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君といつまでも あるいは儚い世界の幸福

作者: 那由多

 木曜日。

 会社からの帰りに秋田さんを見かけた。

「お疲れ様」

 俺がそう声をかけると、秋田さんはくるりと振り向いた。柔らかな栗色の髪が肩口で軽く跳ねる。

「あ、お疲れ様、佐伯君」

 秋田さんは部署こそ違うが先輩にあたる人で、入社以来五年、どのように角度を変えても頭が上がらぬほどに世話になっている。人当たりが良く、有能で、明るくはきはきとしている。髪の跳ね具合で調子が判別できるのを知ったのは二年前。絶好調の時は、それこそスーパーボールの様によく跳ねる。

 ちなみに年齢も俺よりは上だが、それについて言及すれば命が危ない。わきまえる。これはとても大切な事だ。このおかげで今日まで、俺は秋田さんと仲良くさせて貰えているのだから。

「今日もなんかいろいろあって疲れたわぁ」

「そっすねぇ」

 最近、秋田さんは部署が変わり、色々とストレスに苛まれているらしい。彼女も仕事の上では生真面目で几帳面な人だから、割とストレスはたまりやすい。

「どうすか、一杯」

「いいねぇ」

 秋田さんの顔がほころんだ。

 俺はこの秋田さんの笑顔が好きだ。というより、秋田さんが好きだ。そして彼女がお酒好きである事を良く知っている俺としては、見かければ誘うことを心に決めている。

「でも、明日まだ仕事だよ? 大丈夫?」

「あ、俺、明日休むんで」

 何気なく言ったつもりだが彼女は聞き逃さない。それまで緩んでいた目元が厳しさを取り戻す。

「なん……だと?」

「有休です」

「ふーん……」

 秋田さんは唇をとんがらせ、斜め下を向いてしまった拗ねているときにやる仕草だ。

「どっか行くの?」

「温泉に……行こうかなって」

「私は?」

「いや……その……無料券を一枚だけ頂きましてね……」

 秋田さんのじっとりとした視線が息苦しい。

「私は?」

「お、お仕事、頑張ってください」

「そっか……一人が好きなんだね……」

 そんな事は無い。一緒に行けるなら、是非一緒に行きたいです。

「じゃあ、お土産よろしく」

 そんな俺の気持ちは露知らず、秋田さんはしれっとそう言った。

「は、はい!!」

 全く、我ながらヘタレで嫌になる。何でこう、上手く気持ちが伝えられないんだろう。こんなのだから、いい年して女の子の手すらロクに握った事ないんだな。ちなみに、秋田さんの手は一度だけ触れそうになった事がある。白くて細くて滑らかな素敵な手だった。触れなかったんだけどね。

 それはともかく、土産は酒かな。温泉はタダだし、それぐらい買う予算はある。大丈夫。

「じゃあ、飲みに行くのは来週ね」

「え、そうなんですか?」

「だってー、私、仕事だしぃ」

 返す言葉もない。にやにやと笑う秋田さん。俺はがっくり項垂れる他ない。

 でも何だろう。こういうやり取りが楽しいんだよな。

「佐伯君の温泉話を肴に飲むから。良いエピソード揃えといてよね」

「合点承知」

「ふふん、よろしい」

 秋田さんは腕組みをして、何度か大げさに頷いた。それから突然、顔をぐっと近づけてくる。その距離、十五センチぐらいだろうか。秋田さんの大きな瞳がすぐそばに来た。彼女の瞳には、俺の間抜け面が写っている。

