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役に立たない  作者: 字識憂患
1/65

桜の木の下に

――世界には必要とされる人間と必要とされない人間がいる。

 通勤ラッシュの人混みの中。

――必要とされる人間は燦燦と輝く太陽のもとを闊歩できる。

 人々の往来が激しい池袋駅構内。

――必要とされる人間にも紆余曲折があるだろうが、粗方、満たされた人生を終えるのだろう。

 低い天井の地下改札を出たところ。

――ほとんどの人間は必要とされているのだ。

 早足で、時には小走りで過ぎていく雑踏の中で。

――じゃあ、

 背中を向けて一方方向に進むイワシの群れの中で。

――ほんの一握りの、

 一人振り返る彼の目は――




――必要とされない人間は、




――どうすればいいのだろうか。



 哀愁と絶望の色で淀んでいた。

 そして、雑

に呑まれていった。






役に立たない








2020年3月15日




 トッ、トッ、トッ、トッ

 香乃智

かのさとし

香乃智は慎重に、ゆっくりと、階段を下りて行った。リビングに父親がいるのではないかと警戒して。

 廊下とリビングを仕切るガラス戸の前で一度立ち止まる。震える手で、そっと、引き戸に手をかけて、ゆっくりと開ける。ガラガラガラといやに大きな音が響く。

 テレビはついていない。朝食の皿とかもない。新聞は消えている。よかった、すでに出勤したみたいだ。と思った時。

 ゴーッ!

 トイレの流れる音がした。肩がビクンッとなり、目を見開く。その方を見やると片手に新聞を持った父親、香乃博隆

ひろたか

はそこにいた。

 眼鏡の奥の眼球はくぼんでいて、この世のすべてを恨んでいるようなおどろおどろしい目をしていた。背はひょろりと高く、しかし、不健康な痩せ方ではないように見える。スーツ姿というところから、出勤前だったのだろう。智の考察は甘かった。

「なんだ、智。起きていたのか。」

 それだけを言って、智の方に歩いてくる。智はその圧に押され一歩怯み、うつむいてしまった。

 そこを押しのけるように父親はリビングに入っていき、ちょうど死角になっていたソファからビジネスバッグをとると、また智の前を素通りしていった。

 ガチャッ、バタン!

 無機質な玄関の開閉音が響き、再び香乃家は静寂に包まれた。


*


「ライト様!」

 一人の兵士が飛び込んでくる。

「どうした。」

 ライトと呼ばれた男はすぐさま反応し、戦況を図る地図から顔をあげる。

 それと同時に彼の金髪は揺れ、緑色の瞳があらわになる。その顔はハンサム、イケメン、あらゆる美の要素を兼ね備えている。背もそこそこに高く、気品もあふれ出している。立派な鎧を身にまとったライトは少々怒り気味に返事をした。

 「右翼の部隊が崩れます!」

 「やはり山側だったか。山を利用して奇襲をかけるつもりだな。」

 そう言いながら地図を見る。等高線では確かに右側は急峻な山になっており、奇襲にはもってこいの地形になっている。

 「後方の部隊を回せ!あと、前方はサナギの部隊に任せてそちらからも護衛に回せ!」

 その指示を聞き、二人の兵士がその情報を知らせるために飛び出していく。

 一人の側近が声を荒げる。

 「イミラの場所はまだわからないのか!」

 「偵察部隊から情報はまだ来ていません!」

 怒りのあまり、机にこぶしをふるう。

 ドゴォ!

 陣営は静まり返り、その指揮官を見る。

 「リーマ!お前の方はどうだ!?」

 怒り紛れに陣内にいる女性に声を発する。

 「まだ何もわかりません。」

 リーマは真っ白できれいな髪が肩のあたりで切りそろえられていて、それとは対をなすような真っ黒な瞳をしている。女性にしては背は高い方に見える。真っ黒いロングコートに身を包み、右の腹あたりにはたくさんの勲章がつけられている。ライトの声に垂れ目をさらにへの字にして答えた。

