その一
いつかの時代のどこかのお話。
広い広い砂漠に、一人の女の子がいました。
女の子はひとりぼっちで、飢えることも渇くことも、知りませんでした。そしてそれを不思議だと思うこともありませんでした。女の子は自分と似た存在を見たことがありませんでした。そして何より、女の子は言葉を知りませんでした。だから「なぜ」と問うこともなかったのです。
女の子は、もう一つ不思議な力を持っていました。空気中のわずかな水分を、氷に変える力です。
女の子が腕を振ると、あたりの水分が凍てつき、ほんの一瞬、ダイヤモンドダストが彼女を包みました。小さな氷の欠片達は、キラキラと太陽の光を反射させながら、再び空気にとけてゆきます。それはとても美しい光景でした。
女の子は、その光景を見るたび、なにか、内側を揺さぶられるような感覚を覚えました。でも、言葉を知らない女の子は、その光景が「美しい」とも、「好きだ」とも、表すことが出来ませんでした。
言葉を知らないということは、自分の感じていることが何なのか分からないということなのです。
孤独。美しい物を目にしたときの感動。肌を突き刺す日差しの威力。それらのすべてが、女の子には理解不能な物でした。ただ、感じるのです。それが何かは分からないまま。
広い広い砂漠には、ぽつぽつとオアシスがあり、そこに暮らす人々がいました。
あるオアシスの小さな村に、男の子がいました。
男の子は早くに父親を亡くしましたが、母親と村人達に愛されて育ちました。
男の子は、熱を生み出す不思議な力を持っていました。
昼間は日差しで熱い砂漠も、夜には一気に冷え込みます。男の子の力は、村人達に重宝されていました。男の子は、村人達の役に立てることが嬉しい反面、なぜ自分だけが他の人と違うのか、いつも不思議に思っていました。もしこの力がなかったら、自分は村の中でただの厄介者だったのかも知れない、そんな風に考える事もありました。
女の子はある日、自分と風に舞う砂以外に動く物を初めて見ました。砂漠を渡る商人達です。生まれて初めて見る物に、女の子は見入っていました。
商人達も女の子を見つけました。商人達は女の子を見て、とても驚きました。こんな砂漠の中で、薄物を一枚まとっただけの小さな女の子がひとりぼっちでいるなんて、信じられなかったのです。中の一人が、女の子に声をかけました。
「どこから来たの?誰かと一緒なの?」
女の子は、見たことのない物が聞いたことのない音を立てて近寄ってくることに、動揺しました。もし言葉が分かるなら、商人の言葉に返事も出来たでしょう。恐怖より好奇心か、あるいは孤独に耐えられない気持ちが勝ったかも知れません。
「もしかして、誰かとはぐれてしまったの?」
商人は一歩、女の子に近づきました。女の子は後ずさります。
「怖くないよ、何もしないから」
商人は、女の子を保護するつもりでもう一歩近づき、女の子に手をさしのべました。驚いた女の子は、大きく腕を振ってその手をはねのけました。そのとき、女の子が振った腕の周りに、氷の欠片が舞い散りました。照りつく太陽の下で、商人はほんの一瞬、涼しさを味わいました。
このとき商人達の中で、女の子を保護する理由が変わりました。守るべき小さな存在から、自分達の旅を楽にする道具へと。あるいは、目新しい商品へ。
「さあ、ほら、おいで!」
商人の声はそれまでより荒々しく、言うことを聞かせるために脅すような口調へと変わりました。そして何を言っても返事をしない女の子の腕を、乱暴につかみました。女の子は、恐怖と痛みで声を上げ、必死で商人の腕を振りほどこうとしました。
商人は、女の子をつかんだ手の異変に気づきました。その異変は、手から手首、肘へと這い上がってきます。
「ああ、うわああ!」
見る間に凍り付いていく自分の腕に、商人は悲鳴を上げました。砂漠を渡る旅では経験したことの無い冷たさが、商人を襲いました。