「楽しみにしてるよ」

「は……はい」

 秋田さんは俺の目をじっと見つめてから、スッと離れていった。

「ふふ。そんじゃ、また来週」

「はい。また来週です」

「気を付けて、行ってきてね」

「はい。ありがとうございます」

 いつもと変わらない秋田さんに戻った。それからは何てことの無いやり取りで俺達は別れた。

 秋田さんは電車。俺はバス。

 バスに乗ってからも、俺の胸は秋田さんの瞳を思い出すたびにドキドキと高鳴るのだった。


 翌日。

 俺は一人温泉にやってきた。

 自宅から電車で一時間半程度。気軽な小旅行の距離に温泉街があるというのは幸せな事だ。

 平日という事もあって、温泉街も人は少ない。のんびりと街を歩きながら、たまに買い食いなんかしてみたりもする。

 人々が仕事に従事している間に貪る休日というのは、どうしてこうも清々しいのだろうか。

 空気は爽やか、空の青さも際立ち、見るもの聞くもの食べるもの鮮烈だ。

 蒸かしたての温泉饅頭がとりわけ美味かった。

 秋田さんは今頃仕事しているんだろうな。この饅頭を是非、食べさせてあげたいものだ。仕方ない、この味をしっかり伝えてあげることにしよう。

「おっちゃん、饅頭もう一個」

「はいよ、毎度」

 あちち。手に直接乗せようとするのはよせ。

 しかし、フワッとした生地、しっとりとした餡子。完全な漉し餡ではなく、粒が残っているのがまた美味いよなぁ。

 そんな商店街を抜けると見えてくる旅館。

 今日入る温泉は、なんとこの旅館の温泉なのだ。

 休日だと、人だらけの上に金もかかってゆったりとはとても入れない。

 さすがは平日の真昼間。何と貸し切りだ。

 漂う硫黄の香り、白濁した湯。体の芯まで染み入る熱い湯が体の疲れを取り去ってくれる。

「ふぅ……」

 何という贅沢な休日だろう。

 温泉街をぶらつき、さらに温泉を貸し切りで入れるなんて。後は秋田さんに買って帰る酒だな。

 これもまあ、自分の舌で味わって買った方が良いだろう。昼酒がどうこうとか、そういう事じゃない。いわゆる気遣いだ。ほんとだよ?

 温泉街に戻った俺は、土産物屋の隣にあった立ち飲みカウンター付きの酒屋に迷わず入った。何しろ平日なうえに今はまだ昼間だ。当然店内はガラガラで、カウンターもこれまた貸し切り状態。ここで昼酒を味わわずして、どこで味わえというのだ。

「いらっしゃい」

 カウンターの向こうには黒の襟付きシャツに蝶ネクタイを締めたオールバックの兄ちゃんが笑顔で立っていた。温泉街に洋風の出で立ちというのもなかなかアンバランスだが、それがよろしい。

「この辺の、美味しいお酒ある?」

「どんなのがお好みですか?」

 そんなに種類があるのか。俺は秋田さんを思い浮かべた。彼女がいつも好んで飲む酒は、口当たり柔らかで、のど越しも爽やかなのが多い。

「なるほど、それならこれはどうです? 湯馬桜ってんですけど」

 そう言って兄ちゃんが取り出してきたのは、馬が温泉で一服しているラベルの張られた酒だった。

「なるほど、一杯貰おうじゃないの」

「へい、毎度」

 せっかくパリッとした出で立ちなのに、口を開くと完全に居酒屋のおっさんだ。まあ、肩ひじ張らなくていいけど。

 桝に入れたグラスにとくとくと酒が注がれる。当然のようにいくらか桝に溢れたところで、兄ちゃんはようやく瓶を戻した。

「つまみは何がいいかな?」

「魚ですね」

「じゃあ、平目の昆布締め」

「へい、毎度」

 つまみが出てくるまでの間、酒を眺めて楽しむ。酒の色は透明。香りを吸い込むと、甘い米の香りが鼻腔に広がる。

「おまちどお」

 糸づくりにされた昆布締めが小鉢に盛られて出てきた。

「じゃあ、いただきます」

 先に手を合わせてから箸を取り、でもやっぱり先に飲むのは酒だ。グラスをいったん脇に置き、桝の中の酒をついと口に流し込む。木の桝が放つフワッとした優しい木の香りが鼻を刺激して、それから爽やかな甘さの酒がするりと広がる。