「右翼の方を透視してくれ。」

「わかりました。」

 リーマは右翼側に立ち、一度目を閉じる。

 大きく息を吸って、吐く。その間、周囲は嫌に静まり返った。

 やがて、その呼吸音すら聞こえなくなり、リーマはカッと目を開いた。

 その目は、いかにも透視をしているような目で今までの黒い瞳とは打って変わり、白く、同心円状に放射線が放たれているようだった。

 その視界は、陣の壁を透けて、地を走り、兵たちを抜け、そのさきの最前線まで届いた。そこで見たものは馬にまたがり躍動する少年であった。

「敵の先陣は……チートです。」


*


 その日、3月15日は母方の祖父の命日だった。智はYシャツを着て、外出できる服に着替え、自宅を後にする。

 バスに乗り込み、ほかの乗客の喧騒をかき消すため、イヤフォンで耳をふさぐ。そこから流れてくるのは音楽ではなく、ニュースであった。それ以降は興味を失ったように窓の外を見やる。

『昨日、観測史上最速の速さで桜の満開が東京でも発表されましたが、その満開を早めた暖気が今日も上空に居座りますので、ぽかぽか陽気になりそうです。』

 女性アナウンサーの気象予報が終わる。

『続いてのニュースです。先月、幸手市内で起きた無差別殺傷事件について現在も逃走中の三瓶めくる容疑者の素顔が見えてきました。』

 沈んだ気持ちのまま聞き流す。歩道橋も、パン屋も、コインランドリーもすべてが流れていく。




 その歩道橋からバスを見下ろす人の存在に気づくことはなかった。




『埼玉県警によりますと、三瓶容疑者は高校時代から自宅に引きこもることが多くなり、両親は警察や児童相談所にたびたび問い合わせをしていたようです。なくならない無差別殺傷事件、どのような対策が求められるのでしょうか。専門家は取材で……』

 智は聞き流すこともできなくなり、ため息をつきながらイヤフォンをはずした。

 左手に持ちくるくるまとめ上げる。そのままスマホのあるポケットに突っ込む。

『お待たせいたしました。次は終点、狭山市駅東口、狭山市駅東口です。お忘れ物のないよう、ご注意ください。』

 改札を通り、ホームに降りる。あたりには制服の高校生、スーツをきた会社員、市内の有名私立小学校の制服を着た子供たちが各々のことをして立っている。

 智とは違い、一生懸命スマホで友達とやり取りをする人。

 智とは違い、友達とおしゃべりをする人。

 智とは違い、楽しそうに会話をする老親子。

 智は何も考えないまま電車を待った。




 向かいのホームに自分を見つめる人がいるとはつゆも知らないで。


*


 馬に乗ったまま、山の上から遠くにあるライトの陣営を見つめる男がいる。

 いや、正確には馬ではない。様々な色や模様が馬の雰囲気を生み出しているが、蹄ではなく、ライオンなどの肉食獣が持つ鉤爪で地面を蹴っている。しっぽらしきものは見当たらず、たてがみもない。顔はヌーの様に平べったく、頭の後ろに数個、キリンでいうところのコブのようなものがある。この動物の名はカズマという。

 そしてそのカズマに乗っている巨漢の男はイミラという名だ。

 縦にも横にもでかく、ずっしりした体格のイミラは、いかにもパワータイプというような見た目をしていた。黒々とした髪は短く清潔感を漂わせるが、立派な顎ひげを蓄えている。その漆黒の目は常にぎらつき、鋭い。背中には大太刀を背負っていて、その重さたるや、イミラにしか持てないとの噂である。

「さすがに手ごわいな。もう防衛ラインが作られている。ノケデ。どう見る?」

「見たところによりますと、前方の部隊の一部と後衛の部隊を回したようです。」

 一人の青年、ノケデが口を開く。

 その青年は高校生ほどの年齢とみえる男で、真っ青な髪に髪留めをつけるほどの長さでもないのに、髪飾りがついている。黄色い目は常に冷ややかな目を周りに送っている。まじめと冷静さを兼ね備えたような人で、気品がそこかしこからあふれている。こちらもカズマに乗って周りを見ている。

