その三
若者がそれに気づいたのは、砂山の中ほどまで上った頃でした。若者は歩く速さを緩めて耳を澄ませました。
さく、さく、さく。
自分の後ろから、微かに砂山を登る足音が聞こえてきました。どうやら一人では無いようです。村人でしょうか。その音は少しずつ近づいてきました。
氷を切り出しに行くのだろうかと若者は考え、それからその考えを否定しました。氷山の場所を教えることを、村の長老は拒みました。ならば、氷を切り出す必要があるからといって、自分のすぐあとについて来る訳がありません。氷山の場所を教えるようなものです。
若者は足を速めました。ついてくる足音もそれに合わせて速度を上げました。歩みを緩めると、足音も少し速度を落としました。自分が後をつけられていることを確かめ、若者は背筋に緊張が走るのを感じました。
追われている。狙われているんだ。
若者は後を追われていることに気づかないふりをして、砂山を登り続け、尾根を登り切るまであと少しというところへたどり着きました。近づいてくる足音は、もう気配を隠そうとはしていません。振り返ると、屈強な男が二人、若者を見据えたまま近づいてきました。昨日、長老を守っていた男達です。
一人の男が、剣を抜きました。若者も護身用のナイフを抜きましたが、それは男の振るう剣に弾き飛ばされてしまいました。男は若者の頭上に剣を振り上げました。若者は振り下ろされる剣をかろうじてかわすと、両手で男の腕を取り、その手に思い切り強く熱を呼び起こしました。
人を傷つけるためにその力を使ったことは、これまでありませんでした。若者の中で、ちりちりと良心が痛みました。男は腕を襲う熱さに悲鳴を上げ、剣を落としました。若者がその剣を拾うより早く、もう一人の男が斬りかかってきました。
間に合わない。
殺される事への恐怖が、若者から一瞬、理性を奪い去りました。その体から制御不能の高熱が吹き出し男を襲いました。衣服を焦がし肌の焼ける、嫌な匂いがあたりに立ちこめました。男は剣を握ったまま、砂の上に倒れました。
若者は脱力感と共に砂の上に膝をつき、そのまま座り込みました。腕を焼かれた男が、倒れた男の名を叫びながら駆け寄りました。若者は砂の上にへたり込んだまま、その光景を呆然と見つめていました。
殺すつもりなんて無かった。ただ、自分の身を護っただけだ。
頭の中で繰り返すその言葉は、自分でもひどく虚ろに感じられました。気づくと全身が小刻みに震えていて、それは意思の力では止めることができませんでした。
腕を焼かれた男は、仲間の焼けただれた亡骸を抱きかかえ、若者を化け物と罵りました。
「お前は化け物だ、あの氷の山を作った魔女と、何の違いもない」
その言葉は正しいと、若者は思いました。
若者は体の震えを悟られないよう注意しながら、ゆっくりと立ち上がりました。
「その人を連れて、村に帰ってください」
若者は男に言いました。男は若者を睨みつけました。
「化け物が、何を言う。殺せば良かろう。おめおめと一人で帰れるものか」
若者はそれには答えませんでした。
「それと長老に『村人を傷つけて申し訳ない』と伝えてください」
それだけ言うと、生きている男と自分が殺した男に背を向けて、砂山を再び登り始めました。村の男は、それ以上追ってきませんでした。
尾根を越えると、眼下に砂漠の果ての景色が広がりました。砂山の斜面を下って、平らな砂地のあちこちに岩が顔を覗かせ、次第に岩が増え、その向こうに壁のように高い岩山が連なっています。山脈の隙間にところどころ遠く、深い緑が見えました。連なる山の途中からは、水の豊かな世界なのでしょう。
山脈の手前、小さな岩があちこちにそびえる中に、氷の山はありました。他の岩山と違う、透明感のある白い山です。山と言っても、その背後に連なる山々にはとうていかなう高さではありませんでしたが、回りの小さな岩山よりは、一回り大きなものでした。
日は傾き始め、氷の山は遅い午後の光を受けてきらめいて見えました。
砂山を下り、午後の日差しが朱を帯びた夕日に替わる頃、若者はついに氷の山へたどり着きました。若者は、夕日を反射して赤く染まった大きな氷山の周りをゆっくりと回りました。
もうすぐ日が落ちます。若者は近くの岩に身を預けました。詳しく調べるのは明日のことです。
夜が明けて、朝の日差しが若者を起こしました。目が覚めた若者は、氷の山を見やりました。朝日を浴びて、氷がきらめいて見えます。昨日より、氷山がほんの少しだけ大きくなっていると思うのは、若者の思い過ごしでしょうか。若者はゆっくりと立ち上がり、氷山の回りを調べ始めました。
氷の表面をそっとなでながら、ゆっくりと進みます。氷のところどころに、小さな亀裂がありました。
どれかが魔女の居場所までつながっていればいいのだけれど。
若者はそんなことを考えながら、氷山の回りを丹念に調べました。若者は氷山の周りを一周しました。用意された出入り口や、中へ入れそうな大きな亀裂は、残念ながら見つかりませんでした。
氷山の周りを回ってみて分かったのは、多少のでこぼこがあっても、氷山はほぼ円錐状の形をしているということでした。魔女がいるのは、おそらく氷山の真ん中でしょう。どこから初めても同じだと思い、若者は氷山を調べ終わった最後の場所で、氷を溶かし始めました。
魔女に会ったら、自分はどうするのだろう? 氷山の中心へ向かってじりじり進みながら、若者は考えていました。
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