婚約破棄ですか? 喜んで! では、新しい王妃様には地獄の教育を受けていただきますわ!
婚約破棄ですか? 喜んで! では、新しい王妃様には地獄の教育を受けていただきますわ!
豪華絢爛なシャンデリアが煌めく、王宮の大広間。
その中央で、わたくしの婚約者である第一王子エドアルド殿下は、これ以上ないほど陶酔しきった顔で両腕を広げておりました。
「エレオノーラ! 貴様との婚約を破棄する!」
……まあ。
「氷の令嬢などと称され、血も涙もない冷酷な貴様は、我が国の次代を担う王妃に相応しくない! 俺が真に愛するのは、この優しく無垢なマリアだけだ!」
楽団の演奏がピタリと止まりました。
貴族たちの息を呑む音が、さざ波のように広がります。
エドアルド殿下の隣には、小鹿のように華奢な男爵令嬢、マリア様。
ピンクブロンドの髪を揺らし、フリル過多のドレスの裾をぎゅっと握りしめて、潤んだ瞳で殿下を見上げています。
「まあ、殿下……わたしなんかのために、そんな……っ。でも、エレオノーラ様があまりに冷たく殿下を縛り付けるから、殿下が可哀想で……っ」
あらあら。
今にも零れ落ちそうな涙。計算され尽くした上目遣い。守ってあげたいと思わせる、か細い声。
完璧ですわ。
実に見事なヒロイン仕草。
わたくし――オルデンブルク公爵家の長女、エレオノーラは、手にしていた扇を静かに閉じました。
パチン。
乾いた音が、静まり返った広間に響きます。
「エドアルド殿下。本気でおっしゃっておいでですか?」
「ふん! 今さら取り乱しても遅い! お前のような可愛げのない女、顔を見るのもごめんだ!」
殿下は勝ち誇ったように胸を反らしました。
周囲の貴族たちは、わたくしが泣き崩れるか、あるいは激昂して男爵令嬢を罵倒するのを期待しているようです。
ですが、とんでもない。
わたくしの胸の内に湧き上がっていたのは、怒りでも悲しみでもなく――
**純粋極まりない、燦然たる歓喜でございました。**
(神よ! 感謝いたします! あのアホ毛つきの無能王子のお守り役から、ようやく解放されるのですわね!?)
思えば十年間。
わたくしは王太子となる予定のエドアルド殿下を支えるため、血の滲むような努力を重ねてまいりました。
五カ国語の習得。
国家予算の監査。
外交儀礼、国際法、軍事史、領地経営、各貴族派閥の調整。
それらすべてを学びながら、殿下の間違った計算を直し、失言を取り繕い、外交使節への無礼を謝罪し、さらには殿下が昼寝をしている間に執務書類まで片付けていたのです。
一度など、隣国の大使に向かって「貴国の主要輸出品は馬鈴薯であろう?」と仰ったことがありました。
隣国の主要輸出品は精密時計です。
馬鈴薯はほぼ輸入頼みです。
あのときは本当に、心臓が止まるかと思いましたわ。
それなのに殿下は、わたくしを「冷たい女」と呼ぶ。
ええ、冷たくもなりますとも。
毎日毎日、国家規模の尻拭いをさせられていれば!
(やったー! 自由ですわー!)
