その九
若者はそのまま砂の上に仰向けに転がり、氷の天井を眺めました。魔女に言葉を教えるには、ここには物がなさ過ぎる、そう考えました。ここで教えられる言葉は、砂と氷、それを溶かして得られる水、後は自分の名前くらいでしょう。だからといって、言葉を知らないまま外へ連れ出すのは、前にも考えたように危険が伴います。
今すぐ外に出るわけじゃない、急ぐことはない。
若者はそう、自分に言い聞かせました。
早く言葉を覚えて欲しいのは、魔女のためではなく自分のためだと若者には分かっていました。けれども、いつまでもこのままでいる訳にはいかないことも、若者は承知していました。時間が経てばそれだけ、オアシスの水は減っていくのです。自分が力を解放したことで、どれだけその速度を落とせるのか、まだ確かめる方法が無いことに若者は少しだけ不安を感じていました。
若者は、見つめていた氷の天井に意識を集中させましたが、周りの空気が微かに熱を帯びるのを感じて、集中を解きました。
魔女が天井を凍らせたように、自分が気温を変えずに天井や壁を溶かすには、もっと訓練を積まなければならないと若者は感じました。ましてや若者は、ここにいながら氷山の外側を溶かしたいのです。若者は呼吸を整え、再び意識を天井に集中させました。
若者は何度もそれをくり返し、何度も失敗しました。魔女はその間、これまでと変わらず砂の上に座っていました。そして時折、砂を弄んでは、まるで何かを確かめるように、小声で「すな」とつぶやきました。
若者は力を使うことではほとんど疲れませんでしたが、くり返し意識を集中させることには疲れを覚え始めました。今日はここまでだ、そう若者は思い、一度体を起こしました。立ち上がり、うん、と伸びをして座り直しました。
その若者に、魔女は握った手を差し出しました。魔女が拳を開くと、そこから砂が流れ落ちました。
「すな」魔女は言いました。若者は小さく微笑んで頷き、「すな」と言葉を返しました。
若者の返事を確かめると、次に魔女は立ち上がり、氷の壁に向かいました。壁に向かって両手をつき、若者を振り返りました。そして、氷の壁を両手で何度も叩いて見せました。若者は立ち上がり、魔女のそばへ行きました。
若者が隣に立つことを、魔女は拒みませんでした。隣に立つ若者の顔を見て、屈んで足下をなで、「すな」と言い、それから立ち上がると氷の壁に目を戻して、また壁を叩いたりなでて見せました。若者はしばらく戸惑った後、、魔女が新しい言葉を求めていることを理解して、驚きました。
「こおり」若者は、冷たい壁をなでる魔女に言いました。「氷」
「こおり」
魔女は若者の言葉を復唱しました。そして、そのまま屈むと、足下の広がる砂をなで、「すな」と言い、再び立ち上がると、壁をなでて「こおり」と言いました。その顔には、満足そうな表情が浮かんでいました。
次に、魔女は若者の胸元に手を当てました。
若者はその手の冷たさに驚きました。その冷たさが魔女の生来のものなのか、氷の壁をなでていたせいなのか、若者には判りませんでした。
魔女は、若者の驚きなど全く意に介する様子もなく、その胸を軽く叩き、若者の顔を見上げました。若者は魔女の冷えた手に自分の手を重ねました。魔女の手は若者の手の中でほんの少し温かくなりました。
それから若者は、魔女に向かって名乗りました。初めて会ったときにも一度名乗ったのですが、そのときは魔女は顔も上げてはくれませんでした。でも今度は、魔女が自分を見て、自分の名前を呼ぶのが聞こえました。若者はそれを、嬉しく思いました。
魔女は若者の名前を声に出して呼び、今度は自分の胸に手を当てました。魔女の名前を知らない若者は困ってしまいました。魔女は何も言わず、くり返し自分で自分を指し続けました。しばらくして、若者は気付きました。魔女には、名前が無いのです。
若者は更にしばらく考えました。魔女はそのあいだ、ずっと待っていました。やがて若者は魔女の名前を決め、それを声に出して伝えました。魔女が、まだ意味も分からないその名前を気に入ったかどうか、若者には自信がありませんでしたが、魔女はその名前を素直に、嬉しそうにくり返しました。
次の日から、若者は天井を見上げ、一点に意識を集中させ、気温を上げずに氷だけを溶かす練習を始めました。その間、魔女はくり返し、覚えたばかりの四つの言葉──「すな」と「氷」と自分の名前と若者の名前──を唱えていました。
そして、若者の集中が途切れるころ、魔女は若者に、砂を握った拳を差し出しました。「すな」魔女は、掌の砂をこぼしながら言いました。そして今度は、空になった手の平を若者に差し出しました。反対の手でわずかに残った砂を払い、両方の手の平を若者に見せました。
「てのひら」
若者は言いました。魔女がそれをくり返すのを聞きながら、若者は、自分が想像したより遙かに多くの言葉を、この空間で魔女は覚えてくれるかも知れないと思い、嬉しくなりました。
若者は魔女に、同じように自分の手の平を差し出すと、「てのひら」と繰り返しました。今度はその手をひっくり返して、「てのこう」と言いました。魔女は不思議そうな顔をしました。自分の手を見つめ、「てのひら」と、何かを確かめるように言いました。それからそのまま「てのこう」と続けました。
若者は笑って魔女の手を取り、手の平を上に向けて「てのひら」、それをひっくり返して「てのこう」と言いました。手の平も手の甲も同じ「手」ですが、表と裏で違う呼び方をする事を魔女が分かってくれるか、試す気持ちも若者にはありました。
魔女が「手の平」と「手の甲」の違いをわかるまで、若者は根気よく同じ事を繰り返しました。「すな」という初めての言葉を覚えたときの何倍もかかりましたが、魔女は「手の平」と「手の甲」の違いと、それをまとめて「手」と呼ぶ事を覚えました。
こうして、若者は氷を溶かす練習をして、魔女は少しずつ言葉を覚えて日々を過ごしました。