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「さて、私からも話があるのよ。」
そう言って立ち上がると、ウェズは眉を寄せて怪訝そうに私を見上げた。それににっこりと笑いかけて作業場へと戻る。
机の上には、夕陽に照らされた紫色の液体と真っ黒な粉末が淡い光を放っていた。
いままでの人生の中でも、最も良い出来だと思う。
私は少しの間それを見つめてから包み、布袋に入れるとそれを持って広間へと戻った。
スープを飲みながら横目で私に目を向けたウェズの前に、袋を置く。
「これ、ゲルディオの療薬。懐かしいでしょ。」
ゲルディオとは、世界最強の龍でも死に至る猛毒。
ウェズは約1年前、この毒を受けて弱っているところを私が保護したのだ。たまたま薬をもっていたからなんとか助けられたけど、そうじゃなかったら危なかった。
シンメノリーの根からわずかに抽出できるエキスが必要で、調合も特殊なため法外に高価なのだ。
ウェズが説明を求めるかのように器用に片眉をあげて見上げてきたので、私はひらひらと手を振った。
「これ持って行ってよ。私にはこれくらいしか出来ないけど、今まで楽しかったわ。」
私の言葉にがたん、と音を立ててウェズが立ち上がった。
これは珍しいことだ。ウェズは動作に音を立てることはしない。
「どういう意味だ。」
無表情だが、私の目線より少し下にある金色の瞳が、燃えるように揺れている。
とまどっていて、怒っていて、少し悲しんでる。
瞳を見るだけでそれが分かるほど、私たちは長く一緒に居た。
「もう、治っているでしょう。患者さんは、いつか退院するものでしょう?」
私は突き放すようにふんわりと微笑んだ。
そう、相手は龍、それも黒龍だ。半年前には完治していた。いつでも龍の谷に戻ることが出来るのは、たぶんお互いに分かっていた。
それをしなかったのは、私の生活を見ていたウェズの優しさだ。そして私の甘え。
ウェズがいなくなったら、私が一人になるのが分かっていたから。
あるべきものをもたず、あるべきでないものをもって生まれてきた私と、世の人が望む全てをもっているウェズが出会ったのは、奇跡のようなものだったのだろう。
彼との生活は、楽しかった。幸せだった。
でもそれももう終わり。
「ウェズ、私は龍のことをほとんど知らない。でも、ウェズが黒龍というだけでなく、普通の存在では無いことくらい分かってる。」
その言葉にウェズは一瞬だけ目を瞠って、私を睨みつけた。
人間離れした美貌。
いちいち気品のある所作。
昔一度だけ会ったことのある龍は、私にいつか語った。
『龍の王族は、人間でも人型を一目見れば分かるぞ。』
その通りだ。
ありえない、という思いからあのときは怒鳴ってしまったけれど。
ウェズが最初に人型になったときから、私は分かっていた。
いや、本当はもっと前からわかっていたのかもしれない。
「でも勘違いしないで。ウェズが王族だから助けたわけではないから。」
「そんなことは分かっている。貴女がそんな器用な人間ではないことくらい、もう分かっている。」
どれだけの間側に居たと思っているんだ、とウェズが吐き出すように言ったことに思わず苦笑した。
永久に近い時を生きることが出来るという龍のくせに。たった1年のことじゃない。
今は別れを惜しんでくれたとしても、龍の谷に戻ったら私のことなど忘れてしまうのでしょう?
「それで、手切れ形としてこの薬か。俺がいるのが迷惑になったのか。」
「手切れ形って。」
苦笑する私を静かに睨みつけたまま、ウェズは動かない。
私はウェズを見ていられなくなって、きゅっと背を向けた。
迷惑なわけがない。
家族がいたことのない私に、初めて家族のような感情を与えてくれた人。
「今日は、疲れたから寝るから。なるべく早く帰…っ!」
ぐいっと袖を後ろに引かれ、布が裂ける音がした。
文句を言おうとして振り返り、淡く光る金の瞳に体が硬直する。
「【リーゼロッテ】」
どくん、と心臓がなにかに捕まれたように苦しくなった。
ウェズに名前を呼ばれたのは2度目だ。
名前を教えたときに1度だけあったが、そのときウェズは龍にとって異性の名を呼ぶというのは特別なことなのだと言ってそれ以降口にしなかった。
だけど今のは、何かがあのときと違った。ウェズの声であって、声じゃない。
耳からではなく、心に声が響いたような気がする。
それに、私はウェズの金の目に捕らわれたかのように、全く身動きできなかった。
「貴女が俺から離れようとしても、俺は貴女を離さない。
たとえ貴女が嫌がろうとも。」
そのとき初めてウェズの右手が私の腕をつかんだ。
力加減が出来ないからな、と寂しげに笑い、ウェズが私に触れることは今まで一度もなかった。
確かに今私をつかんだ腕はすさまじい強さだった。腕が折れたかも知れない。
でも私は身動きはおろか、苦痛の声を漏らすことさえ出来なかった。
そのままぐっと腕をひかれ、ウェズの方に倒れ込む。
ウェズの左手が私の腰に回ったのが分かった。
少しだけ私より背の低いウェズの唇が、私の耳の真横にある。
生暖かい感触が耳たぶを包み込み、ぞくりと何かが体を走った。
次の瞬間、吐息と共にウェズの声が私の耳に吹き込まれた。
「【貴女は、私のものだ。】」
ぐっと何かが私の中ではじけた瞬間、頭を引き寄せられて唇がウェズのそれと重なった。
呪縛が解けたように体が動けるようになったのは分かったけれど、なぜか抵抗しようとは思えなかった。
隙間から入り込んできたウェズの舌が私の口内を蹂躙し、唾液を流し込んでくる。
「……っ、は、…ぁふ」
生まれて初めての強い刺激に足に力が入らず崩れ落ちそうになった私を支え、ウェズは目を見開いたものの、色気たっぷりににやりと笑って再び目を閉じた。
じゅっと音をたてて舌が吸われたと思うと、何かがウェズの舌から私の口の中に移されたのに気づいて身をひくが、ウェズは離そうとしない。
息が苦しい。
酸欠と刺激でがくがくと足が震え、私は思わずその何かを飲み込んだ。
同時にウェズが唇を離す。
お互いに息を乱しながら間近で見つめ合う。
ウェズが私を支えながらふっと笑ったので、私はその色気に頬が紅くなる自分が分かった。
こ、子供相手にっ…!