喉元まで出かかった歓喜の叫びを、十年間の令嬢教育で培った鉄壁の無表情でねじ伏せます。
そしてわたくしは、心からの慈愛――に見えるよう細心の注意を払った、極上の淑女の微笑みを浮かべました。
「かしこまりましたわ、殿下。そこまで仰るのでしたら、謹んで婚約破棄をお受けいたします」
「なっ……!?」
殿下の顔から、勝ち誇った笑みが消えました。
「そ、そんなにあっさり認めるのか!? やはり貴様には、俺への愛など一片もなかったのだな!」
「ええ、まあ、それはお互い様ということで」
「なにっ!?」
「それよりも殿下。そしてマリア様」
わたくしは静かに歩みを進めました。
シャンデリアの光が、ドレスに織り込まれた金糸に反射して煌めきます。
マリア様は怯えたように殿下の背中へ隠れようとしました。
あら、逃がしませんわよ。
「マリア様は、次代の王妃となられるおつもりなのですね?」
「えっ……? あ、はいっ。殿下のお側で、殿下をお支えして、愛に満ちたあたたかい国を作りたいなって……」
「まあ! なんて素晴らしい志でしょう!」
わたくしは両手を胸の前で合わせ、花が咲くような笑顔を作りました。
マリア様がぽかんと口を開けます。
殿下も不審そうに眉をひそめました。
「エレオノーラ。何を企んでいる?」
「企むなどと滅相もない。わたくし、感動いたしましたの。ただ一つだけ、現実的な懸念がございます」
「懸念……?」
「我が国の王妃には、最低五カ国語の習得、国家予算書および課税台帳の監査能力、外交情勢の把握、そして各貴族派閥の勢力均衡の調整が求められますの」
マリア様の顔から、すうっと血の気が引きました。
「こ、こっかよさん……? ご、ごかこくご……?」
「ええ。それから飢饉への備え、軍需物資の調達、王室財産の管理、他国の王族との交渉などもございますわね」
「ひっ……」
「もちろん、国王陛下や宰相閣下をはじめとする優秀な方々が支えてくださいますけれど、王妃自身が無知では、判断を誤ったときに民が苦しむことになりますもの」
「そ、そんな……」
「ですが、マリア様は男爵家のご出身。そのような専門教育を受ける機会には、あまり恵まれなかったでしょう?」
「は、はい……」
「このままでは、社交界の古狐……失礼、重鎮の奥様方に骨の髄までしゃぶり尽くされてしまいますわ。それはあまりに不憫です」
「お、おい! エレオノーラ! 何を言い出すんだ!」
慌てる殿下を涼やかな流し目で制し、わたくしは広間のバルコニー近くに視線を向けました。
そこには、仕立ての良い漆黒の燕尾服を纏った美青年が一人。
琥珀色の瞳を面白そうに細め、シャンパングラスを傾けています。
隣国ヴェルダン帝国の皇太子、ルーファス殿下。
わたくしの遠縁にあたる従兄であり、幼い頃からの知己であり、そして無類の悪戯好きでもあるお方です。
目が合うと、ルーファス殿下はグラスをわずかに掲げてウインクを寄越しました。
――打ち合わせ通りですわね。
もっとも、婚約破棄そのものは殿下の暴走によるもの。
わたくしたちは、こうした事態に備えていただけです。
ええ、備えは大切ですもの。
「そこで、ご提案ですわ!」
わたくしは声を弾ませました。
「マリア様にも、わたくしと同じ土俵に立っていただくのが公平というもの。未来の王妃として羽ばたくチャンスを、平等に差し上げなくては!」
「びょ、平等に……チャンス……?」
「ええ! 幸いなことに、我がオルデンブルク家と親交の深いヴェルダン帝国には、大陸一厳しいと名高い『王族配偶者養成アカデミー』がございますの」
マリア様が小首を傾げました。
「アカデミー……?」
「わたくし、ルーファス殿下にお願いして、マリア様のための特別推薦枠を確保していただきましたの!」
広間がざわめきました。
ルーファス殿下が、ゆったりとした足取りで歩み出ます。