「ではやつらの本陣は後ろが手薄か……」

「イミラ様。次のご指示を。」

 イミラがちらと後衛の方向を見ると川が流れている。大きな川だが、陣営側にはズラリと船が並んでいて、ライトたちの退却路であることがうかがえる。

 それをまじまじと見ていたイミラはひらめいたように口を開いた。

「今日はこの戦線の維持に徹底せよ。できる限り死者を出すな。」

 そして、軍のある方に向き直って作戦の指示を出した。

「今日夜、リオンの部隊は数人であの川にある船を沈めてこい。やつらの退路と補給路を断ったうえで、明日、総攻撃を仕掛ける!」

「はい!」

 再び、ライトの陣営を見つめて、

「王にふさわしいのは私だ。」

と言ったイミラの顔は決意の表情があった。


*


 所沢駅で飯能行きの電車に乗り換える。向かいのホームにくる急行に乗り急ぐ人たちに流されながらもエスカレーターに乗り、別のホームに向かう。

 飯能行きの電車が来るホームは線路を隔てて池袋行きのホームと対峙している。

 アリの数ほどの人間が自分の手元ばかりを見て、つまらなそうな顔をしている。

「……くだらない。」

 ボソッとつぶやいた言葉は、しかし、その人たちを乗せる急行電車到着の大音声で遮られた。

 対する飯能行きの電車は立つ必要があるほどには混んでいるが、定員オーバーの満員電車ほどではない。歩いて移動する分には十分すいている。もちろん、智が動くことはないが。

 電車が動き出すと、ドアにもたれかかり、また、失意の目で無機質な住宅街を見下す。




 彼の後をついてくるその人は距離を保ったままだった。




*


 部隊の最前線で戦っている男がいる。

「これじゃ、膠着状態か……!」

と言いながら、攻めかかってくる敵に手をかざす。

 右手を伸ばし、その手を支えるように左手は右肘あたりを抑えている。

 呼吸を止め、左目を閉じ、照準を合わせる。

「今だ!」

 ここぞというタイミングで手から炎がでてきて、襲い来る兵を焼き尽くす。

 とてつもない火力である。周辺にいた数十人の敵を巻き込み、燃え盛っている。

 その男はそのまま火の中に飛び込んでいった。

「サナギ様!」

 周囲の部下も大急ぎで火の中を突破していく。

「お前らビビったか?」

 火の海の先に立っていたサナギは全くの無傷であった。

 やや長い黒から赤にグラデーションする髪を後ろで一つにまとめて、服装は防御重視の鎧ではなく、明らかに軽装である。彼のハイテンションを物語るように、彼の目は柔らかく赤い。いつも背中に担いでいる如意棒のようなものや、そのあまり大きくない体格もあってか、西遊記に出てくる孫悟空のような雰囲気である。

「ご無事で何よりです。」

「サナギ様―!」

それを追ってくるように、先ほどライトの本陣を出て行った男が現れる。

「あぁ、君はライト兄さんのところの。」

「はい。先ほど右手の山より敵軍が攻めてきまして、わが軍の右翼に壊滅的な損失が出ております。そのことでライト様から防衛ラインに人員を割いてほしいとのことです。」

「わかった。手配しよう。」

 サナギは部下の一人に目をやる。その部下は目が合うなり、頷き、再び炎を通り、援軍に回った。

「ありがとうございます。」

と言って、伝令が立ち去ろうとすると、

「あぁ、待ってくれ。」

サナギは呼び止めた。

「何か?」

「イミラはどこだ?」

「まだわかりません。」

「その山にいる可能性は?」

「その可能性も含めて調査中です。」

「わかった。ライト兄さんには右翼寄りに陣形を組み替えると伝えておいてくれ。」

「わかりました。」

 二人は迅速にやり取りをして、それぞれの仕事に戻った。

 燃え盛る炎の中、サナギは虚空に叫んだ。




「イミラァ!!俺はここだぞぉ!!」




*


 飯能駅で乗り換え、もう二駅。高麗駅で電車を降り、そこからは徒歩で祖父の家を目指す。

 巾着田を横目に、横道に入る。家々の間を縫って智は一人歩いていく。

 平日の朝のはずなのにすっかり打って変わり、静かな世界が広がっている。

 そして、山のために小高くなっている広大な敷地にその家はあった。

 祖父の家だ。

 明治や大正を彷彿とさせる洋館が入り口の門から見て右手―山側にあり、反対側には広大な関東平野の一角を見渡せる庭が広がっている。

 洋館は二階建てで横は40mといったところだろうか。真っ白のペンキが塗りたくられている壁には、おそらくただのデザインであろう焦げ茶色の木が十文字に連なっており、その屋根の真ん中には煙突、そして重厚な両開きのドアが客人を待ち構えている。一方の庭は一面きれいに整った芝生で満たされており、太もも程度の高さの白い柵がその敷地範囲を物語っている。そして白いベンチ。だが、何よりも目に付くのは、一番奥に堂々とそびえたつ桜の巨木だろう。

