第6話:202X年 10月 17日(日曜日、雨の匂い)
202X年 10月 17日(日曜日、雨の匂い)
「……また、その詩集を手に取ったのかい? コーディー」
奥のカウンターから、カサついた低い声が響いた。
驚いて顔を上げると、そこには眼鏡を鼻先にずらした老店主が、古いランプの光の中でこちらを見ていた。
ぼくの名前を知っている。
その事実だけで、ぼくの足元にある暗い沼が、ほんの少しだけ底を打ったような気がした。
「ぼくの……名前を、知っているんですか?」
喉の奥で震える声を絞り出す。店主は悲しそうに、けれど慈しむように目を細めた。
「知っているとも。君は一ヶ月に一度、必ずここへ来る。そして、その同じ棚の前で、同じページを開くんだ。まるで、そこに失くした鍵が隠されていると信じているみたいにね」
店主はゆっくりと立ち上がり、埃っぽい通路を歩いてきた。
ぼくの手にある写真と、詩集に挟まれた押し花を交互に見つめる。
「その写真は、マージー川の岸辺で撮ったものだろ? 君がまだ、ペンを走らせるたびにリバプール中の若者が熱狂していた頃の……」
ペン? 若者が熱狂?
ぼくは、ただの「名前しか思い出せない男」ではなかったのか。
店主の言葉が、霧の中に一本の光の筋を通していく。
ぼくは震える指で詩集を抱きしめた。
「ぼくは……何を書いていたんですか?」
店主はぼくの肩に、節くれだった手をそっと置いた。
『君が最後に書こうとしていたのは、その写真の彼女への、長い、長い告白だよ』




