命の灯火がふわりと揺れる
ソファに寝かされていたアザミは、勢いよく上体を起こした。
「痛っ」
アザミは声をあげ、自分の左肩を見た。服の上から、白い布があてがわれていた。だが、その布は血により紅く染まっている。
「もう目覚めたのか。すげえ気力だな、嬢ちゃん」
ハイネは椅子に座りながらコーヒーを啜った。アザミは彼に目をくれず、肩を抑えて立ち上がった。
「ここは、どこだ?」
「俺の家だ。お前らが死にそうだったとこを俺が助けた。それだけだ」
ハイネの家は広くはないものの、食器を置いておく棚やテーブルはどこか豪華そうにも見える。小物の類は少ないが、統一感がありこだわられた内装だと一目でわかるほどである。
部屋を照らす大きなランタンが、怪しく揺れた。
アザミはベッドに寝ているジュスタを見つけると、顔を真っ青にしながら近寄った。彼の吐息は、平常時より遥かに小さかった。
「ああ、一応そいつも連れてきたけどよ。たぶん大量出血で、じきに死ぬ」
ハイネが冷たく言い放った。アザミは震えながら自分の肩を強く握った。
「どうにもならないのか」
「ならないかもなあ」
「医者に診せるのはどうなんだ」
「この町の医療は発達していない。都会じゃねえんだ」
「どうしてジュスタはこうなった」
「分からないけど、俺が見たときは嬢ちゃんを庇ってるみたいに戦ってたけどね」
アザミはジュスタの手を握った。彼の手は、不気味に青白くなっていた。
「なあ、嬢ちゃん。面白い話をしようか。この世の中にはな、人智を超えた能力を持つ人間。能力者と呼ばれる人間がいる。いまや伝承のひとつとなってるがな」
「聞いたことくらいある。それがなんだ」
アザミは抑揚のない声で言った。もはや、思いつめてハイネの話など聞いていない様子である。
「能力者は身体能力と自然治癒力が常人より遥かに高まる。ま、個人差はあるけどな。そんで、ガネは能力者だ。下手に手を出したってそりゃ返り討ちにされるに決まってる」
「それがなんだ」
「能力者っていうのはな、生まれ持って能力を持っている先天的能力者と、きっかけがあって能力を持つ後天的能力者がいる。ガネはきっと後天的だろうな」
「それがなんだと言っている!」
アザミはハイネの方に振り向き怒鳴った。その顔は怒りに満ちているというよりも、悔しさと悲しさを感じさせる表情であった。
ハイネはゆっくりと立ち上がり、食器棚から小さなコップを二つ取り出した。それをテーブルに置くと、彼は隣に置いてあったナイフを手に取り、おもむろに手首を切った。
アザミが訝し気にハイネを見つめる中、彼は手首から勢いよく流れ出る血をコップになみなみと注いでいく。徐々に血の流れは収まり、二杯目のコップの丁度ふちまで注がれたときには、血が止まった。
「見ろ。これが能力者の自然治癒力だ。小さな傷なら数秒で治る。まあ、俺は自然治癒力の高い方だけどな」
ハイネが切った手首をアザミに見せつけた。そこには傷は一切存在していなかった。
「俺だったら、そいつみてえな傷だろうと数時間で治るんだよ」
アザミは黙ってハイネを見続けていた。
「そして、そいつが助かるかもしれない方法がひとつだけある」
アザミは黙っている。
「後天的能力者になることだ。そしたら致命傷以外の傷なら何とかなる。と言っても腕とかを切断されたら生えるのに数年はかかるけどな」
静寂が訪れた。その場で聞こえるのは、二人の呼吸音。アザミの唇が微かに震えた。
「俺の血を飲め。先天的能力者の血を取り込み、適合することで後天的能力者となる。可能性は限りなくゼロに等しい。必要なのは覚悟でも力でもない、適性だ。能力者の体に無理やり適応させるんだから、体には激痛が走る。痺れ、噛まれ、切られ、殴られ、つねられ、えぐられ、狂気が全身を襲う。俺は能力者の血を飲んで死んだ人間を何人も見てる。どうする、そいつに飲ませるかどうかはお前が決めろ」
アザミの口から乾いた笑いが出た。ハイネは血の入ったコップを手に取り、強引に彼女へと手渡した。
「このまま死なすか、苦しませて死なすか、僅かな確率で生かすか。はは、ふざけてるな」
アザミは言うと、ジュスタの顎をひらかせてコップに入った血を勢いよく飲ませた。
アザミは目を閉じ、大きく息を吐いた。
「もう一つ、血の入ったコップをくれないか?」
アザミはハイネの方を向かずに手だけをハンネに差し出した。
「あ? 別に血の量は重要じゃねえぞ。その一杯で充分だ、こっちは飲ませる血の余りだ」
「違う。私が飲むんだ。肩が痛む、早く渡してくれ」
ハイネは息を吸い込み口元を釣り上げた。口の隙間から、吐息がかった笑いがこみ上げた。