何が起こったのか分からないまま、商人の仲間達はその様子を見つめていました。商人はついに、全身が凍り付いてしまいました。ゆっくりと砂の上に倒れてゆきます。女の子も商人の仲間達も、ただ息をのんで見ているだけでした。
目を開いたまま凍り付いた商人は、強い日差しの下で少しずつ溶け出しました。体から浸み出た体液が、倒れた商人の服とその下の砂を濡らしていきます。恐ろしい光景に、生き残った商人達は声を上げ、逃げ出しました。
「魔女だ、魔女に呪い殺される」
女の子は、そこにじっと立って、溶けてゆく商人を見つめていました。逃げてゆく商人の言葉は、女の子には理解出来ない物でした。目の前の、溶けてゆく商人の死体も、訳の分からないものでした。浸み出た体液が不快な匂いを放ち、商人の体は元に戻ることはありませんでした。
女の子は、足下の死体と商人達の逃げた方角を、ゆっくりと交互に見つめました。そして、これまで経験したことの無い感覚が足下から這い上がってくるのを覚えました。女の子は死体に背を向け、商人達が逃げた方角とは反対へ、駆け出しました。
本能的に死体から逃げ出すように、女の子は走りました。走って走って、何日も走って、ついに疲れて座り込んでしまいました。そこは、砂漠の西の果てまであと少し、というところでした。女の子は両腕で膝を抱え、その膝の上に顔を埋めました。女の子の周りで空気が凍てつき、氷の粒が空気中にきらめきました。それが溶けるより早く、新しい氷の粒が生まれてきました。氷の粒はやがて薄い氷の膜へ、そして時間をかけて氷の壁へと、姿を変えていきました。
商人達は、村々で市を開くたび、魔女の話をしました。小さなかわいらしい女の子の姿で近づいてきて、触れた者を凍り付かせてしまう恐ろしい魔女の話を。
『砂漠を渡るときは注意する事だ。女の子を見つけても、決して助けようなどと思ってはいけない』
村人達にとって、商人達の話は、持ち込まれる商品と同じか、あるいはそれ以上に楽しみなものでした。都で流行している芝居や遊びなど、砂漠にいる限り経験することはありません。
しかし魔女の話は、村人達にも無縁ではありませんでした。いつか自分たちの村にその魔女が現れるかも知れない。商人達が語る「氷の魔女」の話は、ゆっくりと、でも確実に砂漠の村に広まっていきました。
やがて男の子の村にも、「氷の魔女」の話が伝わってきました。
男の子は時と共に成長し、成長と共に熱を生む力も増していました。自分の力を制御できないことも増え、村人達から徐々に疎まれ始めていました。自分一人なら仕方ないと思えましたが、母親も村人達から邪険に扱われるのは男の子にはたまらなく嫌なことでした。そんなところに「氷の魔女」の噂が聞こえてきたのです。本当にいるなら、ぜひ会いたいものだと、男の子は思いました。
時間は女の子も成長させていました。そして、女の子を囲む氷の壁は、女の子以上に成長していました。砂漠の端に不似合いな氷山の中で、女の子はただ膝を抱えて座ったままでした。
男の子はやがて、「少年」から、「若者」と呼ばれるまでもう少しという年頃になりました。
いつまでも村にはいられない。母親が眠っている間に家を抜け出し、夜が明ける前に村を後にしたのは15才の誕生日でした。
少年は砂漠を渡る旅を始めました。「氷の魔女」を探す旅です。
少年が旅を始めて気づいたことは、自分は飲み食いせずとも命をつなげるらしい、ということでした。
もちろん長く食事を取れなければ飢えた感覚があり、水が飲めなければ渇きに苦しみます。死んだ方が楽だ、ということもありました。それでも、オアシスを出てから次のオアシスへたどり着くまで、水も食料も無くなっても旅を続けられるというのは、少年にとってありがたいことでした。