「ああ、エレオノーラのお願いだからね。もちろん、入学には本人の意思と両国の正式な許可が必要だけれど、推薦状は用意してあるよ」
彼はにっこりと笑いました。
「そして我が帝国が誇る『鉄血の教育係』、ガートルード公爵未亡人を紹介しよう。彼女の手にかかれば、どんな無知な娘でも半年で完璧な王妃候補に……あるいは更地になるかだ。素晴らしいだろう?」
その瞬間。
会場にいた数名の他国貴族が、青ざめて震え上がりました。
「ガ、ガートルード……!?」
「あの伝説の鬼教官か……!」
「かつて放蕩皇太子をスリッパ一本で矯正したという……!」
そう。
ガートルード公爵未亡人。
かつて帝国の放蕩皇太子をスリッパ一本で教育し直し、後世に名君と讃えられる皇帝へと仕立て上げた、伝説の教育者。
ちなみに、その放蕩皇太子とはルーファス殿下の父君、現ヴェルダン皇帝陛下です。
皇帝陛下は今でも、ガートルード様がスリッパを持つと直立不動になるそうです。
恐ろしいお方ですわ。
「ま、待て! マリアを他国へ送るなど、俺が許さん!」
エドアルド殿下が真っ赤になって怒鳴りました。
「あら、殿下。マリア様に王妃の資質を身につけさせたくないのですか?」
「そ、そうではない!」
「もしや、マリア様には王妃教育に耐えうる知性も根性もないと、殿下ご自身が見限っておいでで?」
「な、なんだと!? そんなわけがあるか! マリアは賢く素晴らしい女性だ!」
「でしたら、何の問題もございませんわね」
わたくしはマリア様に向き直りました。
「もちろん、最終的にお決めになるのはマリア様ご自身です。ですが、殿下と共に国を支えたいというお気持ちが本物なら、学ぶことは決して無駄にはなりませんわ」
「わ、わたし……」
マリア様は震える手でドレスを握りしめました。
そして、隣のエドアルド殿下を見上げます。
「殿下……わたしが勉強したら、喜んでくださいますか……?」
「もちろんだとも! お前なら何でもできる!」
殿下は自信満々に言い切りました。
ご自分が何もできないからといって、他人の能力まで無限だと思い込むのはおやめになった方がよろしいのでは?
とは、さすがに申しませんでした。
マリア様はしばらく俯いた後、小さく頷きました。
「……わかりました。わたし、頑張ります」
「まあ! 素晴らしい決断ですわ!」
わたくしは満面の笑みを浮かべました。
「それでは、明日の朝一番の特急馬車に間に合うよう手配いたしますわね!」
「えっ、あ、明日!?」
「善は急げと申しますでしょう?」
こうして、婚約破棄の夜会は、前代未聞の『男爵令嬢・隣国スパルタ留学壮行会』へと華麗に変貌を遂げたのでした。
なお、翌朝。
出発する馬車の窓から、マリア様が涙目で手を振っておりました。
わたくしも笑顔で手を振り返しました。
どうかご無事で。
生きて帰ってきてくださいまし。
---
### 一ヶ月後。
わたくしはオルデンブルク公爵家のテラスで、最高級のアールグレイを楽しんでおりました。
エドアルド殿下のお守りから解放されたおかげで、肌のツヤは過去最高を記録しております。
睡眠時間も毎日八時間。
ああ、健康とは素晴らしいものですわ。
「エレオノーラ。相変わらずいい性格をしているね」
向かいの席でスコーンにクロテッドクリームを塗りながら、ルーファス殿下が楽しそうに笑いました。
「人聞きの悪いことを仰らないでくださいませ。わたくし、純粋にマリア様を応援しているだけですわ」
「そうかい? ガートルードから週次報告書が届いているよ」
ルーファス殿下は一枚の羊皮紙を取り出しました。
「『昨日、マリア嬢はラテン語の辞書を抱いて池に飛び込もうとしたため、引き上げてスクワットをさせました』」
「まあ」
「『今朝は各国の輸入関税率の暗記に耐えかね、泡を吹いて倒れました。医師の診察を受けさせたところ、疲労によるものと判明したため、午後の講義は休ませています』」
