202X年 10月 21日(木曜日、車窓は曇り)
202X年 10月 21日(木曜日、車窓は曇り)
ガタゴトと規則正しく揺れる列車のシートは、思いのほかぼくの体を優しく包んでくれた。窓の外には、リバプールの赤レンガの街並みが消え、次第に荒涼としたマージー川の河口が姿を現す。
ぼくは膝の上に置いた日記帳を開き、震える手で今日の出来事を記そうとした。
けれど、ペン先が止まる。
今のぼくを支えているのは、今朝飲んだコーヒーの余韻でも、作家としてのプライドでもない。駅で助けてくれたあの若者の、名前も知らない手の温もりだ。
「気をつけて、コーディー」
彼はなぜ、ぼくの名前を呼んだのだろう。
ふと、上着の胸元を見ると、そこには小さなネームプレートが縫い付けられていた。『Cody Thomas Stuart』。かつてのぼくか、あるいはぼくを案じる誰かが、ぼくが透明な存在にならないようにと刻んだ印だ。
ぼくは、その文字を指でそっとなぞる。
記憶が消えていくことは、暗い海の底へ沈んでいくことだと思っていた。けれど、こうして揺られていると、すべてを失ったからこそ、見知らぬ誰かの優しさがこれほどまでに鮮明に胸に響くのだと気づく。
ガタン、と大きく揺れて、列車が速度を落とした。
潮の香りが、閉め切った窓の隙間から忍び込んでくる。
『エレノア。ぼくはもう、言葉をほとんど持っていない。けれど、この胸の痛みだけは、誰にも奪わせないよ』
駅のアナウンスが、ぼくを呼んでいる。