いくつものオアシスを渡り、砂漠で商人達に出会い、少年は氷の魔女の噂をたくさん聞きました。たとえば、
小さな女の子の姿は偽物で、本当は大きな化け物なのだ。相手を凍らせると本当の姿に戻り、頭から凍った人間を食らいつくしてしまうんだよ。
小さな女の子ではないよ。美しい大人の女の姿をしていて、男を誘惑するんだ。そして寒さで動けなくして、その血を全部吸い取ってしまう。
哀れな老婆の姿で近づき、旅人に背負われ、次第に冷たさを増して旅人を動けなくしてしまうのさ。旅人が凍り付いたら、その姿をあざ笑いながら次の獲物を探しに行くんだ。
どの話も、いかにも見てきたように語られました。そして「氷の魔女」を本当に見たことのある者は一人もいませんでした。問い詰めれば
「当たり前だろう、本当に遭ったら、いま生きていられるもんか」
そんな答が返ってくるだけでした。
氷の魔女が本当に旅人を食べるなら、自分は魔女に食べられたらいいのかも知れない。そして制御不能の熱で、魔女を内側から溶かしてしまうのだ。それとも、自分は凍り付くこともなく、魔女を熱で倒してしまえるかも知れない。少年はそんなことを空想しました。
旅の中で、少年はもう一つ、不思議な噂を何度も聞いていました。あちらこちらで、オアシスの水が、これまでより早く減っている、というのです。
どの村でも、水は貴重品です。無駄な使い方をする人間はいませんでした。水はいったいどこへ行ってしまったのだろう。少年は考えましたが、答えは出て来ないまま、旅を続けるだけでした。
氷の魔女の噂を聞いては、その話の出所へ。そして、そこに魔女がいないことを確かめ、次のオアシスへ向かう旅です。
旅を続ける間に、少年は若者へと成長を続けました。氷の魔女は、まだ見つかりませんでした。旅を続ける理由を疑い始めたある日、若者は水の行方と、魔女の居場所についての話を耳にしました。
それを聞かせてくれた商人達は、西からやってきました。
都は砂漠の東側にあり、砂漠の西には大きな山脈が走っています。山脈を越えて西の街と砂漠を行き来する商人は少なく、若者はこれまで、出会ったことがありませんでした。
西から来た商人達は、砂漠の西に、大きな氷の山がある、と言いました。
いや、山のてっぺんの話じゃない、砂漠の中に、氷の山があるんだ。
「本当にあなた方は、氷の山を見たんですか?」
魔女の噂で作り話に懲りていた若者は、商人達に尋ねました。その問いに、商人の一人がまじめに頷きました。
「もしも氷を溶かさずに運べるなら、いい商売になると思ったんだ。でも、切り出した氷はすぐ溶けてしまうからね」
「ここしばらく、どこのオアシスも水が減っているらしいから、入れ物さえあれば溶けても商売にはなったな」
別の一人が言いました。
「坊主、もし行くなら、大きな樽か革袋を用意するんだな。それを運ぶラクダもだ。氷を溶かして水を売って歩けば、一儲けできる。何なら、ラクダを売ってやろうか?少々高くつくがな」
「止めておけ。あそこは魔女の住処だ。手を出せば氷付けにされて、頭から食われちまうぞ」
そう言った商人は、おどけて若者を襲うふりをしました。周りの商人達がどっと笑いました。
魔女に食べられるかどうかはともかく、商人達の話が真実なのか、本当に氷山があるのか、若者は確かめたくなりました。それが商人達の作り話だとしたら? 若者は考えましが、今までもそんな旅を続けてきた若者には「自分ががっかりする」以外の悪い事は、思いつきませんでした。
西へ。
氷山を探す旅へ、改めて若者は出発しました。
Twitterにて、2013年2月12日連載開始。同年9月12日現在、不定期連載中。気まぐれに更新しています。
一部修正あり。
原文はTwitter検索機能の #こおりのまじょ で、運が良ければほぼ全ツイートを読めます。