その十五
若者と魔女が氷山の外に出たのは、若者が氷の部屋へたどり着いたときと同じ、氷を溶かし始めて四日目の午後でした。それはつまり、氷山は大きくなっていないということです。若者は、氷山の中で自分の力を解放したことは良い判断だったと思い、内心、胸をなで下ろしました。
久しぶりに感じる午後の日差しは力強く、若者はまぶしさに目が眩みました。若者は、自分よりずっと長いあいだ氷の中にいた魔女が、日差しの強烈さに倒れてしまわないか心配になりました。振り返ると、魔女もまぶしそうに空を見上げていました。
抜けるような青空と、熱く乾いた風が、二人を包んでいました。
魔女は空の青さに満足すると、若者の手を取りました。「手をつなぐ」そう魔女は言って、楽しそうに若者の手を引いて歩き出しました。若者は魔女に手を引かれるまま、後に続きました。
魔女は、しばらく歩いて足下の日に焼けた砂の感触を充分に楽しみ、若者を振り返りました。若者から笑顔が返ってくるのを確かめて、魔女はつないでいた手を放し、砂を蹴り上げてはしゃぎました。はしゃぐ魔女の周りに、ごく小さな氷の欠片が、きらきらと舞い散って溶けていきました。
魔女はとても久しぶりに、その光景を目にしました。そして子供の頃と同じように、きらめきながら溶けて消えてゆく氷の欠片に心を揺さぶられました。
若者は、初めて見るその光景を綺麗だと素直に思いました。ごくごく小さな氷の欠片が、日の光を受けて輝き、きらめきながら溶けて空気の中に消えてゆく。そのきらめきの向こうに、魔女が楽しげに笑っています。
若者は一瞬、氷の欠片と一緒に魔女が溶けてしまうような錯覚を覚えました。魔女がそこにいることを確かめるため、若者は魔女の隣に並びました。魔女の姿は空気に溶けることなく、確かにそこにいました。若者は安心して、
「綺麗だね」
思ったとおりの言葉を口にしました。
「きれい?」
魔女が、初めて聞く言葉を聞き返しました。
「うーん、綺麗っていうのは…」
若者は説明に悩みました。
「氷がの粒が光って溶けて消えていったみたいに、ずっと見ていたいこと」
とりあえず、嘘ではありません。本当はそのきらめきの中にいた魔女のことも綺麗だと思ったのですが、それは言葉にしませんでした。
「ずっと、見ていたい?」
見る、と言う言葉を魔女はもう知っていましたが「ずっと」も「~したい」も、まだ知らない言葉でした。
若者は、「そう」とだけ答えました。形も動作もない言葉を説明するのは、若者には難しいことでした。魔女は少し不満そうに若者を見ました。
でも、氷の欠片がきらめきながら溶ける様子を「きれい」と呼ぶことを、魔女は覚えました。その様子には、いつも内側のなにかを揺さぶられます。魔女は、長い氷の通路を抜けて、よく晴れた空が目に飛び込んで来たときも、やはり内側でなにかが揺れるように感じたことを思い出しました。
「きれい?」
魔女は、空を指さして若者に訊きました。
「ああ、きれいな青空だね」
若者が答えました。
「きれいなあおぞら」
魔女の言葉に、若者は頭上を指さして、「空」と言いました。「青空、曇り空、夕焼け空、星空」
若者がたくさんの「空」を言うのを聞いて、魔女は目を丸くしました。
「そら」魔女は空を見上げて言いました。「あおぞら」
言いながら魔女は、もしかすると「きれいなもの」はとてもたくさんあるのかもしれないと思いました。そして、自分が知った「きれいなもの」、自分の内側のなにかを揺さぶるものを思いうかべたとき、「ずっと見ていたい」の意味を、魔女は曖昧にですが理解しました。
二人は、特にあてがあるわけでもなく、辺りを歩き回りました。氷山に戻るかどうか、若者は魔女の胸の内を気にしていました。一方、魔女は、手をつないでいなくても、若者がちゃんとそこにいることに満足していました。
魔女は若者を見つめました。若者を見ていると、魔女の内側は温かく、穏やかになりました。
反対に若者に置き去りにされることを想像したときは、内側が揺さぶられるような感じはありましたが、その揺れ方は、氷の欠片が溶けていくところや、青空を見たときとはずいぶん違っていました。
それは、ひとりぼっちの氷の部屋で肌を刺していた痛みが、自分の内側を目がけてくるような感覚でした。青空や、氷の欠片達がきらめいて溶けていく様子を「きれい」というのなら、若者を失う感覚はなんと呼ぶのだろうと思い、そしてその考えを打ち消しました。
若者を失う痛みをどう呼ぶのかなど知らなくていい、と魔女は思いました。それよりも、知りたいのは、若者を見て感じる温かさはどう呼べばいいのかということだと思いました。それはきっと、耳に心地のよい音に違いありません。
若者は、魔女に見つめられていることに気づき、魔女の名を呼びました。魔女が近づいてきます。若者は、氷の山を指さしました。若者は、長く氷の中にいた魔女が、外に出て疲れているのではないかと気にしていました。太陽はだいぶん傾いて、夕方を迎えるまであと少しです。
魔女は、首を横に振りました。魔女は今日は氷の中に戻りたくはありませんでした。
魔女の記憶が確かなら、これから「そら」は様々に姿を変え、暗くなった後には、溶けない氷の欠片のようなきらきらしたものがたくさん見えるはずです。
外にいれば、きっと若者がそれらの呼び方を教えてくれるでしょう。でも、氷の部屋へ戻ったら、その様子を見ることも、呼び名を知ることも出来ません。魔女は、懐かしい景色を見たかったし、新しい言葉を覚えたかったのです。
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