彼がコップをアザミに渡すと、彼女は一気に血を飲み干した。
「面白えな、面白え。今までどこで嗅ぎつけたか能力が欲しいと頼み込む馬鹿はいたさ。勿論全員死んじまった。ただ、肩が痛むって理由で血を欲した奴はいねえよ!」
ハイネが大声で笑った。アザミはそれを眉をひそめて不愉快そうにしたものの、彼に何かを言うことはなかった。
ジュスタの手が少し震え、呼吸が荒くなった。全身に汗をかき、体を丸めて痛みに悶え始める。彼は大口をあけ、声よりも先に内臓が出るのかというほど苦しげに呻きをあげた。
ジュスタの穴の空いた腹からは、とめどなく血が流れている。
少し差を空けて、アザミの全身から汗が吹き出た。彼女は膝をおり、俯いて歯を食いしばった。
アザミの震えは止まらない。死神の鎌が彼女の首元にあたっていた。
「普通だったら意識をぶっ飛ばしながら叫ぶくらい痛えんだけどな。よくそこまで耐えられる。もしかして痛くねえのか?」
ハイネは口元に手を当て、眉間に皺を寄せた。
「痛いさ。それこそ死ぬほど。それでも、私は死ぬならこの痛みを噛み締めなきゃいけないんだ。じゃないと、ジュスタに示しがつかないだろ?」
アザミが震えながらも笑った。ハイネの顔から侮りの気持ちが消えた。
「無謀な女。って評価は少し違うみたいだな。あんたはきっと、何か軸を持っているんだろ、足りていなかったのは経験だ。惜しいな。ここで死ななきゃ大物になれただろうに」
数十分の時間が過ぎた。ジュスタの動きが突然止まったかと思うと、全身を脱力させて寝息をたてはじめた。彼の腹から出る血は、先ほどよりも流れ出ていない。何時間とも思える痛みの狂詩曲は、終わりを告げたのであった。
すぐ後にアザミは膝立ちの状態から崩れ落ち、地面に横たわった。そんな彼女の息は、壊れてしまった時計の針よりも切なく止まっていた。
「ジュスタは成功。嬢ちゃんは死亡か。いや、一人成功するだけでも凄えんだ。嬢ちゃんも天国で嬉しがるだろ」
ハイネが慈愛を込め、アザミの腕を肩に乗せて抱え起こした。力ないその体をソファに座らせ、彼はゆっくりと離れた。
ハイネは血を入れていたコップを水が張られていたキッチンのシンクに入れた。彼はついでにコーヒーをカップに入れ、テーブルまで持っていった。
「それにしても。運がねえ。よりによってガネのとこだもんな。いや、嬢ちゃんは自決なんてせずに生きてりゃあ、男の顔も見られたんだ。はやまった……か」
ハイネは静かに寝息をたてるジュスタを見ながらコーヒーを啜った。常人離れの速さで彼の傷が治っていくのが分かる。この速さなら、日が登りきるころには命に影響がなくなるくらいには回復するだろう。
ハイネは窓の外に目をやる。ちょうど、月が雲に隠れた。星の瞬き、雲の模様、それらはまさしく自然の芸術作品である。彼女は、こんなにも美しい夜に命を散らしたのだろうか。
アザミの手が微かに動いた。正確に描写するならば、ずれ落ちたという表現が合うだろう。
「まさかな」
ハイネはちらりとアザミを見るが、彼女は芸術家が彫った石像のように美しく佇んでいるだけであった。
儚い。ほんの少し運が悪かっただけの彼女の人生は、悲劇とも言えよう。
美しい彫刻が、微かに咳き込んだ気がした。聞き間違いかと、ハイネはちらりとアザミを見た。
一瞬。
アザミはまた、小さく咳き込んだ。ハイネの聞き間違いではなかった。能力者の血に適合し、彼女は息を吹き返したのである。
「はっ……? はは、おいおいおい。嘘だろ? 嘘だろ……!?」
ハイネは頰に両手を当て、驚愕といったふうに笑みを浮かべた。アザミは息を吸った。彼女は、ゆっくりと長く息を吐くと、通常の呼吸に戻っていった。
「二人とも適合者……ね。はは、こりゃあ凄えもんを見たのかも……知れねえなあ」
ハイネが出した感嘆の声と、拍手の音が部屋の中をこだました。
※
ジュスタが目を覚ますころには、もう日が昇っていた。彼は自分の置かれた状況に戸惑ったものの、ハイネからの説明を受けると半信半疑ながらも納得した様子だった。
「能力者か。なんかよくわからない気もするんですけど、助けてくれてありがとうございました」
「気にすんな。生きてたのはお前の運が良かったからだ」
ジュスタはアザミのすこやかな寝顔を眺めた。彼は正面から彼女の肩を優しく掴んで体を揺すった。
アザミは小さく唸ると、やがて重そうな瞼を開いてジュスタを見た。彼女はその姿を見て呆然とし、次の瞬間には彼の体を引き寄せ、力を込めて抱きしめた。
「よかった。ジュスタ……。私のせいで死んでしまうんじゃないかと思った。すまない。許してくれ」