「まあまあ」
「『なお、本人は帰国を希望していますが、現在の理解度では王妃どころか王宮の会計係にもなれません』」
「……順調ですわね」
「どこが?」
「現実を知ることこそ、成長の第一歩ですもの」
ルーファス殿下は声を上げて笑いました。
「君は本当に恐ろしい女性だ」
「あら、今さらですの?」
「いや。昔から知っているよ」
そう言って、彼は懐かしそうに目を細めました。
「覚えているかい? 十年前、君が初めてエドアルドの婚約者になった日のこと」
「もちろんですわ」
当時、わたくしはまだ八歳。
エドアルド殿下は九歳でした。
殿下はわたくしに向かって、開口一番こう仰ったのです。
『お前は俺の言うことだけ聞いていればいい!』
幼いわたくしは、それを聞いて決意しました。
この方を立派な王太子に育て上げなくては、と。
……今思えば、あのとき逃げておくべきでしたわ。
「君は本当に頑張っていたよ」
ルーファス殿下の声が、少しだけ柔らかくなりました。
「僕はずっと見ていた。エドアルドの失敗を君が隠し、君の功績をあいつが自分のものとして誇るところもね」
「……昔のことですわ」
「でも、僕は忘れていない」
琥珀色の瞳が、まっすぐにわたくしを見つめました。
「だからこそ、今度は君自身のために、その才能を使ってほしいと思っている」
……まあ。
そんな真面目なお顔をなさらないでくださいまし。
調子が狂いますわ。
わたくしは誤魔化すように紅茶を口に運びました。
「それより、マリア様は本当に大丈夫なのでしょうね?」
「ああ。ガートルードは厳しいが、努力する者を決して見捨てない。本人が望めばいつでも退学できるし、医師も常駐している」
「それなら安心ですわ」
「ただし、彼女が本当に王妃を目指すなら、まだまだ地獄は続くだろうけどね」
わたくしたちは顔を見合わせ、にっこりと笑いました。
---
### 二ヶ月後。
マリア様から、初めてわたくし宛てに手紙が届きました。
『エレオノーラ様。
毎日地獄です。
ガートルード先生は悪魔です。
朝五時に起こされ、外国語の暗唱をさせられ、朝食の席では隣国の関税制度について質問されます。
昨日は国家予算書の数字が一桁合わず、三時間やり直しになりました。
もう嫌です。
帰りたいです。
でも、先生が仰ったのです。
「あなたが数字を一つ間違えれば、救われるはずの民が救われないこともある」と。
……わたし、今までそんなこと、一度も考えたことがありませんでした。
殿下はいつも、愛があれば国は豊かになると仰っていました。
わたしも、そうだと思っていました。
でも、先生に聞かれたのです。
「愛で冬の小麦は買えますか? 愛で橋は修復できますか? 愛で疫病の薬を用意できますか?」と。
答えられませんでした。
わたし、何も知らなかったんですね。
もう少しだけ、頑張ってみます。』
わたくしは手紙を読み終え、静かに目を閉じました。
「……マリア様」
胸の奥に、温かなものが広がります。
あの夜会で、ただ殿下の背中に隠れていた少女が。
初めて、自分の頭で考え始めている。
「どうしたんだい?」
向かいに座るルーファス殿下が尋ねました。
「いいえ。少し、嬉しくなっただけですわ」
わたくしは微笑みました。
「彼女はきっと、わたくしが思っていた以上に強い方なのですね」
「君は最初から、こうなると予想していたのかい?」
「いいえ」
わたくしは正直に答えました。
「逃げ出すかもしれないと思っておりました。あるいは、殿下への愛を貫いて、立派な王妃になるかもしれないとも」
「では、なぜ推薦した?」
「選ぶ機会くらいは、あってもよろしいでしょう?」
わたくしは扇を開きました。
「わたくしには十年間、王妃になる以外の道がございませんでしたもの」
ルーファス殿下はしばらく黙っておりました。