「美味い」

「ありがとうございます」

「のど越しも爽やかだし、ちょっとフルーティーな感じもある」

「女性に人気なんですよ」

 分かる気がする。

 秋田さんへのお土産はこれで決まりだろう。絶対に彼女の好みだ。喜ぶ顔が目に浮かぶ。あの笑顔が見られるならば、酒の一本や二本安いものだ。

「これ、小さい瓶で売ってる?」

「隣の土産物屋で」

 なるほど、良くできた仕組みだ。

「昆布締めとの相性もいいね」

「加熱した魚とでも美味いですよ」

「なるほど。良い酒だ。ご馳走様」

「ありがとうございます」

 それからしばらく酒を楽しみ、心地良い時間を過ごした。実に素場らしい休日だ。

 俺が店を出て引き上げるころには、日がすっかり傾いていた。

「今度は秋田さんと……」

 夕焼けに染まる街を駅のホームから眺めながら、俺は思わずそんな言葉を口にした。口にした途端驚いて思わず言葉が止まる。やれやれ、どうやら飲みすぎたか。まあ、そうなれば嬉しいけれど。ふと、昨日の衝撃的な接近を思い出す。彼女の深いこげ茶の瞳の美しさは俺の脳裏にしっかり焼付いている。

「楽しみにしてるよ」

 囁くようなその言葉も、耳の中にまだ残っている。

 やっぱり俺は秋田さんが好きなんだ。

 問題は、この思いを打ち明ける度胸が無いってこと。けど、のんびりはしていられないし、どこかでは思い切らなくちゃ。

 例えば酒の力を借りるような形ででも。


 帰宅後、どうやら疲れ切っていたらしい俺は、いつの間にか眠っていた。

 ソファに横たわり、変なふうに体が捻じれていたものだから、起きたときに体が痛かった。せっかく温泉で体をほぐしてきたというのに。

 しかも時計を見ると深夜一時。おかしな時間に起きてしまった。大失敗だ。

 テーブルの上に置きっぱなしだったスマートフォンのLEDランプが点滅していた。迷惑メールでも届いたか、と思いつつ手に取って立ち上げる。

 メールの差出人を見た途端、俺のぼんやりしていた頭は一気にクリアになった。

 画面に出た名前は秋田小百合。つまり秋田さんからのメールだ。ちなみに、くれたのは七時前。どうやらぐっすりと眠っていた時間だ。

 タイトルなしのメールを恐る恐る開いてみる。

「もう帰ってるかな? 良かったら飲みに行きませんか?」

 それから五分ほどしてもう一通。

「気づかないかな? お休みのところごめんね。ゆっくり休んでください」

 自分の顔面を形が変わるまでぶん殴りたいと思ったのは、この時が初めてだ。秋田さんからのお誘いなんて初めてだ。もちろん起きていたら喜んで行っただろう。むしろ、起きていなければいけなかったのだ。

 今の時間じゃあ手遅れなのは言うまでもない。

 仕方なくメールの返事だけを返して寝ることにした。怒っていないと良いけど。

「すみません。寝てて気づきませんでした。温泉で昼酒をしたもので。お土産、買ってきてます。もし良ければ、明日お渡ししましょうか?」

 送ってから気付く。

 明日じゃなくてすでに今日だ。しかも、彼女が見るとしたら朝になってからなのだから、余計に大失敗をしたと言える。

「すみません、明日ってのは土曜日の事です。だから、今日ですね。ほんとにすみません」

 不細工な文章だ。けど、下手な隠し立ては墓穴の下だ。どうせ間抜けな後輩であるってのは見抜かれているわけだし、今更何を格好つけることがあるものか。

 俺は目を閉じて送信ボタンを押した。それから結果も見ずにスマートフォンを放り出し、寝床に潜り込んで改めて目を閉じた。


 笑顔の秋田さんが俺に向かって手を差し伸べる。まるで、手を繋ごうと言わんばかりに。俺はもちろん手を差し出す。ところが、伸ばしても伸ばしても届かない。後十五センチぐらいの隙間が、ちっとも埋まってくれない。どうしても彼女に触れられぬまま昼前に目が覚めた。