 今年の暖冬によりすでに満開を迎えたその桜は、巾着田の地を睥睨するように立っている。

 智はその桜の木のふもとまでゆっくりと歩いてゆく。

 桜の木の下で立ち止り、見上げる。満開の桜は智とは対照的に太陽に向かって手を伸ばし、その光の恩恵をしっかり受け止めている。智は一人、足元に目をやる。

 『白風

しろかぜ

咲智

さくとも

之墓』

 そこには祖父の遺言通りに彼の墓石が建っている。


*


「おじいちゃん!これ何?」

 過去の記憶がよみがえる。

 洋館の中、祖父は昼下がりになると本を読むためにこの二階の一番奥の部屋にこもる。それを知っていた智は全速力でその部屋に駆け込む。

 目を細め、智が持っているものをじっくり見てから祖父、咲智は優しい声で教えた。

「そりゃあ、ナザール・ボンジュウだ。トルコにいったときに買ったんだよ。」

 ナザール・ボンジュウを持ちあげ、自分の目に当ててみたりする智。

「なんで青い目なの?」

 祖父はロッキングチェアからゆっくり立ち上がりながら答えた。

「トルコでははるか昔に、青い目は悪いものを吸収すると信じられていたんだ。目は世界に向かい合うための窓で、いいものも悪いものも全部、目を通じていたんだよ。そしてその中でも青い目は呪いをもたらすと考えられていてね……」

「呪い!?」

「そう。」

 言いながら青い目を受け取り、続けた。

「だがな、その反面、身に着けていると自分の代わりにその呪いを吸収してくれるんだ。」

「じゃあ、お守り?」

「ああ、お守りだ。……そうだ、智にあげよう。」

「ほんと!?」

 そこに、智の母親、香乃咲良

さくら

があきれたように入ってくる。

「もう、父さん。智にものをあげすぎ。今度は智の部屋がこの書斎みたいにガラクタで埋め尽くされちゃうじゃん。」

「違うよ、お母さん。これ、お守りだよ。えっと……」

 お守りの名前が出てこなくて視線が宙を漂う。それを察した祖父が助け舟を出す。

「ナザール・ボンジュウ。」

「ナザール・ボンジュウだよ。悪いものを吸収するから無敵になれるんだよ。」

 母はあきれ顔で、しかし、息子の笑顔を嬉しそうに見ながら、

「はいはい、わかったから。」

と言い、手を引こうとする。

「もうお父さんが荷物、車に積んじゃったから、智はここにおいてっちゃうよ?」

「いいもん。僕、ここでおじいちゃんと暮らすもん。」

「馬鹿なこと言ってないで。」

 そこに、そっと祖父は入り込み、智に視線を合わせるように膝をついた。

「それはいいかもしれないけど、智には学校があるだろう?学校のみんなにこのことを自慢したくないか?」

 その発想はなかったという顔で祖父の方を向き、大きくうなずく。

「じゃあ、このお守りはその証拠品だな。」

「もう、すぐ甘やかすんだからさ……」

 すると、荷造りをしていた父が声をあげる。

「おおーい、咲良!智!もう準備できてるぞー!」

 ふと、そこで幼少のころの記憶は途切れてしまった。


*


「じいちゃん。」

 それから何年かたった雪のある日。

 洋館は外観や内装こそは非常にクラシックな設えになっているが、床暖房や冷房、キッチン、風呂などは最先端を使用しているため、真冬の節減のような庭が窓から一望できるが、室内はいたって快適だった。