そして、ふっと笑いました。
「……やっぱり君は、面白い女性だ」
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
---
### 三ヶ月後。
秋の日差しが柔らかく降り注ぐ、オルデンブルク公爵家のテラス。
わたくしは優雅に紅茶を楽しんでおりました。
向かいには、すっかり常連となったルーファス殿下。
彼は外交公務の名目で、最近ますます頻繁に我が家を訪れるようになっています。
「ところでエレオノーラ。帝国の財務制度改革について、君の意見を聞きたいのだけれど」
「あら。またお仕事のお話ですの?」
「君と話すのが一番早いからね」
「相談料はお高くつきましてよ?」
「帝国の皇后の席でどうだい?」
「……ルーファス殿下」
「冗談だよ。半分くらいは」
まったく。
この方は昔から、油断も隙もありませんわ。
そのときです。
庭の向こうから、ドタバタと無作法な足音が響いてきました。
「エレオノーラ! エレオノーラはいるか!!」
現れたのは、エドアルド殿下でした。
息を切らし、ネクタイを曲げ、髪を振り乱しています。
かつての威風堂々とした気取り屋の面影は、どこにもありません。
目の下には濃いクマ。
顔色も悪く、随分とやつれておいでです。
「まあ、エドアルド殿下。我が家の私有地に許可なく立ち入るとは、相変わらず無作法でいらっしゃいますね」
「うるさい! マリアだ! マリアから手紙が届いたのだが……一体どういうことだ!」
殿下が震える手で差し出してきた羊皮紙を、ルーファス殿下がひょいと横から取り上げました。
「おや、マリア嬢からか。読んでも?」
「か、構わん! 読んでみろ!」
ルーファス殿下は咳払いを一つ。
そして、朗々と読み上げ始めました。
『親愛なるエドアルド様。
ガートルード先生の温かいご指導のもと、私は目覚めました。
貴方が夜会で語っていた「愛があれば税金など必要ない」というお言葉ですが、冷静にマクロ経済の観点から分析いたしますと、財政破綻を極めて高い確率で招く暴論に過ぎません。
また、貴方が先日送ってくださった「貧しい者には王家の宝石を配ればよい」という政策案ですが、持続可能性が皆無です。王家の宝物庫は無限ではありません。
なお、貴方の愛の詩についても申し上げます。
韻の踏み方が致命的に間違っています。
修正案を同封しますので、百回音読してください。
追伸。
貴方のお顔を思い浮かべるだけで胃酸が逆流するようになりましたので、王妃の話はなかったことにしてください。
敬具』
「ぶっ……!」
ルーファス殿下が紅茶を吹き出しかけました。
「はっ、ははははは! 韻の修正案! 百回音読! あっはははは!」
わたくしも思わず手を叩きました。
「素晴らしいわ! たった三ヶ月で、マリア様は数字と現実の重みを理解されたのですね!」
「素晴らしくあるものか!」
エドアルド殿下が頭を抱えて叫びました。
「マリアはすっかり人が変わってしまった! あんなに可愛らしかったのに! 今や手紙を開けば関税だの国際法だの、俺へのダメ出しばかりだ!」
「まあ」
「あいつは俺を癒やしてなどくれない! 俺の言うことを何でも肯定してくれた、あの優しいマリアはどこへ行ったんだ!」
……ああ。
なるほど。
わたくしは扇を閉じました。
「殿下」
「なんだ!」
「貴方が求めていたのは『王妃』ではなく、自分の無能さを肯定してくれる都合のいいマスコットだったのでしょう?」
「なっ……!」
「マリア様は今、ご自分の意思で学び、努力していらっしゃいます。以前よりもずっと立派な女性になられましたわ」
「だ、だが……!」
「それなのに、貴方は彼女が成長したことを喜ぶどころか、以前の無知な少女に戻れと仰るのですね」
「そ、それは……」
「国を背負うということは、甘い言葉を囁くことではございません。時には民のために、耳の痛い現実と向き合うことです」
