3.踊らされる子供たち
マトンが宿からこっそり抜け出し、庭いじりをすることに対して起こる弊害の一つ。それは土や草花の匂いが身に移ることだった。
そこでドリーは家の風呂をマトンに貸し、そこで匂いを落とすよう言いつけている。
木造の二階建ては四人家族が住んでちょうどいい広さだが、大部分が薬草の保管庫や薬屋の仕事場に使われている。扱いに敏感な薬草なども多いため、奥に他人を入れたくはない。なので風呂場と不浄のある一階のみ、出入りを許可している。
しかしそれはマトンに限ってのことなので、得体の知れない客人は玄関の前に立たせていた。
ドリーは営業用の笑顔を張りつけ、薬瓶の入った小さな紙袋を手渡す。
「はい、いつもの痛み止めです。何度も申し上げますが、私の薬は町の薬屋に卸していますので、そちらで買ったほうが早いですよ?」
「ここから買ったほうが目的地に近いので、つい」
そんなわけはない。薬屋は男が滞在している宿とドリーの家の直線上にあるのだ。この男は明確な意図を持ってドリーの家をたずねている。
彼は魔道士だ。人間の中でも、特に魔法の扱いを専門とする者。職業と言うよりは、称号のようなものだ。ドリーの父も魔道士だが、薬師として生計を立てている。
ドリーは父の半分程度の魔力しか持っておらず、扱いもそう得意ではないので魔道士とは呼べない。しかし小賢しい魔法なら使えた。
一度、彼に渡す薬に、離れても様子を見られる魔法を付けて送り出したことがある。
彼は町からいくらか歩いた先にある森へ行き、現れた魔物や低級悪魔などを、過分にならない適当な魔法で倒していた。まだ二十代前半の、若者と言っていい歳だろうに、それこそ淡々と淀みなく躊躇なく。
そして魔物の牙やら肉やらを入手し、町に帰って金に変え、宿に戻る。魔力が続く限り見張ってみたが、特に怪しい素振りなどは見せなかった。
見せるとしたら、この家でだ。
家の奥にある風呂場から、マトンの声が上がった。
「ドリー! 石鹸切れたー!」
「一番上の棚に入ってますよー」
振り返るドリーの首に合わせて、男の落ちついた灰色の瞳が、失礼にならない程度に家の奥を覗き込む。
「今日も元気な男の子ですね。弟さんでしたっけ」
「いえ、親戚から預かっている子ですよ」
単なる雑談のように装っているが、これこそが男の目的だろう。
男はちょうどマトンがここに通うようになってから、薬を直接買いに来るようになったのだ。こんな町はずれにわざわざ薬を買いに来る理由。十中八九、城からの見張り人か、なんらかの企みを持つ人間だろう。
しかしドリーは穏便な態度を崩さない。マトンの存在を確認するだけでなにもしないということは、あくまで監視に徹するということだろう。下手なことをしなければ危害は加えられないはず。触らぬ悪魔に呪いなし、だ。
今日もまた表面上はにこやかに男を送り出し、ドリーは家に引っ込んだ。張っていた緊張感が解けると、力を抜くように軽く息をつく。顔を上げると、居間のテーブルの向こうで、タオルで頭をがしがし拭きながら、不機嫌そうに唇を引き結ぶ顔が待ち構えていた。
「また来たのか? 例の魔道士」
「ええ。明らかにあなたを目的にしているのに、あなた本人には絶対に顔を合わせない、照れ屋なお兄さんですよ」
「なんか怖いというか、不気味だな……。あ、でも狙ってるのは俺じゃなくてドリーだったりして!」
マトンはいわゆる恋愛とかいう、ませた方向性から発想した。しかしドリーは男を任務による監視者として見ていたので、意味がすれ違った。
「私を? それはまた面白い着眼点ですね。さすが面白い格好をしているだけはある」
格好、と指摘する視線を追って自分の身体を見下ろすマトンは、今日こそ魔道士の顔を見てやろうと急いでタオルを腰に巻きつけただけの姿だった。羞恥で顔を赤く染め、あちこちに身体をぶつけながら慌ただしく脱衣所へ戻った。
ドリーは自分には真似できない快活さで走り回るマトンに、やれやれなどとうそぶきながら、穏やかな表情を浮かべていた。
そして魔道士という懸念事項が消え、油断していたところに台風は直撃した。
「たっだいまー!! 寂しくしてごめんねドリー!」
ドアを開け放つと同時、浮かれたあんちゃんそのものの声が、高らかに家の中へと響き渡った。
ドリーは聞き慣れた彼の声を背に受け、肩を落として天井を仰ぎ見る。
(ああ、そういえばこの人がいたな)
マトンとの日々を送るようになって以来、彼の存在をすっかり忘れていたのだった。