6.亀裂。つまり目覚め
「近頃、低級悪魔の出現が増えていましてね。今から退治しに行くところなのです。ですから薬をお願いしますね。とても頼りになるので」
例の穏やかな眼差しの魔道士は、そう建前をつけて、使う予定のない薬を所望した。
ドリーは知っている。彼に渡した薬と同じものが、いつの間にか棚に戻っていることを。
なんて転売だ。ドリーを悪徳業者にでも仕立て上げる気か。この金は口止め料か、はたまた養育費のつもりだろうか。
「またまた、お世辞がお上手ですねー。ちなみに今日はどちらへ?」
「北の郊外で数体の出現を確認したそうなので、そちらに。でも西にもいるかもしれないそうなので、気をつけてくださいね。特にやんちゃ盛りの男の子がいるそうですし」
「ご忠告ありがとうございます。さようなら」
今日も表面上はにこやかに魔道士を送り出し、ドリーは出かける支度をしに買い物かごを探す。
見つけて手を伸ばしたらかごが逃げた。
「どこに行くんだ? ここ、西の郊外だろ? 気をつけろって言われたばかりじゃないか」
苦言をよこすのはかごを持ち上げたマトンだ。
今日の魔道士はマトンが来る前に来たのかと思ったら、すでに来ているのを察知していたらしい。家の者より先に気づくとは、つくづく恐ろしい男だった。
「そうですね、やめときましょうか。買い物に行かなきゃ今日のドーナツは作れませんが」
「よし、俺も一緒に行ってやる。悪魔なんて俺の魔法で倒してやる!」
というわけで一緒に買い物に行くことになった。
かくして悪魔は期待通りに現れた。
血の如く紅い霧をまとった、全身黒い異形。子供のような背丈に骨と皮だけのような細い体躯。背中にはコウモリのような黒い翼。それをはためかせ、黄昏の空よりその二体はドリーたちに襲いかかってきた。
「一体は私にください」
反射的に魔法を繰り出そうとしたマトンは、ドリーの指示に一瞬調子を崩した。しかし即座に目標を一体に絞り、放った風の刃で悪魔の身体を切り裂く。絶命した悪魔は灰となって消えた。
ドリーは自分に向かって来る悪魔に対し、拳を握った左腕をまっすぐ伸ばす。右手で左の袖を引き、露わになった小型ボウガンのような機械の引き金を引く。空気の抜けるような射出音を残し、放たれた針は悪魔を打った。
意識のなくなった悪魔が慣性のまま突っ込んでくるのを、横に避けて素通りさせる。低く平らな岩の上に落ちた悪魔は、小刻みに痙攣していた。
ドリーは毒の効果を観察するために悪魔に歩み寄る。悪魔の死体は灰となって消えてしまうから、未だ体構造が把握できないでいる。だからこの、正当防衛で殺してもいいサンプルは貴重なのだ。
しかし引き止めるように後ろのほうから「あっ!」と声が上がった。
観察をさえぎられたドリーは、若干面倒臭そうに振り向く。
「どうしました?」
「手紙、出てきた」
いや、それよりその手紙が出てきたという、風の刃で切り裂かれた穴の開いたかごのほうを謝るべきだろう。しかしそれは、自分が急に指示したせいで魔法の制御に乱れが生じたのかもしれないし、ひとまず置いておく。
手紙の正体を知るためにマトンの側へ引き返し、手に取った。
「ああ、いつかの買い物帰りに手渡された恋文です。買い物より優先順位が低いので忘れていました」
「ひどいな、お前……」
マトンはドリーを非難するが、そんなものはまだ軽いほうだった。
ドリーはおもむろに恋文を両手でつかむと、あっけなく裂いて細切れにし、無造作に放った。
「な、なにやってるんだよ!?」
「なにって、彼の名誉に傷をつけないための処置ですよ。私に恋文を書くなんて、正気ではなかったのでしょうし。私が彼だったら、そんな汚点をいつまでも残しておきたくない。だからそのように実行しただけですよ」
「汚点って、そんな――」
「いくら雌だからって、人間が犬に恋するなんて、おかしいでしょう?」
そこに、自分を卑下する感情や、人間を侮蔑する感情は一切無い。ドリーは本気でそう思っている。
自分と人間は全く土台の違う生物なのだから、同じ土台で比べるのがおかしいのだ。
「――え……?」
マトンは、なにを言っているのだ、と困惑するような視線を投げかけている。
