学校に行くのもだるい。
あえて汚い言葉遣いをするのなら、今日はクソ暑い。なんでこんな熱い日の早朝に俺が制服姿で外出しているかというと、今日は学校に行かなければならない日だからである。憎むべし、学校。こんなに暑いならもう夏休みになってもいいだろ。今日は7月の上旬。まだまだ俺の願いは叶えられそうになかった。
俺らの通う学校はなだらかな坂の上にあり、そして何より駅からとっても遠い。なんでこんな場所に学校を作ったんだと創設者に文句を言いに行きたいが、あいにくそいつは100年位前に亡くなっている。中学時代に精を出していた吹奏楽部を中3の夏に辞め、必死になって勉強して入学した結果がこれだ。全く持って世の中は理不尽だと思う。
え、じゃあなんで高校に入ってから吹奏楽部を続けなかったんだ聞かれると、少し長くなるので、今日は割愛しよう。
そんなことを考えながら坂を上っていると、よく知っている後ろ姿が目に入った。
「よう」俺は走って近づき、そいつの肩をたたく。
「あ、おはようございます、先輩」
園田だ。こんなに暑いというのに制服はしっかりとブレザーを着用している。どこまで生真面目なんだこいつは。
「ん? 何読んでるんだ?」ふと、園田の手に本が握られているのが目に入ったので尋ねてみる。
「ああ、これですか。詰将棋の本ですよ。結構難しいんですよこれ」
「ほう、懸命だな後輩よ。君はやはりボードゲーム部に貢献してくれる唯一の後輩だ。……まあ、全部合わせたって3人しかいないんだけどな」
軽口をたたいてみても園田は愛想笑い一つもしない。
「あ、先輩もやってみます?」代わりに園田はそういって俺に本を手渡してきた。てめえ俺の話は無視かコラ。
だが俺はとても心優しい先輩だったから、そんなことはおくびにも出さずそれを快く受け取り、さあやったるという心持でそのページを見た。
そして、その瞬間にあきらめた。なんだこれ、難しすぎる。
そのページに描かれていたのは、巷で有名な「ミクロコスモス」という詰将棋の作品だった。「ミクロコスモス」というのは言わずもがな小宇宙という意味である。なぜただの詰将棋の問題にこんな名前がついているかというと、その解にたどり着くまでの手順が気の遠くなる長さだからだ。
その長さ、1525手。将棋に触れたことがない人でもこの気の遠くなるような長さがどんなものなのか想像つくだろう。将棋のマス目は81マスである。まさに「ケタ違い」な作品なわけだが、
「まさか、お前これ解こうとしてたのか……?」
「ええ、まあ。最長手ってやっぱり気になるじゃないですか。毎日の登校時間にこいつとにらめっこしてます。もうちょい短い手があるんじゃないか、って思うんですけど、やっぱり見た感じなさそうなんですよねえ」
なんてこったい。見てますか、将棋の神様。ここにもしかしたら将棋界に名を轟かせるかもしれない方がいらっしゃいますよ。俺が心の中でそんなことを言っている間にも、園田はうーんと考え込み、次の一手を考えているようだ。そっとその手に本をお返ししておく。
もう薄々気づいている人もいるかもしれないが、一応言っておこう。園田はめちゃめちゃ頭がいい。学年のなかで、良くて半分くらいの俺なんかとは本当に脳みその中身が違う。おそらく、園田がアメリカなんかで育っていたら、今頃飛び級で大学院なんかも卒業し、博士号でも取っていただろう。
「あ、先輩、そろそろ学校ですよ」天才園田の目線の先には、現在改装中の古臭い建物があった。俺たちの学校だ。ここまで頭がいいのに中身はまともなのだ。つくづく園田に好感を持つ。……まあ、部長があんなのだから釣り合いがとれているだけといえばそれだけなのだが。
「じゃあ僕はここで」
園田とは校門を少し過ぎたあたりで別れた。1年と2年の教室は校舎が違うからこれで園田とは部活の時間まで会わないことになる。
だるい。学校だるい。園田と登校中に会えたおかげで、その時間に俺の心に降りかかってきただろうストレスの矢は何とかしのげたが、いざ園田と別れてみたら、今度は「学校」というストレスの鉄球が俺の顔面をぶん殴ってきた。もう嫌だ。俺帰りたい。そう思ってみても現実は変わらなかった。
なんで俺は久しぶりでもない学校に今日はこんなにストレスを感じるのだろう。それがあのことを暗示していたことに、その時の俺が気が付くはずもなかった。




