深夜三時の恐竜記
「コートクザウルス」という恐竜が、僕には見える。
多分、いよいよ僕はおかしくなってしまったのだと思う。
元々空想の世界が大好きで、暇さえあれば空を飛んだり世界を救ったりしていた。
だから、目の前に突然恐竜が現れても驚かなかった。
コートクザウルスは、真っ赤な体表に、黒い目を持っている。
歯はギザギザで、威嚇するときは歯茎までむき出しになる。
体長は2mくらい。
前傾姿勢で、二足歩行。ティラノサウルスを想像してくれればいい。
頭はそんなに大きくなくて、両手両足には鋭い爪がある。
そうそう。足の部分だけ何故か黄色い。
彼は、僕が部屋でひとりきりの時に必ず現れた。
家族も寝静まった夜3時。
元々うちは田舎だから、こんな時間になると物音ひとつしない。
その静寂が僕の唯一生きていける空間のような気がして、必ずその時間に起きるように目覚ましをかけている。
一人っ子で、自分の部屋があるから成せることだ。
電気はつけずに、布団にくるまって、ラジオを適当なAMの周波数に合わせる。
あまり良くない音質で流れてくる、一昔前の歌謡曲に身に覚えのない懐かしさを感じながら過ごすのが、至福のひとときだった。
そこへ、コートクザウルスはやってきた。
僕がいつものように布団にくるまってイヤホンでラジオを聴いていると、ドスン、と僕の上に乗ってきた。
重さは感じなかった。
ただただ恐怖した。
こいつは現れると最初は必ず僕を威嚇してくる。
ぐうるるるるると鳴きながら歯茎と鋭い牙をむき出しにして、今にも僕を食べようとする。
ぐぱーと口を開けて僕の頭を一旦くわえ込むのだけど、僕が反撃しないのを確認すると、諦めたように僕を解放する。
そして、寂しそうにこちらを見る。
それの繰り返しだ。
一度撫でようと試みたのだが、手を伸ばすと煙となって消えてしまった。
こいつは一体どういうことだ。
毎晩のように現れては僕が生きている中で一番楽しみな時間を奪う。
はた迷惑だと心の底から思っていた。
さて、こいつが現れるようになってから3ヶ月目の7月4日土曜日、午前三時。
僕はいつものように布団にくるまりラジオを聴く。
どうせ、今日も来るんだろうと身構えていたが、五分、十分。
待っても待ってもやってこない。
おかしいな。いつもならもういるのに。
試しに布団から抜け出て部屋中を探すがどこにもいない。
まあ、元々いない存在なのだから、出てこないに越したことはないのだけれど、少しだけ、少しだけ寂しかった。
唯一の友達を失った気分だった。
一体何故、コートクザウルスは出てこないのだろう。
考えても答えは出ない。
気が付くと僕は眠っていて、陽は昇り、次の日の朝になっていた。
眠い目をこすって部屋を出ると、両親が忙しそうに支度をしている。
「おはよう。」
「あんたも早く準備しなさいよ。」
「・・・なんで?」
「昨日夕飯の時言ったでしょ。ユキノリおじいちゃんに会いにいくって。」
言われてようやく思い出す。
そうだそうだ。
僕も慌てて身支度をする。
朝ごはんはトースト一枚で済ませて、最低限の身なりは整えて。
準備を終えて、僕は父の運転する車に揺られながら、2時間かかる道を行く。
なかなか遠い病院に入院したのだな。
田舎の病院では治療しきれないくらいに状態が悪化していると聞かされてはいたけれど。
「おじいちゃんね、もうすぐかもしれないって。」
「・・・そう。」
「今日、話せること、話しておきなね。」
「分かった・・・。」
妙な沈黙。
いつものそれとは違う。
死を悼むには早すぎて、声を出すには気が重くて。
ようやく病院につき、ユキノリおじいちゃんの病室へ入る。
既に親戚がたくさん集まっていて、皆ベッドを囲んでいる。
僕たちに気づいた叔母さんが、「ほらほら、あんたたちもお話してあげて!」と、僕の手を引っ張って、家族三人、おじいちゃんのそばに立った。
たくさんのチューブが体のいたるところから伸びていて、無理矢理生かされている感じがした。
「ユキノリおじいちゃん。ほら、卓も連れてきたわよ!久しぶりでしょー会うの!卓、挨拶は。」
「久しぶり・・・です・・・。」
正直言うと、この人の記憶はほとんどない。