「ああ、智か。元気でやってるか?」

 祖父は相変わらず、二階の一番奥の部屋で本を読んでいた。しかし、その体はあまり自由が利かぬようでほとんど椅子から動くことはできないようだった。

 智は自分から歩み寄り、自分が持っている本を見せた。

「この本、持って行っていい?」

 智からそっと本を受け取り、できるだけ目に寄せて本の題名を読み取る。

「『レ・ミゼラブル』か……。ヴィクトル・ユーゴ―の名作だ。一人の男の新しい人生に付きまとう、過去の影。人を愛すること。人々の生きた証……」

 遠く、寒がっている、かの桜の木をじっと見つめながら語るその姿からはわかるのは、最早、智に勧めているというよりも、智そのものを見据えている祖父がいたということだ。

「読むといい。」

 いつもの優しい口調で祖父は本を智に返した。智が踵を返して退出しようとすると、独り言ともわからぬ祖父の声が聞こえた。

「武器を持て、市民よ。」

 智はそれがフランス国歌だと気づいた。しかし、俯いたまま聞き続ける。

「軍隊を組め。向かおう、向かおう。穢れた血が、私たちの田畑を潤すまで。」

 静寂がその空間を包んだ。祖父は遠い目をしながらこうつぶやいた。

「私はもうすぐ死ぬ。」

 智の顔に衝撃の色が浮かんだ。ばっと顔をあげて息をのむ。目は開ききっていて、ドアノブに触れている手はそのままだった。

「私の遺産だけでも十分この家を維持することはできる。」

 この言い方、経済的な観点からは家を守ることができるが、保護をする人間がいないのが問題だ、ということを含有しているように聞こえる。

 外の雪景色はそのままに、室内の時間は止まったように静寂だった。

 智は動けないままだった。だが、智はこの家が好きだった。この家は自分にとって宝石箱であり、冒険の舞台であった。その思いそのまま決意にして、力強くドアノブを握りしめた。

「智。」

 いつもより強い口調の祖父に、驚く様子もなく振り返り、目を向けた智。

 祖父と目が合う。




「今の歌が私からお前への形見だ。」




*


 二階に上がり、例の部屋のドアをあける。祖父の使っていたロッキングチェアはそのままの状態でおいてあり、窓から差し込む光を浴びて光っている。

 そっとその椅子に手をかけてみる。木製のその椅子はどこにもぶつけたことはないようで、祖父の几帳面で物を大切に扱う性格が如実に表されていた。

 窓の外に目を向けると、先ほどの桜の木が真正面に見える。満開の桜が庭の先に一つ。

 窓際に手をかけ、外を見る。窓を開け、静寂のうちに桜を眺める。何の意味もないのに。そうわかっているのに。こうやっていることしかできない。

 ため息を一つ。身を起こし、ふと顔を見上げると、春風が吹いた。

 智のほほをなぞり、机の上の本をめくりあげ、庭の草をかけ、山をざわめかせ、桜の花びらを舞い散らしていった。

 ぶわぁ!

 虚空に舞う花びら。智ははかなげにそれを眺めていた。




 あの桜の木の上にいる少女は陽気に鼻歌を歌っていた。


*


 ベニヤ板のような木の板で囲まれた陣の一番奥にイミラが座っている。右隣にはノケデが立って、一人の男に話しかけている。

 その男は真っ赤な髪と真っ赤な目が特徴的で、服装は引き締まった白に赤のラインや金の刺繍が施された軍服だった。ガタイがいいというほどがっちりした体格ではない。いわゆる細マッチョと言える体つきだ。きっとモテるのだろう。背は低すぎるとは言えない程度だ。左の腰に二本、右の腰に一本、剣をぶら下げている。

 先ほど話に出ていたリオンである。

「今夜、お前のリオン隊で舟の焼き討ちをすることになった。」

「わかりました。そのあとは?」

 その疑問に答えたのはイミラだった。

「明日、ライト兄さんはこちら側の陣を固めてくるはずだ。おそらく山をかこって逃げ道をなくすつもりだろ。それをカズマを使って強行突破する。」

 テーブルの上の地図を指さしながら説明する。

「この山の反対側から飛行部隊を囮にする。その間にライト兄さんの本陣まで一気に駆け下りる。そこから速攻で終わらせる。」

「わかりました。」

 リオンはそう言うと、胸に手を当てて一度目を閉じて―おそらく敬礼に近いのだろう―その場を後にした。


*


 掃除をするために動きやすい服装に着替える。とはいえど、この家は広い。キッチン、玄関、風呂、庭、リビング……。掃除をしていたらあっという間に昼を過ぎていた。

 どこかで昼飯を食べるついでに、巾着田に花を摘みに行こうと20分ほどの道のりをとぼとぼと歩く。花を摘むというのはここで掃除をするときの日課である。巾着田は桜、菜の花、秋には彼岸花が咲き乱れることで有名なので、あまりよろしくないことだが、花びらを頂戴して、家に飾っている。