 なんて夢だ。

 まあ、確かに彼女の手の感触を俺は知らないから、触れない夢になるのは当然なのかもしれない。

 放り出したスマートフォンを恐る恐る拾ってチェックしてみると、秋田さんからメールが帰ってきていた。

「おはようございます。ご丁寧にどうも。良いのよ、気にしないで。来週飲みに行きましょう。今日と明日は家の用事で出られないのよ、ゴメンね。実家暮らしの辛いところよ。勘弁してね。じゃ、また来週。良い休日を!!」

 がっかりしたようなほっとしたような……。

 ともかく、この二日間はフリーになった。さて、何をして過ごしたものか。

 来週飲みに行くんだから、適当に店を物色しておこうか。

 会社帰りだけど、せっかく約束までして飲みに行くんだから、いつもと同じ店じゃつまらないよな。

 できたら、個室か半個室のある店が良いかな。じっくり飲むなら座敷より掘りごたつかテーブルだよね。

 後は……部屋の片づけかな。


 やる事の有無や、知る知らない。そんな事に関わらず時は流れる。

 それは平等で揺るぎない物だが、同時に残酷なものでもある。


 ピピピピピピ……。

 目覚ましが鳴る。布団の中から手を伸ばし、上部についたボタンを叩いてアラームを止める。

 朝。いつもなら後五分眠るところだが、この日は簡単に目が覚めた。多分、やることが無さ過ぎて日曜日に早く寝たからだ。

 月曜日がやってきた。

 煎餅布団に身を起こし、窓の外に目を向ける。視界に飛び込んでくるのは青空だった。良い天気だ。

 シャワーを浴びて着替える間、ふと自分が鼻歌を歌っていることに気付いた。そんなに陽気になっちゃうかね。全国のサラリーマンが憂鬱な日の一位に上げるとか上げないとか言われている月曜日にさ。まあ、確かにそうなんだ。理由は言わずもがな。

 鞄に忍ばせた土産の酒を手で触って確認する。隠す都合上小さな瓶しか買えなかったが、これで気に入ってくれたなら一緒に飲みに行きましょうなんて誘う事だってできる。色々と夢膨らむアイテムであることに間違いは無い。

 普段に比べると、ずっと身軽な気分で俺は会社に向かった。

 満員バスと徒歩で合計四十分ぐらいかかる道のりだが、今日に限ってはそんな事、どうでも良かった。

 何しろもうすぐ秋田さんの笑顔に会えるのだから。


 いつもより少し早めに家を出た俺は、いつもより少しだけ早めに会社に到着した。荷物をデスクに置き、秋田さんのいる部署のシマに目を向ける。何人かは来ているようだが、秋田さんの姿はまだ見えなかった。

「珍しいな……」

 彼女はいつも結構早めに来ている。遅刻ギリギリに駆け込んだ俺を待ち受けて、遅いと説教をくれたこともあるほどだ。スマートフォンを取り出してみるが、着信の気配はない。電車が遅れているのか、あるいは体調でも崩したか。

 何となくシマの方へ近づき、手近な人間に尋ねてみる。

「秋田さんは?」

「ああ、そういやまだみたいだね。珍しい事もあるもんだな」

 やっぱりそう言う感じなんだな。

 俺は尋ねたやつに礼を言い、自分の席に戻った。

 特に連絡は入っていないようだから、休みってことは無いみたいだ。まあ、始業までは少し間があるし、待っているのが吉かな。

 お土産の酒を渡したらどんな笑顔を見せてくれるだろう。今までにない、飛び切りの奴だろうか。それとも、照れ笑い的なものだろうか。何でも良い。早く彼女の笑顔が見たい。

 そんな俺の願いを虚しく、彼女は始業時間になっても姿を見せていなかった。

 さすがに部署の連中も困惑している。という事は連絡が入っていないのに来ていないんだ。俺のスマートフォンにも何の連絡も来ていない。無断欠勤なんてする人じゃない。

 ひょっとして電車が遅れているのか? 調べてみたけれど、そんな情報はネット上に出ていなかった。道端で倒れた、何らかの事故に巻き込まれた、嫌な想像が次々頭の中にわいてくる。