一番最近の記憶というのは10年前に、家のベッドの上から震える手で僕にお年玉を渡してくれたことだけだ。
それから会おうにも体調が優れなかったり僕自身の問題で会うことができなくて、今に至る。
「卓は覚えてるか?お前がまだ3歳くらいのころな、おじいちゃんに遊んでもらってたんだぞ。」
父が僕の方に手を置いて言った。
3歳・・・全く覚えていない。
「そうそう、よく肩車とかしてもらってたわよねー。そのときのおじいちゃん、変な格好してたっけ。」
思い出したように母が笑う。
すると周りの親戚も、「そんなこともあったな」というふうにして寂しそうに笑う。
「変な格好?」
「うん。なんかね、おじいちゃんちにあった赤いレインコートと黄色い長靴履いて、それであんたのこと肩車するの。」
「え・・・外で?」
「違う違う。家の中。」
「雨・・・の日とか・・・?」
「雨でも晴れでも雪の日でもよ。あんたがせがむとおじいちゃん、わざわざそのセット取り出して、それを着てからあんたと遊ぶの。」
確かにそれは滑稽だ。
なんでまたそんなことを。
「卓、あんた、おじいちゃんにすっごく可愛がられてたんだから。覚えてないことのほうが多いかもしれないけどね。」
そうなのか。
覚えていれば良かったな。
ちゃんとお礼が言えるのに。
「忘れちゃっててごめんね、おじいちゃん。僕とたくさん遊んでくれて、ありがとね。」
僕がそう言うと、うっすらと開いていたユキノリおじいちゃんの目から一筋の涙がこぼれた。
「ちゃんと、伝わったみたいだな。」
父のその言葉が、妙に重たかった。
「それじゃあ、私たちは先に行きますね。」
仕事の都合があるのと、僕が長時間外に出られないのもあって、一足先に病室を後にする。
扉を開けて、廊下に出て、家族三人揃って深々と頭を下げた。
そして頭を上げたとき、僕は見た。
扉の横にあるネームプレート。
「石橋幸徳」の文字。
名前。おじいちゃんの。
幸徳。ユキノリ・・・?
こう・・・とく・・・コートク・・・。
その瞬間全身の鳥肌が立った。
一部分ではあるけれど思い出したことがある。
幼い頃から大事にしていた恐竜図鑑と、それを一緒に眺めるおじいちゃん。
本を無くして泣いていた僕と、そんな僕の目の前に妙ちくりんな格好をして現れたおじいちゃん。
うがあああああああと柄にもなく大声をあげて、まるでティラノサウルスのようにずしんずしんと頭を振って僕に近づいてきて言った言葉。
「おじいちゃんは卓だけの恐竜だ。」
それから後のことは覚えてなくて、気が付くと家のソファで寝かされていた。
なんでも、また発作を起こしたらしい。
病室の前で急に泣きじゃくって、過呼吸になって。
病院で良かったわねーなんて母から冗談を言われるけれど、僕には笑う元気がなかった。
ずっとずっと大事なことを忘れていた。
彼はいつも僕を気遣ってくれていたのだ。
多くの人びとが寝静まっている中、一人起きてぼーっとしている僕。
いつの頃からか外に出るのが怖くなって、部屋に閉じこもるようになった僕。
多分、病室のベッドで寝たきりの生活を送りながら、色々な親戚から僕のことを聞かされていたのだろう。
だから、コートクザウルスは僕の目の前に現れたのだ。
不意に家の電話が鳴った。
母が取る。
少しして、母はゆっくりと受話器を置いて、その場に座り込んだ。
聞かなくても分かる。
母は肩を震わせている。
コートクザウルスが現れなくなったのは、多分、そういうことなのだ。
それからの日々は慌ただしくて、僕も自分の精神面と戦いながら何度も外出して、無事におじいちゃんを見送ることができた。
それからぱたりと彼は現れない。
普通は幽霊になったのだからこれからが本番な気もするが、多分、あの段階で力を使い果たしてしまったのだろう。
寂しい。
けれど、いつまでもあの深夜三時の恐竜に頼っていてはいけないのだ。
「母さん、行ってくるよ。」
「無理、しちゃだめよ?」
「ありがとう。」
心配そうな母の顔。
玄関先で待つ、不安そうな父の顔。
そして。
「がうっ」
ふと聞こえた、恐竜の鳴き声。
それら全てが僕を愛してくれるが故のものだと知っている。
だから僕は、元気よく、もう一度、笑顔で言った。
「行ってきます!」