202X年 10月 14日(木曜日、雨の気配)
最後の一口、冷めかけたコーヒーを飲み干した。
カップの底に残った黒い澱は、ぼくの頭の中にある澱んだ霧に似ていた。
日記を開き、昨日の自分の筆跡をなぞる。
『時計塔』。
その三文字が、今日のぼくの生きる理由だ。
クローゼットの隅から、古びた樫の木の杖を取り出す。
いつからこれを使っているのかは思い出せないが、掌に吸い付くような感覚だけが、それが「ぼくのもの」だと証明していた。
玄関の重い扉を開けると、リバプールの湿った風が容赦なく頬を撫でた。
カチ、カチ、と。
石畳を叩く杖の音が、静かな住宅街に規則正しく響き渡る。
自分の足音なのに、どこか他人の足音を追いかけているような不思議な感覚だ。
角を曲がれば、景色は一変する。
記憶の中にある地図と、目の前の景色を必死に照らし合わせる。
あの赤いレンガの建物は、昔からあそこにあっただろうか。
それとも、ぼくが忘れているだけだろうか。
空を見上げると、灰色の雲の切れ間から、遠くに煤けた時計塔の尖端が見えた。
あそこに行けば、写真の彼女に一歩近づける。
ぼくは杖を強く握り直し、一歩、また一歩と、自分を失う前の世界へと踏み出していった。
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