第5話:202X年 10月 16日(土曜日、風が強い)
コートのポケットには、家の場所を記した手描きの地図が入っている。これさえあれば、世界がどれほど見知らぬ場所に変わっても、ぼくはあの静かな部屋へ帰ることができる。
だが、地図の角を曲がったところで、一軒の店がぼくの足を止めた。
軒先に積まれた古い本が、潮風に吹かれてパタパタと泣いている。リバプールの片隅にひっそりと佇む古本屋。そこから漂う、古い紙とインクの匂い——それは、今朝淹れたコーヒーの香りよりも強く、ぼくの鼻腔を突いた。
吸い寄せられるように中へ入り、杖を突きながら棚を眺める。
ふと、一冊の薄汚れた詩集が目に留まった。背表紙の文字は擦り切れているが、指先がその感触を覚えている。
「あ……」
ページをめくると、そこには一輪の押し花が挟まっていた。
そしてその横に、見覚えのある、けれど今のぼくよりもずっと力強い筆跡で、短い言葉が添えられていた。
『愛する人へ。この言葉が、君の灯火になりますように』
ぼくは慌てて、ポケットのあの写真を取り出した。
写真の中の彼女が、本に挟まった枯れた花と同じ色をしている。
ぼくは確信した。ぼくはこの店を知っている。ここで、彼女と一緒にいたんだ。
店主を呼ぼうとして、ぼくは自分の名前以外の言葉を、すべて忘れてしまったことに気づいた。