「えっ!?」

 突然、素っ頓狂な声がフロアに響いた。

 俺は首を竦めながら、ゆっくりとそっちを向いた。受話器を耳に当てたまま立ち上がって目を見開いているのは、秋田さんの部署に所属する課長だった。彼は自分が皆の注目を集めてしまったことに気付いたのだろう。慌てて席に座ると、身を丸め、押し殺した声で電話での会話を続け始めた。そういう事をされると、こっちは何も聞こえてこない。

 一度注目した後に放り出されるという無体な仕打ちに、フロア全体がざわつき始めていた。 

 その中で課長は電話を終えた。その面持ちは沈痛そのもので、電話の内容が穏やかなものではないと容易に想像がついた。何となく、嫌な予感が足元から這い上がり全身を這いまわっている。

 早く何か言えよ。

 そんな視線を向けているのは俺だけではないはずだ。

「秋田さんが……」

 課長はそこで言葉一度切った。それから一つ大きな息をして、改めて口を開いた。

「秋田さんが日曜日に亡くなったらしい」

 ……は?

 え? 今、何て言った? 何?

 向かいの席の同僚に目を向けると、こいつもぽかんとした顔をしてやがる。

 誰か、誰でも良い。何が起こったのか教えてくれ。

 え、何だって?

 秋田さんがどうした?

 亡くなった?

 亡くなったってなんだ? 死んだ? いつ? 日曜日? 昨日? 昨日メール貰ったぞ……いや、あれは一昨日か。そう言えば、昨日は連絡してない。そうだ。用事があるって。用事があるって言ってた。用事があったんだよ。

 死んだ? 嘘だろ? 嘘だって言ってくれよ?

 ひょっこり、もうすぐひょっこり現れるんだろ? そうだよな? だって、鞄の中にお土産が入ってるんだよ。話だって、話だってたくさん用意してきたんだ。楽しみにしてるって言ってたんだ。木曜日にまた来週ねって別れたんだ。来週一緒に飲みに行く約束もしたし、その時のためにいろんな話もあるし、それにお誘いだってするつもりだったんだよ。

 だからさ。

 だから誰か嘘だって言えよ。

 そんなバタバタ走り回ってないでさ。

 ていうか、誰か何か言えよ。みんな口パクしてないでさ。

 嘘だって……言ってくれよ。


 ぐらり、と足元が揺れた。

 いつの間にか足元に広がっていた暗い穴が俺の体を飲み込む。

 世界は暗闇に溶けて消え、俺はあっという間に落下を始めた。

 早いような、それでいて猛スピードで落ちているような奇妙な感覚の中、俺の意識もゆっくりと暗闇に飲み込まれていった。何もかもが飲み込まれていく中、芽の中に最後まで残ったのは秋田さんの笑顔だった。

「佐伯君」

 耳に残る声。


 ゆっくりと目を開けると、俺の顔を心配そうにのぞき込む秋田さんがいた。

「あ、気が付いた? 大丈夫?」

「え、あれ?」

 俺は確か……。

「あ、秋田さん?」

「ええ、そうよ」

「どうして……?」

「何が? どうしたの?」

 あれ、だってさっき……。

 周りを見回すと、そこはオフィスの中だった。同僚たちが俺と秋田さんを遠巻きに見ている。

「突然倒れたから、びっくりしたわよ」

「す、すみません……」

「どうしたの? 寝不足?」

「いや……」

 そうじゃない、と言いかけて違和感に気付いた。

 妙な静けさ。ここはオフィスで、みんな働いているはずなのに、どうしてこんなにも音が無いのか。いつの間にかオフィスは灰色になっていた。同僚たちはのっぺりと白い人型に。

