10.そよ風と一緒に
特別客室へ戻って来たドリーを迎えたのは、父の「おかえりー」という、いつもの声だった。
まっすぐ帰って来たのに、まるで迷子になった子供のような顔をしてしまっていたせいだろうか。博士にマトンから聞いた内容を全て話すと、無意識に呟いていた。
「……私たち親子にとって、十歳という時期は鬼門なのでしょうか」
十歳の時にライフライトを造ったドリー。十歳の時にドリーを造った博士。どちらも倫理に外れた研究だった。
痛い所を突かれただろう博士が、言葉を探して口を開閉させる。声はなかなか出なかった。
「……ちょ、ちょっと、あたしまであんたのネガティブスパイラルに巻き込まないでほしいわね」
血が成せる業なのか、この親子は一度沈むととことんまで沈む。普段口が達者なのは、簡単に沈まないための自己暗示のようなものなのだ。だから博士はこのままドリーに引きずられるわけにはいかないのだろう。
ドリーのやっていることはネガティブへの無理心中だが、それは自分と同じ気持ちになれという、回りくどい甘えであった。
それがわかっているからか、博士はなんとか流されずに踏みとどまる。でなければこの娘の親など十九年間もやっていられないだろう。
だから、なんとか父親の顔を作ったのだ。
「……オレは、お前を造ったこと、後悔してない」
ドリーを見る目が揺れている。けれど嘘では無いと、確かに伝わった。
「十歳の頃、好きな人がいたんだ。人妻」
親と言えど他人事であるから、ドリーはただあるがままに聞いていられた。
「当然勝ち目なんか無いってわかりきってた。でも好きだから、もし自分と一緒にいられたら、って妄想はしちまうわけよ。それで気づいたらホムンクルスの魔機ができあがってて、オレとその人に似た顔の子供を造ってた」
淡々と、しかし冷たくはない調子で、とんでもない真実を明かしていく。
「その人、娘ができたらゼファーって名付けるんだって言ってた」
ゼファー。そよ風という意味だ。
「だからオレは風と一緒に旅立つ花、ダンドリオンって付けた」
――なにが“だから”なのか。
博士は話は終わったと言わんばかりに口を引き結んだ。その流れでいったいどうして、ドリーを造ったことに後悔が無いと言えるのだろう。
「……理解できません。頭が痛い。気分が悪くなる」
「お前がオレを理解できないように、オレもお前が理解できないんだよ。なにを考えているのか、言葉で言ってくれないとわからない。……本当の父親じゃ無いからかもしれないけどな」
本当の父親などドリーにはわからない。苦笑するその顔こそが、ドリーにとっての父親の顔だった。
「……私は後悔しています。単に命を光にして放つからライフライトと名付けただけ。九年前、空に放たれるのを見ました。公には無人弾の誤射と伝えられていますが、発射したのです。本当に人が入っていなかったかなどわからない。命を奪ったかもしれない」
「命を失うのが、怖くなったか?」
「わかりません。ただ、私があれを造らなければ、マトンに痛みに耐えるような顔をさせずに済んだと考えたら、無性に現状を否定したくなるだけです」
博士が待っていたのは、その言葉だったのかもしれない。
父親の顔から一転し、全てを包み込むように受け止める、母親の顔になった。
「耐えられない痛みは、治療すればいいのよ。薬師さん」
その微笑みに、ドリーはしてやられた、と心地良い敗北感を味わった。
博士は、ドリーが動くための理由を作ってくれたのだ。
けれどそれを素直に感謝してしまったら、この男は調子に乗る。だから、精一杯ひねくれた答えを返してやる。
「……あなたのせいで悪くなった体調を整えるだけです」
「うん、健康管理はいつの時代だって歓迎されるもんよね」
ドリーのことをよくわかっている。本当に。
「……まあ、言い換えれば、あのシステムをなんとかできるとすれば、私以外に無いわけですし」
やるべきことは、最初から決まっていた。
ドリーを支配しているのはドリー自身だ。マトンを助ける資格を与える者がいるとすれば、自分自身だけだった。
足りなかったきっかけは与えられた。だからドリーは、立ち上がる。
そして、まるでその時を見計らったようなタイミングで、壁の一辺に轟音を伴った風穴が開いた。
部屋の中から外へ鉄球をぶつけたような、物理法則をねじ曲げたそれは、魔法でしかありえない。
粉塵の漂う風穴の奥からゆったりと歩み寄って来たのは、聖人の微笑みを浮かべた男。
もはや見慣れてしまった姿に、しかし見慣れないものが一つあった。その背には、身をおおえるほどの黒い翼を背負っていたのだ。
「あ、ああああ、悪魔ぁ!?」
(――ああ、なるほど)
ようやく彼の正体に合点がいき、脱力するような息をついた。
「私は手抜かりの無い悪魔なので。そろそろ用事を申しつけられそうだと思い、城のあちこちでボヤ騒ぎを起こして来ました。自由に動き回るには、混乱が一番ですから」
「ええ、フェルメントが搭載された魔機の設計図がある場所へ、案内をお願いします。――マトンのお父上」
「はぁあああっ!?」
若作りの父親が、若作りの父親に驚く世界。
もはやなにが起きても驚かないだろう、とドリーは腰を据えるのだった。