6月某日(3)
茜は駅から歩いた道を半分ほど戻り、途中で別の道へ入る。少し早足で進んでいたが、目的地が見えてきた所で段々と速度を落としていった。
あそこには心を許した人がいる。そう思ったら、急に涙が出そうになった。
幼かった遠い日を思い出し、懐かしさに胸が暖かくなるのと同時に過ぎ去った時間にほんの少しだけ胸が傷んだ。
「いらっしゃいませ」
店内に入ると、マスターがいつもの様に声を掛けてくれた。それでも、精神的に余裕の無い茜はいつもの様に反応することが出来ず、無言でカウンター席に座る。そしてカウンターのテーブルに頭を乗せて完全に顔を隠した。
そんな彼女の行動にマスターは苦笑する。
茜は何か嫌な事や悲しい事があっても誰にもその事を話そうとしないが、極端に口数が減る。もともと口数が少ないのでその変化に気付けない事も多々あるが、彼女を注視してみるとその行動の節々で異変に気が付く。
本当はきちんと自分の中に溜まっている気持ちを吐き出すことを教えないといけないのだろう。だが、彼女が自分の気持を抑えこんで外に出さないようになってしまった原因を知っているが故に、気持ちを吐き出させる事を強要出来ずにいる。だから彼女が自然と自分の気持を吐き出せる様にこちらから働きかける。
今は顔を完全に隠してしまっている。これは声を掛けるのは逆効果なので取り敢えず彼女自身の中で気持ちの整理がつくまでは静かに待つ。
茜が喫茶店に来てから、かれこれ1時間程茜はだんまりを決め込んでいる。そろそろ頃合いだろうか。マスターは茜に声を掛けた。
「今日はどうしたの」
マスターの問いかけに、茜はゆっくりと話し始めた。
茜がすべて話し終わると、再び店内は流れている音楽と雨音だけが聞こえる。
話をしている最中にマスターはホットミルクを作り、それを茜の前に出した。茜は全て話し終わってからホットミルクの入ったマグカップを手に取り、ミルクを口に含む。暖かいミルクと砂糖の甘味が強張っていた身体を解してくれる。
茜は深く息を吐く。
酷く波立っていてなかなか静まらなかった気分が、ゆっくりと落ち着いていった。
「すっきりした?」
マスターの問いに茜はマグカップに口を付けたまま頷いた。茜の返事にマスターはそうとだけ言い、ホットミルクを作るのに使った道具を片付ける。その様子を茜はぼんやりと眺めた。
小さい頃もよく仕事をしている彼の後ろ姿を見ていたな。と茜は何となく思った。
一緒に住んでいなかった父親よりも母親の一番近くにいた彼のほうが茜たち兄妹にとって父親という役割を果たしてくれていた印象が強い。母親に言えなかった事も彼を通してなら素直に伝えられた。彼は子どもとの触れ合いが苦手だった母親と自分たちの良い潤滑油になってくれていたのだ。
そんな彼は茜が中学生のころ突然茜たち兄弟の側を離れた。正確には彼らの母親の側から。
当時、茜は彼が側からいなくなってしまったことが酷く悲しくて塞ぎ込んでいた。その時、彼は仕事の合間に茜たちの家に来て、茜にホットミルクを作った。それを飲み込むと、ホットミルクの暖かさのせいか、彼の優しさに触れたせいか、茜は自分の寂しさをぽつぽつと彼に訴えた。彼はそれを静かに聞いて茜の気持ちを受け止めてくれた。
まるであの時のようだ。
中学生の時と今回の原因は違うが、自分の殻に閉じこもってしまった自分の行動とそれに対する彼の対処方法が一緒だ。自分はあの頃から全く成長していないのかと茜は苦笑した。