「え?」

「どうしたの?」

 そんな中で、秋田さんだけが色鮮やかに、そして生命感に満ち溢れてそこにいた。

「これは……どうなって?」

 ザザ……。

 世界にノイズが走る。

 秋田さんの口がパクパクと動く。何も聞こえない。ノイズ音だけが耳にこだまして、俺は思わず耳をふさいだ。違う。これは本当じゃない。

 ザザザザ……。

 世界が砂嵐に包まれ、そしてプツン……と消えた。

 暗闇の中で俺は涙を流す。叫ぼうとするけど、声は出なかった。


 「……君、佐伯君!!」

 体が揺すぶられる。

 耳に飛び込んでくる雑踏の音。人々が喋り、グラスがぶつかり、椅子が床をひっかく。頬の下には硬いテーブル。体を起こすと、そこには苦笑いをしている秋田さんがいた。

「大丈夫? 飲みすぎちゃった?」

「え、あ、いや……」

「私、いきなり恋人を無くすなんて嫌よ?」

「こ……?」

「え、ヤダ……嘘でしょ?」

 秋田さんの眉尻がきっと吊り上がる。

「ちょっと、今のは冗談よね?」

 ググッと顔を寄せてくる秋田さん。十五センチぐらいのところに、秋田さんの怒った瞳があった。魚眼レンズみたいに歪んで見えるのは、俺がまだぼんやりしているからか。

 ヤバい。慌てて考える。

 ここはいつもの居酒屋。

 向かいには秋田さん。

 俺と秋田さんは仕事帰りにこの店に入った。今日はある決心をしてこの店に入った。

 そう、秋田さんに自分の思いを打ち明ける。

 それに酒の力を借りるために。

 我ながら情けない。

 けどそうだ。その情けない作戦は功を奏したのだ。俺は彼女の目を見てはっきり言った。好きです、と。彼女は頬を真っ赤に染め、そっと頷いてくれた。それから……それから?