ジュスタの耳元でアザミは呟いた。彼は突然抱きしめられ驚いたものの、ひとつ息をついて彼は優しげな顔となった。
「気にしないでよ。仲間じゃないの、俺たち」
アザミは「そうか、ありがとう」とかすれた声で言うと、ジュスタの体を離した。
「感動の再会は済んだか? まずは祝わせてくれ、生還おめでとう。はっきりいって二人とも適合できずに死ぬだろうと思っていたが、外れるもんだ。お前らは、能力者となった」
ジュスタは手のひらを見つめた。裏返し、手の甲も確認する。何度か指を伸ばしたり握ったりと繰り返した。
「能力者っていうのは、説明した通り身体能力と自然治癒力が一般人より遥かに高い。ガネも能力者だ、一般人だったころのお前らじゃあ動きも追えなかっただろうな」
アザミは目を細め、しばらく考える仕草をした。
「そうだな。私は動くもの全て捉えきるくらいに警戒して奴らを見ていた。しかしガネはその私に感知さえさせずに銃を抜いて引き金をひいた。それが能力者だったから、というのなら納得はできる」
「そうか。だが、能力者っていうのはそれだけじゃねえんだよ。俺たちはな、何もしなくとも体から水分が放出されていくようにごく当たり前のこととして気を放出することになる。この気には能力者それぞれに性質があって、うまく扱うことで自分の気を具現化させたり、特殊な事例を引き起こすことが出来る。故に能力者」
ジュスタは息を呑んだ。身振り手振りを交えて話しているハイネの姿から彼の視線が外れることはなかった。
「総称を異能と呼ぶんだが、ガネは異能を発現させることができるとみて間違いないだろう。能力者で犯罪を起こす奴の九割九分九厘は異能を使える奴だ。何故なら異能は強いから。それがあれば大抵の人間にゃ力で圧倒できるワケよ。ま、それは優秀な異能警察がしっかりと取り締まっているんだが、今回の誘拐には異能が使われてない。異能警察は動かないだろうな」
ハイネはそう言うと、カップに残っていたコーヒーを飲み干した。窓の外からは、日常が生み出す喧騒が聞こえてくる。
「俺たちもその異能っていうのを使うことは出来ないんです? 一応、能力者になったんですよね」
「不可能じゃないが、時間が足りない。気を感じるだとか操るだとか、自分に合う異能を使いこなすだとかは一朝一夕でできるもんじゃない」
ジュスタは一瞬だけ残念そうな顔をしたが、すぐに表情を戻す。そして彼は大きく息を吐くと、ハイネを見つめた。
「今からマカのこと、助けに行きます」
強い口調だった。彼の一言は固まった覚悟の表れであり、決意であった。
「言うと思ってよ、俺の異能【臆病者の鷹は見る】で上空からガネの一味を追った。俺の異能は鷹を発現させ、鷹の目を自分の目として使うっていう非戦闘系の異能だ。そいつでガネの一味がすぐ近くの洞穴に逃げ込んだのを見てたから、ほぼ確定でガネたちはその洞穴にいる」
ジュスタはアザミに視線を送った。彼女は机の上に置いてあった拳銃をいつの間にか手に取り、服の内ポケットにしまっていた。
「私の準備は出来ている。だが、ジュスタはまだ完治していないだろ? 平気なのか?」
「問題ないね。傷口が開くとか、そんなことどうでもいいんだよ。マカが、仲間が捕まってるんだ、行くしかないじゃない」
アザミは、「愚問ですまなかった」と謝った。ジュスタは大股で扉に向かって歩き出し、ドアノブに手をかけた。ハイネが「ちょっと待て」と彼女を制止した。
「異能戦も知らずにガネに挑むっていうんだ、知っとかなきゃいけねえことがある。まず、人が何もせずとも体から水分を発するように、能力者は体から気を発している。これを思いのままに操作することで異能を発現させて利用する。この気が無くなっていくと、貧血や酸欠みてえに体に害が出てくる。能力者は完璧じゃねえ。殴られりゃ痛えし頭や顎やられたら脳神経起こすし、銃で撃たれたら死ぬ。ガネに勝つならここいらに勝機があるかは知らねえが、覚えておいて損はない」
ジュスタは黙した。その頭を、ハイネに向けて深々と垂れた。
「礼なんて要らん。ただ……ひとつお前らに言おう。二度とこの町で血の流れるような面倒ごとを起こすな。それさえ守ることができるなら俺はお前らの味方でいてやるよ」
冗談めかしてハイネは言ったが、彼の目は笑っていなかった。それどころか、威圧感さえ放っていた。
アザミが扉を開け、振り返らずに「行こう」と言い放ち、外へ出た。ジュスタは垂らしていた頭をあげ、彼女を追った。
※
ハイネの異能の名前がC・チェック・チキンとありますが、なろうのルビ数が10文字で限界ということでこうなりました。正式な名前はチェック・チェイス・チキンです。