ドリーは自分なりの“ただの事実”を突きつけただけだった。だからなぜマトンがそのような、得体の知れない化け物を見るような目をするのか、まるでわからない。
ただ彼は、似た内容を告げてきた人間たちと、同じ反応をしている。つまり彼は、普通の人間という基準において、正常な反応をしているということだけは、わかった。
マトンが勇気を振り絞るように、渇いた声を舌に乗せる。
「……そ、それは、細かい仕組みは違うかもしれないけど。お前の身体は、人間とまるで同じなんだろ? なら、人間って言えるだろ。犬と同じなわけ、ないだろ」
「私にとってあなた方人間は、犬や植物と同じ立場です。生きていると認めます。だからといって、同じものとは思えない。……私の認識については、博士と何度も口論を重ねましたが、平行線で終わっています。だから私の考えを変えようと努力する必要はありませんよ」
それは、父の懸命な説得が通じなかったということだった。
「……お前の父親は、お前を娘として見てるから、わかってほしかったんだと思うぞ」
「はい。博士は私に娘の役目を望んでいます。博士は私を造った人なので、役目を与える権利があると思い、その思想を認めています」
父の気持ちは理解している。自分と娘が、違う生き物だなんて言ってほしくない、と思っているのだろう。しかしドリーはいくら言葉を重ねられても、受け入れない。だって、違うものは違うのだ。
「……それは、なんか、違うよ」
マトンも、互いの認識の差異に戸惑っている。
その差を埋めなくては、と焦るように言葉を探している。おそらく無意識に、ドリーへ一歩踏み込んだ。
「……俺、本当は皇帝の子供じゃないんだ」
その内容はドリーが意識して触れずにいたものだ。止めるべきか決めかねるわずかな間に、マトンは続けた。
「死んだ皇妃と、知らない誰かとの子供だ。今より小さい頃にそれが発覚して、それからずっとほっとかれてる。でも、そうなるまでは、普通に、好きだったよ。父上」
おそらく彼が言いたいのは、家族に対する絶対的な愛情について。無条件で相手を信用し、愛する、説明しがたいもの。
情に訴えかけようとしているのだ。それがわかったから、ドリーはいらついた。理解できないものを引き合いに出されても、扱いようがないからだ。
「その感情は、私には理解できません。……九年前、このようなことがありました」
わずか十歳、独力でホムンクルスを造った天才の博士。彼の血が流れているせいか、ドリーもまた、十歳の時点で天才と呼ばれる頭脳を持っていた。
賢いドリーは、博士が自分という、倫理を欠いた存在のせいで一族から圧迫されているのを知っていた。博士の家は、優秀な魔道士を何人も輩出している、プライドの高い名家なのだ。
ドリーは自分と保護者である博士の身の安全を確保するために、城勤めの魔道士になることを希望した。ドリーの能力を認められ、社会的地位を確保できれば、一族も見直すと考えたのだ。博士はその理由に気づいており、やるせない気持ちに見舞われたが、本人がやりたいと言うなら、と了承した。
しかし、ドリーに与えられた仕事は、兵器の開発であった。
人間をおびやかす悪魔たちを打ち倒すための兵器。ドリーはそれを造る過程で左腕の武器のようなものを積み重ねながら、やがて条件を最高に満たす兵器を編み出した。
人を魔機と繋ぎ、命を凶器として使い捨てる兵器だ。
それを知った博士はその兵器が完成する前に、ドリーを強制的に連れ戻した。その開発には博士の家も関わっていたから、勝手な行動をした博士は今度こそ勘当された。
それでもドリーは、博士がどうしてそこまでして辞めさせたのか、理解できなかった。
だから博士はドリーに目的を与えた。命の尊さを理解することを。理解できないからこそ、倫理に欠いた発想が出てきてしまったのだろうから。
そしてあの広い庭で、植物の世話をするよう言いつけた。植物という命の観察と、人間の命を繋ぐ薬草を作るという、二つの行為により、命を理解するのを期待して。
「しかし今でも理解できない。だからあなたをなんらかの理由のもと、殺すかもしれない。このように」
ドリーが悪魔のいた岩の上を見やると、そこにはもう、かすかに積もった灰が残されているだけだった。
