第九話 終わらない変異
夜と朝の境目が、少しずつ曖昧になっていった。
理依は、目を覚ますたびにまず自分の内側を確かめるようになっていた。
胸の奥。思考の底。呼吸の隙間。そこに「自分ではない何か」が触れていないかを、半ば習慣のように探す。
……まだ、いる。
確信は日ごとに強くなる。そして同時に、それを拒もうとする意識も、同じ速度で強まっていった。
理依は、何度も心の中で言い聞かせた。
これは私じゃない。
勝手に入ってきたものだ。
受け入れない。
そう思うたびに、胸の奥でわずかな反発が起きる。
押し返されるような感覚。完全な拒絶ではなく、「そうじゃない」と静かに否定される感触。
それが、ひどく腹立たしかった。
考え方が変わっていくのを、理依ははっきりと感じ取っていた。
以前なら迷っていた場面で、即座に結論が出る。
感情よりも合理性が先に立つ。
それを嫌だと思う自分と、
「それで何が悪い」と言ってくる思考が、内側でぶつかり合う。
朝食の席で、母親が心配そうに顔を覗き込む。
「理依、最近ちゃんと寝てる?」
「……寝てるよ」
「でも、顔色がちょっと……」
「大丈夫だってば」
声は平静を保っている。けれど返事をするまでの間に、ほんの一瞬の間が空くことを理依自身が気づいていた。そしてその間に別の答えが浮かんでいる。
睡眠時間は足りている。
栄養状態も問題ない。
心配する必要はない。
それを振り払って、「大丈夫」と言う。
その行為自体が、どこか不自然だった。
父親も、新聞を畳みながら言う。
「学校、何かあったのか?」
「別に……」
「ならいいけど。無理はするなよ」
無理、という言葉に、理依は一瞬だけ詰まった。
無理をしているのかどうか、自分でも分からない。
学校でも、変化は隠しきれなくなっていた。
「理依、最近一緒に帰ってくれないよね」
昼休み、友達が不満そうに言う。
「誘っても、すぐ断るし」
「……ごめん」
「体調悪いの?」
「そうじゃないけど……」
言葉が続かない。
理由を説明しようとすると、喉の奥で言葉が絡まる。
――自分の中に、知らない誰かがいる気がする。
そんなことを言って、信じてもらえるはずがない。
「なんかさ、雰囲気変わったよね」
「え?」
「前より……目つき、鋭くなった気がする」
冗談めかした口調だった。
でも、その言葉は、理依の胸に深く刺さった。
目つき。
それは、鏡の前で何度も感じていた違和感だった。
視線が、以前よりも冷静で、距離を測るようになっている。
感情よりも先に、状況を整理する目。
やめて。
心の中で、強く思う。
私は、こんなふうに見たくない。
放課後、教室を出るときも、友達が声をかけてくる。
「今日、ゲーセン寄らない?」
「……今日はやめとく」
「また?」
「ごめん」
理由を問われる前に、足を動かす。
逃げるように。
廊下を歩きながら、理依は歯を食いしばった。
違う。
こんなの、私じゃない。
以前の自分なら、断るにしても、もっと曖昧に笑っていた。
空気を壊さない言い方を選んでいた。
今は、必要ないと判断したものを、切り捨てている。
その判断が、あまりにも速い。
家に帰ると、母親が再び声をかけてきた。
「理依、最近元気ない?」
「……普通だよ」
「でも、前より話さなくなったし」
「……」
沈黙が、答えの代わりになる。
「何かあったなら、言っていいんだから」
「分かってる」
その言葉は本心だった。
分かっている。相談すれば、きっと心配してくれる。
でも、言えない。
言葉にした瞬間、
「気のせいだよ」
「疲れてるんじゃない?」
そう言われる未来が、簡単に想像できてしまう。
それに――。
どう説明すればいいの?
自分でも、正確に把握できていない。分からないものを、他人に説明することはできない。
夜、部屋に戻り、机に向かう。
スマートフォンを手に取るが、検索欄に言葉が浮かばない。
「憑依」
「意識の共有」
「自分じゃない思考」
何度も見た言葉。
何度も読んだ体験談。
どれも、決定的な解決策は書いていない。
どうしたら……止められるの。
胸の奥で、かすかな動きがある。
こちらの焦りを、感じ取っているような気配。
来ないで。
入らないで。
意識的に拒絶すると、そのたびに、思考の「形」が少しだけ変わる。
まるで、別のやり方を探されているみたいに。
理依は、布団に潜り込み、膝を抱えた。
私は、私のままでいたい。
それは願いだった。
けれど、同時に、その願いがどれほど脆いものかも、理解し始めていた。
毎日、少しずつ。確実に。
自分の思考は、変えられている。
拒絶しても、押し返しても、水が染み込むように内側へ広がっていく。
誰にも言えない。
どう解決すればいいかも分からない。
孤立感が、静かに募っていく。
理依は、天井を見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。
……まだ、負けない。
そう思うしかなかった。
それが今の自分にできる、唯一の抵抗だった。