わたくしは静かに告げました。
「殿下こそ、この三ヶ月、何の努力をなさったのですか?」
「うっ……」
殿下は言葉に詰まりました。
実際、この三ヶ月で王宮の状況は随分と悪化していたのです。
わたくしが婚約者として担っていた執務補佐がなくなった結果、殿下の書類処理は滞り、外交使節への返答は遅延。
さらに、殿下が独断で進めようとした新税の廃止案が、財務省から猛反発を受けて頓挫したと聞いております。
おまけに、婚約破棄の際、殿下はわたくしを公衆の面前で侮辱しました。
これは単なる男女間の問題ではありません。
王家とオルデンブルク公爵家との正式な婚約を、王家側が一方的に破棄したということ。
公爵家は当然、王家に対して正式な抗議を申し入れました。
結果、殿下を王太子に立てる予定だった有力貴族たちも、次々と支持を撤回しているのです。
つまり、殿下の立場は既に風前の灯火。
……まあ、わたくしはもう関係ありませんけれど。
そのとき、執事が静かにテラスへ現れました。
「お嬢様。ヴェルダン帝国のアカデミーより、マリア様から親書が届いております」
「あら、わたくしに? 見せてちょうだい」
封を切ったわたくしは、最初の一文を読んだところで思わず吹き出してしまいました。
『敬愛なるエレオノーラ様。
毎日地獄を見ておりますが、お陰様で目が覚めました。
あんな阿呆な男のために、一生を棒に振るところでした。』
まあまあまあ!
なんて率直な文章でしょう!
『先日、ガートルード先生から、私の数字を扱う能力と交渉の適性を評価していただきました。
もちろん、まだまだ未熟です。
ですが、先生の推薦で、ヴェルダン帝国の通商省に研修官として採用していただけることになりました。
王妃になるために始めた勉強でしたが、今は自分の力で国と人々の役に立つ仕事がしたいと思っています。
正直、最初はエレオノーラ様を恨んでおりました。
なぜ私だけがこんな地獄を見るのかと、毎晩泣いていました。
けれど今は違います。
私が知らなかった世界を教えてくださり、ありがとうございました。
私は、誰かに愛されるだけの人生ではなく、自分で選んだ人生を歩んでみたいのです。
エレオノーラ様。
私に地獄の門を開いてくださり、本当にありがとうございました。
一生感謝いたします。』
……。
わたくしは、しばらく手紙を見つめておりました。
そして、ゆっくりと微笑みました。
「……本当に、立派になられましたわね」
あの夜会で、殿下の背中に隠れて震えていた少女が。
今や自分の意思で、未来を選ぼうとしている。
なんて素晴らしいことでしょう。
「エレオノーラ?」
ルーファス殿下が首を傾げます。
わたくしは顔を上げました。
「マリア様、帝国の通商省に研修官として採用されるそうですわ」
「おや、それは素晴らしい」
「な、なんだとぉぉぉっ!?」
エドアルド殿下が絶叫しました。
「俺の王妃はどうなるんだ!? マリアは俺を愛しているはずだろう!?」
「殿下。お手紙には、王妃の話はなかったことにしてほしいと書かれていたでしょう?」
「だ、だが! 俺が認めなければ――!」
「それは無理だね」
それまで笑っていたルーファス殿下の声が、ふっと冷たくなりました。
「エドアルド。マリア嬢は既に、君との結婚を望まないと正式に意思表示している。君に彼女の人生を決める権利はないよ」
「なっ……!」
「それに、君にはもっと大きな問題があるだろう?」
ルーファス殿下は一通の書簡を取り出しました。
帝国皇室の紋章が押された、正式な外交文書です。
「我が父、ヴェルダン皇帝から、君の父君へ親書が届く手筈になっている」
「し、親書……?」
「ああ。君が先月、我が帝国との通商協定について『細かい数字などどうでもよい』と発言し、正式な交渉を放棄した件についてね」
