その五
少女は怯えていました。生まれて初めて自分と砂以外の動く存在と出会ったときのことを、彼女はよく覚えていました。それが倒れて動かなくなり、何か気味の悪いものに変わっていく経過も、よく覚えていました。
少女は今も、言葉を知らないままでした。だから、そのときの感情を、「恐怖」だと理解することはできませんでした。その場から逃げ出したことも、氷を作り続けたことも、少女にとってはただ無意識に自分を守るための行為でしかありませんでした。
これまで、氷の壁のなかには何も入ってきませんでした。得体の知れない動くものも、少女の体から自由を奪うものも、少女に苦痛を与えるものも。
引き替えに少女は、様々なものを失いました。砂漠を渡る風を頬に感じることも、風に乗る砂のダンスを見ることも、鮮やかな夕日も。
でもいまは、あのときとよく似た存在が、目の前に居るのです。これまで自分を守ってきた氷の壁は、逆に逃げ場所を少女から奪うことになったのです。怯えるのは当然のことでした。
あのときとよく似たそれは、あのときと同じように、奇妙な音を立てました。
たとえ異国の言葉であっても、言葉の存在を知っている人間には、意味は通じなくともその奇妙な音が声であり、自分に何かを伝える言葉だと分かります。ですが、少女は人と話したことがなく、言葉そのものを知らずにいました。だから、自分に投げかけられる声と言葉は、奇妙な音としか思えなかったのです。
また乱暴に自由を奪われるのではないか、目の前のそれが、何か訳の解らない変化を見せるのではないか。あのときの記憶をなぞり、少女は恐ろしさに顔を伏せました。
突然やって来たように、そうしてうつむいている間に消えてくれればいい。言葉を持たない少女はひたすら、これまでどおり、この空間に自分一人きりでいる様子を思い描きました。
でも、そうはなりませんでした。代わりに、それは少女に体を覆うものをくれたあと、距離を取って砂の上に少女と同じように座り、奇妙な音を立てるのを止めました。
それから少しして、少女は、自分の回りの空気が柔らかくなるのを感じました。
氷に囲まれた小さな空間は冷え切っていて、冷たい空気が少女の膚をちくちくと刺していました。若者が空気を暖めたことで、その痛みが和らいだのです。
少女には理解出来ないことばかりでした。
ただ、ここへやって来たそれは、どうやら自分の自由を奪ったり、気味の悪い何かに変わることはなさそうだと思いました。少女はほんの少し警戒心を緩め、少しだけ顔を上げて座り直しました。
それでも少女は若者を見ようとはせず、足下の砂を見つめていました。
少女は、言葉だけではなく、自分の変わった能力のことも、その力を抑制するすべも知りませんでした。自分を世界から覆い隠し守っている物が氷と呼ばれていることも、その氷を作っているのは自分自身だということすら知りませんでした。
そして、氷の天井から雫が落ちるのを見たときも、それが何かは分かりませんでした。
ただ、まだ外で暮らしていた頃に、似たものがたくさん落ちて来たことがあったのを思い出しました。それは砂漠に降る、一時の激しい雨です。雨にからだが濡れる感触を思い出して、少女はマントを頭からかぶりました。
スコールとは違って、雫は氷の天井からゆっくりと不規則に落ちてきました。少女がじっと天井を見つめると、天井の氷は溶けるのを止め、再び凍り付きました。
小さな空間は、寒くはなりませんでした。
若者は、自分が放った熱で溶けた氷が、空間の温度に関係なく再び凍る様子を見て、彼女が本当に氷の魔女なのだと、ようやく納得しました。若者は心のどこかで、少女は何かの間違いでこの氷山に閉じ込められたのではないかと疑っていたのです。
言葉が通じない、少なくとも魔女が自分の言葉を理解しない様子だったことを、若者は思い返しました。魔女をここから連れ出すのは、難しいことだろうと若者は考えました。言葉が通じなければ、力を使うことを止めるよう説得するこもできないのです。
それに言葉が通じなければ、些細な誤解から、思いがけない場面で魔女がその力を振るうかも知れません。もしもそうなったら、自分はどう対処できるか、若者は自信を持てませんでした。
ここにたどり着く前、砂山で襲われたあのとき、自分は何をした?
殺される恐怖から、相手を殺したではないか。それも、他の人には無い特殊な力を使って。
生き残った男の『お前は化け物だ』という言葉が耳に蘇り、若者はその声から逃れるために首を大きく振りました。
若者がこれまで聞いてきた噂では、魔女は人を襲い、殺してしまう存在でした。
それはつまり、すでに魔女に殺された人間がいるということです。隣にいる痩せた少女に、もう一度そんな罪を犯すようなことは、して欲しくないと若者は思いました。
魔女に言葉を教えること。二人でここを出て行くためには、それが必要でした。
自分にそんなことができるだろうか? 若者は考えました。魔女は自分のことを恐れているのか、相変わらずこちらを見ようとはしません。もう一度話しかければ、さらに怯えさせることになるかも知れません。
まあいいか、時間はたっぷりある。若者はそう思い、魔女が自分の存在に慣れることを待とうと決めました。
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