なんなのこの色気……っ!
悪態をつきたくなるのを、力が入らない体に免じてこらえ、きっとウェズを睨みつけた。
「な、なに、今の…っ!」
「龍の契約。」
しれっと涼しい顔で答えるウェズ。
龍の契約など聞いたことの無かった私は、なぜか聞いてはいけない予感がばくばくとしていたけれど、おそるおそる聞いてみた。
「龍の契約は、お互いに名を呼び合い、雄が雌に求婚して自分の命の欠片を渡すことで成立する。リーゼの命ある限り、ずっと俺が愛し護ることが契約として交わされたんだ。」
今まで見たことの無いほど嬉しそうなウェズの顔にきゅっと苦しくなった胸のせいで話が耳に入ってこなかった。
その腹が立つほど色気たっぷりな顔から目をそらし、子供のくせに子供のくせにと思いながらもその言葉を咀嚼する。
契約ね、契約…。求婚、命、愛し……護る?
「……は?」
ぼんやりと熱に浮かされていた頭に、急に水を浴びせられたように感じた。
呆気にとられて見上げても、ウェズの目は冗談を言っているようには見えない。
「何言ってるの?」
「本当は分かってただろ?俺がずっとお前を見てたこと。」
私はきゅっと唇を噛んだ。
たまに、いや、いつも、ウェズがどうしようもなく優しい目で私を見ているのは分かっていた。
私の無茶にもしょうがないな、と慈しむような声で手を差し出してくれていることも。
時々眠る私の唇に優しく重ねることにも、気づいていた。
でも、私のエゴのせいで、それを言わなかったせいで、私は少年にとんでもない過ちを犯させてしまったのかも知れない。
まだ間に合う。
言わなくては。
「あのね、ウェズ。それは私を好きとかそういうのじゃないのよ。」
私はじっと彼の目を見つめたまま言った。
「私があなたの命を助けたのがきっかけで、勘違いしているの。それはよくある一時の感情に過ぎない。ウェズの気持ちはすごく嬉しい。でも、そんなので長い時の契約なんて交わしちゃ駄目よ。まだ契約が完全じゃないうちに、思い直して。あなたは、あのね、今は分からないかも知れないけど……、きっと大人になったら分かる。そして、私のことなんて忘れるわ。」
いや、龍の谷に戻ったらすぐにでも我に返るかも知れない。
怒るかと思ったのに、ウェズは穏やかな目で私を見つめたままだった。
何かを見透かされているような目に、居心地の悪さを感じて少し身をよじる。
「言いたいことはそれだけだな?」
感情の読めない声にこくん、と首だけで肯定する。
その私にウェズは手を伸ばして頬を撫で、優しく髪を掻き上げたかと思うと――――――――ばちん、と指で額をはじいた。
「いっ、いったーいっ!!」
ウェズの腕から落ちて床にへたり込む。
はじかれた場所がひりひりする。
なに、なんなの?
ウェズは頭が痛いとでも言うように自分の額に手を当て、はあと大きく嘆息した。
そして座り込んでいる私を見下ろし、いいか、よく聞いておけ。と椅子に腰を下ろした。
「まず1に、そんなくだらん理由で感情を動かすほど俺は愚かじゃない。大体それは人間だけにあてはまる特性に基する。第2に、契約は完された。違うことは誰であろうと許されん。第3に、常に言っているように俺は子供ではない。」
命令に慣れたようなその口調に、私はぽかんと口を開けてウェズを見あげていた。
いろいろと聞きたいことがあるのに、何一つとして口に出来ない。
「リーゼロッテ。」
ぐいっと腕を引っ張られ、気がついたらウェズの膝の上にいた。
私の銀の髪をひとすくい手にすると、愛おしそうに口づけ、そのまま引っ張る。
痛いと口にする間もなく、かみつくように唇が重ねられた。
その合間に、ウェズが息のきれた私に囁く。
「俺もお前も、一生互いを忘れることは叶わん。」
その言葉を聞いたのを最後に、私の意識は闇の中へと落ちていった。