 昼下がりということもあり、朝以上に交通量の少ない道をイヤフォンをしながら歩く。

『アメリカのアリゾナ州に隕石が落ちてから今日で三か月になります。多くの死傷者を出したこの災害に世界各地で追悼の式典が開かれています。隕石の成分や現在の状態などはアメリカ政府によって……』

 最寄りのコンビニでおにぎりを二つとお茶を買い、食べながら巾着田に向かって歩く。住宅街を抜けた先にある橋を渡る。その橋の奇妙な起伏に一旦腰を掛け、食べきった後の包装と財布を押し込んだレジ袋を横に置く。胡坐をかいて川上を見る。

 流石にこんな季節に川に入る人はいないし、釣りのスポットではないので、人影はない。

 巾着田はその名の通り、周りを高麗川に取り囲まれ、巾着のような形をしており、その川に沿って桜の並木が広がっている。

 やがて立ち上がり、巾着田の桜並木の方に歩いていった。本当に桜が道を作っているように連なって、智を道案内しているようだった。巾着田の中は広い空間になっていて、グラウンドや水路が設備されている。菜の花もあるかと思ったが、流石にまだ咲いていなかった。

 桜の枝をこっそり拝借する。

 その瞬間、

 ぶわぁ!

 再び春風が吹く。

 ざわざわざわ…………

 桜の木々がざわめく。

 花びらが舞い上がる。

 光に照らされて、

 風にもまれて、

 翻って……

 やがて再び静寂が支配する。

 智は上を見上げたまま止まっていた。鼓動が早くなっていた。満たされていた。美しい桜に。

 ふと、自分の手のひらの枝を見る。その花もけなげに、美しく咲いていた。


*


 ダダッダダッダダッダダッ

 カズマが勢いよく地を駆けてゆく。

「覚悟はいいかお前らぁ!」

 その上に乗った少年は腰に巻いた瓢箪を持ち、栓を抜くと、自分の前にばらまいた。

 本当に少年という言葉が合うような、幼さの残る顔立ちで、パーマがかかったような茶髪をしている。しかしその青く大きな目は躍動感に満ち溢れ、口角は上がっている。額には白いハチマキをしており、後ろに長くたなびいている。

