その八
魔女が自分から進んで何かを始める様子を、若者は初めて見ました。
若者は、砂遊びを始めた魔女をそっと見つめました。魔女の横顔は無表情で、砂遊びを楽しんでいるのか、それとも他のことを考えているのか、若者には分かりませんでした。
若者は、魔女をまねて砂をもてあそびました。横目で覗く魔女の目は、流れる砂を見ているようでいて、どこか遠くを見ているようでもありました。無表情なまま遊び続ける魔女の様子は、若者の目には、ひどく寂しい情景に映りました。
その寂しさは、実は若者のものでもありました。故郷を離れ、あてどなく旅を続け、身を守るために人を殺し、その能力故に自分は他の存在とかけ離れていることを若者は思い知らされました。若者は、自分と魔女は同じ存在だと、改めて思いました。
若者は魔女に、自分は仲間だと伝えたいと思いました。若者は、手のひらにすくった砂をこぼして、魔女と同じようにその流れを見つめました。
いま、二人は同じ物を見ています。魔女にそれを分かってもらいたいと若者は思いながら、砂をもてあそびました。
魔女はくり返し砂を持ち上げては、手のひらからこぼしてその流れを見つめていました。
気づくと、隣にいるそれが、魔女と同じように砂をもてあそんでいました。
それは、魔女が気づくのを待っていたようでした。
「すな」
それは、音を立てました。
それは魔女と同じように地面をなで、手に砂を握ってゆっくりとそれをこぼし、魔女を見て、それから自分の手からこぼれる砂に目を移して、もう一度、同じ音を立てました。
「すな」
魔女は、自分が手のひらにすくった砂と、それが手からこぼす砂を交互に見つめました。地面に広がり、いま手のひらにある物の名前を、魔女は知りませんでした。それでも、自分の手にある物と、それが地面にこぼしている物が、同じ物だということは分かりました。
隣にいるそれが、みたび同じ音を立てました。
「すな」
若者は、魔女が自分の動きに気づいたことをその視線で確かめると、魔女の目を見てゆっくりと言いました。同じように地面をなで、砂をもてあそびながら、今度は手から流れ落ちる砂を見て、もう一度くり返しました。
「砂」
若者の目には、魔女がこれまでのように怯えているようには見えませんでした。魔女が自分の手のひらと若者の手元を交互に見比べる様子を、若者は確かめました。もう一度、若者は魔女に手のひらにある物の名前を伝えました。
「砂」
若者にとって残念なことに、魔女はその言葉を口にしませんでした。そのかわりに、思いがけないことが起こりました。
魔女が、持っていた砂を若者に向かって投げつけたのです。「うわ」砂を浴びた若者は、思わず声を上げました。魔女は、さらに地面の砂を若者に向かって浴びせかけました。
「おい、ちょっと、止せって」
若者は慌てて、魔女に言葉が通じないと分かっていながら、制止の言葉を口にしました。先を急ぎすぎて魔女に拒絶されたと、若者は後悔しました。
そのとき、浴びせられる砂の隙間から、魔女の顔がちらりと見えました。魔女は怒った顔をしていました。若者はどきりとしました。魔女が、怯える以外でその気持ちが分かるような表情を若者に見せたのは、これが初めてのことでした。
しばらくそのまま、魔女に見入っていた若者は、ふと思い立って魔女に砂をかけ返しました。魔女が小さな声を上げました。若者は、魔女が声を出せることに気づいて一瞬手を止め、また砂をかけ返しました。
砂かけ合戦は、賑やかな時間になりました。
やがて二人は、どちらからともなく砂をかけることをやめました。若者は苦笑いしながら立ち上がり、体を覆う砂を払い始めました。魔女も同じように立ち上がり、マントを持ち上げ、砂を払い始めました。
魔女はそれがここから消える事もなく、また音を立て始めたことに苛立ちました。ですが、繰り返される音は全部同じに聞こえました。それは自分と同じように地面に広がる物を弄び、魔女の手元にある同じ物を見て、同じ音を立て続けました。
魔女は、それが立てるその音が、自分の手のひらにある物を指していることに気づきました。
ずっと一人ぼっちで言葉を知らずにいた魔女は、それまで自分の身の回りのものごとに、それぞれを表す音があるなどとは知りませんでした。
「すな」
三度目にそれが音を立てたとき、魔女は「自分」を表す音を知らないことに唐突に思い至りました。魔女はまた、内側を大きく揺さぶられました。それは「腹立たしい」という気持ちでした。その気持ちのままに、魔女は手にあった「すな」をそれに向かって投げつけました。
それが「すな」を投げ返してきて、驚いた魔女は思わず声を上げました。そして、自分もそれと同じ音を立てることができることを、魔女は思い出しました。最後に声を上げたのは、恐ろしい経験をしたときでした。
でも今は、自分がそれにしたように、それが砂をかけてくるだけで、恐ろしいことは起こりませんでした。砂をかけ合う間、魔女は時折、歓声を上げました。魔女はまだ、その気持ちを表す言葉を知りませんでしたが、そのとき彼女が感じていたのは「楽しい」という感覚でした。
やがて砂をかけ合う事をやめると、それは立ち上がって砂を払い始めました。魔女もそれを真似しました。
「…す…な…」
マントから落ちる砂を見ながら、魔女が小さな声で言いました。若者は思わず魔女を見ました。
「すな」
魔女はもう一度、覚え立ての言葉を忘れまいとするかのように、繰り返しました。魔女は、もう怒った顔はしていませんでした。
若者の顔に、笑みが広がりました。それは無理に作った笑顔でも、苦笑いでもありませんでした。若者にとって、こんなふうに嬉しいという気持ちはとても久しぶりでした。
砂を払い終わって地面に座った二人の距離は、それまでよりほんの少しだけ近づいていました。
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