その四
若者は故郷の村と、そこに残してきた母親を思い出しました。母や友達は、村の人々は、今頃どうしていることでしょう。あの村で、水が涸れていくことに悩み続けているのでしょうか。
魔女を倒せば氷山が溶け、多くのオアシスに水が戻ることでしょう。故郷の村も例外ではないはずです。魔女を倒すことで、若者は砂漠の英雄になれるかもしれません。それは、旅の途中で夢想したことでした。英雄として村に帰れば、村人達は帰ってきた若者を、村の誇りとして迎えてくれるでしょう。
けれど今の若者はもう、英雄として多くの人々に迎えられる自分を想像することはできませんでした。
『お前は化け物だ、あの氷の山を作った魔女と、何の違いもない』
生まれて初めて、自分の意思で力を使って怪我をさせた、あの男の言葉が耳に焼き付いて離れませんでした。
化け物が化け物を倒したところで、人を傷つけ殺めた事が、人の世界で赦されるものでしょうか。ましてや人に讃えられるなど、若者には考えられませんでした。
それとも、人の世界にもう一度受け入れられるために、同じ化け物である魔女を殺すのでしょうか。ひょっとすると、この世にたった一人の同胞かも知れない存在を。
魔女を倒し、氷山を溶かして砂漠を救うことで、自分の危険な力は大目に見てもらう。
それは若者には、あまりにも身勝手な事に思えました。
氷山に出入り口はありませんでした。それは、魔女はこの氷山から外に出ていないということです。『氷の魔女』は、噂に聞くような、人を襲う存在ではないかもしれない、そう若者は考えました。
魔女が一つところに居続けるから、そこに水が氷になって集まってしまうのです。魔女を殺さずとも、氷山から連れ出せば、やがて氷は溶けてしまうでしょう。
はずみとはいえ、一度人を殺した若者は、魔女を殺すことに強い抵抗を覚え始めていました。
連れ出した魔女と二人で放浪の旅を続けるのも悪くはないと、若者は考えました。魔女が子供だろうと老婆だろうと、人の姿をしていれば、短いあいだはどこかのオアシスに潜り込めるでしょう。なんと言っても、『氷の魔女』の顔を知っている者はいないのですから。
やがてそんな考えも忘れて、若者はひたすら氷山の中を進んでいきました。氷山の中はどこも白くぼんやりと明るく、ともすれば若者は方向を見失いそうになりました。
気がつくと、自分が進んできた穴は再び凍り付いて、退路は断たれていました。若者には、それが「ここから出たくない」という魔女の意思のように思えました。
魔女に会うことをあきらめて氷を溶かして外へ戻ることは、若者には簡単なことでした。それでも、若者は進むことを選びました。
氷の中が薄紅に染まり始めました。外では、日が傾いてきたのでしょう。やがて氷の中は鮮やかな朱に包まれ、そして暗くなりました。若者は砂の上に座り、氷の壁に背を預けました。
いつの頃からか、若者は熟睡することが無くなっていました。体から生まれる熱が、何かのはずみで暴走することが怖かったからです。でもここでは、そんな心配はいりません。若者は背中の氷の冷たさを心地よく、頼もしく感じながら眠りにつきました。
明るい間は氷の中を進み、暗くなると眠りにつく。若者は、三度、それを繰り返しました。四度目の朝を迎え、若者はまた氷の中を進みました。そして、日が傾く前に、小さな空間にたどり着きました。
はたして、その小さな空間に、魔女はいました。
いや、魔女かどうかは分からないけれど、若者とそう年頃の違わない、少女といっても通りそうな、ほっそりとした若い女です。長い髪が背中と腕を覆っていました。
噂に聞く『氷の魔女』とは随分と違っていましたが、彼女がこの氷山の主だと考えて、たぶん間違いないでしょう。少女は、砂の上に座り込み、両腕で抱えた膝の上に顔を埋めていました。若者の気配に気づかないのか、少女は顔を上げようとはしませんでした。
「君が、氷の魔女?」
若者はそう声をかけました。少女は返事をせず、顔を上げることも無く、ただうずくまったまま、じっとしていました。
次に、若者は自分の名を名乗り、少女の名を聞きました。やはり、少女は答えませんでした。言葉が通じないのか、あるいは聞こえないのかも分からず、若者はさすがに困ってしまいました。
ただ、若者には、目の前の痩せた少女が、人を襲う魔女だとは思えませんでした。
少女が身につけているのは、下着のような薄物一枚だけです。いかに『氷の魔女』とはいえ、この氷の部屋でその格好は寒いのではなかろうか、若者はそう思いました。それに少女の格好は、若者には目の毒でした。
若者は自分が着ていたマントを脱いで、少女の背にかけました。少女はびくりと体を震わせて、顔を上げました。少女の大きな目に、若者の姿が映りました。次の瞬間、少女は再び膝に顔を埋めました。それはまるで、若者の姿を幻にして追い払おうとしているようでした。
「何もしないよ」
若者は穏やかな声で言いました。やはり少女からの返事はありませんでした。若者はため息をつくと、少女から少し距離を置いて、砂の上に腰を下ろしました。若者は少女に問いかけることを止め、これからどうするかを改めて考え始めました。
とりあえず、この空間は自分にとって寒すぎる。若者はちらりと横目で少女を見て、彼女がマントを放り出さないことを、彼女も寒いのだと自分に都合よく解釈することにしました。若者は力を解放して、空間を少しだけ暖めました。
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