第八話 拒絶
夜が明ける前、理依は目を覚ました。
目覚ましが鳴ったわけではなかった。夢から突き放されたような感覚もない。ただ、眠りの底から、静かに意識だけが浮かび上がってきた。
天井を見る。見慣れた模様なのに、今日は少しだけ距離がある。焦点が合うまでに、ほんの一拍かかる。
胸の奥に、違和感があった。
昨日まで感じていた、ぼんやりとした温度とは違う。
もっとはっきりした、位置を持った感触。そこに「ある」と言い切れてしまう重み。
……いる。
理依は、その考えに驚かなかった。
むしろ、ようやく言葉にできたという感覚に近い。
違和感。
調子が悪い。
気のせい。
そうやって曖昧に包んできたものは、すでに限界を超えていた。
これは感覚ではない。現象だ。
誰かが、自分の中にいる。
声は聞こえない。
言葉もない。
でも確かに、理依ではない意識の「向き」が、内側に存在している。
呼吸をする。
吸って、吐く。
その動きに、ほんのわずかな遅れで、同じ形をなぞる何かがある。完全には重ならない。ただ、追いかけるように、寄り添うように。
理依は布団の中で、指をぎゅっと握った。
――反応が、返ってきた。
確信に近いものがあった。
偶然にしては、あまりにも感触が明確だった。
これまでの出来事が、頭の中で静かにつながっていく。
合理的すぎる思考。
迷いのなさ。
自分を少し外から見ているような感覚。
夜、夢に見る「知らない誰か」の日常。
点だったものが線になり、線だったものが、形を持ちはじめる。
理依は、ゆっくりと起き上がった。
動作を一つずつ確認するように、時間をかける。
――今、私が動かした。
その感覚は、確かだった。
体が勝手に動くことはない。少なくとも、今は。
だが、胸の奥には、確かな予感があった。眠っている間に、何かが起きている。覚えているわけではない。それでも何かが起きたという感覚だけがある。
洗面所へ行き、鏡を見る。
そこに映るのは、いつもと変わらない自分だ。
髪。顔。表情。
それでも今日は、その姿が「自分だけのもの」だと、信じ切れなかった。
……見られてる?
そんな考えが浮かび、理依は小さく首を振る。
被害妄想だ。そう言い聞かせる。
けれど、否定しきれない。
誰かが、自分を見ている。
それも、外側からではなく、内側から。
胸に手を当てる。
心臓の鼓動。その奥。
そこに、自分とは違うリズムが、かすかに重なっている。
……入り込もうとしてる。
その考えが浮かんだ瞬間、背筋が冷えた。
誰かが、自分の中に定着しようとしている。
すでに、足場を作りはじめている。
これまで感じていた「合理的な思考」は、その兆候だったのだと、理依は直感した。
少しずつ、自分の判断を、選択を、書き換えようとしている。
嫌だ。
その感情は、はっきりしていた。
怖いからではない。
変わること自体が悪いとも思わない。
――これは、私の変化じゃない。
それだけだった。
理依は、意識的に、考え方を変えようとした。
あえて迷う。
あえて感情を優先する。
朝食のメニューを見て、理由もなく好きなものを選ぶ。
制服のリボンを、わざと少し歪んだままにする。
胸の奥で、微かな圧がかかる。
「違う」という方向からの、静かな抵抗。
……聞かない。
そんな意思は聞かない。
心の中で、はっきりとそう言った。
誰に向けた言葉なのかは、考えない。
登校中も同じだった。
頭の中では、最短ルートが示される。それを無視して、遠回りを選ぶ。
足取りが、ほんの少し重くなる。
まるで、誰かが不満を覚えているような感触。
やっぱり。
確信が、強くなる。
これは心理的な問題ではない。
気分の波でも、成長の過程でもない。
誰かが、いる。
そして、その誰かは、理依の中に「根を下ろそう」としている。
放課後、理依は真っ直ぐ家に帰った。
友達の誘いを断り、部屋に閉じこもる。
机に向かい、スマートフォンを手に取る。
指先が、わずかに震えている。
調べなきゃ。
何をどう調べればいいのか分からない。
それでも、何もしないままではいられなかった。
検索欄に言葉を打ち込む。
「自分の中に誰かがいる感じ」
「意識が二重になる」
「知らない考えが浮かぶ」
出てくるのは、曖昧な説明や体験談ばかりだ。
ストレス、思春期、解離。どれもそれらしく見える。
でも、どれも決定的ではない。
理依は、さらに調べ続けた。
スピリチュアル。
心霊現象。
憑依。
その単語を見た瞬間、心臓が強く打った。
……これ?
信じたいわけではない。
ただ、否定できなかった。
体験談の多くは曖昧で、信憑性も低い。それでも、共通している点があった。
――最初は、違和感から始まる。
理依は、スマートフォンを握りしめた。
まだ、間に合うかな。
何に間に合うのかは分からない。ただ、自分の中にいる「誰か」が、少しずつ存在感を増していることだけは、はっきりしていた。このままではいけないとなぜかわかる。
その「誰か」が、どんな人生を生きてきたのか。
なぜここにいるのか。
何を望んでいるのか。
理依は、まだ何も知らない。
知らないまま、自分を守ろうとしている。
夜は、また訪れる。眠りも、必ずやってくる。
理依は胸の奥の気配を、強く押し留めながら、必死に「中村理依」であろうとしていた。
その努力が、すでに誰かとの綱引きになっていることを、まだ完全には理解しないまま。




