その十一
それでも、魔女にとってあの日と違うことがいくつかありました。
一つは、氷の壁です。あの日は、まだ壁はなく魔女は砂漠にむき出しで座っていました。今は、氷の壁が魔女を取り囲んで、外の世界から魔女を切り離していました。
そしてもう一つは、若者の存在でした。若者は、あの日の商人と同じように、前触れもなく魔女の前に現れました。でも、凍り付くこともなく今も魔女の隣にいます。座り込んだ自分の隣に、若者が同じように腰を下ろす気配を魔女は感じ取りました。
最後にもう一つ。いま、魔女はいくつかの言葉を知っていました。
言葉を知ったことが、魔女に自分の行いの意味を知らせ、魔女をあの日とよく似た恐怖へと駆り立てました。ですが、言葉を知ったことで、今は隣にいる若者と話をすることができました。長い間、言葉を知らずひとりぼっちでいた時間も、やって来た若者が恐ろしかった時間も、今では遠い昔のようでした。
魔女は、言葉を知らなければ良かったとは思いませんでした。
そして忌まわしい記憶に顔を伏せたまま、魔女は若者の名前を呼びました。
若者は、魔女が真剣に氷を見つめ、やがて座り込んでしまう様子をずっと見ていました。砂の上に座り込んでしまった魔女の姿は、なぜか砂山で村人を焼き殺した時の自分と重なりました。若者は、初めてここへ来た日のように、魔女の隣にそっと座りました。
魔女の声が、自分を呼ぶのが聞こえました。若者は返事を返しました。
魔女は何度も何度も若者の名前を呼びました。そのたびに若者は返事を返しました。
魔女はその間、一度も顔を上げようとはしませんでした。
魔女は、怖かったのです。若者があの日の商人のように凍り付いてしまうのではないかと、そう思うと怖くて、顔を上げることができませんでした。でも、顔を上げなければ、若者の姿を目で確かめることはできません。
目で確かめるかわりに、魔女は若者の名前を呼びました。返事があれば、それは若者は氷っておらず、恐ろしい物に変わってもいないということです。魔女は気持ちが落ち着くまで、何度も若者の名前を呼んでは、返事が返ってくることを確かめました。
やがて魔女は、膝を抱えたまま眠りにつきました。
若者は、魔女にマントをかぶせてやると、自分も砂の上に体を横たえて眠りました。その夜の若者の夢には、人の皮膚が焼ける匂いと焼けただれた肌の色、それと「お前は化け物だ」という村人の言葉がくり返し現れては消えました。
次の日は、若者は熱を制御する練習にあまり身が入らず、魔女の口から出る言葉も少なくなりました。ただ、二人の距離は昨日までよりもっと近づきました。魔女は言葉では表せませんでしたが、朝が来て目覚めたとき、若者がちゃんと生きていることに安堵しました。
若者は、魔女の存在を隣に感じながらぼんやりと考えました。
魔女も自分も、普通の人から見れば化け物だろう。
このままここにいれば、普通の人間との間にいざこざは起こらない。
今、若者は苦い記憶が意識の一番上に来ていて、氷を溶かして外に出ることに臆病になっていました。多分それは、魔女も同じだろうと若者は思いました。
でも、それでいいんだろうか?
それでいい訳がないことを、若者は承知していました。自分は何のためにここへ来たのか、若者は忘れていませんでした。魔女に会うだけでなく、氷山を溶かし、オアシスに水を取り戻すためです。
若者は、魔女がいつからここにいるのか知りませんでした。それでも氷山の大きさから考えて、随分長いこと、ここにいるのは間違いないでしょう。
若者は、魔女を外に連れ出して、太陽の熱に氷山を溶かすことを任せようと考えたことを思い出しました。そしてふと、魔女にこの氷の壁だけではなく、外の世界を見せてやりたいと思いました。それは若者の本心でもあり、「ここにいればもう苦しまずに済む」という誘惑を断ち切り、氷を溶かすという目的を見失わないための方便でもありました。
若者は一度立ち上がって、うん、と腕を上げ大きく伸びをしました。
いずれにせよ、今すぐ魔女を外へ連れ出すことは出来ません。そもそも魔女は、外の世界から逃れるために氷の山を作ったのだろうし、外へ出るには言葉も不十分でした。
また、自分自身も、熱を自由に操れるとは言いがたい、と若者は思いました。若者は気を引き締めて、再び天井を見つめました。昨日より時間はかかりましたが、何とか気温を上げずに氷を溶かすことに成功しました。
天井から雫がしたたり落ちました。
魔女は雫が砂に落ちる微かな音に、びくりと体を震わせました。昨日の経験は、魔女を混乱させていました。自分が目の前の氷を作ったことも、あの商人を氷らせてしまったことも、魔女は理解しました。でも、なぜ、自分にはそれが出来るのか、どうやってそれを成し遂げたのか、魔女には分かりませんでした。
昨日、若者は魔女の目の前で氷を溶かして見せました。いま天井から落ちた水も、若者が溶かしたものでしょう。若者がなぜ氷を溶かそうとしているのか、魔女には分かりませんでした。
若者が来てから、魔女は外の世界を思い出し、恋しく思うことがありました。それでもまだ、魔女とって氷の壁の外は恐ろしい場所でした。若者が氷を溶かすのを止めて、ずっとここにいればいい。魔女は言葉ではなくその情景を思い描き、それから自分の考えに驚きました。
いつのまにか、魔女にとって、若者は、そこにいるのが当然のことになっていたのです。まるで魔女を取り囲む、氷の壁のように。
若者はいつか、氷の壁を溶かして外へ出て行ってしまうかも知れない、やって来たときのように。そうなったら、自分はまたひとりぼっちになってしまう。魔女は若者が氷を溶かすことを悲しく、腹立たしく思いました。
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