 中に入っていたのは何かの粉らしいが、彼が人差し指をくるんと回すと、それに従って動き出した。

 彼はそのままその粉らしきものを操り、敵めがけて投げつけた。

 その粉が目に入った敵兵は様々にうめき声をあげながら倒れていった。

「ぎゃははは!」

 自分の手柄を大笑いしながらそこをカズマで通り過ぎていく。

 その後ろから追いかける味方兵がいる。

 この軍に所属していることを証明するかのように、彼らもみな、同じハチマキをしている。

「チート様!先行しすぎです!」

 チートと呼ばれた少年は振り返り、スピードを緩めぬまま叫んだ。

「でも、ライトの首をとったやつは宰相になれるんだろう!?だったら早めに行っても損はねぇ!」

 そして、スピードを上げていった。


*


 桜の枝を桜がよく見える部屋に丁寧にかざったら、椅子に腰かけ、分厚い本を読む。

 静寂が世界を包んでいく。

 サラリーマンは仕事に追われているのに。

 学生は一生懸命勉強しているのに。

 子どもは友達と遊んでいるのに。

 隕石の被害にあっているところもあるのに。

 引きこもりが殺人事件を起こしているのに。

 世界はこんなにも動き続けているのに。

 どれくらいの時間がたっただろうか。日の傾きはさっきと変わらないが、本を読んでいたせいか、静寂のせいか、とてつもなく長い時間が過ぎていたようにすら感じられる。

 スマホを取り出し、ロックを解除する。

 時間よりも先に目に入ったのはホームの壁紙だ。

 そこに映るのは智と一人の少女。

「なんでまだ…………」

 辟易しつつ、裏返しにしてテーブルに投げ置く。

 本を読もうとしたが、時間を見ようとしてスマホを立ち上げたことを思い出し、再びスマホに手を伸ばす。

 ひっくり返して時間だけ確認する。

 14時21分。

 本を読む手をやめて、外を見る。

 本を机に置き、部屋を出る。玄関を出て建物の裏に回る。中型バイクの横を通り過ぎると、木組みでできた小屋があり、いまでは倉庫として使われている。

 鍵を開けると、ほこりが舞い上がる。長年使っていなかったのだろうか、全体的にほこりがかぶっていて、蜘蛛の巣が張っている。

 その中に入っていって、段ボールに立てかけてあるスケッチブックを引き出し、ほこりを払う。

 中をパラパラとめくり、白紙のページがあることを確認し、外へ持ち出す。

 桜がよく見える位置に座り、彼は鉛筆を動かし始めた。


*


 やがて夕暮れになった戦場。

 疲弊を隠せない兵士たちが火を頼りに円を描いて座っている。

 その中を歩き、ねぎらいの言葉をかけたり、肩に手を置いたりして、軍のまとまりを維持しようとしているライトがいる。

 ふと顔をあげ、自分の軍の人たちの顔を見る。疲れてうなだれている者。けがをしているため、苦痛が顔に出ている者。炎をはかなげに見る者。

 ライトは負い目を感じ、悔しそうな顔になる。

 踵を返し、本陣の入り口を通ると、見たことのない男がいた。

「この男は?」

 側近の一人、ヒバリに尋ねると、

「パリドマ国王から緊急の連絡だそうです。」

と答えた。

 ヒバリは僧兵のようないでたちである。実際、大谷吉継がつけていたような頭巾をかぶり、がっちりとした鎧で身を固めている。落ち着いた物腰で目つきも鋭い。年齢はライトより若いようだ。

「内容は?」

 今度はその男に顔を向け、尋ねた。

「大僧正様が、このままではパリドマ帝国全体が滅びると予言いたしました。」

 その情報を、歩きながら聞き、席につく。

「根拠とかその後の方針もあるんだろ?」

「はい。マハリーナが国境沿いに10万の兵を派遣しているとのことです。即刻、王位継承戦争は中止、王の軍と合流し、戦争に備えよとのことです。」

 そこまで話し、ライトが口をはさむ。

「こいつがイミラの手下だという可能性は?」

 ヒバリが答える。

「先ほど、国璽が押された勅令書を預かりました。」

と言いながらその紙をライトに渡す。その間も言葉を続ける派遣兵。

「この情報はイミラ様の陣営にも行き届いております。加えて、戦争に参加していない王族にも勅令は出されています。」

「わかった。信じよう。即時王都に引き返す。」

「それともう一つ伝言があります。」

 その言葉に何か妙な含みを感じてライトは振り返り、いぶかしそうな顔を向けた。


*


 目の前の桜を描く。それだけである。彼の数少ない特技である。

 それを書きながら思い出すのはスマホに映る一人の少女である。

 一緒にいっぱい笑った。いろんなところにいった。それなのに、それなのに……

 脳裏に今も焼き付くあの文面。

『もう、別れよ。』

 鉛筆が止まる。手に力が入る。口を強く結ぶ。目をぎゅっとつむって深呼吸をする。

 思い出のフラッシュバックは心臓発作ともたがわぬ強い恐怖を与える。

 体を落ち着けて、再びスケッチブックを見る。

 何の変哲もない、桜の絵。あるものをそのまま描いた絵。

 突如、後ろから声をかけられたかのような錯覚に陥る。


*


「これ、香乃君の絵?」

 高校の美術室だ。

 誰ともわからぬ胸像。部員たちの描いたたくさんの作品。画用紙乾燥棚が乱雑に置いてある、教室の奥。

 智は一人、ジャージ姿で座っている。

「はい。」

 後ろから声をかけてきたのは当時の美術部の顧問。部活の時間になると必ず自前のつなぎを着る男だ。

「うん。きれいにかけているな。あれだろ、あそこの…駅の、な。」

「はい。学校に近い方のロータリーです。」

 顧問は黙ったまま絵を見てやがて口を開いた。

「しかしやはり、君らしさに欠けるな。」

 智は黙ったまま絵を見つめて話を聞く。

「これではちょっと絵のうまい中学生や小学生でもかけるよ。君だけの自由なやり方で君だけの絵を描いてみてくれよ。」




 桜の絵を凝視して固まる智。

 白黒の桜の木は何も言わない。

 次の瞬間、

 ぶわぁぁ!!!