「私は、実験の成果を試すために、わざわざ苦しめるように殺すことのできる生き物です。……このように、私はあなた方の言う、残酷なことができます」
ドリーにとって、それはただの確認だった。恐れるならばさっさと縁を切るべきなのだから。
だから、軽蔑しますか? とは聞けなかった。聞けば良心が刺激されて、正常な判断ができなくなるからだ。
そしてここまで拒絶してしまえば、今までと同じようなやり取りはもうできない。エンペラーズ・ウィークはまだあるが、明日からはきっと来ない。
だから彼に貸した買い物かごを受け取ろうと、手を伸ばす。
「私はあなたと同じではないので、友人のように対等な関係は築けません。犬に手を噛まれたようなものと考え、深く考えないことをおすすめします」
意識してやわらかい言葉をかけたせいか。かごの取っ手に指をかけると、反対の手でしっかりつかまれた。
子犬に手を噛まれたような感覚に、ドリーは思考が一瞬止まった。
そして手加減のない強さで腕を引っ張られる。バランスの崩れた身を、足を踏み出して支える。そしてすぐ、胸にタンポポ色の頭を押しつけられた。
いや、抱き締められていた。
認識した直後、今度は突き飛ばすように身を離された。目の前の少年は、夕陽に照らされてもはっきりわかるほど、顔が真っ赤だ。
「犬に噛まれたようなもんなんだろ? なんで間抜けそうな顔してるんだよ」
「……いえ、その、単純に驚いています。ちなみに確認なのですが、今のは私を抱擁または抱き締めるまたはぎゅーっとしたという認識でよろ――」
「言うなっ!! というかなんだぎゅーって! 似合わなさ過ぎだろ!」
「私の知識は基本的に博士から得たものなので、それで推し量ってください」
口だけが壊れた玩具の如く動き続けるドリーの表情はぬぐい去られていた。これがダンドリオン史上最大の動揺であった。
「……それで、なぜ私をぎゅーっとする行為におよんだのですか」
結局ぎゅーで通すことになった。今のドリーは冷静な判断ができないのだから仕方ない。
「ドリーは大丈夫だよ」
問題用紙の宿題を出したら、粘土細工を提出されたような唐突感だった。
少年の思考がまるで読めず、真面目に受け止めている自分が馬鹿らしくなり、小さく眉を寄せて理性を保たせた。
「……なにが、大丈夫だと言うのですか」
「だって、ドリーは不安だったから、あんな言い方したんだろ」
「私が、不安?」
「だって、ああいう言い方したら、相手はどうしたらいいかわからなくなって、もう来なくなると思うだろ。貴重な働き手なのに、わざわざ離れて行くように仕向けた」
仕向けたのは、確かにその通りではあるが。
「ドリーは、自分がどういうものかって知られたら、俺に軽蔑されるかもって不安に思ったから、さっさと気持ちをはっきりさせたくて、ああいう言い方したんだろ」
先の見えないことを宙吊りにしたままで、不確定要素を意識しつつも、なんの対策も取れないことを不安と呼ぶなら、確かにそうかもしれなかった。
「でも、俺は変わらない。俺が見てたのは花だけじゃ無い。ドリーもだ。ドリーは頭いいからさ、無意味に命を奪ったりしないだろ。そういう酷いことをしたら、周りがどういう反応をするか、今みたいに冷静に観察して、知っているだろ」
「……情報は、蓄積しています」
「なら、それでいいと思う」
彼はただ、微笑む。そこに化け物を見るような目など、どこにも無い。
今、ドリーの目に映る小さな少年が、大きな器に見えた。
「……あなたは」
誰ですか、と続けようとして飲み込んだ。
彼は皇太子だったからだ。民を導き、上に立つ資格のある者。
だからドリーが無駄に反抗する理由はなかった。彼の言葉をそのまま受け入れる。そうしたら彼の中身が透けて見えた。
「不安になったことが、あるのですか」
二人の距離は、もう近かった。
マトンはやっと少年らしい弱々しい笑みを浮かべた。
「もうすぐドリーと会えなくなるって考えたら、怖くなる」
その深みのある声に含まれているのは、単に会いに行くことが難しくなるだけではないようだった。
「それは――」
「ほら行くぞ! ドーナツドーナツ!」
腕を取られて走らされる。
二人の間には、もう距離も時間も残されていなかった。