫌がられはしない。すべての人間が自分のことで手一杯なのだ。一人の男のかまっている場合ではない。
地下になっているため、煌々と電気の光が降り注ぐ。智はふと、足を止めた。
サクラもその動きに合わせる。何をしているのかわからないという顔で智の方を向く。智は今出てきた改札の方に首を回す。
その目にはやはり、社会への軽蔑の光があった。
「どうしたんですか?」
「なんでもない。」
智はサクラの言葉を食い気味で切った。そしてゆっくりと視線を前に戻すと、妙に目を引くサラリーマンがいた。
智はその男をいぶかしんで目を細めた。
その男は普通のスーツを着崩した状態で、左右に体を振りながら、一歩一歩ゆっくりと歩いていた。その男の気配に智は違和感を覚えていたのだ。
男は足を止める。
「どうしたんですか?智さん……」
智に聞いたが、一向に応えない。サクラは智の視線と同じ方に目を向けた。そして、同じようにその男にくぎ付けになった。
「パリドミアを持つ人に近づくと、その気配を感じるらしいですよ。」
「それをもっと早く言え。」
しれっと重要な情報を言ったサクラだったが、二人の目はその男にくぎ付けだった。
その男は鞄を地面に落とし、手ぶらの状態になった。
周りの人間もさすがに避けるので智の位置からも何をやっているのかがよく分かった。
次の瞬間、天井すれすれに急上昇し、飛行し始めた。
周囲の通勤客が驚きや歓声でざわめきだす。そして、その中の多くがスマホを掲げて彼の姿を撮ろうとする。
その男は、撮影を試みる人々のスマホを次々と奪い、地面にたたきつけていった。
笑いは一瞬にして悲鳴になった。
人々は自分に害を与えるのではないかと恐怖にかられ、三々五々、逃げていった。
悲鳴や怒号、動揺が通勤ラッシュの池袋を襲う。
その波にのまれ、押しのけながら、智はその男に接触を試みた。
しかし、悲鳴をあげながら逃げ行く人々に阻まれ、なかなか届かない。
「何をするんですか!?」
その人波に負けないよう、足を踏ん張りながら、大きな声で智に知らせるサクラ。
智はためらいもせずに、別の行動に移った。
「パリドマ!」
「はい!?」
「パリドミアだな!」
その二つの叫びはついに、飛行男の耳に届いたようだった。
智はパリドマ関係の言葉を知っていることを利用して意識をこっちに向けさせたのだ。
「誰だ!?」
飛行男は徐々に近づいてくる。
「契約者は誰だ。」
「わかりません。空を飛べるくらいならたくさんいますよ。」
サクラはキレ気味で答える。やはり緊張感が走っているようだ。
飛行男が一瞬だけ下降して見えなくなった。そして女の子を背中に乗っけて急上昇した。
さきにその少女を確認したサクラは目を細めた。彼女の知人であることは確かだが、嫌な記憶があるのかもしれない。
彼女はあたりを見回し、やがて、サクラと目が合った。
ゆっくりとこちらに飛んでくる。
そして、開口一番、
「サクラお姉様、ここで死んでくださいませ。」
と、突っかかってきた。
長い一日がこうして幕を開けた。