その十
そしてついにある日、氷の部屋は暑くなることなく、氷の天井から雫がしたたり落ちました。溶けて落ちた雫は、若者の顔を濡らしました。
「やった!」
思わず若者ははずんだ声を上げました。魔女は普段は穏やかな若者の大きな声に驚き、若者を振り返りました。
若者は落ちてくる雫を手で受け、魔女に「みず」と言い、雫で濡れた手を差し出しました。魔女は若者の手に触れ、自分の手が濡れる感触を初めて知りました。若者が再び天井を仰ぐと、新しく雫が落ちてきました。魔女は落ちてくる雫を、手で受け止めました。数滴の雫が、魔女の手の平に小さな水たまりを作っています。
魔女は手の平の中の、色のない、形の定まらない何かを見つめました。以前にも一度、若者がやって来てから、いま手の平にあるそれが落ちてきたことがありました。魔女は一人でここにいる間、一度もそれを見たことがありませんでした。
「みず」
そう小さな声でつぶやくと、魔女はそれがどうやってできるのか不思議に思いながら、熱心に水を見つめました。魔女の手の中で、水が次第にほの白く固まっていきます。
「……こおり」
魔女が、手の平を見つめながら言いました。魔女の手の平にあった「水」は、その手の中で氷へ姿を変えました。
「そう、氷。それがきみの力だ。きみが水を氷に変えたんだよ。」
魔女に言葉が伝わらない事は分かっていましたが、若者はそう言いました。
それから、若者は魔女が持つ小さな氷に触れて、力を使いました。魔女の手の中で、氷は再び水へ姿を変えました。
魔女は水が入った手の平をゆっくり下へ向けました。手の平から、握った砂がこぼれたときのように、凍っていない水が流れて落ちました。流れ落ちた水は、砂に吸い込まれて消えてゆきました。
魔女は若者の方を向いたまま氷の天井を指さし、「こおり」と言いました。それから、水を吸い込んだ砂を指さし、戸惑ったような口調で「…みず」と続けました。
若者は頷いて立ち上がり、氷の壁に向かいました。そして手の平を壁に当て、意識をそこへ集中させました。若者が触れている部分の氷が溶け出して、水がその下の氷の壁を伝いました。
始めのうち、水は地面に届く前に凍りましたが、それは魔女が凍らせたのではなく、氷の壁が水を冷やしたせいでした。若者は更に熱を加え、氷を溶かし続けました。溶けて流れ続ける水は、やがて地面まで届きました。若者が壁から手を放すと、氷の壁の、若者が手を当てていた部分だけが窪んでいました。
魔女はじっとその様子を見ていました。それから、周りの壁や天井をぐるりと指さして、「こおり」と言い、すぐに「みず」と続けました。次に魔女は、氷の壁の窪んだところにそっと手を触れました。そして壁から手を放して、窪んだ空間に手を遊ばせながら、「みず」と言い、窪んだ所の手を入れて改めて壁の奥を触りながら、「こおり」と言いました。
自分たちを囲む白く堅く冷たい物と、若者が見せた透明な流れる物の本質が同じである事を魔女は理解しました。そして自分が理解したことを、わずかな言葉と行動で、若者に伝えました。
魔女は氷と水の関係を曖昧ながら理解しました。でも、「氷が溶けて水になり、流れていったのでこの部分がへこんでいる」という、頭の中では解っている一連の事を言葉で説明することは、魔女にはまだできませんでした。
若者が壁に触ると、なぜ氷は水に変わったのか。自分の手の平の中で、なぜ水は氷に変わったのか。それもまた魔女には分からないことでした。魔女には、魔女自身の力を説明した若者の言葉の、半分も分かりませんでした。
ただ、氷と自分の間に関係がある事は、魔女に確かに伝わりました。魔女は氷の壁をなでながら、「氷」と言いました。壁を見つめるまなざしは真剣でした。
氷の壁は長い間、魔女を守ってきました。それがいつからだったか、魔女はよく覚えていました。
それは、魔女にとって思い出したくはないことでした。
そして、思い出さなければならない時がやって来たのです。
氷の壁の向こう。照りつける太陽と吹き抜ける風、冷えた夜空に輝く星々。
なぜ、それらを失ったのか。
日の光の下で、大きく腕を振るときらめいて消えていった小さな欠片達。
そのきらめきも、魔女がなくした物の一つでした。
魔女は思い出しました。きらめいては消えていく欠片達、あれは確かに、ごくごく小さな「こおり」でした。
そして、魔女は悟りました。この冷たい半透明の壁は、自分が作り出したものなのです。
この壁を作ることを自分が望んだのです。言葉を知らない頃に、言葉ではない強い願いで。その願いは、氷の欠片が山へ姿を変えるほど強かったのです。
魔女は、氷の壁に向かって立っていました。そしてその目は、壁の向こうの、日に照らされた砂が広がる世界を見つめていました。かつて、確かに自分がいた世界を。その中に、あの日の商人と自分の姿が浮かび上がりました。
話しかけてくる商人と、怯える自分の姿。凍り付いていく商人。商人はやがて倒れてその姿は変容していきました。氷の壁と同じように、あの恐ろしい経験もまた、自分が引き起こした事なのだと、魔女は気づきました。
魔女は崩れ落ちるように、砂の上に座り込みました。商人の屍から逃げて、走り疲れて座り込んだあの日のように、何もかもが恐ろしくなって、魔女はただ膝を抱え、その膝に顔を埋めました。
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