「それから、あなたは大喜びではしゃいで、凄いピッチで飲んで、それで突然倒れたのよ」

 秋田さんは椅子に座り直しながら、呆れるような声でそう言った。

 そりゃ呆れますよね。情けなさに情けなさを上塗りする羽目になり、俺の心はすっかり情けなさ色に塗りあがった。

「す……すみません」

「ううん。大丈夫。でも、無茶はしないでね。私、心配よ」

「はい。もう無茶はしません。秋田さんとずっと一緒にいたいですから」

「……ふふ。嬉しい」

 頬を染め、秋田さんは俯いた。俺も何となく気恥ずかしくて、黙って酒を飲んだ。

「動脈瘤解離だってさ……」

 ふと、隣のテーブルの会話が耳に入った。

「ソファーに座ったまま……」

「朝、ご家族が見つけたの?」

「ええ、怖い……」

 四人掛けのテーブルの話題が、妙に耳に障った。

「大丈夫よ」

 秋田さんが俯いたままそう言った。

「ええ」

 そうだ。他のテーブルの話じゃないか。気にする事ない。

「いつまでも一緒だものね」

「はい、一緒です」

 秋田さんが笑う。ふと、店の中が静まり返った気がした。隣のテーブルはいつの間にか空だった。いや、店の中が空っぽだ。

「時間ね」

「出ましょうか」

「ええ……」

 俺は立ち上がる。その瞬間、世界がぐるりと回った。

「佐伯君?」

 秋田さんの声が耳に響く。

 ザザ……。

 ぐるぐると回る世界に、ふとノイズが走った。


 涼しい風。

 ふと目を開けると、浴衣に羽織姿の秋田さんが団扇で俺に風をくれていた。

「あれ?」

「大丈夫?」

「あ、はい……」

 体を起こすと、そこは布団の上だった。見回せば古風な和室。十畳ぐらいだろうか。

「のぼせちゃったんでしょう。長湯するから……」

 長湯? 温泉? 記憶がぐるぐるとする。

「まだ、ぼんやりしてる?」

 秋田さんがすう、と顔を近づけてくる。十五センチぐらいのところで見つめあう俺達。その瞳の中には困惑気味の俺が写っていた。

「いえ……、その……」

「大丈夫そうかな?」

「はい」

 スッと離れていく秋田さん。

「あんまり心配かけないでね。佐伯君、時々そういう事するんだもの」

 唇を尖らせる秋田さん。

「すみません。でも、無茶はしないようにしますよ。いつまでも一緒です」

「ええ、一緒にいましょう」

 見つめあう。妙に遠く感じるのは、まだ少しのぼせているからか。

「目が覚めたなら、お酒飲んでみる?」

「お酒?」

「さっき買ったやつよ。佐伯君、お勧めなんでしょ」

 そう言いながら彼女が指をさす先には、テーブルの上に乗った日本酒の小瓶があった。湯馬桜と書かれている。ラベルには温泉に入ってくつろぐ馬の絵が描かれている。脇にはお猪口も二つちゃんと置かれている。

「面白いラベルだよね」

「そうですね。でも、味は保証付きですよ」

「だね。さあ、飲みましょ」

「はい」

 サイレンが聞こえる。窓の外からだ。救急車が近づいてくる。宿が安普請なのか、ガタガタと宿が揺れた。サイレンが止まった。

「この旅館かしら?」

 秋田さんが眉を顰める。

 バタバタと足音が聞こえる。宿が揺れる。

「揺らすなよ」

「急げ」

 遠くから聞こえる怒声。やっぱりこの旅館で誰かが倒れたらしい。

「明日は、美味しい温泉饅頭食べるのよね」

「……そうです」

 蒸かしたての熱々はきっと気に入ってくれるに違いない。

「病院へ!!」

 誰かの声。どたどたと煩い足音。揺れる旅館。お酒が飲めない。

「楽しみにしてるね」

 秋田さんが笑う。

 いつの間にか彼女の顔がすぐそばにあった。そう。十五センチの距離に。こげ茶の瞳には揺らめく俺の顔。

 ザザ……。

 耳元でノイズ音。瞳の中には無数の砂嵐……。


 ピピピピピピ……。

 枕元に手を伸ばす。目覚ましのスイッチを切り、俺はダブルベッドの上に身を起こした。

 ふかふかの白い掛け布団。シーツも真っ白。俺の隣には一人分のスペースがぽっかりと空いている。

「おはよう」

 寝室のドアを開けて、妻が入ってくる。いつも通りのエプロン姿。先に起きて、朝ご飯を作ってくれている。本当によくできた人と結婚できたもんだ。

「おはよう」

 俺が返すと、彼女はにこっと笑って小首を傾げた。

「今日は随分すんなり起きたのね」

「たまにはね」

 何か、凄く怖い夢を見たような気がする。大切なものを失ってしまうような……。砂粒が指の隙間から零れ落ちていくような夢だった。

「どうかした?」

 妻が俺の顔を覗き込む。その距離十五センチ。彼女の瞳には寝起きの俺が写っている。何とも間抜けな顔だ。

「大丈夫だよ」

「そう」

 スッと彼女の顔が遠ざかった。

「今日も綺麗だね」

「あらやだ。今日は雪でも降るのかしら」

 そんな事を言いながら、嬉しげな微笑みを浮かべる彼女。

「嬉しいな」

 くるりと彼女が回った。

 肩口で切り揃えた髪が元気に跳ねる。今朝もご機嫌なようだ。

「早く降りてきてね」

 彼女はそう言って出て行った。

 俺は布団から出て洗面所へ。顔を洗ってさっぱりとした後、リビングへ行く。

 カウンターの向こうにあるキッチンに立つ彼女。コトコトと鍋が煮えている。深呼吸すると、爽やかな香りが鼻に滑り込んできた。いったい、何を作っているんだろう。気になって、キッチンに入ろうとするが、彼女に止められた。