 今日一番の春風が吹いた。

 智の髪の毛を持っていく。

 それを必死に抑える。

 部屋の中の本はパラパラとページが捲れていく。

 山がざわめく。

 風が庭を走る。

 桜の木が、揺れる。

 花びらが舞う。

 そして落ちる。

 智は花びらに惹かれるように立ち上がり、花びらに導かれるように桜の木を見る。

 そこには、

 満開の桜の木の下には、

 女の子が一人いた。

 陽の光をいっぱいに浴び、つばの広い真っ白な女優帽をかぶり、桜の花びらに囲まれて、手を後ろで組み、真っ白、いや、少し薄ピンクがかったワンピースを着て、優しい顔を向けていた。


*


「なんだ。」

 派遣兵は姿勢を正して言葉を紡いだ。

「もし、マハリーナ軍が、『鉄の神』を使うことがあったら……」

 次の瞬間、獣ともわからぬ大咆哮が地に轟いた。




 ぐぉぉぉぉぉ!!!!




 同時に何かが爆発するような音が響き渡る。それも、そこかしこで。

 一人の兵士が飛び込んでくる。

「ライト様!敵襲です!岩石のようなもので砲撃が何発もあり、」

 もう一人が割り込むように入ってくる。

「すでに軍は壊滅状態です!イミラ軍のものではないとみられます!」

 そこまで静かに目を閉じて聞いていたライトは非常に落ち着いた様子で、派遣兵を見た。

「『鉄の神』が出てきたら?」

 派遣兵はライトと目を合わせて言った。




「大僧正が『時間越え』を使うとのことです。」




ライトの目は失望したような、絶望したような、むしろ落ち着いたような輝きを持っていた。




*


 王宮の大広間のようなところで薄茶色の服を着た老齢の男が夕日に向かって祈りをささげている。

 その夕日に向かって立っている一人の少女がいた。

 大きな窓が全開にされ、夕日を全身で受けている。

 その老齢の男の後ろの玉座のようなところにいる、たいそうな身なりをした男が、その少女に言葉を発した。

「サクラよ。あとは任せたぞ。」

 その声を聴いて、振り返った彼女、サクラは、満面の笑みで答えた。

「お任せください。お父様。」

 今まさに沈まんとしているその夕日が、

 不思議な輝きを宿し、

 世界を包んでいった。


*


 瞬きすら、呼吸すら、忘れていた。

 その美しさに、その幽世の雰囲気に、魅せられていた。

 もう一度風が吹く。

 彼女の帽子をさらう。

 彼女の顔があらわになる。

 腰のあたりまで伸びた長い髪の毛。美しく輝いた瞳。整った輪郭。透き通った白い肌。

 ふわりふわりと帽子が智の前に落ちてくる。

 はしっとつかんでその帽子を見つめる。

 鳥の羽根のようだが、智にはわからない、黒々とした羽根がその白さに似合わず、ついている。

 もう一度彼女を見やる。

「あのっ。」

 智は声をかける。人と目を合わせるのはいつぶりだろうか。目がさまよう。そして、もう一度、目を合わせて、

「帽子……」

 彼女は微笑んだままだった。

 智はゆっくり近づいていく。

 桜の木の陰に到達し、二人の距離は目と鼻の先にまで来た。

 ふいに、彼女が手を差し伸べる。

 その手の白さに見とれる。ややあって、その手が帽子へ向けられているものだと思い、帽子を差し出そうと体を動かした瞬間、

「私を、」

 彼女が口を開いた。

 智の手が止まる。

 その透き通るような、力強い、甘い、優しい、智の語彙力では形容しがたいような美しい声だった。

「私を




助けてくれますか?」




 今度はその言葉の意味に目を疑った。開口一番、初めてであった人に、何も知らない人に、一緒にいてくれと。

「私はサクラといいます。」

 彼女は、サクラは名乗った。

「香乃智さん。」

 そして、どこで知ったか、智の名前を口にした。

 智はあっけにとられていた。

 言葉の意味を反芻する。

 この少女と会ったことがあっただろうかと逡巡する。

 サクラは智に伸ばしたその手をそのままに、もう一度言った。




「私と、一緒にいてくれますか?」




――世界には必要とされる人間と必要とされない人間がいる。

 春風が大きく吹いて、

――もし必要とされていない人間が必要とされるのなら

 桜の花びらと、

――それはどんな時だろうか。

 智の抜け殻になった心を、

――そのとき自分は自分であるといえるのだろうか。

 昼下がりの春空に、攫っていった。

――それとも……




足元の小さな美しい白い花が二人の出会いと、これからを祝福していた。

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