殿下の顔が、みるみる青ざめました。
「そ、それは……!」
「しかも君は、交渉の席で帝国の使節に向かって『俺が次の国王なのだから黙って従え』と発言したそうじゃないか」
「……っ!」
「我が国としては、君が次期国王になることに重大な懸念を抱かざるを得ない」
ルーファス殿下は微笑みました。
ただし、その目は少しも笑っていません。
「君の父君は既に、君を王太子に立てる計画を白紙に戻している。今回の抗議文で、継承順位の見直しも正式に議題となるだろうね」
「そ、そんな……!」
「君が失ったのは婚約者だけじゃない。貴族たちの信頼も、外交上の信用も、次期国王としての資格も、全部自分で捨てたんだよ」
殿下はその場に崩れ落ちました。
「い、嫌だ……そんな……!」
そして、突然わたくしの方へ向き直ったのです。
「エレオノーラ!」
……あら。
嫌な予感がいたしますわ。
「頼む! お前が戻ってきてくれ! やっぱり俺の王妃はお前しかいないんだ!」
床に膝をつき、縋り付こうと手を伸ばしてくる元婚約者。
わたくしは優雅にスカートの裾を引き、その手を完璧に躱しました。
「お断りいたしますわ、殿下」
「な、なぜだ!?」
「わたくし、無能な男性のお守りは、もう卒業いたしましたの」
「エレオノーラ……!」
「それに」
わたくしは、隣で満足げに頷いている美しき帝国皇太子へと向き直りました。
「次はもっと広大で、教育のしがいがある帝国を動かす仕事に就く予定ですの」
ルーファス殿下が楽しそうに笑いました。
「もちろん大歓迎さ。君なら帝国の財務改革も、貴族制度の再編も、きっと見事にやってのけるだろう」
「まあ。随分と面倒なお仕事を押し付けるおつもりですのね?」
「その代わり、僕の隣の席を用意するよ」
「……それは、どういう意味でしょう?」
ルーファス殿下は立ち上がりました。
そして、わたくしの前で片膝をついたのです。
「エレオノーラ」
琥珀色の瞳が、真っ直ぐにわたくしを見つめます。
「僕は昔から、君の才能を誰よりも尊敬していた。君がどれほど努力してきたかも知っている」
「ルーファス殿下……」
「君がエドアルドの婚約者だったから、これまでは何も言わなかった。でも、もう遠慮する必要はないだろう?」
彼はわたくしの手を取りました。
「僕と共に、帝国を支えてくれないか。皇后として。そして、僕の生涯の伴侶として」
……まあ。
これは。
予想外ですわ。
いえ、正確には、少しだけ予想しておりましたけれど。
まさか、こんなところで。
しかも、あの無能王子の目の前で。
……ふふ。
本当に、悪戯好きなお方ですこと。
わたくしは扇で口元を隠しました。
「ルーファス殿下。一つだけ、条件がございます」
「何でも言ってごらん」
「わたくしは、殿下の失敗をすべて肩代わりするつもりはございませんわよ?」
「もちろん」
「わたくしの意見を、きちんと聞いてくださいます?」
「喜んで」
「そして、わたくしが間違っていたら、遠慮なく指摘してくださいます?」
ルーファス殿下は、少し驚いたように目を見開きました。
それから、心から嬉しそうに笑いました。
「もちろんだよ。僕だって、君に間違いを指摘してもらいたい。二人で考えれば、きっと一人では見つけられない答えに辿り着ける」
……ああ。
なんて、素敵なお答えでしょう。
わたくしは、そっと微笑みました。
「でしたら、謹んでお受けいたしますわ」
「ありがとう、エレオノーラ」
ルーファス殿下は、わたくしの手の甲にそっと口づけました。
その瞬間。
「な、な、な……!」
エドアルド殿下が、真っ青な顔で震え始めました。
「俺の婚約者だった女が、帝国の皇后だと……!?」
「元婚約者ですわ、殿下」
わたくしはにっこりと微笑みました。
「そこは正確にお願いいたします」
「そ、そんな……!」
「それから、殿下」