「ここは私の場所よ。あなたは向こうで待ってて。美味しい朝ご飯を持っていくわ」

「分かった」

 俺は素直にリビングへ戻った。

 テレビがついていた。

 ソファに腰掛け、何となくその番組を眺める。

「脳波に異常は見られません。体も至って健康」

「では、どうして目を覚まさないのですか、先生?」

 医療ドラマだ。何でこんな朝っぱらから。

「分からない。強いショックで心を閉ざしてしまったのかも」

 沈痛な面持ちの医者。患者の顔はその医者に隠されて見えていない。

「何、見てるの?」

 いつの間にか隣には彼女が座っていた。

「ドラマ……かな?」

「面白い?」

「分からない。なんか、昏睡から目覚めない人の話しみたいだけど」

「怖いわ」

「そうだね」

 彼女の横顔を見つめる。儚さを感じさせる横顔が、俺を不安にさせた。

「ねえ」

 不意に、彼女がこちらを向いた。

「うん?」

「もしも……」

「もしも?」

 言い淀む妻を促すように、俺は彼女の言葉をオウム返しした。彼女は胸元を手で押さえ、息を一つ飲んでから言葉を続けた。

「もしも私が眠ったままになったら、あなたどうする?」

「もちろん、傍にいるよ」

「ずっと?」

「もちろん。ずっと一緒だ」

 彼女が微笑む。その微笑みを見るだけで俺は安心できる。満たされる。

「じゃあ、もし死んじゃったら?」

 死。

 その単語が俺の心をかき乱した。

「彼は現実を受け入れられないのではないかと考えられます」

 医者が煩い。テレビドラマのくせに。作り物のくせに。嘘っぱちの世界のくせに。現実だ、なんて偉そうに。

「死なないよ!!」

 思わず声が荒くなった。彼女が不安気に俺を見ている。

「君は死なない。ずっと、ずっと一緒にいるんだ」

「分かった。ずっと一緒ね」

 そう。彼女と俺は離れ離れに何てならない。

 ここでずっと一緒に生きていくんだ。彼女のいない世界に何て意味は無い。逆に言えば、彼女が傍にいてくれれば俺はどこでだって幸せに生きていられる。

「さあ、朝ご飯にしよう」

 俺が差し出した手を彼女は握ってくれた。しなやかで細い白い指が僕の手に絡みついた。しっとりとして温かみのある手の感触に、背筋が泡立つほどの喜びを感じた。いつもそうだ。彼女は僕を満たしてくれる。そのまま腕を引くと、彼女も立ち上がった。

 テレビの中で医者がいう。

「このまま目を覚まさない可能性はあります」

「どうして?」

 俺はテレビに向かって思わず問いかけていた。

「あらゆる数値が、そしてこの安らかな寝顔が示しているからです」

 それに応えるように、医者はテレビの向こうで真正面を向いてそう言った。

「何を?」

 唇が少し震えるのを感じた。握っているはずの彼女の手が、不意に存在感を無くしたように感じて、思わず僕は隣を見た。彼女は微笑んでそこにいる。温かい手は俺の手に触れてくれている。

「彼がこの上ない幸福の中にいるという事を……」

 医者はそう言って後ろを向いた。それを追うようにアングルが医者から寝ている患者の方へと移動していく。その先にいるのは多分……。

 俺は彼女の手を持ったままテレビを消した。

「テレビは、良いの?」

「ああ、もう必要ないんだ」

 彼女を引き寄せる。

「あ……」

 彼女は小さく声を上げて俺の胸に飛び込んできた。そのまま背中に手を回しお互い抱きしめあう。

 俺と彼女の間に、もう何の距離もない。俺の胸に体を預けたまま、俺を見上げる彼女。頬が赤い。きっと俺もだ。

「やっとだね」

 彼女はそう言って、静かに瞳を閉じた。俺は彼女の両肩に手を添え、ゆっくりと彼女の唇に自分の唇を重ねた。目を閉じ、触れ合う感触に集中しようとする。

 ……おかしい。

 何も感じない。

 なんでだ。

 目を開けようとしたけれど、どういうわけか開かなかった。

 暗闇の中、必死で探す。けれど、俺の唇には何の感触も現れる事は無かった。

 

ザザ……。

 

 どこかでノイズ音が聞こえたような気がした……。 

 

親しい人の身に起こる突然の死は、なかなか受け入れがたいものです。

それをきちんと受け入れられない人は、もういないその人を追い求め、やがて自分の記憶に行きつくのかなと。

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