202X年 10月 23日(土曜日、晴れ)
第12話:202X年 10月 23日(土曜日、晴れ)
ケアホームの入り口、海を見渡す白いベンチ。
そこに彼女はいた。
写真の中の若々しい面影を、年月の筆が優しく撫でて書き換えたような、穏やかな横顔。エレノアだ。ぼくの喉が、記憶よりも先に彼女の名前を呼ぼうとして熱くなった。
ぼくは杖を突き、一歩ずつ、彼女の視界に入るように歩み寄った。
影が重なると、彼女はゆっくりと顔を上げた。その瞳は、マージー川の凪いだ水面のように透き通っている。
「……こんにちは。いいお天気ね」
彼女の声は、ぼくの知らない「知らない誰か」に向けるような、丁寧で、そして何もかもを忘れてしまった人の、無垢な響きだった。
ぼくを、覚えていない。
わかっていたはずなのに、胸の奥が張り裂けそうになる。ぼくは震える手で、ポケットからあの古い詩集と、一枚の写真を取り出した。
「これを……あなたに」
彼女は不思議そうにそれを受け取り、指先で自分の若かりし日の笑顔をなぞった。
しばらくの沈黙。潮騒が一段と大きく聞こえたその時、彼女がふと、ぼくの手の甲に自分の手を重ねたのだ。
「不思議ね。この写真の人も、あなたも……とっても素敵な、コーヒーの匂いがするわ」
彼女の記憶の中に、ぼくという形はもう残っていないのかもしれない。
けれど、二人が過ごした朝の、あの香りが、魂のどこかに触れた。
ぼくは彼女の隣に腰を下ろし、日記帳の最後のページを開いた。
そこには、もう何を書くべきか決まっていた。
『ぼくの名前は、コーディー・トーマス・スチュアート。
今日からまた、君に恋をするためにここへ来たんだ』