わたくしは最後に、もう一度だけ彼を見つめました。
「貴方にも、まだ学ぶ機会は残されているかもしれませんわ」
「……え?」
「ご自分の無知を認め、努力することです。そうすれば、いつか誰かに必要とされる人間になれるかもしれません」
殿下は呆然と口を開けました。
わたくしは微笑みました。
「もっとも、努力なさるかどうかは、殿下次第ですけれど」
そう告げて、衛兵たちに殿下をお引き取りいただきました。
……やれやれ。
ようやく静かになりましたわね。
わたくしは椅子に座り直し、冷めかけた紅茶を一口いただきました。
「エレオノーラ」
ルーファス殿下が、楽しそうに声をかけてきます。
「何でしょう?」
「君は本当に、恐ろしい女性だね」
「あら。今さらお気づきになりましたの?」
「いや。だからこそ、愛しているんだよ」
……。
まあ。
この方は本当に。
わたくしは、ほんの少しだけ頬が熱くなるのを感じました。
「……紅茶が冷めてしまいますわ」
「そうだね」
「お代わりはいかが?」
「喜んで」
秋の風が、庭の薔薇を優しく揺らしておりました。
---
### それから半年後。
ヴェルダン帝国の通商省では、一人の若き女性官僚が大活躍しておりました。
ピンクブロンドの髪をきっちりと結い上げ、分厚い書類を片手に、帝国の老獪な商人たちを次々と論破しているそうです。
その名は、マリア・フォン・ベルク。
かつて、愛さえあれば国は豊かになると信じていた少女。
今では、関税率を一パーセント動かすだけで国家経済にどれほどの影響が出るか、誰よりも熱心に研究しているのだとか。
先日、彼女から新しい手紙が届きました。
『エレオノーラ様。
このたび、通商省の正式な官僚として採用されました。
まだまだ未熟ですが、毎日が充実しています。
ところで、先日エドアルド元殿下から手紙が届きました。
「もう一度やり直したい」と書いてありました。
丁重にお断りし、ついでに文法上の誤りを十二箇所訂正して返送しました。
ガートルード先生には「まだ添削が甘い」と叱られました。
精進いたします。
追伸。
先生から、次は外交交渉術の特別講義を受けるよう命じられました。
……助けてください。』
わたくしは手紙を読み終え、思わず声を上げて笑ってしまいました。
「まあ! マリア様ったら!」
隣で書類に目を通していたルーファス殿下が、顔を上げます。
「どうしたんだい?」
「マリア様が、またガートルード先生にしごかれていらっしゃるそうですわ」
「ああ。あの方は優秀な生徒ほど厳しくするからね」
「ふふ。将来が楽しみですこと」
わたくしは窓の外を見つめました。
帝都の空は、どこまでも青く澄み渡っています。
思えば、あの婚約破棄の夜会から、すべてが始まりました。
わたくしは自由を手に入れました。
マリア様は、自分の力で歩む人生を手に入れました。
ルーファス殿下は……まあ、以前にも増して楽しそうに、わたくしに面倒な仕事を持ち込んでくるようになりましたけれど。
そして、エドアルド元殿下。
彼は正式に王位継承権を剥奪され、現在は地方の離宮で、王族としての基礎教育を一からやり直しているそうです。
教育係は、ガートルード先生の元教え子。
たいそう厳格なお方だとか。
……あらあら。
人生とは、実に不思議なものですわね。
「エレオノーラ」
ルーファス殿下が微笑みます。
「何を考えているんだい?」
「いいえ。ただ、人生というものは公平なのだな、と」
「公平?」
「ええ」
わたくしは扇を開き、口元を隠しました。
「学ぶ機会は、誰にでも訪れるものですわ」
それを掴むか。
逃げ出すか。
あるいは、己の愚かさに押し潰されるか。
――すべては、その人次第。
わたくしは、最高級のアールグレイをもう一口味わいました。
ああ。
今日も紅茶が美味しいですわ。
実に、清々しい秋の午後でございました。
――完――




