202X年 10月 19日(火曜日、雨が激しい)
202X年 10月 19日(火曜日、雨が激しい)
湯気の立つマグカップを机に置き、ぼくは意を決して原稿の束を手に取った。
コーヒーの苦味は、今のぼくの心境そのもののようだ。
読み進めるうちに、ぼくの知らない「ぼく」が、紙の上で躍動し始めた。
原稿の中のコーディーは、情熱的で、少しだけ傲慢で、そして何より写真の彼女――エレノアを深く愛していた。
二人はリバプールの港で出会い、古いパブで夢を語り合い、この部屋で共に詩を読んだ。
文字を追うごとに、ぼくの指先がかすかに熱を帯びる。かつてこのペン先から、どれほどの言葉が溢れ出していたのだろう。
だが、物語の中盤、ある一文に目が釘付けになった。
『エレノアの瞳から光が消えていく。ぼくの名を呼ぶ彼女の声が、日に日に頼りなくなっていく』
ぼくは息を呑んだ。
忘れていたのは、ぼくだけではなかったのか。
原稿に記されていたのは、病に冒され、記憶を失っていくエレノアを看病するぼくの苦闘の記録だった。
彼女を繋ぎ止めるために、ぼくは必死にこの物語を書き始めたのだ。
「ああ、そうだったのか……」
最後の一口のコーヒーは、もう冷め切っていた。
ぼくは震える手で、原稿の続きを捲る。
そこには、エレノアが最後に入所した、海沿いのケアホームの名前が書き記されていた。
『ぼくが書くべき結末は、ここにはない。あの潮騒の中に、彼女が待っている』




